足音

 

 この辱めを受けるのは初めてではない。

 

 一回目の屈辱のとき、夕神はまだ二十一だった。いくら納得ずくでここへ来たと言ってもあのような扱いは到底受け入れがたく、やたらと喚いて不必要にギャラリーを増やしたことを今でも苦く思い出す。縛めを逃れようと虚しい戦いを続けた手首は酷く傷つき、全てが終わったときには血が肘の辺りまで滲んでいたほどだった。

 

 罪を憎んで人を憎まず、などと使い古された言葉を胸に。罪を犯した人間の更生を心から望み、刑務所はそのために機能していると信じていた。若い夕神の想いはその晩粉々に砕かれ、踏みにじられ、青い涙に溶けて消えた。

 

 あれから七年。ケッタイな趣味をお持ちなこって、と呟いた声に男が嗤う。残り時間の少ない日々に見えない真相、判決は持ち越されて苛立ちを隠しきれていなかったらしい。何だその目は、と難癖を付けた看守は夕神にそれを言い渡した。

 

「聞こえなかったのか。ほら、さっさと腕を上げるんだよ」

 

 ねとつく下卑た声が耳にこびりついて気持ち悪い。溜息一つ、軽く頭を振って夕神は指示に従った。手錠が鉄格子に括り付けられる。捕縄がぎしぎしと軋む音だけが、冷たい独房に広がっていった。両腕を頭の上に伸ばし、壁際に立ち尽くしたままの姿勢を強いられた夕神を真正面から見つめて、刑務官は心底厭らしく告げるのだった。

 

「反省が見られるまでこのままだ、夜中まででも朝まででもな」

 

 嫌味なほど高らかな革靴の音が離れていく中、小さく、本当に小さく夕神は舌を打った。

 

 

 

***

 

 

 

「……夕神さん、だいじょうぶかい? 」

「何も死ぬまでこのままってワケじゃあるめェ」

「でも……ごめん、何も言えなくて」

 

 向かいの独房の住人は温和だが気弱な中年だった。両隣は今は空。斜向かいの二人――病弱で雑居房に耐えられない老人と、血の気が多すぎて囚人同士の集団生活を営むに至らなかった青年――も夕神に視線をやった。

 

「何だって唯々諾々と従っちまうんだよ、俺を起こせよ! あのくそ看守……ヤロウこそブタ箱にぶち込んでやるッ!」

「威勢がいいのは結構だが、お上批判はほどほどになァ」

「なんでだよ、迅さん! ンなことされて平気の平左でいるんじゃねえよ!!」

 

 夕食後の自由時間にぐっすり寝入っていたらしい青年は誰よりも激昂していた。鉄格子に飛びついて揺さぶりながら捲くし立てるのを、隣の中年が宥めている。二人のやりとりの間も無言のままに夕神を見やる老人の目が、ただひたすらに悲しかった。

 

 青年の声の残響がようやく消える。近くの住人はみな――刑期を勤め上げたり、雑居房に移ったり……或いは罪を命で購ったりして――居なくなってしまったから、夕神の傍にいるのは彼ら三人だけだった。後になれば下卑た顔を隠そうともしない刑務官たちが来るだろう。それでも今このとき、理不尽を嘆き怒り自分の身を案じてくれる者たちだけがここに居ることが嬉しかった。

 

 窓から独房をおかす冷気が身体を冷やす。拳を握っては開き、両手の指を擦り合わせる。この状況でたった一つ感謝するとしたら。最も寒い場所で血の気を失っていく場所を暖めてやりながら、夕神はぼんやりと考えた。背が高くなるよう産んでくれたオフクロだな、顔も知らねェけどよ。まだ憤り続けている青年のように小柄だったら、つま先立ちを強要された身体には今より余程負荷がかかっただろう。

 

 それをそのまま告げてやれば、ひでぇと唇を尖らせた彼の激情も少しは治まってきたようだった。ようやく薄い微笑を取り戻した他の二人にも聞こえるように、今日の出来事を二つ三つ話す。夕神の変わらぬ態度に冷静さを取り戻していった男たちもまた、いつものように口を開きはじめるのだった。

 

 

 

***

 

 

 

「……クソっ、」

 

 九時の消灯までは短かった。あれこれと話す三人がいたお陰で退屈や焦燥を感じずに済んだ。

 

 首を捻って夜空を見上げ、煌々と明るい月を見て夕神は毒づく。三回目。南中を過ぎたばかりの満月は真夜中過ぎを告げている。夜明けは果てしなく遠い未来にさえ思えた。

 

 高く上げさせられた腕は徐々に感覚を失ってきている。痛みも痺れも忘れた場所を労わるように、夕神はゆっくりと肩を回した。凝り固まった肩甲骨を解し、首の筋を伸ばす。氷のような指先で手の甲をつねってみても感覚がない。舌打ち一つ、細く長く息を吐いた。もう一度見上げた月はやはり高く遠い。

 

 いっそ寝てしまえれば楽なのに。この七年で劣悪な環境で眠ることに随分慣れていた筈だったけれど、今夜ばかりはそうもいかない。忌まわしき惨劇は繰り返され、その真相は闇の中。持ち越された審理は本当に真相に繋がっているのだろうか。書き物も書類の確認もままならない現状は夕神をじりじりと苛立たせた。

 

「……亡霊」

 

 姿を見せず、足跡を残さず。実体を持たない真実。あらゆる意味で不透明な現実。悪意だけがどこから雨のように降り注いでは夕神を打った。そうしていよいよ近い内に自分こそが亡霊に成り果てるだろう。

 

「ココネ……」

 

 けれどその前に為すべきことがある。喪失の苦しみに泣き腫らした痕は消えないけれど、曇りのない瞳で夕神は虚空を見据えた。

 

 

 

***

 

 

 

 結局少しばかりまどろんでいたらしい。悪寒に引きずられるようにして夕神が目覚めたのは起床時刻を間近に控えた六時半ごろのことだった。壁に寄りかかるようにして眠っていたようで手首にはそれほど目立った傷はなかったものの、指先は最早紙のように白くなっている。痺れも痛みも感じなくなったそこは動かそうとしても酷く強張り、錆びた蝶番のように軋むだけだった。

 

「夕神くん、まさか一晩中そのままだったのかね」

「ヘッ、反省を促すも何も、俺は何一つやましいこたァしてねぇからな」

 

 起き出してきた斜向かいの老人に不敵に笑って見せたところで、刑務官たちは入ってきた。三足の革靴が立てる威圧的な足音に他の二人が飛び起きて、青年が鉄格子を揺すって叫ぶ。

 

「テメェら、こんなことが許されると思ってんのかよ! とっとと解きやがれクズども!!」

「クズにクズと言われてもなぁ……」

「ンだとコラァ!!」

 

 わかりやすく頭に血を上らせる青年には目もくれず、男たちは夕神の独房の前に並ぶ。耳障りな音を立てながら怒鳴り散らす若い囚人の存在すらも、彼らを愉快な気分にさせた。ふうぅ、と細く長く息を吐いた夕神は、激昂も懇願も媚びもしなかった。ちらりと一瞥を投げかけた目が不思議なほどに凪いでいて下卑た男たちを苛立たせる。けれどその苛立ちの分だけ、この後が楽しくなるのだと彼らは知っていた。

 

「反省する気はないんだな」

「知ってるかァ看守殿……死刑囚に刑務作業がねぇのは、死をもって罪を償うからなんだぜ?」

 

 理不尽な懲罰を不敵な笑みで混ぜっ返す。鼻で笑って意味のないゴマすりを拒んだ夕神の足が僅かに震えているのに、しかし三人は気がついた。にたりと厭らしく唇を歪める。欲望をねちっこく孕んだ声が、独房と廊下に白々しく響いた。

 

「残念だよ。反省の色さえ見られればこれで終わりにしようと思っていたんだがねえ……」

 

 ケッ、どうだか。内心の呟きは言葉にしなかった。いよいよ真っ直ぐに立っているのさえ辛くなって、壁に腰周りを押し付ける。体躯の割にほっそりとした腿が強く擦りあわされるのを見て、向かいの囚人たちは思わず目を逸らしていた。かじかんだ指先がぎこちなく動いて後ろ手に鉄格子に縋る。

 

 “そのとき”を具に堪能するために、看守たちはやって来たのだ。

 

「っく……う、」

 

 クソッタレ、と毒吐いてやりたいのに、口を開くことすらままならない。平静さを失わずにいられたのはここまでだった。十二時間近く拘束された身体はいたってシンプルな生理的欲求に屈服させられようとしている。暴力や暴言に膝を折らされるの以上に屈辱が身を焼いて耐え難く、無駄と知りつつ夕神は足掻かずにはいられない。

 

 その懊悩が、三人の刑務官をますます喜ばせる。見世物を眺める意地の悪い興味に満ちた視線。性的なものを多分に含んだ欲望に汚れた視線。そして己より有能で強い者を圧倒的に優位な立場から傷つける狂喜を含んだ視線。何もかもを否定し、振り払うように頭を振っても、それらはどこまでも纏わりついてきた。

 

「意外と頑張るじゃないか」

 

 男たちが時計をつき合わせて残酷で悪趣味極まりない賭けを始めた。斜向かいの青年が憤怒のあまり床に拳を叩きつける音が耳に入って、夕神はそれが少し気にかかった――激しやすい彼の手の甲は、ようやく過日の怪我が治りかけたところだった。一瞬だけ気を紛らすことができて、けれどすぐにまた下腹の主張が全身を苦しめる。噛み切った唇から血が流れるのさえうっとうしくて、それを拭う術すらないのが惨めだった。

 

「あーあ、大の大人、検事サマが情けない立ち方しちゃって……」

「ほら、しゃんと立て!」

「かわいそうに、震えてるぞ」

 

 侮蔑の言葉もどこか遠くをすり抜けていく。言葉の意味はほとんど理解できないくらいなのに、悪意と残酷な好奇心だけが夕神を打ち据えて、屈服の瞬間へ追い詰めていく。引き締まった臀部をもじつかせる様をあげつらって嗤われれば、蒼ざめた頬にも朱が走る。は、はっ、と浅くなった呼吸。そのひとつひとつすら膀胱につきんと響き、体温で温くなった壁に夕神は身を摺り寄せた。貞淑な娘のように弱々しく内股で立つ姿はさぞ滑稽なのだろう。下品な笑い声が夕神の矜持と尊厳をびしりと歪ませて皹を入れた。

 

 こんな下劣な人間に、容易く壊されたりなどしない。

 

 つまるところ、それらを砕くのは結局夕神自身だった。

 

「うっ、く……うぅ……!」

 

 何もされなかった。腹を殴りつけたり蹴り上げたり、或いは官能に訴えかける性的な悪戯などは。最後には聞き苦しい野次すらなく、男たちはただ、見ていた。

 

「ち、くしょ……」

 

 そうして静かに堰は切れて、布地の黒が色濃くなる。汚辱にか或いは解放が齎す悦にか、殆ど啜り泣きのような夕神の声を、断続的に聞こえる微かな水音――プライドの残骸に縋っては苦悶を長引かせるのが余計に哀れだった――を一秒たりとも聞き漏らさないよう、精神の陵辱者たちは耳を済ませている。六つの目が凝視する先では、意志の強い瞳が確かに潤んで見える。苛烈さを失った夕神の目は酷く扇情的で、唾液を垂れ零した唇と相まって雄の劣情を煽ってやまない。

 

 生唾を飲んだのは誰だったのだろう。夕神にとっては気の遠くなるほど長い時間を、男たちにとっては瞬き一つほどに短い時間をかけて、内股を通った最初の数滴が床に届いた。埃っぽいオフホワイトのリノリウムに、薄い黄色が広がりはじめたまさにそのとき、闖入者は現れた。

 

「ユガミくん! 捜査の前に報告があるぞ! 明日の公判、の……」

「ひッ、オッサン……な、んでっ、」

 

 革靴の音も明快に、高らかに。あまりに思いがけない相手が視界に飛び込んできたことで、夕神の明晰な頭脳も一度は凍り付いてしまった。サングラス越しの目が丸くなって、唇は音もなく自分の名を呼ぶ。ユガミくん、と。そこでようやく、この刑事の目に映る醜態に思い至った。

 

「違うッ! 見るんじゃねェ、見るなっ……!」

 

 その意味を正確に理解したとき、これまでのどの瞬間よりも激しい恥辱に襲われて、夕神は恐慌状態に陥っていた。強く引かれた鎖が鉄格子にあたり耳障りな音を立てる。髪を振り乱しては腕を引くものだから、先ほどまでの健気な努力は何もかも無に帰して、膀胱からじわじわと滲み出ていたものが一気に溢れ出した。床を叩く大きな水音に更に責め立てられて、哀願する夕神はいよいよ涙声だった。

 

「い、やだ……やめてくれっ……う、うっ、」

「ユガミくん」

 

 それでも自身を呼ぶ声に思わず顔を上げて、夕神は全身を引きつらせた。白いスーツの相棒は、聞きなれた声と呼び方で自分の名を紡いだはずだったのに。

 

 確かにその目はその瞬間、ぽっかりと空いた空洞だった。興奮も憐憫も義憤も、およそ人間らしい感情などない、蟻の行列が昆虫の死骸を運ぶのを眺めるともなく眺めるヒトの目。自身を射抜いたその冷たさに、反射的に抱いたのは脅えだ。

 

「う、あ……あぁ……」

「大丈夫だ。もう大丈夫だから」

 

 だが瞬きの後、彼が身に纏っていたのは理性に包まれた激しい怒りと、夕神に対しての暖かい気遣いだった。鍵を渡してもらえるんだろうね。普段の単純明快な朗らかさはどこへやら、激情を堪えた低音の凄みが看守たちを大いに怯ませる。独房に一人足を踏み入れた相棒からは、今や深い労わりしか感じられない。

 

 リノリウムに広がった水溜りを、質のいい革靴が踏んでいく。躊躇い一つなく夕神に歩み寄った彼に、いまだ小刻みに震える痩身が抱きしめられた。余韻にひくつく背を宥めるように掌が往復する。それほど身体を密着させてはスーツの白が汚れるだろうに、そんなことは欠片ほども頭にないようだった。

 

「吸おうとしなくていい。まずゆっくり息を吐いて……そう」

「ふ……うぅ、」

 

 背中に回された手が上に伸ばされ、そのまま捕縄を解き始めた。不器用そうに見えて存外なんでもこなす指先はあっさりと夕神を解放してのけた。長い間苦痛と屈辱を強いられたせいでいまや身体のどこにも力は入らず、汚れた床に倒れこみそうになるのを、屈強な腕が軽々と抱き上げる。オーデコロンの洒落た香りなんかしない。だがいつの間にか嗅ぎ慣れていた整髪料の匂いが、夕神をどうしようもなく安心させた。離せ、自分で立てると拒まねばならなかったはずの腕の中で、男の身に添うように全身が弛緩していくのを止められない。

 

 しどろもどろの刑務官たちに風呂の場所を聞いていた彼は、夕神の懊悩に気がついたらしい。聞く人を安心させる穏やかな声が鼓膜から全身に沁みわたる。

 

「ユガミ君? 今日は休みだ。必要なものはこちらで全て調べ上げる、用意する。だから……」

 

 少しでいいから、休みなさい。

 

 眠れる夜などいくらでもあったのに、それでも身も心も壊れようとはしなかったのに。この男に抱かれたまま、ゆるゆると意識が薄れていく。勝手に安堵し、癒されようとしていく。

 

 完全に力を失ってうな垂れた己の首が広い胸にもたれたことに、夕神は気付いていただろうか。

 

 視界が優しい闇に閉ざされる。静かに眠りにつく聴覚に、“足音”は聞こえなかった。

 

初出:2014/11/07