飼い主の性処理もペットの仕事


 はああ、と重く息をつき額に手をやった桂を見て、エリザベスは少なからず動揺した――というのも、彼の主人は滅多なことでは風邪など引かぬ体質だったので。


 横顔を見つめる視線に気がついたのか、文机に広げられた書簡やら和紙やら書物やらから視線を上げた桂がゆるりと微笑む。別段どこか悪いという訳でもない、ただひたすらに疲れを溜め込んだ顔だった。


「エリザベス?」


 書き物をする桂を手伝い、反故を裁断していた手が止まっていたらしい。小首を傾げてこちらを気遣う面差しはどこまで優しくて、こういうとき、寂しさと愛おしさでエリザベスの胸はいっぱいになる。周りの、特に大切にしているあれこれの変化には聡い癖に、痩せた身体に重ねられた疲労にはどこまで行っても無頓着。先ほどの重苦しい溜め息だってきっと無意識に零れてしまったものだろう。


 少しずつ弱みを見せてくれるようになった主人に嬉しさを。もっと早くに気づいてやれない自分に歯がゆさを感じてしまう。


『今日はもう、終わりにしましょう』

「何を言う、始めたばかりだぞ」

『根を詰めすぎです。夕食後から四時間はやっています』


 安普請の狭い部屋にはテレビやパソコンはおろか、古びた時計一つすらない。持ち歩いていた懐中時計を印籠のように翳して見せると、流石に桂は驚いたようだった。だが、そのくらい、いつものことだ。そっぽを向いて小さく反論する声が尻すぼみになって消えた。桂はエリザベスには甘い。





 四畳半一間の借り暮らしを二人は存外気に入っていた。もとより過酷な戦争を生き抜き今尚追われる身である桂にしてみれば手足を伸ばして寝られるだけで万々歳だったし、エリザベスだってこの愛すべき主人の隣ならどこでもいい。


「なあ……エリザベス、あとこの書簡だけでも、」


 ダメです、と強い筆致で書き切って、無理やり文机がわりのちゃぶ台を片付けてしまう。日中よく干しておいた布団を延べてしまうと流石に桂もあきらめたようだった。不承不承そこに座れば、湯たんぽを挟み込んでいた場所がじんわりと温かい。ふー、と細く息を吐いた桂に、エリザベスは湯飲みを手渡した。焼酎の牛乳割に、蜂蜜を少し垂らしたもの。幼馴染に出されでもしたらいちいちケチをつけそうな桂だけれど、エリザベスが給仕したり渡したりしたものには基本的に何も言わない。


「ありがとう……うまいな……」


 書き物やら会合やらであれこれ考え込んだ日の晩は、少しだけ寝つきが悪くなるから。エリザベスなりの気遣いだった。空の湯飲みを流しですすいで帰ってくると、壁にもたれた桂はもう眠たげな目つきで空を眺めていた。やはり疲れが溜まっているのだ。皺になりますよ、と促されようやく羽織を落とし帯に手をかける。珍しく適当に落としっぱなしのそれらを衣紋掛けにかけるのはエリザベスの仕事だ。桂は早々に布団に潜り込んでしまった。


 厚手の襦袢だけを纏った身体は、やはり疲労に強張って見える。今にも寝入ってしまいそうな桂に、エリザベスは思わず按摩を申し出ていた。



***



「んっ、う……んぅ……」


 心地よさそうに息を吐いては、桂はうっとりと目を細めている。


 決してうわばみではないが、かと言って酒に弱いわけでもない。だが今襦袢一枚で寝転んでいる桂はたかだが一杯の日本酒ですっかり酔ってしまったようだった。そこまで疲れを溜め込んだ主人を気の毒に思い、エリザベスは一層丁寧に主人に奉仕する。


 ガチガチに凝り固まった薄い肩や二の腕をゆっくり摩っては揉み解していくと、穏やかで優しい快感に桂は全身の力を抜いた。


「う、ん……ふぁっ、」


 小さな吐息が枕に吸われて消える。うつ伏せのまま、顔だけは軽く捻ってぼんやりと壁を眺めていた桂だが、次第に瞬きの回数が増えてきている。


 白く弾力ある手が徐々に下へ降りる。美しい肩甲骨の回りを摩り、背中をぎゅうぎゅう揉み込み、それから腰へ。結構な力が込められているだろうに不快な痛みは欠片もなかった。かと言ってぼやけた無意味なマッサージというわけでもなく、溜まった疲れが見る間に溶かされていく。


『桂さん?』


 終わりましたよ、と。エリザベスの手で仰向けにされたとき、桂は眠り込んでしまっていた。目を覚ます気配はちっともない。その白皙の頬にはうっすらと赤みが差し、見る者を誘っている。


 それだけだはない。下腹に目をやれば、これだけのマッサージで桂自身が兆しているのがわかった。

 

 絶句。もとより話さないけれど。


 いくらなんでもちょっとどころではなく気まずくて、エリザベスは困惑しきった表情――ただしこれを理解できるのは桂だけなのだが――で視線をおろおろさまよわせた。ちょっとちょっと、どうしよう、これ。自分で言い出して始めたことなのに、思いがけない方に転がりすぎてエリザベスの思考は完全に停止してしまった。


 すっかり眠りこけている桂の前で、真っ白いプラカードを出してみたりもだもだと頭を抱えてみたり。


 けれどエリザベスを懊悩の坩堝に叩き込んだのが桂なら、そこから引っ張りあげたのも桂だった。


「う、んぅ……」


 火鉢すらない部屋だ。一旦毛布を剥いでいたから、襦袢のみの桂は少しばかり冷えたらしい。微かに眉根を寄せて身動ぎする主人に慌てて毛布をかけてやると、エリザベスもようやく少し息がつけた。何と言っても、アレが直接目に入らなくなったのが大きい。


 左肩を庇うように抱いた右手も布団に入れてやろうとして、思わず両手に取ってまじまじと見る。桂は容色の割に自分自身をめかすことには一切興味を持っていないから、改めて見ると酷い荒れようだった。アルバイト先では水仕事や掃除、寒風吹きすさぶ屋外での呼び込みなど何でもしているから、あかぎれやひびが痛々しい。文に書物にと紙を扱うことも多い手にはそういったもので切った傷もあるし、意外と不器用な桂が料理中にした怪我もまだ治っていない。刀傷や矢傷、火傷の痕はもう一生消えないだろう。それほど深い生傷はないけれど、よく見れば小指の爪が半分ほど折れ、血の滲んだ皮膚が見えていた。


 労働と、知恵と志と、戦いを知った手。意志の強い澄んだ瞳も、ぴんと伸びた背筋も、真っ直ぐに下ろされた黒髪も、桂を構成する何もかもが彼の心根をよくよく表しているとエリザベスは思っている。けれどこの手には敵うまい。


 薄い、傷だらけの掌は、まさしく桂そのものだった。


 毛布に入れてやるつもりだった手をそっと下ろし、エリザベスはおもむろに立ち上がった。行李から軟膏を取り出してもう一度桂の傍らに腰を下ろす。脱力した腕を持ち上げ、その手に丹念に薬をすり込み始めた。


「あっ、あ……んッ、」


 心地よさそう、を通り越して悩まし気な声が気にならないと言ったら嘘になる。けれど努めて意識しないようにして。ありったけの敬意と愛情でもってエリザベスは治療を施していく。


 掌をぎゅう、と押してみたり、凝った筋を伸ばしてみたり。指先を丹念に揉まれるのが殊によいようだった。熱い吐息が艶めかしい。両手に薬を塗り切るころには、完全に桂の息は上がっていた。


「はぁ……っふ、う……ん、」


 そして案の定と言えば案の定だけれど、手を入れてやろうとして上掛けを軽く上げれば、完全に襦袢を押し上げているものが目に入る。燻る官能の火が安眠を妨げているのだろうか、柳眉を切なく寄せて時折桂は身を捩らせた。


『…………』


 沈黙は躊躇いではない。本当に桂が目覚めないか、たっぷりと時間をかけてエリザベスは検分し始めた。だがそれは疚しさから来る保身のためではなく、どちらかと言うと敬愛する主人のためだった。これだけ苦しげに身悶えているのを――8割がた自分のせいなのに――放ってなどおけない。だがもしも最中に目覚めさせてしまえば、そう言ったことに疎く潔癖な桂がどれほど衝撃を受けるかも想像できた。


『……………………』


 これはもう何をしても起きるまい、と腹を括ってからの行動は速かった。そろりと毛布を持ち上げて下肢を露わにする。襦袢の裾を割って、下帯を緩めて取り去った。


 張り詰めたものに手を伸ばすのにも嫌悪感はない。先走りまで垂れ零して濡れている先端をそっと包むと、桂は腰を跳ね上げて甘い声を漏らした。


「はぅっ、んッ……!」


 そのままで亀頭を捏ね回しつつ、もう片方の手では双珠を揉み上げて。もっちりふわふわの柔らかい手に弄り倒され、目こそ覚まさないものの痩身をくねらせて桂は悶えた。先程軟膏を塗り込んでやった手が襦袢の中に入っていったけれど、エリザベスは見て見ぬ振りをした。


「あっ、やぁッ……んぁ、」


 意識のない身体は快楽の従順な下僕だった。常の堅物ぶりからは考えられぬような淫猥な手つきで、桂は自身の胸を愛撫している。焦らすように胸筋をねっとり這い回ったかと思えば、乳輪を強く抓り上げ先端に爪さえ立てる。その度にエリザベスの手の中で勃起がひくつき、とぷとぷ蜜を溢れさせた。


 そしてまた、嬌声。つぷんと勃った乳首は淫らに色づいて震えているし、いやらしい笑みを浮かべた唇は零れた唾液に濡れていた。聞かないようにしたって、耳――があるのだ、ステファンにだって一応――に入ってくる。見ないようにしたって、どうしても視線が引き寄せられてしまう。こちらまで妙な気分になりそうで、エリザベスは慌てて頭を振った。


 これはあくまで桂さんの“処理”に過ぎない。だからそう、さっさと終わらせて寝てしまおう。扱き立てる手の動きを一層速めて、エリザベスは桂を追い立てた。愛らしいと言って差し支えないような小さな啼き声を上げた桂の身体が震えている。胸の頂きを摘む手も疎かになっているようだった。


「やぁっ、ん! あ、あッ、あ……!」


 五指を持たないなりに器用な手が齎す快感は極上のものだった。裏筋から亀頭をまとめて捏ねくられると、漏れる声も切羽詰まったものになる。重く張った袋を宥めるように揺すり上げていた手をそこから離し、エリザベスはその窄まりへと続く隘路を強く押し上げた。


「ッひぁ!? やあぁあーっ!」


 効果は覿面だった。仰け反った桂がびゅくびゅく精液を撒き散らすのをエリザベスはほとんど手で受け止めてやった。それでも溢れてしまう白濁が薄い腹や翳りの上にぽたりと滴れるのをみて少し溜息。疲れもだけれど、こちらもどれだけ溜め込んでいたのやら。身体に悪くないのだろうか。


「……ん、」


 そっと下腹や萎えた性器を懐紙で拭い、乱れたものを着付け直してやっている間、桂は静かなものだった。吐精という区切りを与えてもらった身体はもう徒らに桂を追い詰めたりはしない。すうすうと穏やかに眠る主人の姿を見て、エリザベスもようやく安堵に深く息を吐いた。


 諸々を処分して、自分の寝支度を終わらせる。煎餅布団でも潜り込んでしまえばそこは安寧の地だった。


 眠りに落ちる瞬間、隣の桂を横目に見て改めて誓う。


 今晩のことは、絶対に墓場まで持って行こう。



***



 翌日。書き物や食事の合間にちょくちょくと手指を摩る桂はなんだかとてもご機嫌だった。


 八つ時の休憩時間、エリザベスがいつものように番茶と菓子を用意する。ちゃぶ台に湯呑みを置く手を見つめて桂は言った。


「お前の手はやさしい手だな」


 やさしい、とは。美しい声で紡がれる言葉を聞いていられずにエリザベスは台所に駆けて戻った。なんだ照れているのか?なんて、笑いながら呼びかける声が聞こえてくるけれど、ちょっと今は桂の顔が見られそうにない。


 やさしい手って言いましたよね? やらしい手じゃなくて? 


 ぽうっと火照る顔を茶盆で隠しながら。痺れを切らした桂が呼びに来るまで、エリザベスはぐるぐる考え込んでは一人で恥じ入っていた。


初出:2015/04/22