その日の朝、珍しく桂は早朝から湯を浴びていた。
ちびた石鹸は確かに彼のものだが、傷病兵の手当てや介護の際に使用することの方が多く、彼自身が彼のために使うことは稀だった。川の水で濡らして固く絞っただけの手ぬぐいで身体を拭い、ぐしゃぐしゃに絡んだ髪など手櫛で梳いて適当に結っておくだけだったあの桂が。わざわざ湯を沸かし石鹸を使って髪や身体を洗っていたのだというのに。多くの者はその時点で気付かなかった自分たちを責めた。
朝食――とは名ばかりの、末成りの芋すら殆ど入っていない重湯のような雑炊――を済ませ、少し出てくる、と山奥の廃寺を後にした桂が戻ったのは翌日の夜半過ぎだった。攘夷軍の残党狩りは江戸からも京からも離れたこんな田舎にまで及んでいて、僅かに残った面々は心配に胸を軋ませる。
辛抱ならん探しに行く、と立ち上がった少年兵を年嵩の男が宥めるのにも限界が近づいていたとき。
「万一のことがあったらどうするつもりだ! 桂さんまで失ってしまっては、」
「いい加減にしろ、てめぇら」
追われ隠れる身でありながら激情に声を荒げていく男たちを、ため息まじりのたった一声が押さえつける。冷えた隻眼に射抜かれた彼らは一様に口を閉ざし、朽ちた寺の中に痛々しいまでの沈黙が降りた。その瞬間だった。
厳しい夜の風の中を潜り抜けるように、指笛が微かに聞こえてくる。細く長く一回。そして短く、弾むように三回。大事ないときに帰還者が告げる合図、そうして間もなく迎えの者とともに桂が御堂に入ってきた。
「遅くなってすまなかった」
わっと駆け寄って安堵の声を漏らす男たちに答えつつも、片隅に腰かけていた高杉のもとに歩み寄ろうとする。高杉、起きていたのか。気遣わしげに言葉を掛けられた高杉はしかし、桂の方に顔を向けもしなかった。
「……外せ」
「は?」
「その見慣れねェ襟巻、取れっつってんだ」
桂の帰還に満足していた者たちもようやく、そこで発言の意図に気付いた。首筋に巻き付いた寒色のそれの下、背中か或いは胸元に垂れているはずの、艶やかな黒はどこへ行ったというのだろうか。微かにざわめいた面々と、こちらを鋭く睨み上げている鶯色の瞳に嘆息を零して、桂は諾々とそれに従った。
幾重にも巻かれていたものが解かれてみれば、戦場でさえ至上の美しさで煌めいた桂の絹糸のような髪は、ただ肩の上でさらさらと揺れているだけだった。
「か、桂さんの御髪が……」
「男の髪に御髪とはなんだ気色が悪い! 売れるものは何だって売る、京に向かうと言って俺達には僅かな路銀すらないんだぞ。先立つものがなくて何ができる」
町に降りた目的が明らんだところで、桂は開き直ったようだった。何故か涙目になって纏わりつこうとする兵たちに一瞥をくれると、金の管理を任せている腹心に金子で一杯の巾着を放る。その重みに男たちが唖然としている間に痩せた身体は私室へと歩みを進めていた。
「心配をかけたことは詫びる、すまなかった。明晩ここを発つゆえ各々そのつもりでいるように」
穏やかだけれどどこか突き放したような言い方に、桂を追える者はだれ一人としていなかった。
その場からすぐに姿を消した幼馴染以外には。
***
使い古しの蝋燭すら惜しむ桂の部屋はあまりに薄暗かった。
「売れるモンは何でも売るたぁよく言ったもんだぜ」
「高杉……」
傷の具合はどうだ。続けられた言葉は意図的にこちらの発言を無視したもので、高杉は苛立たしげに舌打ちする。問いかけに答えぬままに歩み寄って苛立ち交じりに袷を開けば、案の定そこには無数の吸い痕と噛み傷が散っている。それを見られてなお、桂は鼻を鳴らして笑うのだった。
「当たり前だ、男の髪程度、売り払って何になる」
好き放題に抱かせて、それからそのまま髪もざんばらに切らせてやった。敗軍の将を弄んで堕とすのがさぞ楽しかったのだろうよ。髪で扱いて一回、めちゃくちゃに切り刻んだあと顔に擦りつけて一回。まぁ、中に何度も出されずに済んで楽だったな。
淡々と悍ましいことを吐き捨てる幼馴染を見ても、高杉は憐憫も怒りも抱かなかった。ただもう一人の昔馴染みを思うと、急に笑いが込み上げてきた。
「アイツがいたら、ンなことさせなかったろうなぁ」
「だからやったんだ」
嘲笑混じりの呟きに、同じく冷えた笑い声が答える。何がおかしいのかもわからないまま二人で一頻り笑って、それから高杉は桂の肢体に手を這わせた。
「抱くのか」
「“抱かねぇ理由”があったんだがな」
たとえば、もう一人が桂に懸想しているとか。
たとえば、そういうことに潔癖な桂は、誰を抱きも誰に抱かれもしたことがなかったとか。
「……そうだな」
痩せぎすの身体は肋が浮いている。戦いに明け暮れた身は見るに堪えない傷だらけで、撫でまわす度高杉の細い指に引っかかった。ようやく軟らかい皮膚が形成され始めたばかりの矢傷に触れれば、薄い腹筋がひくりと跳ねた。
ごう、と外で風がうねる。月のない曇りの夜は背の低い蝋燭を吹き消せば殆ど闇だった。手さぐりで触れた場所はまだぽってりと潤み大して解す必要もなく、高杉はゆっくりとそこに自身を埋めていく。
「っあ、たか……すぎ、」
「………………小太郎」
高杉が桂を満たし、桂が高杉を喰らう。同じものを同じように失って、欠けさせている。互いを充足させあうことなどできようもないと知っていても、いつしか熱い吐息と狂おしい睦言が賊軍の逃げ場を閨へと変えた。交わしたのは同情にも愛情にも慕情にも似た、けれどどれにもなりえない紛い物だったけれど。
「あ、やぁ……そこっ、しんすけっ!」
気持ちいい、と譫言のように桂が呟いては高杉の名を読んでいる。鬻いでいるときとは違い、身体の芯が痺れるように熱くて堪らない。気づかぬうちに屹立していたものを握りこまれ、知らずひぅ、と息を呑んだ。だらだらと止まらないのは先走りだけではない。
「い、あぁ……だめっ……だッ! しんすけ、おくっ……っひ、」
彷徨う手が、放り棄てられていた襟巻に辿り着いた。辛うじてそれを噛み締めたところで、敏感な場所を擦り上げられて、忘我のうちに桂は全てを吐き出していた。
***
気をやって暫く呆然としていたらしい。古びた毛布がそっと掛けられて桂は目覚めた。高杉、と呼べば舌打ちをした幼馴染が顔を逸らす。気付けば情交の痕跡はできる限り拭い去られ、比較的綺麗な襦袢を羽織らされていた。ぼろぼろの煎餅蒲団だって貴重なものだから固い板張りの上でことに及んでいた筈なのに、今桂はその布団に横たわっている。
身を起こし、隣に出した布団に寝転ぼうとする高杉を見つめた。
「幼い銀時を」
何故、こんなことを話しだそうと思ったのだろう。桂にもよくわからない。
「戦場から引き離したのはあの人だ」
未だその名を呼ぶことが出来ない、誰よりも敬愛した師。
「あの人が連れ出した地獄に、あの人の為と言ってアイツを縛り付けてしまった」
「偽善も大概にしろよ、ヅラ」
反射的に高杉の手が伸びて、けれど短くなった髪は掴めない。伸ばした手でそのまま肩を突いて、痩身を再び布団に押し戻した。耳の下、本当に少しばかり髪が広がるのがどうしようもなく滑稽で虚しかった。
「何が言いてェのか知らねぇが見くびるなよ。俺達は誰もが自分の意志であの場所に立った。そして今、去る者は去り残る者は歯ァ食い縛って折れた剣に縋ってでもここに立っている」
戦争は終わったのかもしれない。けれどこれから始まるのもまた、戦いの日々だ。この情交の夜すらも、懐かしく焦がれるほどの地獄が待ち受けているのかもわからない、終わりは見えず勝利は遠い、長い戦い。
「……高杉。お前の布団は冷えているだろう。こっちに来い」
「はぁ?」
脈絡のない言葉と共に引き入れられた場所は、確かにこれから眠ろうと思っていたところよりは温かい。枕か何かのように抱き込まれて咄嗟に逃げ出そうとしたものの、思ったよりも桂の力は強かった。必死にしがみ付く腕を外して冷え切った布団に戻ることもあるまい。胸の奥に自分だけのための弁解を用意してやり、高杉はゆっくりと全身の力を抜いた。
「お前は、いなくなるなよ……晋助」
寄る辺を失くした子のような、泣きそうな声は聞こえないふりをしながら。
初出:2014/06/12