The Gift of the Magus

 

 一年の半分を占めるミシディアの冬にも、ようよう終わりが近づいている。小さな家に身を寄せ合うようにして、母子は雪解けの音を聞いていた。

 

――名前の由来……? そう……お前もそんなことが気になる年になったの……。

 

 弱く燃える暖炉の前。繕い物を脇に置き、暖かい紅茶を差し出した息子に、母はゆっくりと話し始めた。

 

――あれはね、お前がまだ生まれたばかり、それこそ名前すらまだなかったころのことだよ……。

 

 

 

 身重の女が暮らしていた寒村はバロンの空襲を免れはしたけれど、総主教庁に行った夫からは連絡が絶えて久しかった。乳飲み子を抱えた身寄りのない女が祈りの塔を目指すことを決めたのは、ささやかな収穫祭を終えたある夕べのことだった。

 

――村のみんなは、それは母さんたちに優しかった。それでもあそこは私たち二人を養っていく程には豊かじゃあなかったし、私はどうしてもお前の父さんに会いたかった。

 

 村民の反対を押し切って、良人からの手紙を片手に。ありったけの荷を背負い、嬰児を胸に抱え女は早朝の村を発った。轍を辿り商人の引く荷台に揺られての旅は黄葉に彩られて美しかったけれど、一つ村を越え町を後にする度に、母の背は軽くなっていった。

 

 なけなしの嫁入り道具を、数少ない衣服や装身具を売っては路銀に変えていく、母子二人の旅路は平坦なものではない。

 

――不幸なことにね、その年の初雪はいつもよりずっと早かった。木が裸になるよりも先にちらついたかと思ったら、あっと言う間に降り積もってしまって。祈りの塔まではあと少しなのに、殆ど着の身着のままで途方にくれてしまったの。

 

 赤子が旅の道連れでは、深雪を掻き分けて進むわけにもいかない。どうにか見つけ出した行商人も、あまりの雪に出立を暫く延期した。

 

――この酷い吹雪が止むまで、ほんの少しでいい。その町に留まるお金が必要だったから。それで母さんは、床屋に向かうことにした。

 

 愛する人が愛してくれた、お転婆な色をした髪。腰近くまであるそれをばっさりと断ち切って売れば、幾らかは手元に入ると期待して。

 

 だからこそかけられた言葉は無情だった。

 

――今でもようく覚えてる。「そんな下品な赤毛にはびた一文出さんぞ」そう鼻先で扉を閉められたわ。

 

 生活苦から髪に鋏を入れる女が少なくなかった時代。言葉を掛ける間もなくしかめっ面の店主にすげなく追い払われた彼女は、それでも必死に縋るしかなかった。二束三文でいい、全て切り落としてしまって構わない。憐れっぽく哀願する若い女を睨め付け、醜悪な笑みを浮かべた男は夫しか知らぬ娘を夜伽に誘う。婀娜で挑発的な巻き髪を乱雑に引かれ腰を取られ、彼女は反射的に不埒者を拒絶していた。

 

 それに耐え難い屈辱を覚えたのだろう。聞くに堪えない罵声と共に振り上げられた腕に、強かに頬を打ち据えられる。子どもを抱いたまま泥まじりの雪の上に倒れこみそうになった彼女を支えたのは、一人の見知らぬ青年だった。

 

――とても、とてもきれいな人だった。すっと通った鼻梁に薄い唇に……切れ長の目は空の青がそのまま落ちてきたように澄んでいた。

 

 思わず彼に見惚れたのは彼女だけで、店主はこの簡素な旅装の優男を明らかに下に見たようだった。侮蔑に満ちた挑発に、集まりかけていた野次馬がむしろ嫌な顔をする。掛けられた言葉も好奇の視線も気にも留めず、無言のままに青年は頭部を覆う綿麻の布を取り払った。

 

 曇天の下に、ひかりの色をした金糸が零れ落ちる。今度息を飲んだのは彼女一人ではなかった。背中の中程まで伸びた絹のような髪が家々のささやさな灯りを受けてとろとろと優しい輝きを放ったところに、けれど無粋な鈍色が飛び込んでいく。

 

――あ、と思ったけれど止める間もなく、その人は見事な金髪をばっさりと裁ってしまった。そうして唖然としている店主にね……。

 

「ブロンドならば多少短くとも500は出すと言ったな」 落ち着いた低音を受け、確かにそうだと同意のさざ波が広がっていく。

 

 誰もが改めて男を見れば、素っ気ない言葉、旅慣れた姿や飾り気のない服の内にも、洗練された立ち振る舞いが見て取れた。勢いを持ち去られた店主は滑稽なほどに腰を低くして、両腕で恭しく御髪をいただく。天衣を解いたかのような滑らかな蜜色は、確かにちょっとしたものだった。程なくして戻ってきた主人から渡された代金には少しばかり色がついていたようだけれど、青年は惜しみなく全てを母に差し出した。

 

――“赤い翼の襲撃を受けた首都に行きたい。便りのなくなった夫を探したい” 母さんのなりふり構わない懇願に、あの人は何か思うところがあったのかもしれない。彼はバロンの人に見えたから。

 

 垣間見えた筋肉質な腕、長身によく合うすらりと伸びた手足。剣技に慣れているだろう骨ばった手指や鋭く光る青い目はどこか神経質そうで、奇妙な危うさと脆さを透けさせていた。

 

 震える手が紙幣を受け取ったのを確認して、彼はすぐさま踵を返す。雪の中に消えていく背中。耳の上で揺れるざんばら髪が煌めくのを見て、咄嗟に呼び止めていた。

 

――振り返らなかったわ。本当はお礼を言うつもりだったのに……その寂しげな後ろ姿を見ていたら、全然違うことが口をついて出た。

 

 その言葉を耳にして初めて、彼は真っ直ぐ女に向き直った。ほんの少し驚いた表情には存外幼さが残っていて、なんとなく、年の頃は変わらないと彼女は思った。一心に母親を見上げる嬰児に一度だけ視線を落とし、もう一回願い事を繰り返す。

 

――“どうか、お名前を。この子にあなたの御名をお授けになってほしいのです。あなたへの永い感謝のために” ……そうしたらあの人、今度こそ本当に驚いて、なんだか泣きそうな顔をしたわ。

 

 驚愕に顔を歪めた青年は動揺を隠すように俯いて、名は捨てた、そう小さく呟いた。それが辛うじて耳に入る、近いようで遠い距離。

 

 ややあって彼は一つの名を唇に乗せた。愛おしむように。どこか遠くに、寂しい想いを馳せるように。

 

――セオドール。……そう、お前の名前。

 

 神様の贈り物。娘にとってそれは我が子のことでもあり、これからの一生涯でけして交わることのない人との奇跡の逢着でもあった。与えられた名を幾度も幾度も繰り返す。

 

 青年が雑踏に消えてなおしばらく、彼女は深く頭を垂れその場を動かなかった。

 

 

 

 台所の蕎麦粥はいい塩梅だろうか。甘い匂いが漂ってくるのに子どもが気もそぞろになるのを、今ではそれなりに年をとった母親が窘めた。隣に座る我が子の身体は、少しずつ青年のそれに近づいている。古びた柱時計を見る。長身が天辺に身を起こす頃には、仕事を終えた彼の父が帰ってくるだろう。改めて繕い物に手を伸ばす母の背に、息子がそっとショールをかけた。剣を知らぬ、農作業と魔法の勉強に明け暮れる掌が気遣いと感謝を込めて肩を摩る。

 

 つまりは、とても幸せだった。

 

 そう言えば。休みなく針を動かす母親はふと思い出した。長らく政治の表舞台に立たずにいたバロン王兄の名が、確か息子と同じだという。大国の宰相となったその人も、名を捨てたかつての恩人も、誰もが幸福であればいい。

 

 まもなく、この街に春が訪れる。

 

(賢者の贈り物、あるいは長い冬の終わり)

 

 

 

初出:2013/10/16(旧サイト)