※薄暗い
誰にも望まれないアンコールのようだ。
この夢も、自分の生そのものも。
観客のいない舞台。脚本のない喜劇。
筋書を忘れた三文役者。
——……ロス、なんで、ど……してッ!?
申し訳程度に筋肉のつき始めた、けれど圧し折るにも骨を砕くにも容易い腕が視界に飛び込む。そんな手に抗われ殴られたところで痛いものかと、見上げた人が知らない表情で嗤う。
仕置きとばかりに内側を強く穿たれて。
——ひ、ぎぃッ!? いた、ぁっ……いたいッ!!
背中には固く冷たい石の感触。頭上に纏め上げられた両の手は動かすこともままならなくなる。脳が見せるこれは幻に過ぎないとわかっているのに、紛い物の陵辱者に占められ裂かれた場所は焼けた鉄を捻じ込まれたように痛むのだった。
叫んでいるつもりはない。ただ、口から迸るのはあの日と一言一句変わらぬ悲鳴。
——いたいッ! いた、いぃっ……! ぬいて、ア……ロスっ、ぬけったらッ!!
——ふ、ふ……これでも、まだ……わたしが……に、
——ぬい、て……! ゆ、るし……ひっ、ぐ、うぅ……
——なぁ、サガ……シオン様……?
——ッ……やぁっ、も、う……い……ゃ、
シベリアの永久凍土を削り取っても、地中海の海原の真ん中を掬い取っても、あの空の最も高いところをくり抜いたってこれほどの清廉は出せまいと皆が讃えた瞳はどこへ。
昏い絶望が何物にも染まらぬ蒼を穢して毀してめちゃくちゃにしている。こんな目をしたアイオロスを見たのは後にも先にもこれきりなのに、記憶に刻まれた光景は夜毎にシュラを苛んで忘れさせてくれやしない。
——な……で、あな……た、が、泣い、て……
まるで見知らぬ人の目尻から、雫が一つ。零れてシュラの頬を濡らした。
真に恐ろしく憎らしかったのは、そのまなこに自分など映ってはいないことだった。
——……ろ、す……
抉じ開けられた場所に注ぎ込まれる悍ましい痛みと熱も、あの日と何一つ変わりはしない。
気力も体力も根こそぎ奪い尽くされて、矜持をこれでもかと踏み躙られて、世界は薄闇の向こうに閉ざされる。
だがやがて意識を飛ばすことができても、悪趣味な夢がここで終わることはないのだと、シュラはよく知っていた。
悪い夢は終わらない。
——シュラ、シュラ……?
——っ、猊……下……?
いつしかシュラは絢爛な玉座の前にいた。ぼろぼろに裂かれたはずの訓練着ではなく、身に纏うのは眩い聖衣。
落とした視線の先に力なく垂れる手は夥しい血で元の肌の色もわからぬほどで、それに気づいた瞬間、身体の震えが止まらなくなる。
——あ、っあ……!
——かわいそうに……
——っ、おれ……わ、た……し、は、
ひぅ、と喉が引き攣れて痛む。絶え絶えに山羊座は勅命を果たしたとそう告げれば、“教皇”は痛ましげな声で頷いてみせた。
——お前は正しい。シュラ……“逆賊”を誅した英雄、山羊座のシュラよ……
——た、だし……い、
——そうだ、お前は正しい。正しかったのだ
来なさい。囁く声は決して威圧的になどなりえなかったけれど、逆らうことなど考えられない。
浮かされた足取りで歩を進めたシュラを抱き留めて、法衣の人は悼むように呟いた。
——こんなに冷えて、打ちのめされて……、ぃ、
——え……?
訝った声に答えはなく、ただ絹の手袋を嵌めた手がシュラの左胸に添えられる。身に持った小宇宙は桁違い。主人の意志など関係なしにシュラの身から離れた聖衣が雄々しい山羊の姿でそこに坐したところで、滑らかな手触りが裸の胸を這い始めた。
——っは、あ……ひゃう、ンっ!?
——……よい。お前は何も見なくても、聞かなくても
——っ、あ……!
アイオロスとの情交——と思いかけてシュラは首を振った。暴力だ、あれは——と戦いで傷を負った身体に、慈しみに溢れた小宇宙が流れ込んでくる。その心地よさにうっとりと目を閉じかけたところで、胸の頂を指先が掠めシュラは目を見開いた。
駆け抜けた見知らぬ感覚に身体も心も驚いているというのに、抗う間もなく言葉が続き、ついには視界さえ奪われる。柔らかく上質な絹がするりと目の周りに巻きついて視覚を封じる。
ほんの僅かな衣摺れは、教皇の召しものが脱ぎ捨てられる音なのだろうか。
——まッ、あ……っあ、げい……かぁ、
随分と甘ったるい香りが思考も抵抗も蕩かす。散々に傷めつけられたばかりの後孔に二本の指がのたくりこんで、アイオロスの残滓を掻き出していく。
いつしか小さな唇から漏れる声は、遊び女の淫蕩な色を湛えていた。
——あ、あッ……ひ、やぁあっ、あ……!
——何も考えなくてよい。お前は間違ってなどいない
——ふぁ、あ……あっあ、あ、あぁ、んはぁッ……!
——最も忠誠心厚き聖闘士、山羊座のシュラ……
やがてそこを犯す指が抜かれたっぷりの香油で解された場所に、ついに雄が突き立てられる。
先程齎されたような苦痛はない。むしろ駆け抜けたのは目も眩むような快感だった。
知らない感覚が全身を打ち据え、呼吸さえままならなくなる。痺れとも怠さともむず痒さとも違う感覚に震えているところを節くれだった指で摘み上げられ、いよいよ溢れる涙で光沢のある絹と幼さの残る頬とが止めどもなく濡らされていく。
——やっ……ぁ、ら、っんううぅ……!
滾りが全て身の内に納められる。
腹の中をいっぱいに占めたそれが、全身を酩酊させる快感が、ほんの数刻前の凌辱を遠い過去の出来事に変える。
——は、ひぁあッ! くる、っ……くるっ、あぁあああぁッ!
——シュ、ラ……!
何も見えてなどいない。何か見えるわけがない。
薄絹の向こうの人の顔など自分が知っているはずがない。
いや、違う。この人の顔も声もその手も、今の自分は知っている。
少しだけ荒くなった息が首筋を擽る。熱いものを最奥に注がれ頭の中まで白く染まって、訳もわからぬままにシュラは口走っていた。
「サガっ!!」
その叫びは現実のもので、その声にようやく現実世界に引き戻され、シュラは上掛けを跳ね飛ばして飛び起きた。
情けないほどに息が整わなくて、濡れた夜着の胸元を握り締める。悪寒が酷く震えが止まらないのに、身体の芯には欲望の火が灯っている。
「……くそっ!」
水差しの水を煽った程度で熱が消えることはない。サイドテーブルに叩きつけたグラスが割れて掌を傷つけたけれど、そんなことに拘わっている余裕は今のシュラのどこにもなかった。
震える足で浴室へ。
氷まじりかと思うほど冷たい水を、髪の一筋から足先まで冷え切るまで浴びる。ようやく吐き気を催すような劣情が引く頃には、全身鉛を流し込んだように重くなっていた。
壁に弱く縋り、身体を引き摺って寝台に戻る。碌に拭きもしていないから床には水の跡が細い道を作っているけれど、今更構うものかと唇を歪めた。
何も知らなかった。
アイオロスの苦悩も。
サガの孤独も。
デスマスクが重ねた罪も。
アフロディーテが護ってきたものも。
誰も、何もシュラに伝えはしなかった。
どこか恨みがましくそんなことを考えてかぶりを振る。
わかっている。
それは全てシュラ自身の咎なのだと。
懊悩を打ち明けるにも真実を告げるにも力は足りず、共犯者に引き込むにはあまりに愚かで脆すぎて。
誰にとっても自分は、傍に置くには不足だったと、結局そういうことでしかない。
窓の向こう、遠い山の端が僅かに白んで見える。舌打ちして床に転がしてあった瓶の一本を掴み上げ、シュラは中身を一息に煽った。
喉や空の胃が酒精に焼かれ爛れていく。
少しでいい。
夢を見ずに眠りたかった。
初出:2016/12/10(Privetter)