ツナを日本語で何と言うか知っているか。
「はぁ?」
意味がわからない。少なくとも、情交が始まるまで秒読み段階のベッドで囁かれる言葉じゃない。眉根を寄せたシュラはそれでも、一応律儀にカミュに答えた。
「マグロ、じゃなかったか……?」
「そう、それだ!」
むすっとした顔に子供のような笑みが浮かぶ。だがそれは一瞬のことで、再びカミュは至極真面目な顔でシュラのことを見下ろすのだった。
「シュラ。貴方のような人のことを、日本では“マグロ”と呼ぶのだぞ」
「は?」
「おそらく冷凍のそれを彷彿とさせるのだろうな」
あ、これは悪口だ。流石に鈍いシュラにもわかる。手間を掛けられるのを拒み、キスの一つさえも許さずにことに及ぼうとしているシュラが、この隣宮の守護者は酷く不満のようだった。
「これでは楽しめないだろう、私も、貴方も」
「……お前を楽しませてやれんのは悪いが、俺は別に、」
「そうではない!」
やや強い口調。相変わらずクールから地球7回り半分の距離離れたところにいる青年には、シュラの態度は受け入れ難いらしい。
驚いて見開かれた目の周り、縁取る睫毛は黒く長い。頬に落とされた影を辿るように、カミュはそっと腕を伸ばした。
「私は、」
白磁の肌は柔らかく滑らかで、見ても触れても美しい。
「貴方に楽しませてもらいたいと思ってなどいない。二人で楽しみたいのだ」
「だから、」
望んで夜を共にする訳ではない。そもそも自分は男であるからして、女の快楽など望まないし知りたくもない。そう言った本音は幾らでも出てくるのだけれど、どれも唇から溢れ落ちるには至らなかった。
「嫌だろうか、シュラ……」
頤を持ち上げる強引な手つきとは裏腹に、どこか寂しく不安げな声。あっさりと年下の隣人に絆されて、シュラは何も言えなくなってしまった。
「カミュ、っ、ん……」
柔らかい感触は決して不快ではない。探るように舌が入り込んで来るのに、シュラは肩の力を抜いて応えてやった。
熱い舌が、シュラのそれに絡みつく。今はこれだけを堪能したいとでもいうように、カミュの手はシュラのどこにも触れてこなかった。
やがて舌先が美しい歯列を撫でる。頬の内側をからかうようにつつかれて、知らずみっともない声が上がる。
「ふぁ、あ……ん、」
シュラが羞恥と困惑に身を捩らせても、キスはまだ終わらなかった。刺激に敏感な上顎を擽ってシュラを悶えさせたカミュの舌は止まらない。舌の付け根を幾度も繰り返し摩られると、背筋に甘い痺れが走った。
幾度も角度を変えて口づけ、濡れた唇を食み、己の口内に招き入れた女の舌を甘噛みする。
カミュはいいかもしれないが、こちらは勝手のわからぬ身体に押し込められているのだ。長すぎる口づけが終わったときには、シュラはほとんど肩で息をしている有様だった。長いしつこいなんて非難も、マイペースを極めたこの青年にはどこ吹く風。それどころかシュラの精一杯の嫌味さえ、カミュにはカスリもしないのだった。
「お前……案外、遊んでるんだな」
「遊ぶ? 私は女性と過ごす夜はいつも本気だ。たとえその後彼女と生涯逢うことがないとしても」
「……っ」
「セックスとはそういうものだろう」
ピレネーの山一つ越えた先。隣国出身の水瓶座は、自分とはちょっと違う感性で生きている。
シュラはカミュが嫌いではなかった。大真面目なくせ時々はちゃめちゃにズレているところも、思い詰めると何をしでかすかわからないところも、何も言うまいなんて言うくせ無駄におしゃべりなところも、クールの対極を生きているくせに自分ではそれにまるで気づいていないところも、何もかも却ってこいつを好ましく見せると思っていた。
でも時々ふとしたことで、彼の親友と胸を張るミロに、尊敬の念が溢れ出てくる。
「続けていいだろうか」
好きにしてくれ。なんだかどっと疲れが出てきて、シュラは寝台に投げ出していた手で額を抑えた。
「も……いい、だろっ……カミュっ!!」
「ここにも、薄いケロイドが残っている」
傷が多いのだな、と。額と目元を隠すように持ち上げられた腕を掴んだカミュの動きは相変わらず予測不可能でシュラを困惑させた。
不意打ちで消えない痕を舐め上げられて辿られると、背筋が甘く痺れてしまう。白い肌に次々と傷痕を見咎められて、カミュの行為はいつまでも続くかのように思われた。
「そんなっ、舐めて……どうするっ……!」
いつ負わされたのかもわからないものに今更何をしようが痕が薄れるはずもない。それなのに刻まれた古傷に這わされるカミュの舌は執拗で、念入りで、シュラは声を荒げずにはいられなくなる。
「いい、かげんにっ……ひぅッ!?」
指先を強く吸われる。これ見よがしに舌を伸ばして右手の薬指を舐め上げる仕草は、明らかに男根への奉仕を連想させた。
「やぁ……カ、ミュ……それっ、」
熱い唾液が腕を伝って肌を擽る。指の腹がふやけるほどにしゃぶられてからようやく解放される。
かと思えば今度は鎖骨の下に残っている鋭い爪痕に唇を落とされ、シュラは切なく身悶えた。
これはいつ負わされた傷だろうか。あまり思い出せないけれど、十代の半ば頃だった気がする。
――シュラ、シュラ!!
――……ぁ、リア……?
――何故だ、何故俺などを庇った!?
そうだ、勇み足で戦果を焦ったアイオリアを、敵の猛攻から庇ったときに負った傷だ。獅子座の少年は初陣から日も経っておらず今よりずっと青くて不安定で。逆賊の弟というレッテルを剥がすべくもがいていて、功を焦っての失態だった。
――ふざけるな……シュラ、目を開けろ! 俺を見ろ!!
「っん、ひあぁあッ!?」
不意に脇腹に吸い付かれて、素っ頓狂な声が上がる。摂氏零度でじわじわと凍った氷のように澄んだ目でシュラを見上げ、カミュは一つため息を吐いた。
「ベッドの上で他の男のことを考えるのはマナー違反では?」
「ひゃぁ、は、っは、あうぅ……カミュ、やめ……はぁっ、ひあぁっ!」
「今くらいは、私のことを見てほしいものだが」
こそばゆいのか気持ちいいのかわからない。ただそこにある火傷の痕を舌先で擽られ硬い指先で辿られると、笑い混じりの奇妙な声が堪えられなくなる。浅い臍の中にまで舌を捻じ込まれて舐められて、シュラはみっともなく身を捩らせた。
薄い翳りを梳いた手が、そのまま花芽の脇を降りていく。くちゅ……とまだ水気の多くない音は、しかしシュラがこれだけで感じてしまっていることの証左だった。
小さな吐息だけの笑いはシュラを馬鹿にしたものではないが、それでもやはり身の置き場がない。
「カ、ミュぅ……! はやく、つづ……け、ろっ! んぅ、ひぁん!?」
それなのにカミュの指も唇も、女の秘所を責めはしない。柔らかい舌は腰骨の辺りに降ろされて、ミルクを舐める子猫のような音を立てる。そこにあるのはいつぞやの任務で魔物の毒液を引っ掛けられてできた引き攣れで、それがこの水瓶座の目を引いたのだった。
美しく白い肌の上に、見るも痛々しい傷はいやに目立つ。負傷は負傷であって要は己の失態の証でしかない――こういうのを勲章だとか言う人間の気がシュラは知れない――から、労りと敬意の込められた愛撫にはどう答えたものか本当にわからないのに。幾度も肌に口付けて、舌を這わせて、手指で撫でて、困惑とともに確かな快感をカミュは練り込んでくるのだから質が悪かった。
「はぅ……っン……!」
とぷとぷとまた恥ずかしい蜜が膣から溢れてくる。寝台に尻を押し付けくねらせる動きの意味を知らぬはずがないだろうに、隣宮の青年は素知らぬふりをしている。
苛立ち紛れに軽く蹴り上げてやろうとした膝を容易く抑えられ、今度は右足の腿に残る傷痕に優しいキスが捧げられた。
「っあ! も……ぅ、やめっ、え……!」
滑らかな肌を堪能するように手が這い回り、頼りない薄さの尻を掴む。腿の裏を揉みしだく手つきはそのままに、カミュの唇はそこに幾つもの紅い花を散らし始めた。
「っんくぅ、う……あ、はぁ……!」
柔く歯を立てられると、足先が勝手に空を蹴ってしまう。利き脚の傷は、13年前射手座に刻まれたものだった。
――……アイオロス、何故……貴方ほどの人が何故、聖域を裏切ったッ!!
――シュラ、私の話を、
――問答無用!!
――ッ! ならば……!
風のない新月の晩だった。喉が締め上げられるような絶望と怒りも、肌に纏わり付くような不快な空気も、今でもよく覚えている。
僅かに肩を切られよろめきながら、アイオロスは右腕を振り上げた。
――アトミックサンダーボルト!
――っ、あ……ぐぁああッ!!
激しい雷撃に吹き飛ばされ、何本もの木を叩き折りながらシュラの身体は宙を舞う。聖衣の護りなき場所。枝の一本が骨をもへし折ってそこを貫いて、あたりに鮮血を飛び散らせた。
一瞬にも満たない時間確かに怯んだアイオロスに、シュラは聖剣を振りかざして。
――アイオロスっ!!
「……貴方は、本当にあの兄弟が好きなのだな」
「っえ……? あ、ひぁああッ!?」
しみじみと優しい声は気を悪くしたようではなかったけれど、カミュの責めは意地が悪くなる。
溢れた蜜を掬われて、いきなり陰核を捻られて。駆け抜けた痛みにも似た刺激にシュラが高く啼けば、宥めるように指先はそこを剥き上げてしまう。
「あ、っ、あ……! ひぃ、ア、」
胡粉の緋に染められた爪で剥き身の場所を撫でられ、シュラは引き攣った声を上げて身をくねらせる。腿の傷痕に甘く優しく歯を立てて、カミュはもう一度繰り返した。
「本当にあの兄弟が好きなのだな」
続く声が、ほんの少しだけ低くなる。
「……少し、妬けてしまう」
「……は?」
「貴方がこの磨羯宮から彼らを見つめていた背中ばかり、私はずっと見ていた気がする」
「なに、いって……ひぁああッ!? あ、んぁっ、あぅうッ……!」
唐突に節くれ立った指が蜜壺に入り込んできて、問い掛けの言葉は消えてしまった。爪を一本一本丁寧に削り鮮やかな紅で彩った水瓶座の聖闘士の手は確かに美しいが、見た目ほどに責めは穏やかでも優しくもない。女を抱き慣れた男の手はあっさりとシュラが感じる場所を見つけ出して、肉襞の中につつましく隠れていたそこを固い指の腹で擦り上げてくる。
じれったさに足先が捩れるような愛撫ではなく、もっと激しい刺激を求めていたのは事実。だがこうして実際に情け容赦なく未知の快楽を受け入れさせられるとみっともない声が堪えられなくて、シュラの矜持には次々と罅が入っていく。
「やぁ、やッ、ぁ……まって、っ、カミュぅ……っン、あ、あぁあっ!」
逞しい肩を精一杯の力で押すけれど、それが何の抵抗になろう。仕置きとばかりに陰核を親指で捏ねられて、シュラの腕からは男に縋りつくための力さえ失われていく。敷布を無為に掻き乱すだけになった女の右手に男の左手が絡みついて、散らばる黒髪の横に留める。
「シュラ、」
おもむろに指が引き抜かれる。そうしてぴたりと押し当てられたものはとんでもなく熱く滾っていた。あまりの硬さにシュラは思わず全身を強張らせてしまって、見下ろしている男は小さく笑った。
汗に濡れた額に、口づけが一つ捧げられる。
「……シュラ」
「ぁっ……か、みゅ……?」
赤味が混じったカミュの瞳は、きらきらと燃えていた。鮮やかな紅の髪がシュラの肩に落ちて、柔らかく肌を擽っている。
「貴方が愛おしい」
妄執や昏い情念に囚われた雄のそれではなかった。あまりに真っ当で真っ直ぐな響きを持った愛の告白に、シュラはすっかり困惑してしまった。
こんな触れ方も眼差しも愛の言葉もシュラは知らない。
「……いいか?」
「っ……ん、ぁ……」
くぷん、と先端がほんの僅かに膣口にキスしたまま、カミュが低い囁きで尋ねる。色々な意味でいっぱいいっぱいで、シュラはただ小さい頷きで答えただけだった。
「う、ぁッ……あぁぁっ!」
熱の塊が入り込んでくる。隘路を静かに押し拡げた雄は、決して侵入を急がなかった。ぽってり潤んで充血した肉襞は陵辱に近い激しさにでさえ応えられそうなほどに刺激に飢えていて、カミュの優しさが嬉しいけれど身体が切ない。
切っ先が雌の勘所を押し上げながら最奥へと入り込み、子宮の入り口をゆっくりと突き上げる。下生えが感度を磨かれた肌を擽るのさえも気持ちが良くて、熱い蜜がまた勝手に溢れてしまう。
激しく幾度も穿つようなことはしない。それでも太く固く熱いものの先端でぬかるんだ最奥をぐちゅぐちゅと捏ねられるだけで十分すぎるほどにシュラは感じ入ってしまって、薄暗い室内に無数の星がちかちかと輝いた。
「っふ、あ……ンっ! は、ひぁ、はぁっ……ふぁ、っは、ぁ……ひゃぁうッ!?」
その合間にも自由な左手はすべらかな肢体を這い回ってシュラに更なる快感を練り込んでくるのだから堪らない。性急な快楽と違いそれはするりとシュラの心身に入り矜持も反発もいっしょくたに蕩かしてしまう。
そうしてシュラの奥に染みていくのは、カミュの声も同じだった。
「シュラ、好きだ」
たとえばこの手、と。聖剣を宿した右手を握り込む力が強くなる。
「戦いの中、いつだって私達の未来を切り開いてきた手だ。血に塗れることも、傷つくことも、傷つけることも恐れず厭わなかった者の手だ。それでいて不意に見せる繊細な優しさが、驚くほどに私を惹きつけてやまない手だ」
手だけではない。苛烈な意志が宿った瞳も、鍛え上げられたしなやかで美しい四肢も、低く落ち着いた威厳ある声も、鬼神の如きその戦いぶりや好戦的な笑みも、たまに見せる穏やかな頬笑みも好きだった。黄金の聖衣と陽光の眩さを尊ぶこの地では珍しく忌避されやすい硬質な黒髪もシュラに似合っていて好ましいと思っている。
「つまり、貴方を構成する全てが尊くて、慕わしくて、愛しい」
「ぁ、ふぁっ……っ、ひぁ……!」
素面だったら殴りとばしてでも止めていただろう愛の言葉を、シュラはうっとりと――別にそれ自体に聞き惚れて感涙に咽んでいるわけではないのだが、まともにものを考えられなかったので――聞いていた。
否定の声が上がらないことに安堵して一つ息を吐いて。カミュはもう一度、掠れ声で囁いた。
好きだ、貴方が愛おしい。
「このまま繋がって一つになれたらいいのにと、そんなことを思うくらいに」
「ぅ、ぁ……か、みゅっ……?」
快楽に陶酔しきった白皙を、精悍な雄の顔つきをした青年が見下ろしている。
カミュが何を言っているのか、もうシュラは殆ど理解できてはいない。わからないなりにより深い悦びを求めた女の身が、知らず媚びる言葉を紡がせていた。
「あぁ、ッん……っ、みゅ……かみゅっ、かみゅぅ……! なか、っ、だし……て……ぇっ、」
「ッ、シュラ……!」
男の腰に足を擦り寄せ絡ませて、シュラが征服の証を乞う。淫蕩な笑みと声、欲の全てを絞り取る肉襞の蠢きに引き摺りこまれ、カミュは最奥に滾りを注ぎ込んでいた。
「……カミュ、眠ってしまったか? カミュ……?」
ことが終わったあとの寝室には、決して不快なものではない沈黙が広がっていた。自分を抱き込んだまま瞼を下ろしている青年を見上げ、シュラはおずおずと口を開いた。
返事はない。それでこの年下の同胞がすっかり寝入っているものと安心して、シュラはぽつりぽつりと語り始める。
「お前が、どう思っているのかは知らないが……俺はあの兄弟に対して、“そう”いう感情を抱いたことはないからな」
着痩せする質らしい男の、想像よりも厚く頼もしい胸板にそっと鼻先を擦り寄せる。むすっとした下膨れのチビの頃から知っているはずの隣人の寝顔が何だかとてつもなく綺麗に見えて、気恥かしくて顔が上げられなくなる。この体勢もだいぶ恥ずかしい気がしたけれど、頭を振ってそのことは思考の片隅に押し込めた。
「それから……お前に対しても」
だから今日のカミュは、シュラを大いに驚かせた。熱の籠った声。真摯な告白。あの眼差しを思い出すだけで下腹の奥が小さく疼いて、シュラは僅かに身を震わせた。
静かな寝息は変わらない。見事な赤毛に時々肌を擽られてひそやかに笑いながら、シュラは言葉を更に紡いだ。
「それで……その。お前とのことは、もう少しゆっくりと考えても……いいだろうか」
一歩ずつ、前向きに。摂理に反した甦りに際してシュラの身体は思いがけない不具合を抱え込んでいて、これからのことを考える余裕さえなかったというのが本音だけれど。
「うまく言えないが、だがきっと……お前が抱いてくれているような想いを、俺も、持てるような気がする」
言ってしまってから襲い来る羞恥心に耐えかねて一人悶える。
火照り続ける頬を冷ますべく寝台を抜け出ようとしたシュラの、薄闇にほの白い身体が後ろから抱きすくめられるまであと30秒。