ほんと、どうしてこうなった。

 

 今目の前にいるこいつ程じゃねえかもしんねぇけど、俺だってそれなりに辛くてじめじめした子供時代を送ってきた訳で。後悔なんてしてもしてもし足りなかったから、俺の馬鹿な脳味噌はいつか過去を振り返ることそのものを忘れちまった。……そうしなきゃ、生きていけなかったんだよ。

 

 そんな俺が。高々30分前のことを振り返って死ぬほど悔やんじまってるなんておっかしくね? あぁ、でもよ、昔をゆっくり回想することが出来るようになったのももしかして遊戯が俺のことをこの後ろ暗い過去ごと受け入れてくれたからなのかもな……サンキュ、遊戯。

 

「ぼんこつ! ひ、とのは、話を聞いて、」

 

 友への感謝という名の現実逃避を続けようとした俺の肩に軽い衝撃が走った。ゆるゆると目の前の人物に視線を戻せば、俺を小突いたのとは反対の手で嗚咽が漏れないように必死に口を抑えている。

 

 海馬、瀬人。俺はこいつの名前を知っている。声を聞いたことだってあるし、経営している会社の名前も、唯一の家族にして最愛の弟の名前も、最も信頼する僕の名前も言えるぜ、一応。ま、お互い好む好まざるに関わらず、俺達の付き合いは確実に単なる知人の域を越えてるな。

 

 でも、目の前で震える186センチの小さな生き物と俺の脳内データベースの海馬瀬人は反発しあってちっともくっつこうとしねえ。それこそ磁石のS極とN極みてえに。

 

「あ、あのぉ……」

 

 改めて目の前の海馬もどきをじっと見つめる。黒目……というよりも青目?がちな目から涙がほろほろと流れてすべすべとしたつややかな頬を濡らしている。口からはいつもの抑えようともしないバッカみてえな高笑いの代わりに抑えきれない嗚咽がかすかに漏れている。

 

 本当に、ホントにホントにこいつは海馬なんだろうか。

 

 ちらりと時計に目をやる。あの長針が真上を指していた頃には、俺と海馬はいつもと変わらぬ犬猿の仲の筈だった。あの時、俺があんなコトを言いさえしなければ……。

 

 今を遡ること30分。俺は放課後の教室に一人残り、海馬を待ち構えていた。

 

「ぜってー吐かせてやる……!」

 

 物騒な言葉を呟きながらうろうろと教室を歩き回る俺は、傍から見たらかなりアブねえやつだったと思う。でもそん時の俺は、遊戯を守ってやんなきゃって使命感に燃えてたんだ。だからそんなことには気づきもしなかった。

 

 海馬が遊戯を見る目に、普通じゃねえ光が含まれているのに気がついたのは、今から3ヶ月くれえ前だったと思う。バトルシティからこっち、すっかり化けの皮が剥がれたように見えた海馬だったが、学校では相変わらず優等生を演じ続けてやがった。けどよ、俺だけは気づいちまうんだよ。済ましたツラした海馬が、遊戯を見ているだけ孕む剣呑な空気に。

 

 それだけならまだよかったんだ。海馬の行動は徐々にエスカレートしていった。遊戯が欲しがっていたカードをやったり、海馬コーポレーションの新作ゲームのテストプレイを頼んだり、海馬のヤロー、あの手この手で遊戯に近づこうとしやがった。ただ純粋な好意だけで遊戯に近づこうとってなら気に食わねーがまだ許せる。でもやつは違う! 他の誰を騙せても、この城之内克也様だけは騙せねぇぞ!!

 

 アテムがいなくなった今、遊戯を守れるのは俺だけだってんで、俺は必死だった。海馬が登校してきてる日はなるたけ遊戯にまとわりついて海馬を近寄らせないようにしたし、休み時間、昼休み、放課後、海馬がつけ入る隙を与えないようにしてきたんだ……今日までは!!

 

「チックショー! 海馬が来てる日に限って呼び出しかよ!!」

 

 海馬が来る日は遊戯をぜってー1人にしないってのが、最近の俺のモットーだったってのに、たび重なる遅刻のせいで刈田のヤローに呼び出しをくらっちまった。昼休みをほとんど丸々つぶして30分。本田は俺と一緒に呼び出されてたし、杏子はダンス部の昼練に出ている筈だ。獏良はサボリ癖が出たのか今日は休み、御伽は委員会でいない。遊戯が1人になっちまう!

 

 息せききって教室に駆け戻っても遊戯はいねえ。いいや、遊戯だけじゃねえ。海馬も、いねえんだ。

 

「なんでだよ……。」

 

 胸の中の不安がじわじわ広がっていく。俺は教室を飛び出した。屋上、音楽室、校舎裏……昼休み人気が少なくなるだろうと思われる場所を虱潰しに探しても遊戯の星頭も図体だけはデカい海馬の影形も見つからない。途方にくれた俺だったが、まだ行っていない場所があることを思い出した。

 

「中庭だッ!!」

 

 中庭の噴水裏は校舎からの完全な死角になる。それに今日は今にも一雨きそうって天気だから、中庭で飯食おうっていう酔狂なやつらもいない筈だ。待ってろよ、遊戯! 今助けるからな!!

 

全速力で駆けていった中庭に、果たして遊戯と海馬はいた。2人の話をなんとか耳に入れる為に、俺は噴水の反対側にまで忍び寄る。

 

「……ホントに!? だって冬のブルーアイスホワイトパレードって1日限りの一大イベントでしょう? 普通に行ったらすごく混むって聞いたよ?」

 

「だから特別観覧席のチケットをくれてやるというのだ。お前のようなチビでは普通にチケットを取ろうとパレードは殆ど見えまい。」

 

「もう! チビはひどいよ海馬くん。でもそんなにすごいイベントなんだよ。やっぱり僕がチケット貰うの悪いよ。」

 

「構わん。俺以外でブルーアイズの美しさがわかるのはモクバと……遊戯、お前だけだ。」

 

「えへへ、そうかなぁ。でもホントにブルーアイズってキレイだよね。特にあの青い目!! 海馬くんの目みたいに深くて、澄んでて、僕吸い込まれちゃいそうなんだぜ……。あ、そうだ!! じゃあさじゃあさ、海馬くんも一緒に見ようよ、パレード!」

 

「遊戯……今、なんと……?」

 

「だからさ、一緒にパレード見ようって。あ、もしかして嫌だった? ごめん、無理言っ…」

 

「ち、違う!! 俺が、嫌な筈があ、あああるか!!」

 

「じゃあ決まりだぜ! 日が近くなったらまたメールするぜ!」

 

 その後も何か言葉を交わしながら去っていく2人の足音が完全に消えても、俺はしばらくその場を動けなかった。

 

「……海馬のヤロー、許せねえ!!」

 

 ついに尻尾を現しやがったな海馬瀬人!! 今までの態度も全て遊戯を騙し、海馬ランドという言わば自分のホームに引き込もうってえ策略だったんだ!! 今日という今日はもう俺様の堪忍袋の尾も切れたぜ。何を企んでやがるかぜってー吐かせてやる!!

 

 かくして俺は放課後の教室に1人佇むことになった。海馬は週にいっぺんしか登校しねえから、そん時には山のようなレポートと面談が課せられる。レポートの方は頭のいい社長様には簡単なものらしいが、面談の方はちっとばかし厄介だ。蝶野が顔良し頭良し金有りの海馬を気に入ってなかなか離さねえんだこれが。

 

 1人待ち続けて50分、ようやく廊下の向こうから足音が聞こえてきた。少し早足で神経質そうな足音。海馬に間違いねえ!! 待ち構える俺の前で、建て付けの悪いドアを少々乱暴に開けた人物は、俺の予想通りの人物だった。

 

「おい、海馬」

 

 不良時代に覚えた“10倍怖そうに話すスキル”を活用し、出来るだけやつに威圧感を与えるように試みる。が、結果はイマイチだったみてえだ。

 

「何の用だ凡骨風情が。邪魔だ。そこをどけ」

 

 俺の体を押しのけ自分の席へと歩いて行こうとする海馬の腕を掴む。冷酷に研ぎ澄まされた青い瞳が見下ろしてくるけど、俺は負けるわけにはいかねえんだ!!

 

「遊戯のことだよ。」

 

 遊戯の名前を出すと、海馬の体が目に見えて震えた。やつが何か隠していることを確信した俺は奴の背中にたたみかけるように続けた。

 

「てめえ今度は何企んでやがんだ! 遊戯を海馬ランドに拉致するなんてやり方が汚ねえんだよ!!」

 

「な、何のはな、」

 

「とぼけたって無駄だ! カードやらゲームやらで遊戯の気を引いて油断させようったってそうはいかねえぞ!! てめえなんか遊戯に指一本でも触れさせてやるもんかよ!」

 

「ぼんこ、」

 

「だいたいてめえみてえな前科者一体誰が信じるかってんだ。遊戯だってお情けで付き合ってやってるに決まってるぜ!」

 

「…………」

 

「てめえにはそういうダチがいねえからわかんねーかもしんねえけどよ、遊戯は俺の親友だ。俺達は目に見えねえ絆でつながってる。てめえが何企んでようと無駄なんだよ!!」

 

 ところどころで口を挟もうとする海馬を遮り一息に言いきる。言うべきことは全て言った。罵詈雑言も暴力も俺には怖くねぇんだ、さっさと本性出しやがれ!

 

 だが海馬は、俺に殴りかかることはおろか反論すらしてこない。強く掴んだ海馬の腕はふるふると震え怒りをこらえているというのに。さすがに不審に思い警戒態勢を解いた俺の耳にようやく海馬の声が飛び込んできた。

 

「……知っている」

 

「へぁ?」

 

 いきなり海馬が呟いた意味不明な言葉に、咄嗟に対応することなんてできなかった。

 

「知っていると……言って、い、いるの、だ」

 

 間抜けな音しか返せなかった俺に焦れたのか、俺の腕を振りほどきながら海馬は勢いよく俺に向き直った。

 

瞬間。時が止まった。マジで。知って、いる。その青い瞳にいっぱいに涙を湛えた海馬は少しばかりつっかえながらそう繰り返した。

 

「や、知ってる、て何を……」

 

 海馬の涙、という神のカード張りにレアなものを目の当たりにした俺は、もう完っ全に思考回路がショートしちまってそんな間抜けなことしか言えなかった。

 

「だから、俺み、たい、な……前科もの、誰もしん、信じる訳な、な、ないっ、てことも。遊戯が、おれと、おなさけで、つきあっ、てるって、こと、も。俺には、と、ともなどいない、ことも。ゆ、ぎと、おれの、間には、貴様とは、ちが、て、絆など、ない、ことも!」

 

 自分で言っていて苦しくなったのか、いっぱいに溜めていた涙をぽろぽろと零しはじめた海馬を見て俺は、あぁ手を握りしめていたのは怒りじゃなくて涙をこらえるためだったのかぁ、なんてしょーもないことを考えていた。

 

「ぼんこつ! ひ、とのは、話を聞いて、」

 

 回想が現在に追いついたことにより2度目の現実逃避を強制終了させられた俺は、改めて目の前のこいつと向かい合わざるを得なくなっちまった。

 

 俺、こうやって海馬の顔をまじまじ見んのなんて初めてかもしんね。泣いている、というイレギュラーな状況下にあっても、女どもが騒ぐこいつの美しさってやつはちっとも損なわれやしねえ。でも、涙を隠すために擦りすぎたのであろう赤く腫れちまった目元や、アル中の俺の親父とは違い本来は澄み切っている白目が充血して真っ赤になっちまってる様は痛々しかった。

 

 俺は、もしかしていやもしかしなくても海馬にひでえことを言っちまったんじゃねえか? だってそうだろ!? いつでもどこでも傲岸不遜ロードを全速前進するこいつが、よりにもよって俺の前で泣くなんて!! あれだ、竜の逆鱗……じゃなくてあれ、あー……弁慶の泣きどころ!! 俺は海馬のそこにオベリスクのゴッドハンドクラッシャーでダイレクトアタックをする位のことをしてしまったのではなかろうか?

 

 さっきまでの怒りも忘れ、だんだん俺は申し訳なさに苛まれ始めてきた。ちらりと見上げた海馬の頬は新しい涙で濡れ続け、嗚咽を堪えるために噛み締められた唇にはよく見るとうっすら血が滲んでいた。

 

「そ、その……海馬、悪かった! 俺お前にひでえこと言った!! 磯野さんとか河豚田さんとかモクバとか、お前のこと心の底から信じてる人俺いっぱい知ってるから!! それに遊戯がお前とお情けで付き合ってる訳ねえ!! 遊戯もお前のことダチだと思ってるから!! じゃなきゃ一緒にパレード見ようなんて言わないから!!」

 

 そうだ。俺が悪かった。全面的に悪かった!! だからもう泣かないでくれ!! この通りだ頼む!!

 

 だが神は無情にも俺の願いを聞き入れてはくれなかった。……それどころか俺に、新たな試練をお与えになりました。

 

「ぼんこつ……貴様、おれに、カードや、ゲームで、遊戯の気、引こうとして、汚い、と言った、な?」

 

さっきよりかはましになったとはいえ、嗚咽に邪魔されてつっかえつっかえ、やっとのことで海馬はおれに問うてきた。

 

 ここは認めるべきなのか!? それとも否定すべきなのか!? あーだのいーだのうーだのもにょもにょ言っている俺には構わず、勝手に海馬は続けた。

 

「悪い、か……?」

 

「はひ?」

 

 馬鹿な俺には海馬の言いたいことなんかちっともわかんなくて、そしたら海馬はそんな俺に苛立ったのか、どもりながらもまくし立ててきた。

 

「だ、から、悪いかと、聞いて、いるんだ!! カード、やゲームで、遊戯の気を、引くのが、き、汚いん、だろう? ……汚くて、にゃにが悪い!!」

 

「にゃにが、っておま……いえ!! 悪くありません!! ホントに、マジで!!」

 

 テンションが上がってきたのかようやく涙が止まった海馬が、泣きぬれた顔を隠そうともせずに睨み付けてきたので俺は海馬の意見に肯定せざるをえなかった。

 

「俺は、貴様らみたいに遊戯の、お友達な訳ではない。理由もなく遊戯のそばにいることなど、でき、ないではないか。少々汚い手を使ってでも遊戯のそ、そばに行こうとするのがそんなに悪いことか!?」

 

「や、でも、変に隠し立てしねえで普通に俺達がいる前で遊戯と話しゃ良かったじゃねえかよ。」

 

 こいつには俺が疑っていたような遊戯への悪意もないみてえだし、そうしてくれればこんな妙ちくりんなことに巻き込まなくて済んだんだ。ぶつぶつと不満を垂れ流しながら海馬を見上げた俺は、自分が掘った墓穴が更に深く、大きくなったことを感じた。

 

「貴様は俺に、真崎と遊戯がいるところに自分から行け、と言うのだな……?」

 

「真崎って……杏子ぅ!?」

 

 海馬の目から再び涙が零れ落ちたことに加えて、海馬の口から予想だにしていなかった人物の名が飛び出したのに驚いて俺はまたもや素っ頓狂な声をあげちまった。

 

「他に誰がいる!! なんだ、貴様は俺に真崎と遊戯が仲睦まじく微笑みを交わしている間に入っていけと? 俺に今以上に惨めになれと?」

 

「ふぇ?」

 

なんか雲行きが怪しくなってきてねえか……? なんで海馬が杏子をそんなに気にする必要が、

 

「もうたくさんだ!! 全部わかってるのに、ゆう、遊戯にとって、俺などどうでもいい、存在であることも、遊戯が、まざ、きを、好きな、ことも!! それでも、遊戯の、そばにいられれば、それだけで、それだけで、良かったのに……何故きさまはいきなり、俺の、諦めも、け、決意も!!」

 

 怒りよりも悲しみが勝ったのか、言いたいことも言いきれずにまたぼろぼろと涙を零しはじめた海馬が俺に詰め寄ってくる。それも脅威だが……それ以上に何かが引っ掛かる……

 

「俺は、まざきっ、みたいにっ、胸もないし! あんな風に、にこにこ、笑、たりなんてできない!! 背も、遊戯より、ずっと、高いし、ましてや、遊戯に、振り向い、て、もらえるよ、なかわいらしさなんて!……ちっとも……」

 

 待て待て待てーい!! かかかかかか海馬お前、そういう意味で遊戯のそばにいたいんかいっ!! なんで? なんで? だってお前、いつもアテムアテムで遊戯のことなんて見たこともなかったじゃねえか!? てかそもそも男同士じゃ……そうか今わかった!! 海馬は遊戯を殺気を込めた視線で射殺そうとしてたんじゃねえ!! アレはこいつなりのラブラブ光線だったんだ!!

 

 いよいよ完全に脳が考えることを拒否すると、逆にいつもならどうでもいいと思うような所に目が行くらしい。

 

「ま、確かにお前と遊戯じゃ30センチは身長離れてるもんな。」

 

「30センチじゃない!! さ、さんじゅう、さん!せんちも、だ!!」

 

 ……さいですか。どうやらどうでもいい所に目が行っちまうのは俺だけじゃないみてえだ。

 

 でも自分の真向かいのやつがこうまで錯乱してめちゃめちゃ泣いてるのを見ると、やっぱり根っからのお兄ちゃん気質の俺としては冷静にならざるを得ないじゃねえか。

 

 杏子が御伽と付き合っているのを俺は知ってるし、罪滅ぼしの意も込めてなんとか遊戯のそばに海馬をいさせてやりてえと考え始めていた。手近な椅子に海馬を座らせてやる……黙って海馬の手を引く俺もおとなしく俺に手を引かれる海馬もシュールだ……と、俺も適当に椅子を引っ張り出して座った。

 

「なぁ海馬。お前さ、遊戯に全部話しちまえよ。お前がこんなに遊戯のこと思ってんのに、あいつが邪険にするわけねーだろ? な?」

 

 ストレートに思いを伝える。これこそ最良かつ最速の解決方法だろ。

 

 だが俺にとってはベストなこの名案は、海馬にあっさり却下されちまった。

 

「いや、だ……。遊戯、にこんな、弱い、脆い、情けな、おれを、見られたくない……。き、嫌われるっ……!」

 

「遊戯はこんなことでお前のこと嫌いやしねえよ。あいつは懐の深いやつじゃん。わかるだろ?」

 

「だ、だが……」

 

「大体全部今更じゃんかよ。俺がこうやってお前の泣き顔ばっちり拝んじゃってる時点でさ。」

 

「それ、こそ、今更だ、これいじょ、ぼんこつに嫌わ、れ、ようと、どう思われ、ようと、痛くも痒くも、ない、わ!!」

 

 でも遊戯には……と言葉を詰まらせる海馬は、悲しみと涙を紛らすためかまた目元をごしごし擦る。真っ赤っかになっちまったそこは腫れているってのを通り越して最早擦り傷で、かわいそうで見ちゃいられねぇ。そっと海馬の手を取る。普段はカードやキーボード、果ては拳銃まで巧みに操る白魚のような手も、今は涙でベトベトだ。

 

 海馬の手を解放してやり、そっと海馬の頭を俺の方にもたれかけさせてやる。

 

「き、さま、何を……?」

 

「俺の肩貸してやっから。好きなだけ泣け。」

 

 大体お前普段全然泣けねんだろ。こんな時くらい思いっきり泣きやがれ。俺はモクバや磯野さんとは違うんだからよ。強くてかっこいい兄サマや瀬人サマでいなくていいんだぜ。

 

 ゆっくりと語りかけながら海馬の栗色の髪をさらさらと梳いてやる。ややあって海馬の嗚咽が、微かなすすり泣きにかわり、温かい涙が俺の肩を濡らす。その手が俺にすがりつくことはなかったけれど、それでも、教室には不思議な柔らかい空気が流れていた。

 

 

 

 どのくらいそうしていただろうか。扉が大きく開けられた音が、この凪いだ時間を唐突に終了させた。

 

「なっ、なっ……」

 

「ゆ、ぎ……?」

 

 あまりの驚きに物も言えない俺達の視線の先で、忘れ物でも取りに来たのだろうか、いつもよりラフな格好の遊戯が立ち尽くしていた。

 

 本日2度目。時が止まった、マジで。

 

 硬直する俺達の中で、最も先に自分の時間を取り戻したのは意外にも遊戯だった。普段はのんびりおっとり平和主義がモットーの遊戯が、物凄い速さで俺に殴りかかってくるとは……。

 

「あべしっ!!」

 

「城之内くん!! 海馬くんに……海馬くんに一体何をしたんだ!!」

 

 元不良、どころかネンショーに片足つっこんでたような俺が思わず怯んじまうような凄まじい形相で遊戯が俺の胸倉を掴んだ。そのまま力任せにガクガク揺さぶられる。

 

 何から説明したものか考えあぐね口を噤む俺を早々に見限り、遊戯は傍らに立ち尽くす海馬に視線を向けた。

 

「海馬くん!! 何があったの!! ねえ、一体何があったの!?」

 

 やっと遊戯から解放されたおれは外野から2人を見ていた。悲痛な叫びと共に33センチ下から海馬を見上げる遊戯を、だが海馬は見ちゃいなかった。

 

 赤く染まる目元を隠し、必死に遊戯から顔を逸らす海馬。そんな海馬を見て、遊戯は何か思い至る所があったみてえだ。

 

「ご、ごめんね海馬くん、城之内くん。僕なにか勘違いしてたみたい。……ごめん。邪魔して」

 

 ……待て。

 

「2人、付き合ってたんだあ!! てっきり僕……もう水くさいんだから!! ちゃんと教えてよね!!」

 

 待て。

 

「実は僕、海馬くんのこと……好きだったんだよね!! しかもちょっと脈ありかなーなんて、思っちゃってましたあ!! ば、馬鹿だよね……たはは……」

 

 待て!!

 

「ホントごめん!……もう2人の邪魔したりしないからさ……じゃあ!!」

 

「待て遊……!!」

 

 遊戯がきびすを返し帰ろうとする。今更のように俺の脳味噌が正常に働いて、遊戯を引き留めようとするが間に合いそうにもねえ。

 

 遊戯が行っちまう!!

 

 絶望に目の前が暗くなった俺だったが、予想に反して遊戯はいつまでも立ち去ろうとしねえ。

 

「海馬……くん?」

 

 海馬だ。海馬のやろー、遊戯の服の裾を掴んで離そうとしねえ。内心ほっとする俺とは裏腹に、遊戯の目には不安と期待とが見え隠れしている。

 

 確かに海馬は遊戯を引き止めはしたが、まだもう片方の手は目元を隠しているし、遊戯のほうを見ようともしねえ。普段は推定20キロのジュラルミンケースを軽々振り回すその細い腕、細い指で掴んだ遊戯と海馬の絆は今にも切れちまいそうだ。

 

 勇気を示せよ、海馬……!!

 

 祈るように俺が、遊戯が見つめる中、海馬はついにやった!! 頑なに目元を隠し続けていた手を離し、そっと遊戯の腕に添えた。

 

「海馬くん……」

 

 自分から遊戯に歩み寄っていった海馬に合わせるように遊戯もまた海馬に近づく。精一杯背伸びをして、涙が溢れ続けている海馬の目元にそっと手を寄せる。涙を拭いながら優しく微笑みかける遊戯に、海馬の何かが変わった。

 

 意地とかプライドとか、そういった海馬の心の中の鎧が剥がれ落ちていったのかもしんねえし、或いは遊戯が好きだって気持ちがどうしようもなく溢れたのかもしんねえ。

 

 すとん、と座り込み、遊戯の腰にそっと手を回すと、海馬は確かにこう言ったんだ。

 

 行くな……。

 

 その声はあまりに微かなものだったから実を言うと俺には聞こえなかった。でも、海馬の唇を見ていれば、いや、見ていなくたって海馬の心を聞いてやればわかるだろ?

 

 遊戯も同じだったみてえだ。海馬と目線が同じになるように屈みこんで、海馬の青い瞳と向き合っている。

 

「好きだ……」

 

 その言葉どちらの唇から漏れたのか俺にはわからない。でもその囁きをきっかけに2人の唇は重なり合い、お互いを求め合う。まるで初めから一つのモノとして作られたみてえに、互いだけを求め、貪り、そして一つに溶け合う。

 

 完全に沈みきる前の太陽の一瞬の輝きに照らされて、涙の残る海馬の頬も、時折海馬を見つめるために開かれる遊戯の瞳も、いや、2人そのものがまるで神に創られた彫像のように美しかった。

 

 そして俺は……完全なる部外者だった。

 

 帰りてえ。

 

 さっきの感動はどこへやら、俺は気まずさの中1人溺れていた。

 

 勝手に1人帰ればよかったんだけどよ、2人が作り出す世界があまりにも荘厳で、どうやってこの世界をキープしたまま帰ったらいいのか皆目検討もつかねえ。

 

「……遊戯」

 

「海馬くん……」

 

 一体どれくらいの時間が経ったんだろう。永遠を思わせる2人のキスも終わりを告げ、遊戯と海馬はまた最初のように互いに向き合っていた。帰るなら今しかねえ!! そっと後ろを向いて歩き出そうとしたその時、どうやら遊戯が恐ろしいことをやらかしてくれたらしい。

 

「ひゃっ!! ゆ、ゆうぎ、や、止め……」

 

俺は、迂闊にも振り返っちまった。そして見ちまった。弱弱しく身をよじる海馬を押さえて涙にぬれたその頬や目尻に舌を這わせている遊戯を。

 

「やぁ、ゆ、ぎぃ……お、前が、汚れ……」

 

「どうして? どうして僕が汚れちゃうの?」

 

「だって、きたな……んぅ!!」

 

 あ、の形で開かれた海馬の唇に遊戯が吸い付いた。あんまりな展開に海馬も俺も目を丸くするしかねえ。

 

 好きなだけ海馬の口内を蹂躙した遊戯が海馬からゆっくりと離れる。2人を繋ぐ銀糸が緩やかに切れて、その艶めかしさに俺はどきまぎして目を逸らす。同じように頬を染めて俯く海馬の目尻に遊戯は軽く音をさせてキスをした。

 

「どうして汚いなんて言うのさ。泣いてたって、怒ってたって、笑ってたって、いつだって海馬くんは綺麗だ。この髪も目も指も、どこだって海馬くんは綺麗だ。どこも汚くなんかない……」

 

 優しく囁きながら海馬の顔中にキスの雨を降らしていく遊戯を見て、俺は決意した。

 

 帰ろう、今すぐに。

 

 できる限り己の存在を無に還し、そろりそろりと教室の後ろの扉に近づく。細心の注意を払い扉を開け、僅かな隙間から廊下へと踊り出た。 

 

安堵の息を漏らしながらそっと扉を閉めようとすると、またも遊戯と海馬の声が聞こえた。

 

「ちょ、やぁ……遊戯…そんなの、良く、な……」

 

「なんでさ、海馬くん。ここ、血が滲んでるよ……? 舐めて治すのが一番じゃない。」

 

「だ、だが……」

 

「もう、海馬くんはそればっか。……ふふ、ここ海馬くんの味がするぜー。さっきはしょっぱかったけど、今度はほろ苦いんだ……」

 

俺はもう振り返らなかった。そして、光の速さで外へと飛び出していった……!!

 

ノンストップで家まで飛んで帰り、愛用の煎餅布団に飛び込んではたと思い出した。

 

今日、1月25日は俺の誕生日だ。

 

誕生日に、サレンダー不可能な戦いに巻き込まれ、挙げ句貰ったものときたら、左肩に海馬(性別:男・職業:社長・関係:天敵 ※見直しの余地あり)の涙、左頬に遊戯(性別:男・職業:デュエルキング・関係:親友 ※俺と遊戯の友情は何があっても揺らがないぜ!!……多分)のパンチ。

 

もうとっくに俺のライフは0だ。

 

 

 

 その後ふて寝していた俺のもとにやってきた真夜中の訪問者が、

 

「ごめんね城之内くん、遅くなって。これ、瀬人と2人で焼いたケーキなんだ!!」

 

「23時57分。フン、ギリギリ間に合ったようだな」などと曰って、俺を主に失意に咽び泣かせたってのはまた別の話。

 

 

 

初出:2009/01/25(mixi)