やさしいキスをして

 

 竜を模した兜は、何を護っていたのだろうか。結界の内側に足を踏み入れた途端身体をふらつかせたカインを咄嗟に抱き留めて、セシルは思わず眉を顰めた。厳めしいそれを取り払えば、うっすらと汗ばんだ額。いつもはすっきりと涼やかな目尻は腫れぼったく赤らんでいるのに、その細面全体を見ればぞっとするほどに青ざめているのだった。色濃い隈が痛々しい。

 

 疲れが出たんだ、とさりげなく腕から抜け出そうとするカインの手首を、セシルは強く掴んでいた。それほどに力がこもっていたのか、柳眉を寄せたカインが身動ぎするのを、ますます強く抑え込んでしまう。見かねて助け舟を出したのはエッジだ。

 

「……ったく、病人痛がらせちまってどうすんだよ」

 

 軽い口調でこの年嵩の王子様に無造作に右手を叩かれて、ようやくセシルの腕から力が抜けた。拘束から逃れたカインが何事か反論しようとするのも、エッジが軽く小突いて黙らせる。

 

「そんでもっておめーは病人だ、カイン。今日は大人しく寝てろ」

 

「そうよ、カイン」「あんまり無理しないで、お願い」

 

 もう一度口を開きかけたカインも、女性陣の押しには流石に――嫌々ながら――頷いた。

 

 

 

 その、晩のことだった。早々に休んだカインに続き、夕食を済ませたローザとリディアも床についた。一足先に休むことになっていたはずのエッジは、しかし不寝番を務めるセシルの横に腰かけた。

 

「行けよ」

 

 びくりと聖騎士の肩が揺れた。星の見えない地で、唯一の光源に照らされた横顔が寂しい。セシルは向き直らなかった。

 

「僕が行っても、ますます自分を追い詰めるだけだ」

 

 そう言って新しい薪を燃え盛る火に放り込む。疲れと諦めと、それから後悔の滲む声。

 

 訳もなく火刑に処された枯枝が爆ぜるまで、一応エッジは待った。

 

「あー! 辛気くせぇめんどくせぇ、そんでもってついでにうざってぇ!!」「うわっ!?」

 

 なんだってこの年下の馬鹿二人はこんなにも生きるのが下手なんだろう! やり場のない苛立ちと怒りについエッジの手が伸びて、俯いた頭を思い切り叩いていた。白銀の髪が困惑に揺れているのには目もくれず、そのまま毛布を剥ぎ取る。

 

「いいから行け。てめーの親友死なせたいのか」

 

――逃げんなよ、セシル。

 

 背中を押す手は優しく、それでいて決然としていた。

 

 

 

「……カイン?」

 

 親友に宛がわれたコテージの一室は、ひたすらに暗かった。とはいえ返事もないのに明かりを点けるのは憚られて、戸口でセシルは目を凝らした。手にしたランプの灯では、部屋の奥までは覗けない。

 

「カイン……!?」

 

 口を固く閉ざしてなお、喉から漏れる苦悶の声。闇の向こう側からは、微かに鉄錆の臭いがした。「何をやっているんだ!?」慌てて駆け寄って抱き寄せて。責めるような声にかセシルの存在そのものにか、酷く驚いた様子のカインの左手から銀の懐剣が零れ落ちる。屈強な騎士の掌中などではなく、良家の子女の袂かさもなければ文机の上かどこかが相応しいような細身の刀身は、物騒にもべっとりと血に濡れていた。

 

 なんだよ、これ。愕然と零れ落ちた言葉から思い切り顔を背けて、カインは固く目を閉じた。おまえにはかんけいない。震えた唇が確かにそう告げたのがはっきりと見て取れて、激情にセシルはくらくらした。視界が赤く染まる。手酷く殴りつけてやりたい。そんな暴力的な衝動を辛うじて御す。とにかく今は、手当てが先だ。

 

 身体をもがかせて右腕を庇うカインを無理に抑え込む。手首を掴み血塗れの腕を高く上げると、深い諦念に全身の力ががくりと抜けた。傍らのランプの薄明かりが二の腕の無数の傷を照らす。そこだけ無残にも切り裂かれた内着は、体液を吸って重く色を変えていた。

 

「……カイ、ン、」武具を取り払った痩身は熱に少し汗ばみ、腕の中で頼りなく震える。それなのに頭を振って手当てを拒否する頑なな様にセシルの胸が痛んだ。「どうして……!?」

 

 色を失くした唇が血の紅に彩られている。あえかな答えを、初めセシルは聞き取ることができなかった。疲労と苦痛に喘ぐ口元に耳を寄せ、掠れた呟きを何とか拾い上げる。

 

――来るんだ。

 

「え……?」

 

 瞬いたセシルが重ねて尋ねようとしたところで、“それ”は唐突にカインを襲った。

 

 ひ、と喉が引き攣れた音が聞こえたかもしれない。セシルには何も見えないし聞こえない。けれどカインだけが得体の知れない侵略者を拒むように腕を振り回し、やたらと声を張り上げた。「やめろ……! 来るな、俺を見るなっ!!」 懸命に呼びかける親友の声も今は遠い。存外強く胸を押されたセシルは思わず腕の拘束を緩め、カインは床に倒れ伏した。

 

「うるさい、ちがうっ……だまれ、」「カイン、どうしたんだ!? カイン!!」「やめろぉ……やめてくれっ……!!」

 

 血の滲む爪が徒に床を掻いて、とうとうカインは頭を抱え懇願し始めた。がちがちと歯が鳴る。首筋や額にくすんだ金糸が纏わりついて、哀願と拒絶を垂れ流す顔が見えない。「カイン!」蹲るカインを強引に木床から引き剥がし、セシルは力の限りその頬を張った。「カイン、しっかりしろ!!」冷たい汗に濡れた面が、見る間に赤く腫れ上がって痛々しい。そのまま力の限りに揺さぶると、ようやく青玉がセシルを映した。

 

「セシ、ル……?」何故ここにと訝しんだのは一瞬。己の醜態に顔を歪めたカインの声が悔恨に震える。鉄錆の臭気。脂汗と血にぬるつく手、痩せた身体。ふらふら視線を彷徨わせる瞳の下、青黒い隈が酷く目立つ。「すまん、セシル……! 俺、は、」

 

 何も言わないでくれ、と。それすら口にすることができず、カインを強く抱きすくめていた。名前を呼ぶ声が哀しくて、セシルは慣れ始めた闇に眼を凝らす。無理やりにでも、眦を裂かんばかりに見開いていなければ、涙が零れ落ちそうだった。

 

 視界の先に、鈍色の刃がうち捨てられていた。夜毎カインはこのちっぽけな凶器だけに縋っていたのだろうか。闇への誘いを断ち切るために、休息も身体も捧げて。痛みだけが自身のよすがと救いを求めて。

 

「なんで……」無力感に強かに打ちのめされて、セシルは低く呻いた。「お前はいつだってそうだ……なんで僕に言わなかった、どうして誰のことも頼ってくれないんだよ……!」

 

 一息に言い切ってしまうと、堪えていた涙が一気に溢れて、精悍な白磁の頬を濡らした。こんなにもセシルが胸を痛めているのに、その腕に抱かれたカインは小さく笑い声すら立てるのだった。「どうしても、言えなかった。殊お前にだけは」武具を外しているセシルの肩、厚い夜着に言葉が吸われていく。だらりと投げ出されたカインの腕には、セシルの抱擁に応える気配もない。

 

「お前にはやるべきことがあるだろう。お前に命を託し、この戦いに飛び込んできた彼女を……ローザをちゃんと守ってやれ」――ローザ。幸福の姿をした少女。二人にとって光りある未来の象徴をしていた娘。

 

「そして、ローザとリディアと王子様と、生きて五体満足で青き星に帰れ。バロンの王になるんだ……英雄王として民を導くのがお前の使命だ」――バロン。寄る辺のない子らを受け入れてくれた陛下、懐深い祖国。生涯をその繁栄と安寧に捧げると誓った。

 

「ローザ、バロン。月の民の血、ゼムス。……ゴルベーザ。お前はもう、十分すぎるほどに背負いこんで、悩んで……馬鹿だな。この期に及んで一度ならずお前を傷つけた、こんな裏切り者のことま、でっ……!」

 

 限界だった。それ以上何も聞きたくなくて、噛みつくように唇を奪う。カイン自身を傷つけてばかりのそこはやはり荒れてかさついて、仄かな血の味がセシルの舌にこびりついた。頬を打ったときにどこか切れたのかもしれない、口内を蹂躙する度鼻腔に上る血臭が強くなって、セシルは知らず目を眇めた。

 

「っふ、う……ん、」

 

 鼻にかかった呻き声がもの悲しく媚を売る。一度は抗うつもりで持ち上げられた腕が、当て所もなく揺れて再び床に落ちた。その贖罪じみた気後れがどうにもセシルは腹立たしくて、角度を変えてますます深く口づける。押さえつけられた頭が拒絶と息苦しさに振られそうになっては辛うじて思い直されるのを、掌が感じ取る。吸い上げた舌を柔く噛んでも大した反応が返らなくなるのに、そう時間はかからなかった。

 

「ふあ、あ……はぁっ……!」だらしなく開いたままの唇を漸く解放されて、カインは困惑に瞬いた。ひたすらに酸素を貪りたいのに、力の抜けた身体ではそれすらままならない。ここがどこで、今何をしていて、どうしてこんなに苦しいのか――何もかもが曖昧になっていく。

 

「夢だよ」

「ゆ、め……?」

 

 微かに苦渋の滲む、けれど穏やかで心地の良い声に、今さらのようにカインは目の前の人物に気が付いた。無二の親友が、いつものように困った笑顔で笑うのだから、そうなのかもしれない。

 

 きっと自分は、夢を見ているのだ。

 

 そう思い込んだら、身体が勝手に動いていた。

 

「カインっ!?」

 

 驚きに上擦った声。夢の中でも変わらないそれが嬉しくて思わず笑った。セシルに思い切り齧り付いて、呆けた唇にキスを捧げる。綺麗に並んだ歯列を舐め上げては固まった舌に絡み付いて甘える。反応がないのが詰まらなくて、不服気にカインは鼻を鳴らした。柔らかい癖っ毛を思い切り引いてやろうとして――そこでぐるりと世界が回った。

 

「っあ、」一度は離れた唇がすぐさま再び押し塞がれる。背中を庇うセシルの右手が優しくて、カインは幸せに蕩けそうになった。じゃれつくように鼻先を摺り寄せあって、溢れそうになる唾液を飲み下そうと奮闘する。銀糸が首筋を擽るのすらどうしようもなく気持ちが良くて、このまま夢が覚めなければとカインは願った。「ん、むぅ……」

 

 頭がぼうっとする。必死でセシルと繋がる口唇だけが別の生き物のように快楽を享受して、それ以外の場所はゆっくりと死んでいくようだった。夢の中で眠りに落ちれば、その先には現実が待っているのだろうか。嫌だ、もう少しだけ。セシルの背に回した手がか弱くそこに爪を立てるのだけれど。意識を浚う倦怠感には抗えず、そうしておもむろにカインの力は抜けていった。

 

 

 

 ゆるゆると手足の力が萎えていったのだろう、カインの両手がだらりと床に落ちて、漸くセシルは唇を離した。見下ろした親友の顔は相変わらず疲れ切っていて、それでも幾らか穏やかなものになっていた。久方ぶりの眠りを決して妨げぬように、細心の注意を払ってカインを抱き上げる。使用感のない寝台に横たえれば、安心したように息を吐いた。右腕を取って治癒の祈りを捧げる。

 

「カイン……」

 

 腫れ上がった左頬にも手を当てて、小さく祈りの詞を囁いてやる。愛おしげに掌に頬を寄せるカインを見つめる視界がぼやけて、セシルは慌てて歯を食い縛った。腫れの引いた頬を一度だけ撫でて、右手をぎこちなく引き剥がす。

 

 眠れぬ夜の果てに待ち受けていたのはこんなにも罪深い闇だった。

 

――せめて、お前だけは夢だと信じていてくれればいい。

 

 この現実を抱く痛みまでも、カインに負わせたくはなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 睡蓮に似せた香が、部屋中に焚き染められていた。何が何だかわからない壁画風のタペストリーに竹で編んだ脇息。国父の私室の一つに足を踏み入れて、カインは鼻で笑った。セシルの妙な趣味は今に始まったわけじゃない。むくれたセシルに軽く肩を殴られてまた笑う。

 

 茣蓙の上にそのまま腰をおろして、「お帰り、カイン」微笑んだセシルに差し出された杯を乾かすことでカインも答える。

 

 独り山に籠っていた十数年を、この数か月はあっという間に飛び越していった。命懸けの戦いは遠ざかり、大戦の処理に東奔西走する日々が続いていた。もう一人の自分に、操られたセシルに、落ちゆく月に、そして救いを待つ人々に、追い立てられるばかりで実は親友同士ゆっくりと差向うのも本当に久しぶりのこと。同じことを考えていたのか、視線がかち合ったセシルが喜色の笑みを浮かべる。

 

「お前はちっとも変わらないな」そう言ってこちらも杯を干す。手酌でワインを空ける仕草など、残念なほどに手馴れていた。

 

「お前は、老けたな」だらしなくニヤつくセシルに辛辣な一言投げて、自前のスキットルから酒を呷る。「寝こけてる間にまじまじと拝ませてもらったが……」

 

 絶妙のタイミングで、憐れみの眼差し。ムキになったセシルが、掲げたグラスを一息に乾かした。得意げに笑う顔は変わっていない。

 

 

 

 そこからだらだらと、飲んで、話して。気づけばとうに東の空も白み始めていた。もう半刻もすれば厨房の石窯にも薪が景気よく放られるころだろう。

 

「あー……」行儀もなにもあったもんじゃない、大の字に寝転んでイ草の匂いを楽しんでいるセシルに流石にカインも呆れて、けれど逡巡の後に隣にごろりと転がった。放置されていたピローに目を付けて頭の下に落ち着かせると、茶の香がふわりと舞った。俯せたセシルは子供のように駄々を捏ねている。「眠い、このまま寝たい」

 

「馬鹿言え、午後から視察だろう。ベッドでしっかり休養しろ」「そう言うカインだって、隊舎に戻る気もない癖に」「今日は休みだ」「ずるい!」「赤い翼はお前の勅命に従って動いているんだが、我らが国王陛下?」「でもずるいじゃないか!」「……お前はガキか」「僕だって今日はゆっくりしたいんだよ!」「うるさい……」

 

 ひょっとしたらあの頃だってもうしなかった、くだらない応酬。カインの応えがゆるゆると間延びしていくのに、セシルははっと身を起こした。「カイン?」

 

 こちら側に顔を傾げて、すっかり寝入りかけていた親友は、その呼びかけで辛うじてセシルを見返した。微睡を邪魔された瞳はどことなく不満げだ。

 

「ああ、ごめん」笑って謝って、適当にお開きにしてしまうつもりだった。それなのにカインからどうしても目が離せなくて、セシルはきまり悪く口を噤んだ。軽く上体を起こしたカインが、菫色の瞳を覗き込む。

 

 言葉もなく近づいて。鼻先が触れ合う直前、ふっと僅かに空気が変わった。

 

「……カイン?」

 

「夢の続きを、見られるような齢でもないだろう?」

 

「……相変わらず気障だな」

 

 答えるようにセシルの額を小突いて、そのままカインは立ち上がる。「変わらんさ、それほど簡単に。……何なら窓から帰ってやろうか」

 

 混ぜっ返して有耶無耶にして、その癖「おやすみ」の一言は忘れずに帰っていく。小憎たらしいスマートさに、思わず口元が緩んでいた。

 

 あの現実は、確かに過去になったのだ。

 

 最初で最後の口づけを、セシルがわずかに惜しむくらいに。

 

 

 

初出:2013/09/17(旧サイト)