さいのかわら

 

 兆候ひとつ見せず、突然に。

 

 旅と戦いの道連れである無愛想な竜騎士が倒れたのは、エッジが湯浴みを終えて割り振られた客室に帰った直後のことだった。

 

「っおい、カイン!?」

 

 エッジの姿を認めるや否や立ち上がり退室しようとしたカインは、しかし三歩と歩かぬうちに床に倒れ伏した。夜着に着替えてしまった自分と違い、重苦しい装備に身を包んだままの男を抱き起こしてエッジは舌打ちした――酷い熱だ。厳めしい兜を払い落して触れた額が燃えるように熱い。

 

 気取られぬように隠して、今も同室の自分が寝入るまで外しているつもりだったのだろう。完全に意識が落ちたわけではない身体が、腕の中でゆるゆるともがいて拘束から逃れようとした。

 

「は、なせ……」

 

 回した腕を押しやろうとする手の熱さと弱々しさ、そして頑なさに溜め息が零れる。黙って武装を解いていくと、頑是ない子のようにカインは頭を振った。汗を吸った蜜色の髪はいつもより重く、ランプの下でくすんで見える。

 

「うるせぇ、病人がいきがってんじゃねえ……っと」

 

 柔らかいネルの肌着一枚になったカインを抱え上げて、バランスを崩し踏鞴を踏む。重かったからではない。長身や重々しい鎧、その戦いぶりからは想像もつかないほど、熱い身体には肉の重みがなかった。それなりの体重を予想して勢いをつけた分、よろめいて足元が覚束なくなる。

 

 それでもなんとか体勢を立て直して力を失くした身体をベッドに横たえると、言葉もなく睨み上げられる。熱に潤んだ瞳は焦点が定まっておらず、だからこそ必死さに苦い笑いが落ちた。

 

 氷か何か、頭を冷やすものを。踵を返した夜着の裾を傷だらけの手が引いた。人恋しくて、という訳でもなさそうだ。乾いてひび割れた唇が懸命に言葉を紡ぐ。

 

「セシ、ル……達に、は、」

 

 最後まで言いきれずに、喉がひゅうと引き攣れた。激しく咳き込むカインを起こし、背中を撫でてやりながらエッジは密かに呆れた。

 

 弱みを見せたくないのではない。ただ、心配されたり気を遣われたりしたくないのだ――自分はそれに値しないと思っている。

 

「水と氷貰ってくるだけだ。誰にも言わねぇから、手離せ」

 

 信用したのかはわからない。縋り付いたカインの腕を出来るだけ優しく引きはがし、さっさとベッドサイドを離れる。星の人々を煽り立てるように双月は煌々と輝いていて、エッジは思わずカーテンを引いていた。

 

 

***

 

 

「カインが倒れた?」

 

「ああ、熱も高ぇし起きてるのも辛そう。お前らには言うなって言ってたけどよ……今後の予定もあるし、一応な」

 

 階下の食堂では珍しくセシルが起きていて――旅人たちの話を聞いていたのだという――いつもの柔らかい笑みで話しかけてきた。聖騎士の白銀の鎧を脱いで軽装になってしまえば、彼は心優しい若者にしか見えない。親友を気遣い部屋に向かおうとするのをやんわり辞退し、氷水の用意だけ手伝ってもらう。この幼馴染に来られてしまっては、カインは無理をして平静を保とうとするだろうから。

 

「うーん……ここ二、三年はなかったと思うんだけどな」

 

 女主人に事情を話し、桶一杯の氷水とついでに夕飯のスープの残りも分けてもらう。それほど珍しいことではないが、よくよく考えれば夕食時もカインは席を外していた。

 

「あいつ、そんなによく倒れてたのか」

 

 軍事国家が誇る騎士サマなんだろと桶を小脇に軽口をたたくと、藤色の瞳が寂しげに揺れる。エッジに向き直ったセシルは、どこか遠くを見つめていた。

 

「おば様が病弱な方だったから……それが関係しているのかもしれない。僕たちがまだ小さい頃に流行病で亡くなったけれど」

 

「……ああ、そうかよ」

 

 病気だとか、高熱だとか。そんな言葉はあの皮肉屋で憎たらしいほど強い竜騎士とは結びつかなくて、知らず仏頂面になる。隣を歩くセシルは、いつもと変わらぬ口調で続けた。

 

「昔からそうなんだ。かぁっと熱が出て酷く魘されるけど、翌朝にはだいぶ良くなる。薬とかも必要ないから……カインのこと、頼むよ」

 

――僕たちじゃダメみたいだから。

 

 スープ皿と水差しが乗った盆をエッジに預け、また寂しそうに笑った。

 

 

***

 

 

 扉を乱雑に蹴り開けても“流石王子サマは行儀がいいな”と皮肉る声が今は聞けない。寝台に寝かされたカインは、もどかしげにシーツを掻き乱しながら何事か呟いている。

 

「……カイン?」

 

 盆と桶をサイドテーブルに置いて歩み寄る。熱っぽい吐息で喘ぐカインは、呼びかけに答えることもなく身悶えた。寝乱れて結紐が解けたのだろう、背中を中ほどまで覆う柔らかい髪が開けた胸元や額に張り付いていた。

 

 そっと手を伸ばして手櫛で梳いてやる。

 

「あ……と……ひと、つ、」

 

「カイン?」

 

「い、しが……」

 

 奇妙な寝言。発熱の苦しさからかそれとも恐ろしい悪夢からか、柳眉はきつく顰められ、眦から一筋涙が零れた。

 

 無意識に指先で雫を掬い取って。らしくもない行動に恥ずかしさが込み上げてこちらまで顔が熱くなる。つい施錠された扉を振り返り誰もいないことを確認して、エッジはわざとらしく空咳をした。

 

「しっかし、すげぇ汗だな……」

 

 濡らした手拭いを固く絞り静かに額に乗せる。二枚目を用意して首筋の汗を拭ってやると、熱に浮かされた身体が僅かに身動ぎした。瞼に影を落とした睫毛が音もなく震えやがて持ち上げられていく。

 

「エ……ッジ……?」

 

 はたはた瞬きが繰り返されると、赤らんだ頬を再びの涙が濡らす。エッジを見据える無防備な瞳――何を隠すでもない底なしの蒼穹に、何故だか背中がぞくりと震えた。けれどそれは一瞬の出来事で、すぐさま瞳には理性の鍵がかけられてしまう。身を起こすカインをエッジは止めなかった。

 

「だいぶ魘されてたぞ、ほら」

 

 厚ぼったい硝子のコップに水を注いで手渡せば、小さな謝罪の言葉と共に受け取られる。この竜騎士があまり礼を言わないことに、今更エッジは気が付いた。その代わりにこうして謝ってばかりだ。言葉を尽くせないと知ったときには、一人距離を置いて立ち尽くす。

 

――お前、馬鹿じゃねぇの。

 

 そう言おうと思った唇が、勝手に違うことを尋ねていた。

 

「なんの夢、見てたんだ?」

 

 問いかけた声が思っていた以上に気遣わしげで、続く声が上擦る。

 

「ほ、ほら、なんか言ってただろ、いしが……ひとつとか、なんとか。覚えてるか?」

 

 小首を傾げたカインが、思案顔で夢を辿る。返ってきたたどたどしい言葉は、彼よりもむしろエッジに取って馴染みのあるものだった。

 

「さいの、かわら……」

 

「賽の河原? お前がなんでそんなん知ってんだ?」

 

 親よりも早く世を去った子らの償いの場所。それは、彼岸と此岸の狭間の川縁にあると言われていた。エブラ―ナの伝承を、カインは物知りの乳母に聞かされたという。

 

「幼い頃は、身体があまり丈夫ではなかった。ことあるごとに立派に家督を継げ、生きて両親を看取れと口を酸っぱくして言われた」

 

「それで賽の河原か。そう言えば俺も爺によく言われたよ」

 

 寝物語のそれが恐ろしくて、べそをかいて両親の寝所に潜り込んだ過去。情けないと呆れる父と、彼を取りなして布団に招き入れてくれた母。魔に堕とされてなお、人間の高潔さと矜持を失わなかったふたり。

 

 思い出すのは優しい思い出ばかりではないけれど、それがエッジの生きてきた路だ。

 

「なあ、竜騎士ってのは、忍者と同じで世襲制なんだろ。お前の父さんは、いま……」

 

 手近な椅子を引き寄せて腰掛けながら、そう聞き掛けて後悔した。目の前の青年は竜騎士団長なのだ、その父が未だ一線を退く齢でもなかろうに。

 

「十五年ほど前に死に別れた」

 

「そう、か」

 

 なんて残酷なのだろう! エッジは深く息を吐き出した。病弱だった息子はひとり両親を見送って今では素晴らしい竜騎士になって――けれども、今もやはりひとりでいる。

 

 空になったコップをカインの手が卓上に戻した。粗雑な作りの歪な硝子に、ちろちろと燃えるランプの火が反射して煌めいて、その横顔を寂しく照らす。壁に落ちた影だけが不安げに揺れていた。

 

――あの頃に死んでいればよかった。

 

 だから、そう呟いた声にも悲壮感などこれっぽっちもなかった。

 

「そうすれば、生き恥を晒して家名を傷つけることもなかったろうに」

 

「本気で……言ってんのか」

 

 むしろ震えたのはエッジの声で、カインはただ淡々と続けた。

 

「償いきれないほどに罪を犯した。父と母の名に、竜騎士の誇りに、雪ぐことのできない汚名を着せた。早くに死んでいれば、傷つけるのは両親だけで済んだのにな」

 

 軽蔑の混じった笑い声に本気で頭に血が昇って。一発殴ってやろうと拳を振り上げて、エッジは声を失くした。

 

――涙が。双眸から零れてはカインの両頬を濡らして、上掛けに落ち染みていく。本人にすら気付かせないほど、ひっそりと。

 

「カイン」

 

 振りかざした拳を解いて、乱れ髪を直してやる。殴り付ける代わりに、薄い肩を思い切り抱き寄せる。椅子を蹴り倒して寝台に乗り上げると、優しさを知らない身体がびくりと強張った。

 

 肩に回した手を持ち上げて泣き濡れる瞳を覆い隠しながら、カインの隣に並ぶように腰掛けてその痩身を自身に凭れかけさせた。すべらかな頬がエッジの肩に押し当てられる。軽く羽織っていた薄手の夜着に、熱い涙が浸み込んでは冷えていく。

 

「少し眠れ、な」

 

 そばにいるからよ。熱を孕んだ肢体から力が抜けていくまでずっと、エッジはカインを強く抱いていた。

 

 

***

 

 

 硝子コップとすっかり冷めてしまったスープを押しやり、水差しから直接水を呷る。汗をかいた容器には一欠けの氷も残ってはいなかったけれど、中の水はまだほんのりと冷えていた。それをすっかり飲み干すと、エッジの唇からは堪えていた嘆息が零れ落ちた。

 

「なんでお前、そんなに寂しいんだよ」

 

 椅子を起こして枕元に腰掛ける。苦しげな寝息は変わらないが、発熱の峠は越えたように思えた。手桶の水で手拭いを冷やし直して額に当てる。んん、と小さく呻いたカインは、けれども目を覚まさなかった。一瞬だけ顰められた眉がおずおずと解けていくのを見守って、毛布の上に投げ出された左腕に手を伸ばした。

 

 ぼろぼろの、彼の利き手――薬指の爪は剥がれ、癒しの光を翳された後も桜色の肉が生々しい。節くれだった男の手の甲には、大きく抉れた爪跡が残り、皮膚を捩れさせていた。まじまじと眺めて薄く笑う。

 

「ひでぇ傷跡……女子供が怯えるぞ」

 

 自分やセシルの手だって大して変わらない――そもそも女性陣、弓引くローザや鞭を振るうリディアだって掌は小さな傷と肉刺だらけなのだ――けれど。

 

 掌を両手で包み込んで、祈るように額に寄せる。今だけは、心身共に辛い戦いに身をおいたこの青年が、武器ではなく安寧を手にできるように。

 

 

 

初出:2013/03/27(旧サイト)