夜尿症または失禁癖のあるシュラと雑兵の話

※タイトル通りです



 雲のない空は地表の熱を留めておいてはくれなくて、明け方の聖域は思いの外冷え込んでいた。ここ磨羯宮は聖域の中でもかなり標高が高い場所に位置しているから、息を吸い込むだけで、冷たい空気がつきんと喉を灼いて肺に刺さるほど。

 だのにシュラ様は今日もまた、薄絹の夜着一枚で、朝と夜の境目に立っていらした。

 その御姿はほんの半年前と何も変わらないはずなのに。

 しなやかな筋肉に護られた野生の獣のような体躯。美しい伸ばされた背中には、何故か寄る辺なき子の孤独が見える。

 バルコニーに立つ方の向こうには褪せたライラックの色をした世界が広がっている。やがて眠りは朝の騒々しさに取って代わられて、海と空の鮮やかな青にこの聖域は挟まれるのだろう。倦むほどに繰り返した日々が今日もまた続くのだと、頭ではよくよくわかっている。

 理解している、つもりだった。

「……シュラ、様、」

 違う、だってあれは黄昏時だった。

 この方が骨さえ残さずに逝ってしまわれたのは、だがやはり空がこんな色をしている夕暮れで。それ以来淡い藤色の日のひかりは、心の奥底を無遠慮に掻き乱す。

「お風邪を召します」

「ッ、おまえか……」

 寝台から落ちかけてだらりと床に広がっていた毛布を掴んで、叙勲の外衣であるかのように御身に掛けて差し上げる。一瞬だけ肩が跳ねて、それからゆるりと力が抜ける。

 シュラ様の目は辛うじてこちらの姿を映し、そのまま瞼の向こうに消えた。黄金と陽光を尊ぶ聖域でこの黒は鮮烈過ぎたけれど、それでも私は我が主の、夜の色をした優しさをお慕いしていた。

 海鳥の鳴き声。潮の香りに混じる、どこかの宮の竈の煮炊きの匂い。花の命は短くて、空は見る間に青く染められていく。海から吹きあがってくる風が少しずつ熱を孕み始める。

 新しい朝の始まりを、黄泉還りを果たした御身が殆ど感じられないのだと気がついたのはいつだったか。

 小宇宙を燃やさぬ限り、シュラ様の世界は極端に閉ざされたものになる。

 目の前の景色には霧が立ち込め、暗い海を泳いでいるかのようにあらゆる音は重くくぐもっているという。肌に触れる手の温もりも、間近に綻ぶ花の香さえも、今のこの方はよくわからない。

 それだけではない。

「シュラ様、ここは冷えます」

「ああ……っ、あ……

 白い貝殻のごとき耳朶に、唇を近づけて囁きを吹き込む。頷いて踵を返した主の身体が、ひくりと震えて歩を止めた。

 朝の喧騒がまだ遠い聖域。その第十の宮の守護者の寝室に、不釣り合いな水音がひとつ。

「いや、だ……また……ッ、ぁ……」

 ご自身の腕に回された指先が色を失くしている。体内に溜まったものを量り、溢れる前に排泄欲という形でそれを教える。幼子でさえ知っていることを、シュラ様の御身は忘れてしまったようだった。

「み……るなっ…… ひ、ぁ……くぅ、っ……

 最初の一滴が零れ、今更押し寄せてきたのであろう生理的欲求に、悩ましげなお声が漏れる。これ以上のお粗相がなきよう懸命に堪えていらっしゃるのが、下腹の健気な震えでわかる。

 内股を懸命に擦り合わせる仕草はまさしく童女のそれだった。神に最も近き人々と崇め奉られる黄金聖闘士の中でも近接格闘と体術にかけては右に出る者のないシュラ様のおみ足は、それそのものが一つの芸術品であるかのように美しい。

 筋肉と筋肉が隙間なく押し当てられたその間を、金の小川が流れていく。正絹の夜着が淡黄色に染まっていくのを間近に見るのは、穢れなき新雪を踏み締めるのに等しい喜びと感動がある。

「ッ…… ふっ、ぅ……」

 誇り高いお方はこれほどのご本人にとっての醜態を晒しながらも、玉手をそこへ導きはしなかった。切ない吐息も、決して取り返しがつかないというのに無為に苦悶の時間を引き延ばしてしまわれるのも、初めてのときから何一つとして変わらない。

 だから私にはシュラ様の苦痛を少しでも早く除くためという大義名分ができるのだ。

 いつの間に床に落ちていたのか。柔らかい毛布を拾い上げ、跪いてその場所を抑える。

「……シュラ様、申し訳ございません」

「あッ!? よせ、や……めろ、それ……ひィ、あ、んあぁっ

 ぐ、と思い切り押し込めば、もうそれ以上は必要なかった。夜の間中溜め込まれたものが、上質な毛布に勢いよく吸われていく。

「ぁ、っ……は、ひぁ……

 お小水は私の掌をすっかり濡らし、布地から溢れ床をしばらく叩いてからやっと止まる。むっと広がる湿気と臭気にお気づきにならないでいられるのは、たった一つの救いと言えた。

「全部お出しになりましたか

 固く瞑った目の端に、光るものが浮かんでいる。幾度かの失敗を私たちは既に経験していたから、この方を追い詰めるのも厭わなかった。

 出し切らねば身体に毒などと言っても、我が主には響かない。

「シュラ様、お召し物を代えた後でまた汚したいのですか

「……っ、う、」

 しょろ、ちょろ……と、最後の一絞りが濡れそぼった布に浸みる。

 濡れた服を御身から剥ぐ。

 生まれたままの姿になったシュラ様は、御自身が吐き出されたものの隣にどこか所在なく立ち尽くしていた。

 

初出:2017/03/17(pixiv)