人はそれを死神と呼ぶ

 

 それは、人を狂わせるような朝焼けが街を照らす、初陣の日の朝のことだった。

 

 堅牢さでは城下一と名高いハイウインド伯爵邸、その裏手の水浴み場。神殿で祈りを捧げられた聖水を惜しみ無く使いながら、少年が二人身体を清めている。一人は身体中を抉る楔跡も痛々しい暗黒騎士、そしてもう一方は脂肪も筋肉すらも限界まで絞った竜騎士。年若い彼らは、けれど一端の兵士の貌をしていた。同期の誰よりも早く戦場を知ることになる興奮も不安も、その面差しからは伺えない。

 

 極寒の風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ。冷たく燃える朝日と氷のように冷えた浄めの水とを一身に浴びながら禊を済ませる傍らの竜騎士に、暗黒騎士は静かに声をかけた。

 

「ねえカイン?」

 

 猛々しい騎士のものとは思えぬしっとりと柔らかい声を、カインの傷一つない背が弾く。雄々しく骨ばった、その癖日に焼けず繊細でいる背中が眩しい。カインは振り返らない。

 

「……なんだ、セシル」

 

 ややあって掠れた声が応えを返す。遅い変声期を済ませたばかりの不機嫌そうな低音に、セシルは小さく笑みを溢した。

 

「僕さぁ、まだキスしたことないんだよね」

 

 いきなりの思いがけない告白に、流石のカインもセシルに向き直る。

 

「いきなり何言って……」

 

「お前だってそうだろ、カイン?」

 

 呆れ声を遮ってからかいの言葉を投げると、カインの柳眉がついと顰められた。濡れた金糸を梳く手が止まる。

 

「お前と一緒にするな」

 

「娼館で商売女相手にしただけのくせに」

 

 冷めたハスキーボイスと優しいテノールの会話は、二人の幼馴染みが聞けば顔を顰めるようなものになっていく。複雑に絡まった髪を手梳でどうにかすることを諦めたカインは櫛を探すことにした。再びセシルに背を向けて、ぞんざいな返事をする。

 

「ネンネで坊やのお前よりましだろ」

 

 その辛辣な本音に、セシルは思わず苦笑していた。酷いなぁ。静謐な朝の空気の中、零れ落ちた呟きが存外響いた。

 

 別に僕はね、死んじゃうのはそこまで怖くないんだ。痛いのも、苦しいのも。

 

 今度の囁きは、カインの耳には届かなかった。抑えられた本音がセシルの足元にぽとりと落ちる。

 

「でもさ、キスも経験しないまま死んじゃったら嫌だな」

 

「まだその話っ……!」

 

 ようやく目当てのものを手にしたカインが振り返るのも待たずに。上背にそぐわぬ薄い肩を掴み、セシルは奪うようにカインに口づけていた。

 

 数瞬の後、二人の膚の色に似た、象牙の櫛が床を打つ。

 

 かたん。乾いた音に弾かれたのか、半ば自失していたカインが慌てて身を捩った。児戯にも等しい、慎ましやかな抵抗。それすら許さぬとセシルはカインの頭に腕をまわした。水を吸った髪を掻き乱すと、ぐっしょりと重く冷たい。

 

「あ、や……んぅ、う」

 

 徐々に深まる口づけに、カインの白磁の面に朱が差していく。塞がれた声が互いの口内に悲しく響き、セシルを押し返す腕が弱々しく震えた。

 

「んっ、ん、むぅ……っは、はぁっ……!」

 

「いったあぁい! 何するんだよカイン!!」

 

「そ、れはっ……こっちの台詞だっ!」

 

「あうっ!」

 

 反撃は思いがけないところから来た。右足の甲を踏みにじられた挙げ句、脛を強かに蹴られ、涙目でセシルは蹲った。

 

 酷い仏頂面で荒々しく口元を拭うカインに、つい先程までの艶めかしい気だるさはもうない。潤んでいた瞳にも苛烈な光が宿りセシルを貫いている。

 

 見る者を竦ませる激情を全身に浴びてしかし。セシルはへらりと笑った。平素の穏やかな微笑みを通り越し、寧ろ呆け顔と言っても差し支えない表情にカインの顔が歪む。

 

 このセシルには、何を言っても無駄だ。視線を断ち切り、傍らに口中の粘りを吐き捨てた。足元に溜まる浄めの水の中に、確かな赤が広がっていく。

 

「女に嫌われるぞ」

 

 鼻腔から立ち上る鉄錆の臭気に知らず声が険しくなるが、勿論セシルは気にも止めない。右手に絡みついた一本の金糸を弄んでいる。

 

「ねぇ、どこが切れたの。唇? それとも口の中?」

 

 顔を上げたセシルの問い掛けに、カインは黙って舌を出す。じっとりと濡れた先端が、溢れ出す赤い血に塗れていた。

 

 立ち上がったセシルが、優しく傷口を摘まむ。じわじわ走る痛みに、無意識にカインの舌が震える。その強張りを好ましく思いながら、セシルは血を指に擦り付ける。

 

「ごめんね?」

 

 小首を傾げ謝罪しながらも、更に指先には力を籠める。絞り出した血をそっと、カインの唇にのせていく。

 

 薄い唇を命の色が彩る。

 

「……綺麗だよ、とっても」

 

 恍惚とした囁きに耳を擽られ、丸きり女扱いかとカインはぼんやり思う。

 

「戦化粧だね」

 

 けれど続けられたのはあまりに惚けた言葉で。堪えきれず吹き出した。

 

「死化粧の間違いじゃないのか」

 

「お前は相変わらず厳しいね」

 

 つれない言葉にもセシルの声は楽しげだ。少し高い位置の蒼穹を見上げ笑う。

 

 その瞳を隠すように、カインの掌が伸ばされた。

 

「カイン……?」

 

 小さな声さえ咎めるほど密やかに。

 

 舌先がセシルの唇に這わされた。

 

「え、」

 

 肉刺だらけの掌の下で目を丸くするセシルになど気にも止めず、赤色でそこを染めていく。ふっくらとした輪郭を辿り、中心に傷口を押し当てる。そうしてすっかり色づいた唇に、カインは自分のものを合わせた。

 

 舌は絡ませない。幼く錆臭い口づけに、それでも二人はくらくらと酔いしれた。

 

「……帰還まで落とすなよ」

 

 唐突にセシルを突き放し、カインはぼそりと呟く。絶え間なく雫を落とす髪を鬱陶しげに振り払い、セシルに背を向けて歩き出す。

 

 去っていく彼を追いはしない。置き捨てられた櫛を拾い、セシルは一人微笑んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 規模の小さな内乱の制圧がこれまで長引いていた原因は主だった激戦地にある。切り立った岩場や山間の村々に潜むレジスタンスとの戦いは、騎馬戦に慣れたバロン軍を容易く疲弊させた。王座や城下を揺るがす程の大事でなくとも、不得手な戦闘を繰り返せば国軍には厭戦感が漂い始める。現状を打破するために白羽の矢が立ったのは年若い半人前の騎士二人で、老獪な軍部の長達も失笑を禁じ得なかった。

 

 兵学校、軍部、王宮、城下、貴族社会……方々で物好きな噂が飛び交った。

 

 曰く、気に入りの稚児達をお披露目し、活躍を引き立ての口実にしたい陛下の出来心と。

 

 或いは見目良い養い子達に傷をつけ血を浴びせたい陛下の加虐心と。

 

 ある者はしたり顔でこう嘯いた――今回の抜擢は暗黒騎士の戦力調査のためさ。

 

 またある者は鼻息荒く反論して、この人選はその数も活躍も存在感を失いつつある竜騎士達への救済措置と声高に主張した。

 

 正解などセシルもカインも知りはしないし、二人にとってそれは極めてどうでもいいことだった。好奇の視線も下衆の勘繰りも振り払うように、ただ二人は結果を残した。

 

 元より高所や不安定な場所での戦いに長けた竜騎士は、難所から的確な指示を飛ばし騎士団を混乱に陥れた敵方の大将格を皆あっさりと討ち取り。信じられる指示系統を失い烏合の衆と化した反乱軍を、禍々しき暗黒が塵芥かの如く薙ぎ払った。

 

 栄えある血濡れた凱旋に、誰もが一様に口を噤んだ。二人の帰還はひっそりとしたものだった。

 

「竜騎士団の人達、お前と話すのを楽しみにしてたんじゃないのか?」

 

「さぁ……な。直に同じ隊舎で暮らすんだ。今日くらい構わんさ。お前こそ、陛下への拝謁はどうした」

 

 ハイウインド伯爵邸、二人は当主の私室にいる。淡々とセシルに応えるカインは、既に鎧の留め金に手をかけている。

 

「今ごろ御前には手柄を報告する長蛇の列が出来てるだろうからね」

 

 血塗れの養い子はお呼びじゃないよ。朗らかに話しながらセシルはまず兜を外す。少し艶を失った、けれど豊かで美しい銀髪が溢れ落ちた。

 

「ローザはいいのか」

 

「お前がそれを言うのかい?」

 

 わかってるくせに、さ。象牙の櫛で髪を梳かしながら、セシルはおざなりに隣の竜騎士を見やる。セシルの物よりも遥かに薄いものの、焼き入れされた鎧の強度は折り紙付きだ。毛足の長い絨毯の上、カインがやや雑にそれを脱ぎ捨てると、鈍い音の後に澄んだ残響が広がった。

 

 薄いチェインメイルを纏うカインの胸元は、乾ききった血で汚れていた。

 

「どうしても。首から入るんだ」

 

 セシルから目を逸らし、ばつが悪そうに独り言ちる。よく鞣された皮のアンダーウェア――これにだって返り血がこびりついている――だけになってようやくカインは兜を脱いだ。剽悍な竜騎士の素顔がセシルの眼前に晒される。

 

「ほら」

 

 照れ隠しか、普段以上にぶっきらぼうにカインはセシルに声をかける。それでも手つきはいつもより優しく、セシルのアーマーを丁寧に外していく。身体に直接打ち込まれたそれが齎す痛みが、出来る限り小さくなるように。

 

 楔跡にてらてら体液が滲む精悍な肉体に、カインは知らず目を細めた。甲冑から解放されたセシルの上半身が揺らぐ。

 

「セシルっ!」

 

 咄嗟に抱き止めたカインの腕の中、セシルの両腕がカインの首に回された。

 

「な、」

 

 引き寄せて、口づける。肉が歯にめり込む感覚に、カインは息を詰まらせた。けれどもうセシルを拒まない。溢れる血を唾液を啜り合い、無心になって互いを貪る。舌を舐り合い上顎に這わせ、狂おしいほどに相手を求めた。四本の腕に力が籠り、二つの肉体を密着させる。

 

「っは、あ……」

 

「ふぁ……」

 

 長い口づけの後には、静寂が待っていた。見つめ合う二人の間、その僅かな隙間で、血の混じった銀糸が音もなく切れた。

 

 先に動いたのはセシルだった。生まれたままの姿で、強くカインの胸にすがる。皮の服とその下のコットンの肌着、薄い二枚越しに鼓動と温みが頬に伝わって、セシルに浸透する。命が共振していく感覚に、二人は言葉もなく目を閉じた。

 

 いつまでそうしていただろう。室内は明るく暖かい筈なのに、身体がふるりと震えた。カインはナイトガウンを手に取り、セシルの肩にかけてやる。

 

「湯浴みの用意はあるが」

 

 軽く二の腕を摩るカインも、首筋が粟立っている。セシルは微笑んで首を横に振る。

 

「そんなの、後でいい」

 

 そのままカインの腕を引いて歩き出す。屋敷の主かのように豪胆に無遠慮に、セシルは隣室に歩を進めた。薄暗い部屋の奥、もろともに勢いよく倒れ込む。

 

「汚れるのはお前の寝台じゃない」

 

「別に寝台を綺麗にするのはお前じゃない」

 

 減らず口を。吐き捨てたカインの唇は、セシルのものと同じ色をしていて。それは二人を酷く満足させ、また興奮させた。

 

「……死化粧をした死化粧師、か」

 

「人はそれを死神と呼ぶんだ」

 

「お前にしては洒落てるな」

 

「天高くから舞い降りてその槍で頸を貫く。お前のことだよ、カイン」

 

「どす黒い呪われた武具で素人同然の農民崩れどもを殺戮したお前じゃなくてか?」

 

「……カインってば酷い」

 

「傷ついたか?」

 

「僕が? まさか」

 

「そうだな。傷つく権利が俺たちにあってたまるか」

 

 忍び笑いと、殺伐とした睦言。やがて意味のある言葉は消え、ささやかな吐息と喘ぎがそれに代わった。

 

 ぱち、ぱちと暖炉の薪が爆ぜている。

 

 

 

初出:2013/01/07(pixiv)