カイン・ハイウインド嬢の憂鬱

 

 静かに閉じられた扉を目で追って、ずっとこの日を待っていたのだ、と内心で快哉を叫ぶ。むしろ遅すぎるくらいだが、それでも永遠に来ないよりも遥かにましだ。すぐさま施錠を済ませ、同居人の消えた部屋の真ん中に仁王立ちになってカインは宣言した。

 

「これで俺は……自由だ……!」

 

 思いの外大きくなったその声も、厚い壁越しでは元ルームメイト――幼馴染のセシルだ――には聞こえないだろう。

 

 

 

 ついてないなんてツイてない、と亡き父が言ったのかは分からない。とにかく、十六年前産まれたハイウインドの嫡子には、男児たるもの裸一貫でも備えているべき槍がなかった。待ち望んだ我が子、玉のような赤子、愛しい妻との愛の結晶。リチャードはカインを盲目的に愛していたが、それでもたった一つ、譲らないことがあった。

 

――カイン。大きくなったら何になりたい?

 

――父さまみたいな“りゅうきし”になりたい!!

 

――そうか……でもなカイン、女の子は竜騎士になれないんだ。

 

 可哀そうなほどにしょげた三歳の娘をあの日、リチャードは口八丁で言いくるめた。

 

――だけど、男の子の振りをすれば大丈夫だ。誰にもバレなければ、カインは竜騎士になれるし父さんとずっと一緒にいられるぞ?

 

 大喜びで父に噛り付いて頷いて、言質を取られて早十三年。今やカインも立派な騎士見習いになった。まだまだ半人前の未熟者だが、槍と飛竜の扱いにおいては経験に裏付けされた自身と自負がある。バロンの華やかで麗しい女たちは勿論、質実剛健を旨とする屈強な男たちの中でも、実力には引けを取らないと確信していた。

 

 愛槍を手に取り軽く振る。始まりは幼子の口約束であっても今は違う。敬愛する父以上の竜騎士になること。それは幼い夢と父の願いから、カイン自身の将来の目標へと形を変えていた。性別を偽り実力で周囲を欺く。辛いことではあったが、不思議と苦しくはない。

 

 けれど。

 

「……っは、」

 

 両親亡き後、ほとんど一人で秘密を抱えているのは、ちょっとだけ寂しい。

 

「痛ぇ……」

 

 特にこんな風に、下腹部がしくしくと痛む夜には。

 

 

 

 バロン王立士官学校には、兵学校を極めて優秀な成績で修了した者か貴族の子弟、それからそれに準ずる人間――これはただ一人の特例、セシルのことだ――しか入学を許されていない。大層な努力家で賢い者たちと、プライドが高くついでに教育に湯水のように金を使える者たちとが、軍事国家の粋になるべく日夜競い合って学ぶ。その中で頭角を現すのは並大抵のことではない。

 

 その中でカインは、伝統ある学校が始まって以来の快挙を達成し続けている。期ごとに行われる論文と口述の実力考査、結果が一覧となって貼りだされるその試験において、入学試験以来全ての科目で最優を取り続けているのだ――親友、セシル・ハーヴィと共に。

 

 幼馴染であり気の置けない友人でもあるセシルが学業や武道で良きライバルとなったのは、言うまでもなくカインにとって喜ばしいことだった。何事も切磋琢磨し合えば、どのような高みにでもいずれ到達できる気がした。毎期変わらず首席に名を連ねる二人のC・Hは、その見目麗しさや特殊な経歴も相まって、いつしか学内はおろか市井にまで知られた存在となった。

 

 だが、カインと一緒に頑張れて嬉しいそれだけで幸せ、と盾やら賞状やらを抱えにこにこ笑う欲のない友と違い、これまでカインには一つだけ不満があった。たった一人の一番になれないことではなく、言わば“首席の副賞”とも言えるある特典の不備についてだ。

 

 校史に残るとまで言われる二人には前例がない。従って、首席の学生だけが使用を許される一人部屋を仲良く分け合うハメになった。相変わらず邪気のない親友は大喜びしていたし、それでも他の学生たちより余程住環境が良いのはカインとて承知だ、なにしろこの部屋が使えなければ共用浴場に行かなければならないのだから。

 

 とは言えカインは女で、それを幼馴染にすらひた隠しにしている。寂しがるセシルを黙殺して、集中できないだの遅くに勉強するのに気を遣うだのと言い訳をつけては日々教官に一人部屋を要求してきた。

 

 

 

 長い道のりだった、とカインはこれまでを振り返る。一昨日などセシルが言うところの“近年稀に見るイイ笑顔”でいられたのだが、昨日からは月の使者が来ている。痛い、けれどもう部屋でまでそれを我慢して澄ましている必要はない。重い月経痛のなかでも、うっすらと唇に微笑が浮かぶ。

 

 ここと、セシルの新しい部屋にだけ備え付けられた調理台で火を沸かす。彼の手前これまで使い辛かった湯たんぽ――月のものの痛みは温めるべしと街娘たちから盗み聞いたことがある――に熱湯を注いで、余った湯で紅茶でも淹れようかと思いついた。紅茶に入れる蜂蜜に……ローザのくれたジンジャークッキーを出してもいいな。独り言ちながらいそいそと食卓を整えて、椅子に浅く腰かける。

 

「……遅いな」

 

 はやる心には湯が湧くまで時間すらももどかしく感じられて、カインは手持無沙汰に立ち上がった。一人室内をうろついていてはたと思い至ったことがある。

 

 同居人の目はもうない。何よりもわずらわしい、胸の膨らみを封じ込める布を、外してしまってもいいのではなかろうか。

 

 素早くカインの目が扉を確認する。錠が下りていることを見て一気に寝巻に手を掛けた。ネルのシャツとコットンの肌着、二枚一纏めに脱ぎ捨てて、忌々しいサラシの端を引き摺りだす。きつく女性性を戒めるそれは、その程度では緩みもしない。乱雑にそれを解き胸板を創造する厚い脱脂綿を放りだせば、ささやかな丘陵が外気に露わになった。

 

「…………うーん……」

 

 男であるとは決して言えない、けれど同世代の女子と比べるとどうにも心もとない――二つ年下のローザのほうが大きい気がする――胸だが、下から揺すってやるとふにふにと柔らかい。さっさともっと大きくなれ、いや、なられては困る。ジレンマの中で、いつもよりも乳腺が張ったそれを宥めるように軽く持ち上げたそのとき。

 

 錠が回る音がした。

 

「カインただい……ま……?」

 

 咄嗟に顔を向けた先には、部屋替えを忘れうっかり入って来たのだろう、唇の頬笑みもそのままに凍りついたセシルがいた。そのような意図ではないと言え、貧相なものを見せつけるように寄せて上げていたカインの動きも停止する。何かすぐに言い訳を。いくつもの言葉が錯綜し脳内を塗りつぶし、状況に思考が追いつかない。見つめ合ったまま蝸牛の歩みで過ぎる時間は、カインにとって精神的拷問に近しいものだった。

 

 ぴいいいいいー。

 

 静寂を切り裂くように今更ケトルの笛が鳴る。先に自身を取り戻したのはカインだった。愛槍を片手にセシルを部屋に引きずり込む。扉を叩きつけるように閉めて施錠すればひとまず安心だ、笛の音は廊下までは漏れない。美しく研がれた槍の切っ先を首筋に向けられて初めてセシルは口を開いた。

 

「あ、ちょっ、カイン、」

 

「口外すれば殺す」

 

 問答無用で穂先を煌めかせる。常に低く低くと心がけている声は情けなく震え上段に構えた槍も狙いがブレにブレているが、カインにとって幸いなことに、それに気づけないほどには相手も混乱していた。動脈を狙う凶器も我を忘れた親友も怖かったが、何よりも彼――彼女か?――の胸にある得体のしれない柔らかそうな何かが恐ろしくて、セシルはおろおろと視線を彷徨わせた。おかしい、この幼馴染は自分とは決定的に違う。

 

「あの、つまり、その」

 

「言えば殺す。首を掻き切って殺す、心臓を突いて殺す、刻んで飛竜の餌に混ぜてやる」

 

「それはちょっと、アベルがかわいそうだ」

 

 必死に言い募るカインに、思わずいつものように口を挟んでしまった。向かいあった親友の顔は、泣きそうなほどに歪んでいる痛々しいものだった。

 

「こっちを、」

 

 見るなと叫ぼうとしたカインより早く。変わらぬ穏やかな微笑みでセシルは言った。

 

「言わない。誰にも。決して」

 

 僕とお前は親友じゃないか。柔らかいテノールがほんの少しカインを落ち着かせるが、そのときには再びセシルの声が上ずっていた。

 

「だからさ……そ、その……服、着てよ」

 

 気まずげにセシルに目を逸らされて赤らんだ頬を目の当たりにし、世界が揺れて視界が濁っていくのをカインは感じた。力が萎え、がらりと槍を取り落とす。自分を呼ぶ幼馴染の声が酷く遠い。

 

 固く冷たい床に叩きつけられるとぼんやり思った身体が力強い腕に引き寄せられたところで、カインの意識は完全に途絶えていた。

 

 

 

初出:2013/02/06(pixiv)