天泣

 

 アルカディアを統べる王レオンティウスは、優れた施政者である。急の国王崩御の後即位した彼は年若く、未だ在位一年にも満たない。しかしながら民の側に立った的確な施政は先王のそれをはるかに上回るものであり、早くも民草の間では国史に名を残す偉大な統治者であると囁かれている。

 

 アルカディアを統べる王レオンティウスはまた、素晴らしい武人でもある。身の丈に釣り合わぬ時分より雷槍を自身の一部とし馬を駆った彼の武勲は枚挙に暇がない。が、無論彼は王である。自ら第一線において雷槍を振るい、雷神のごとき力を見せつけるのみではない。玉座にありながらも戦場を掌握し即座に戦略を組み立てる、荒くれの兵を率いる冷静冷酷な戦術家でもあった。

 

 第一王子としてこの世に生を受けた彼の人は、生まれ落ちたその瞬間より民に愛された人物であった。彼の美しい栗色の髪は肥沃な国土を、交わる一筋の金糸は雷を制す神力を感じさせた。輝かしい未来と栄光が神託により約束され、麗しき王子の誕生は熱狂的に受け入れられた。レオンティウスもまた幼少時より民衆の期待に応え続けた。国の成り立ち以前からのこの地の歴史をそらんじたかと思えば、模擬戦で大人数の部下を的確に配置し素晴らしい采配を披露する。政の乱れと国家の瓦解について考察するその唇で美しい叙事詩を歌い、雷槍と手綱を巧みに操るその手が竪琴をかき鳴らし胸が震える旋律を紡ぎ出す。やんごとなき身分でさえなければ、と才能の全てを勉学や芸術に注げぬことを悔やんだ学者や老師たちの存在さえ、笑い話として民に広く知られていた。

 

 

 

「そんなこと、言われたかな」

 

 私はもう忘れてしまったよ、ゾスマはよく覚えているね、と年若い王は穏やかに笑った。かつては随分と大人びて見え、周囲の胸を痛ませたその微笑みは、今ようやく年相応のものとなって彼を飾っていた。

 

「そうですよ、陛下。片田舎の子らまでその話で持ちきりだったというんですから。あの頃からずっと陛下は民にとっての理想の王だったのですよ」

 

 レオンティウスよりわずかに年上と思われる、ゾスマと呼ばれた青年は我がことのように誇らしげに答えた。少し砕けた口調は彼らの長い付き合いと互いに対する絶対の信頼を表し、二人の青年の静かな昼下がりは緩やかに過ぎていった。ゾスマの言葉に頬笑みで答えたレオンティウスは、あぁ、と短く声を発しゆったりと話し始めた。

 

「けれどね、ゾスマ。昔はよく泣いては雨を降らせていたのは覚えているよ。随分と迷惑をかけたね」

 

 普段の頬笑みはようやく年相応のものであると思えるようになったというのに、この労わるような片頬の微笑にだけはいつまでもゾスマは慣れなかった。彼だけではない。レグルスも、カストルも、生母であるイサドラさえもそうであった。彼らはレオンティウスに近すぎた。誰よりも“王”という大役を演じることに長けた稀代の役者レオンティウスの、彼自身すら気づいていない悲しみの匂いを嗅ぎ取ったとき、ゾスマは遣る瀬無さにそっと嘆息する。

 

「そうでしたか。忘れてしまいましたよ。陛下こそ良く覚えていらっしゃる」

 

 軽く茶化してしまおうとしたゾスマを、しかし若き王は許さなかった。またそんな嘘をついて、と冗談交じりにゾスマを咎めたレオンティウスは手慰みにその金糸を弄んでいる。

 

雷神の系譜に連なるレオンティウスの身には、人ならざる力が備わっている。気力・体力ともに充実した今でこそその力は彼の助けとなっているが、幼い頃には彼を翻弄しときにひどく痛めつけた。体中に巡る人智を超えた力に屈し、ひと月以上床に臥したこともある。出口を求めた行き場のない力が奔流を生み、人を傷つけたこともあった。

 

 しかし、自身が兄になると知ったとき、彼の力の暴走はぴたりと止んだ。歴代の王たちを鑑みても、レオンティウスほどに幼い時分で力を制御したものはいなかった。立派な兄君におなりなさいませ、と言った家臣の言葉は彼の心の指標となり、彼はそれまで以上に勉学に励み、厳しい訓練を重ねた。神託に従い二人の幼子が闇に葬られた後も、その不断の努力に変わりはなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 初めに気がついたのはゾスマだった。それはとっぷりと日も暮れた夜のことで、訓練後の身体を少し冷やそうと、彼は気まぐれに王宮の庭を廻っていた。ふと頬に水滴を感じ空を見上げると、無限にも広がる星々を覆い隠すほどの黒雲が広がっている。見上げた顔を、髪を、肩を、すぐさま大粒の雨が濡らしていく。近頃はすぐこれだ、と先ほどまでの見事な夕焼けを思い描きながら、ゾスマは庭園の隅、忘れ去られた東屋に駆け込んだ。

 

ひとまず雨を凌げる場所にたどり着き、ため息交じりにゾスマは王宮を見上げた。空からほとばしる、とでも表現できそうな激しい雨に濡れる庭園では、庭師が精を出して世話したであろう鮮やかな花々すら色褪せて見えた。力なくうなだれたそれらの花々を眺め、彼はここふた月ばかりの異常気象について思いを巡らせた。夕方ないしは夜更けに降り注ぐ激しい雨。不思議と王宮や城下にしか被害は及んでいないようだが、郊外にまで被害が広がる前に、原因の究明に乗り出すべきやもしれない。なにしろ今は小麦の収穫期だ。ようやく十三を数えたばかりのゾスマもまた、レオンティウス同様に大人びたこどもだった。

 

 少々乱暴に訓練用の剣を円卓に投げだすと、その向こう側でひ、と引き攣れた声があがった。迂闊だった。ここにきてようやく己以外の存在を東屋に認めたゾスマは、投げ出した剣に飛びついた。

 

「どなたですか」

 

 切っ先をそちらに向け問うても声の主は答えない。神経を研ぎ澄ませると、今更のように卓の向こう側の怯えきった気配が感じとれた。必死に声を殺す相手からは、いかなる敵意も感じ取れない。ゾスマは再び剣を卓上に戻した。そっと反対側に回ろうとすると、聞き慣れた声がしかし聞き慣れない声色で響いた。

 

「いやだ、来るな!」

 

 彼が生まれたその日に腕に抱き、年下の彼の才覚を自身のことのように誇り敬意を抱き、共に勉学も武術も切磋琢磨してきた。間違えるはずなどない。けれどもそんなゾスマにでさえ、彼の悲鳴のような懇願は初めてのものであった。乾いた唇を湿らせて、どうにか声を絞り出した。

 

「殿下……そちらにいらっしゃるのは殿下、なのですね?」

 

 呟くように声に出しもう一度そちらに歩みを進める。必死さを増した哀願がゾスマの足を射抜いた。

 

「来るなと言っているんだ! おねがいだ、来ないでくれ……」

 

人々の上に立ち民を支配するものとして命令こそすれ懇願などするな。そう厳しく父王から言われていたはずのレオンティウスのそれはゾスマの不安を煽った。必死の制止を黙殺しレオンティウスの前に回り込む。

 

「でん、か……?」

 

 ゾスマの知る“殿下”は良く笑うこどもだった。たとえそれが幼さに釣り合わないものであっても、その笑顔は人々の心を惹きつけた。学び舎での真剣な表情も人々の前での大人びた頬笑みも幼いこどもにとって不自然なものであるが故に、常に名状しがたい美しさを孕んでいた。

 

 しかしながら彼の整った面立ちを今彩るのは頬笑みではなく、双眸からとめどもなく流れ落ちる澄んだ雫であった。言葉を持たぬ赤子の意思伝達の手段ではない、感情の発露としての彼の涙を初めて目の当たりにして、今度こそゾスマは言葉を失った。歯を食いしばって声を殺し泣く幼子。少年のものとすら言えない、華奢な肢体をつつむ上質な布は不自然に縒れて皺がよっている。指先が白くなるほどに握りしめているのだから無理もないだろう。このひとは、涙を流すときですらこどもではいられないのだろうか。やり切れない切なさがゾスマの胸を抉った。降りしきる雨音の中でさえ、微かな嗚咽が耳に焼きついて離れない。

 

 沈黙を破ったのはレオンティウスだった。ふと涙で頬に張り付いた髪をゆるりとかき上げ、彼は傍らに立ちつくしたゾスマを見上げた。いつの間にか雨足は弱くなっていた。

 

「こんな日は、だめなんだ」

 

 太陽が蝕まれ地上に闇が落ちた日、不穏なほどに風がごうごうと吹き荒れ、木々を震わせた日、レオンティウスは兄になった。あの日を思わせる強い風を彼は独り憎むことしかできなかった。荒れ狂う風は腕に残る赤子のぬくもりをたやすく吹き消し、彼をどうしようもなく悲しくさせたから。一度きりの抱擁を思い出すかのように細い腕が自身を掻き抱く。その仕草があまりに痛々しくとも、頬を濡らす水が絶えなくとも、すまない、と呟く彼の声は常の穏やかさを取り戻しつつあった。これまで誰がこのこどもを幼けなき者として扱ってやっていただろうか。あくまでも貴なる者として生きようとする小さな身体を、力強くゾスマは抱きしめていた。

 

「ゾスマ・・・?」

 

 レオンティウスの戸惑いの声には答えなかった。掛けるべき言葉も見つけられず、また口を開けば自身からも嗚咽が零れそうであった。ただ、母が子にするように幾度も背中を撫でてやる。ゆるゆると繰り返される優しい動きがレオンティウスの心をとかし、気づけば彼もまたゾスマに強くすがりついていた。いつからここにいたのだろう。冷たい石畳に力なく投げ出された体は、内に通う血を感じさせないほどに冷え切っていた。目の前の温もりを離すまいと必死にしがみつき、レオンティウスは初めて声をあげて泣いた。

 

 雷を伴う再びの激しい雨が大地を叩いていた。

 

 頭上で輝いていた月が地平線の彼方に姿を消す頃、細く弱く降り続いていた雨はふつりと途切れた。同時に腕の中で重みを増した彼を、ゾスマはそっと見下ろした。叶うことならば、この小さな胸の悲しみを一つでも消してやりたい。自分にはそれすらできないとしてももう、このこどもを独りで泣かせはしまい。静かに抱き上げた身体は年相応に軽く、柔らかかった。

 

 

 

 必死の説得の結果、あの日からのレオンティウスはゾスマの前で泣くようになった。ギリギリまで堪え自身を追い詰め、それでもなお身体に満ちる雷神の力を持て余しては、どうしようもない悲しみや不安や重圧に心をすり減らしては、彼はゾスマの自室に足を運んだ。冷たい風に木々が揺れた日、彼の嘆きに王宮と城下は泣きぬれた。そうしたいくつかの黄昏時や夜を超えて、一二の月が廻ったある朝、レオンティウスはゾスマに告げた。

 

 ありがとう、ゾスマ。私はもう大丈夫だから。

 

 引きとめるべきか否か。逡巡の後にゾスマはそっと彼の頭に掌を乗せた。これまでと同じように栗色の髪をくしゃりと乱してやると、いつもとは違うほんの少しばかり幼い笑顔が眩かった。

 

 

 

***

 

 

 

「あれ、本当はレグルスもカストルも母上も気づいていたんだろう?心配をかけたな」

 

 手慰みに飽きたのか金糸から手を離し、レオンティウスは労うように言った。あのとき以来ゾスマは、おそらくレグルスもカストルもイサドラも、彼の涙を見ていない。物事を真摯に受け止め、何事も生真面目に捉えすぎるレオンティウスの心情に周囲の誰もが心砕いていたが、その心配をよそに彼は変わり始めた。直向きさや努力家としての天性はそのままに、ようやく自らの意思を通そうとする頑固さや良い意味での我儘を身につけていった。ほんの少し強かになったレオンティウスの、頬笑みではない笑顔を初めて見た後、一人イサドラが涙していたのをゾスマは知っていた。

 

 多少の歪みこそあれ、幸せな時間だった。あれ以上、大人になってほしくなどなかった。

 

 今この瞬間もレオンティウスが見せる、片頬の微笑。二つの季節を経てなお鮮やかに蘇るあの悪夢をゾスマは冥府に堕ちても忘れないだろう。

 

 

 

 あの日、表向きには病による崩御とされている先王を屠ったのは腹違いの兄であり、曲りなりにも血がつながった彼を雷槍で貫いたのは他でもないレオンティウスだった。最期まで“唯一の王位継承者”である弟を憎み続け逝った兄から彼は眼を決して逸らさなかった。兄の躯に血色の外套を恭しく掛けてやると、兄上は丁重に葬って差し上げろと静かに命じて。彼はただの一度も兄を逆賊とも弑逆者とも謗ることはなかったが、王を殺した男を王墓に入れることはさすがに叶わず、王宮の隅に設けられた塚にその遺骸はひっそりと葬られた。

 

 兄が父を屠った日、兄を冥府へと送った日、王族のものにしては侘しすぎる塚に兄を葬り弔いの言葉を掛けた日、彼は常に部下を、母を労わってみせた。新たに王として即位する日も、ずっと彼はあの微笑を見せていた。雷神様がお祝いになっているんだ、と民草が慶び誇った激しい雷雨が何であったか、極僅かな人々だけしか知らない。

 

 

 

 その日の雷雨は、アルカディア全土を濡らした。

 

 

 

初出:2012/03/29(mixi)