「私から離れるな」
男のその言葉は、直ぐに少年の頭から抜け落ちた。地図にも載らない寂れ果てた村。そこは“社会”不適合者の吐き捨て場だった。少年の身なり――多少血や泥で汚れ痛んでいるが、一目で上等なものとわかる――を見て村人がにじり寄ってくる。性別すら一見しただけではわからない彼らの中には、身体の一部が欠損している者も少なくなかった。年寄りが多いがそれだけではない。まだ若い者の中には、知能に何らかの障害を抱えた者もいるようだった。
「ひっ!」
朽ちた枝のような腕を反射的にセオドアは振り払った。初めて人間に抱いた生理的嫌悪感に戸惑う間もなく、次から次へと腕は群がってくる。その内の一本が銅貨を入れた皮袋を抜き取った気がして、焦りと恐怖が彼を追い立てる。左手に母のくれたロザリオを固く握り、がむしゃらに右腕を振り回した。
「はっ、離れてくださ……!」
「そいつから離れろ」
地を這う低音は怒気を孕んだものではなかったけれど、淡々と言い放たれたが故の奇妙な凄味に腕が怯む。生気をなくした人々の向こうに一瞬蒼穹が煌めいたかと思うと、力強くそちらに引き寄せられる。呆れに眉根を寄せた瞳がセオドアを見下ろしていた。
「目を離すと直ぐこれか」
誰に似たのかという呟きは胸にしまって、男はセオドアの手を握る。
「行くぞ」
そのまま歩き出せば、慌てた声が下から聞こえた。
「あ、あの、財布を、」
「あきらめろ、どうにもならん」
言われて振り返れば、皮袋の中身を無我夢中で奪い合う群衆がいる。とてもあの中から数十枚の銅貨を取り返すことはできないだろう。男の助言に従い、銀貨を入れた袋を服の下に巻き付けておいたのが不幸中の幸いだった。それにロザリオを取られなくてよかった、と潔く諦めて前を向いたセオドアの目を、男の左手がそっと覆った。
「お前は見ない方がいい」
最後に視界に捉えていたのは、痩せぎすの野良犬の尾。耳に聞こえてくるのは、液体が滴る音と、何かを食い散らかす音。
「ま……さか……死体、食べ」
「……私の見立てでは、“まだ”死体ではないな」
その言葉に、セオドアは男の手を振りほどいていた。駆けながら剣に手をかけ、倒れ付した人に顔を埋めた犬を一刀のもとに切り捨てる。断末魔の悲鳴すら許されずにどう、と倒れた死骸には目もくれず、セオドアは血塗れの身体を抱き起こした。襤褸切れを纏った木乃伊のようなその人は、祖母よりも年老いた女性のようだった。
真新しい血の臭いの奥に、死にゆく肉体の饐えた臭いが潜んでいる。腕に這い上ってくる蛆を振り落とし、血が服に染みていくのにも厭わずにセオドアは唇で呪いを紡ぐ。治癒の光が老婆の身体に注がれて――だが、それだけだった。
「どうしてっ……!」
戦慄く唇でもう一度。溢れる血は止まらない。
「無駄なことは止せ」
いつの間にか後ろに立っていた男の言葉に、セオドアは食ってかかった。
「無駄……って! この人はまだ生きてるんだ!!」
「ああ。だが死ぬ。いずれ私がお前や死ぬのと同じように。彼女の“その時”が今であるだけだ」
見開かれた幼い瞳、その高さに目線を合わせ、男は老婆に向き直った。干からびて強張った手を取り、胸の前で組んでやる。
「命を救うことは出来ない。だが、安らかな眠りを祈ることはできる」
そう言って跪き頭を垂れる隣の男を、ただセオドアは見つめていた。ターバンから零れた金糸が薄曇りの下微かに輝き、セオドアの胸を照らす。
「祈ることは、できる……」
口内で呟き、男に倣い瞳を閉じる。どうかこの人に、天上での永久の安寧を。それを祈るしかできないことが悔しいけれど、どうか、どうか。彼女の死に顔は安らかで、セオドアにはそれだけが救いだった。
事切れた彼女を、男はそっと――食い千切られた膓が飛び出さないように――抱き上げた。踵を返す大きな背中をセオドアは慌てて追いかける。何故か慣れた様子で歩を進める男は、疑問の目に答えるように呟いた。
「……行けばわかるさ」
向かう先では、烏や禿鷹がけたたましく喚いていた。
「う……」
今度こそ吐くかと思っていた一国の王子は、青ざめた顔でそれでも辛うじて立っていた。それを男は意外に思い、けれど声をかけることはしない。墓地と呼ぶことも烏滸がましい塵捨て場の端に老婆を横たえ、打ち捨てられていた円匙を拾う。男が錆びたそれでひび割れた大地を削り初めても、セオドアはまだ彼に目を向けようとはしなかった。眼窩から目を溢した子供に、顔中を嘴で啄まれた娘――顕になっている蛆だらけの乳房でわかった――に、頭髪と僅かな肉塊だけが残る曝れ頭に、射ぬかれてただ立ち尽くしている。 十分に深く穴が掘られたところで、男はセオドアを振り返った。目を見張って唇を噛み締めていた少年が、視線に気づいて男に駆け寄る。老婆を埋葬する間も、二人に言葉はなかった。無言のまま柔らかい盛り土の上に小さな十字架を立て、セオドアはそこにロザリオを掛ける。
「誰かが奪っていくだけだぞ」
「……それが、その人の糧となるのなら」
最後に深く祈りを捧げ、セオドアは立ち上がった。男よりも先に墓地を離れ、毅然と前を向いて歩いていく。
「先程の場所まで戻れ、それから真っ直ぐ進めば森に出る」
男ももう、手を引くことも先導することもしなかった。
廃村を抜け、鬱蒼とした森をひたすらに歩く。蔦を複雑に絡み付けた木の根に足を取られるまで、セオドアは声ひとつ上げなかった。ぬかるんだ地面に倒れ伏した少年の傍らに屈みこみ、存外優しい声で男は言った。
「もう、いい」
見上げた泥まみれの顔を布切れで拭い、くすんだ銀髪に指を絡める。少年が彼にすがり付いて号泣するまで、そう時間はかからなかった。
「なっ、で……あん、なっ……」
「バロンは“平等”な国だからな。年寄り、心身に障害を持った者、乳呑み子を抱え伴侶を亡くした女……働く能力のない者の一部は、糧を得る術を失いあのような地に流されていった」
「って……と、さん……!」
泣きじゃくる少年の意味を成さない言葉を、男は注意深く拾い上げる。
「この国はあまりに広い。全能の神でもなければ、万民を救うことなど出来はしない」
胸を濡らす少年の頭を繰り返し撫でて、男は寂しく笑った。
それにな、セオドア。
「光のなかにいると、色濃い闇の奥は見えなくなってしまうんだ……ちょうど、闇に生きる者が目映い光に目を眩ませてしまうように」「……っく、うぇっ、う」
幾度も頭を振るセオドアを、男は強く抱き締める。
――ここは地獄でも悪夢の中でもない、現実なんだ。
――セオドア、忘れるな。お前が見たものを何もかも脳裏に刻み込め。
――そして善き王になるんだ。父を越える、善き王に。
腕の中で震える少年が確かに深く頷いたのを見て、男は穏やかに笑った。それでいい、セオドア。この涙すら、お前を鍛え強くする。
やがて意識を飛ばした少年を抱き抱え、男は森の奥を目指し始めた。
***
「カインさん、僕は善き王になれたでしょうか」
四十も半ばを過ぎてなお、男の肌はどこかまろみがあって美しかった。あれから随分と時が流れたけれど、セオドアは今でも男の名を口にするとき胸を密かに高ぶらせる――名前を知りもしなかったころと、“隊長”としか呼ばせてもらえなかった時期が未だ尾を引いているのかもしれない。 セオドアに背を向けた男はそっけなく答える。言うことは辛辣なのに、擦れた声がどうにも艶かしい。
「父親より年嵩の男と褥を共にする暇があったら、とっとと伴侶を見つけたらどうだ」
「あ、酷い」
男の横に寝そべり、彼をこちらに向かせて口付ける。戸惑いに揺れる瞳を隠すかのように、男は固く目を閉じた。
軽く歯列をなぞって、舌を丁寧に吸い上げる。ん、と鼻に抜ける声が愛おしくて、セオドアは幸福に蕩けそうになる。キスだけでも遠慮がちに震える肌を宥めるように撫で、ゆっくりと唇を離した。長く繊細な金糸に縁取られた瞼が持ち上げられて、蒼穹が再びセオドアを映す。
蜜色の髪を一房持ち上げ、そこにも恭しくキスを落とした。
「あの日以来、僕はこの髪の向こうに闇色の死の世界を見るんです」
「酷い言われようだ」
ようやく男が笑顔を見せた。いつものことだが彼は信じられないほど捻くれていて、やはりいつものことだがそれがセオドアには愛らしく思えて仕方がない。
耳の後ろに手を回す。柔らかい髪を掻きあげて、今度は瞼にキスをする。
「そしてこの瞳の奥に、光溢れる生の世界を垣間見る」
「……言葉に窮するほどの痴れ者だな、お前は」
己を突き放して顔を背けた男の表情に、セオドアはひっそりと笑った。耳元にもう一度、先ほどの質問を吹き込む。
「ねぇカインさん、僕は善き王になれるでしょうか」
「さっさと健康で気立ての良い娘でも娶れ」
可愛くない、だのにそこが可愛い。いよいよ声を上げて笑いながらセオドアは、シーツと共に男を抱き込んだ。すっぽりと、とは言わないけれどその長身を腕の中に収め、温もりを共有する。
やがて寝息を立て始めた男を一度真剣な眼差しで見つめ、セオドアも静かに瞼を閉じた。
初出:2013/02/21(pixiv)