木通の生る庭

 

 一つ一つ振り返るのも馬鹿らしいほどには、誰もかれもが年を取ったのだ、と。簡素な旅装に身を包み城下を見回るカインは独り言ちる。生まれ故郷――青き星のバロン王国は随分と姿を変えていた。実直で精悍な趣を残しつつ花と緑が温かい、懐深い優しさに満ちた場所となった祖国は、聖なる光に祝福された今のカインにとってすらほんの少し眩しい。

 

 おそらく、黒いローブに身を包む隣の男にとってはもっとずっと。

 

「何をそわそわと。お前の弟が治める国だぞ」

 

 行き交う人々の顔は明るい。エブラ―ナからの旅芸人の周りでは黒山の人だかりがやんやと声を出しおひねりが飛び交っているし、ダムシアンの行商人は美しい織物を前に素晴らしい美声で口上を披露している。国母ローザに憧れる娘たちがミシディアの魔導書を抱えてよろめくのを通りがかりの騎士見習いが咄嗟に助け、カインは目を細くした。

 

 革袋を探り銅貨を幾つか出す。トロイア産のキツい蒸留酒――果実を漬けるためのものだが、若い時分はこのままひっかけたものだ――を露店で二本買い取って、カインは男の腕を取った。潜め声で囁く。

 

「ほら、行くぞ」

 

 どこにという問いには答えず、そのままずかずかと進んでいく。フードも目深に白銀の髪と顔を隠したゴルべーザは足元がおぼつかない。人ごみの中、懸命に自分に歩調を合わせようとする巨躯を思って、カインは忍び笑いを零した。む、と不満げな声が小さく上がったのが可愛くて、この男を可愛いなどと思う自分が可笑しくて、本格的に笑い声が溢れる。不満を通り越して不機嫌になろうとしていたゴルべーザに向き直り、引き結ばれた唇に、吸い寄せられるようにキスをした。

 

 

 

 あれから何件か商店を巡り――購入した食料品や日用品は全てゴルべーザの腕の中だ――カインは混雑した下町から遠ざかり始める。緩やかな坂を登り切って山の手に抜ける頃には、道行く人もぐんと減った。両脇に荘厳な屋敷が立ち並ぶ大路は昔と変わらぬ石畳に覆われているが、そこに涼やかな影を落とす街路樹などかつてはなかった。

 

 どこかの庭園からはっきりとした芳香が漂ってくる。バロンでは珍しい橙色の小花の香の中、ほんの少しカインの歩みが遅くなる。気づかいの声が斜め上から降ってくるのを、首を振ってかわした。

 

「今日は、付き合ってくれるんだろう?」

 

 王宮でなければどこでもいいんだからな。からかいの言葉を投げかけられれば黙って頷くしかないゴルベーザの、紙袋を抱えた屈強な腕をカインのそれが絡め取った。先刻までと変わらぬ歩調に戻っている。

 

――お前の償いは終わった。それでもなお足りぬと思うのならば……生きろ。星の民と生きて償え。

 

 戦後の混乱が落ち着く頃、月から届いた言葉は思いがけないものだった。月の危機に目覚めた同胞と共に戦った叔父の慈愛に応えるべく、ゴルベーザはいま、ここにいる。

 

 己の存在が弟やこの星のためになるのならと思ってはいたものの、ロイヤルファミリーとしての扱いも英雄としての扱いもゴルべーザの気を重くする。恥を忍んでカインに相談すれば、にやりと笑った彼はあっさり王兄殿下を外に連れ出してくれた。宛がわれた執務室の扉を固く閉じたまま、その窓に愛する飛竜を呼び出して。

 

 高台の奥、更に長い石段を上っていくと、そろそろゴルべーザにも行き先がわかってきた。この先建つ屋敷は一軒だけ、その持ち主が誰か、かつての軍事国家を掌握した男はよく知っていた。

 

――ハイウインド救貧院

 

「っ……!!」

 

 だからこそ、そこにかけられた真鍮の看板に言葉を失くす。「……セシルから何も聞いてなかったのか」低い呟きもどこか遠く、ゴルべーザはただ愕然と蜜色の髪を見下ろした。振り返ることなく敷地に歩を進めながら、カインは淡々と語り始めた。

 

 勿論いずれはバロンに帰るつもりだったさ。ただそれまで、家も使用人も放りだしていく訳にはいかないだろ。戦乱でバロンにも孤児が――そういう顔をするな辛気臭い!――身寄りを失くした子らが増えていたから、彼らのために使えればと思ったんだ。幸い財産は俺に不相応なほど遺されていたし、兵舎で暮らしていれば給金も余って困るくらいだ。引き換え国庫は火の車――ああ! だからその顔は止せと言っているんだ!――だったから……別に、罪滅ぼしのつもりなどではない。俺の仕出かしたことは取り返しがつくことではないのだから。

 

 ゴルべーザには腹を立てたくせに、眼下のカインの顔は酷く儚げだった。広い庭園を横切って歩く二人を幾対もの瞳が見つめる。決して声をかけようとはせず、遠巻きにこちらの様子を窺っている。奇妙な沈黙の中、華美な装飾を避けた荘厳な屋敷の大扉に辿りつくと、ノッカーやベルに手を伸ばすよりも早く、それは内側から勢い良く開かれた。

 

「お帰りなさいませ、若旦那!」

 

 ゴルべーザの前に立っていた“若旦那”が思い切りつんのめる。「頼むからその呼び方はやめてくれ」苦笑するしかないカインが薄手の上着を脱ぐと、初老の紳士が笑顔で腕を伸ばす。逡巡の後にそれを手渡し、照れ隠しに背後のゴルべーザを紹介しようとした声が、吹き抜けのロビーに響き渡る足音に遮られた。「カイン様! お帰りなさいませ!!」階段を転がり落ちそうな勢いで駆け下りてくる丸っこい身体が、もどかしげに最後の三段を飛び越して絨毯に着地した。懐かしい顔だった。

 

「久しい、な、」

 

 名前を呼ぶ前に抱きすくめられ、金糸を滅茶苦茶に掻きまわされる。流石に女性を無理やり引き剥がす訳にもいかないのだろう、何度も苦しいと呟くように漏らしてようやく解放され、カインは呆れて乳母を見やった。

 

「変わらないな」

 

「カイン様こそ! あの日出て行かれたっきり今日まで顔もお見せならずに、あんまり水臭いじゃございませんか!」

 

 痛いところを突かれカインは口ごもる。赤い翼の隊長としてバロンに腰を落ち着けてから半年、無理に仕事を作っては城で寝泊まりしていた。その前の滞在のときにはそんな時間はないと嘯いていたし、その更に前は本当にそれどころではなかった。理由や感情はどうあれ、不義理であったとは思うのだが。

 

 気まり悪く視線を彷徨わせるカインに、彼女の夫が助け船を出した。

 

「若旦那、そちらのお客様は……?」

 

「ああ、こいつはただの荷物持ちだ、気にしなくていい」

 

 今までの困惑顔はどこへやら、あっさりと質問を切り捨てたカインの返答がゴルべーザは少しばかり面白くない。言い返すこともできず頭を下げた巨躯の前で、打って変ってカインは上機嫌で乳母に話しかけていた。

 

 

 

――久しぶりにここの紅茶が飲みたい。

 

――こいつの荷物には気を使わんで結構。

 

――そうだ、厨房まで食料品を持って行け。ついでにそっちを手伝え。

 

――俺は冷たいミルクティーがいい。

 

――あれが食べたい……ないのか? ちょうど今が食べごろだろう。

 

――クッキーはナッツが入っていないのにしてくれ。

 

 “ハイウインド救貧院”を訪れて一時間。ゴルべーザはこれまで抱いてきたカイン・ハイウインドという男の人物観を変えようか真剣に悩み始めた。何事においても思慮深く遠慮がちで、よく気は回るが人にあれこれと注文をつけるタイプではないと思っていたカインが、ここでは見たこともないほど自由で我儘で好き勝手に振舞っている。生家故なのだろうが、あまりに当然のように人を使っているのを見ると、これが彼の本質なのだろうかと首を傾げてしまう。

 

「クッキー皿を寄こせ」

 

 まただ。名も呼ばれずに顎で使われたゴルベーザは、カインが少し身を乗り出して手を伸ばせば届くところにある大皿を彼の目の前に引き寄せてやる。ついでに柔らかい紙ナプキンも。

 

「……ん」

 

 こうしてティータイムを共に過ごして初めて、ものを食べるのが下手なカインを知った。必要に迫られて参加する会食では、貴族然として――実際に王国を代表する名門の跡目な訳だが――澄ました顔で食事をしているものだからわからなかった。心持ち小さな口では大きな焼き菓子を受け止めきれず、くずがぽろぽろと零れる。汚れた唇を拭ってやると、カインは目を眇めて微笑んだ。そのまま淡紫色の果実に手を伸ばす。ゴルべーザがせっかく拭いた唇を躊躇いなく甘い汁で汚していく姿に、知らず溜め息が零れた。

 

「仲がよろしいんですのね」

 

見守る夫婦の声にはからかいの意など微塵もなくて、だからこそ流石のカインも頬を赤らめた。軽く咳払いをしてグラスに口をつけ、首を仰け反らせて中身を飲み干す。そのまま立ち上がって、「……庭を見てくる」食堂を足早に去るカインの姿に、三人は声を殺して笑う。

 

「セオドール様」

 

 揺れる蜜色の髪を追いかける乳母に穏やかに――王兄として――呼びかけられて、ゴルべーザは身を固くした。「そんなお顔をなさらないでください、あなた様がいらっしゃったときすぐにわかりましたわ」紫紺の目を覗きこまれ、しみじみと言われて合点がいった。

 

 大切な人を見守る、穏やかでどこか懐かしいその瞳。

 

「あなたはセシル様によく似ていらっしゃる」

 

 母の眼だ。

 

「カイン様を、よろしくお願い致しますわ」

 

 次の言葉の意味は、唐突すぎてよくわからなかった。「それは、どういうことですかな……?」恐る恐る尋ねても、口元の頬笑みは変わらない。それに押されたのか、口ごもりがちの声は普段のゴルベーザからは想像もつかないことだった。自ら墓穴に埋まりに行っているのにも気づいていない。

 

「……貴女もご存じの通り、カインは一流の……騎士でありまして、私は……不本意、ながら王兄という、身で、然るに我々は男同士で……しかも市井の耳目を集めやすいですね、立場であるからして、」

 

「そんなこと、関係ありまして?」

 

 ない訳がないだろう。とは言えずゴルべーザは口を噤んだ。目の前の初老の淑女はどこ吹く風だ。

 

「もうカイン様は、大丈夫だと思いましたの。寂しがり屋でやたらに高潔で、そのくせそれを上手く言えないで強がっていたあの子が、あんな風にセオドール様に気を許していらっしゃるんですもの」

 

「はあ……」

 

 天下に名だたる聖竜騎士も、乳母の前では形なしである。なぜかゴルべーザが居た堪れない気分になって、手持無沙汰に紙ナプキンを畳み直す。

 

「これからはあなた様がいらっしゃるから、カイン様は寂しい夜も、自分を責める夜も……きっと大丈夫ですわよね。もう、お一人じゃないんですもの」

 

 過去に苛まれる夜は、カインに――もちろんゴルべーザにも――生涯訪れ続けることだろう。それでも生きていくことが償いであるならば、償いを超えた人生を歩むことが周囲の望みであるのならば、それらの闇と共存していかなければならないのかもしれない。

 

「そう……でしょうか」

 

 傷を舐め合う相手ではなく、支え合いながら未来を歩む相手として、カインは自分を選んでくれたのだろうか。「でなければ、ここに連れて来られたりしませんわ」その声はどこまでも耳に心地いい。

 

 不意の歓声が、優しい沈黙を破いた。窓の外では、子供たちがカインに群がっている。食堂から見守る二人の前で、軽く腰を屈めたカインが軽々と木の天辺に飛び乗った。次々ともいでは落としているのだろう、落ちてくる果実に子らが飛びつく。

 

「何をやっているのだ、あいつは」

 

「昔から高いところがお好きでしたから。ああやってよく木の実なんかを取っておられましたわ」

 

 馬鹿ではないか。今度は言いかけて止めた。小躍りする幼子の中に、小さなセシルとローザが見えた気がして。

 

 しばらくすると、脱いだシャツを袋にして、たんまり戦利品を入れたカインが降りてきた。生地も仕立てもいいそれが台無しだが、気にした様子もない。更に集う子供たちによく熟れたものを差し出している。

 

「あの方が生まれ育ったところですもの」

 

「そうでしょうね」

 

 視線の先には、見たこともないくらい生き生きと笑うカインがいた。

 

 老女がそっと目頭を拭う。

 

「そろそろ、ここをお返ししなければいけませんわね」

 

「……カインがそれを望むとは思えませんな」

 

 寂しい言葉に、己が言うのも筋違いだとは思えど反論せずにはいられない。

 

「でも、ここがあの方のホームですのよ、私たちが我が物顔で使っていられる道理がありまして?」

 

 それは違う。ゴルべーザの唇から言葉が次々と飛び出す。「いつまでも己を受け入れてくれる場所……カインにとってここは居心地のいい場所かもしれません。けれど、あやつは既に一度“ホーム”を失ったのです。ここに戻ってくるのでは何も変わらない。カインは作らなければなりません。今こそ自身の手で、新しい帰るべき場所を」

 

 それに、良人との新生活をまっさらな新居で始めるのもよいではありませんか。

 

 調子に乗って一言言い添えると、後頭部に衝撃が走った。いつの間にか、赤面したカインが背後に立っている。「何を馬鹿なことを言っているんだ、お前は……」呟く声の嬉しげな響きを聞き洩らすほど鈍くはない。

 

「結婚の報告に来たのではなかったのか?」

 

「お前はつくづく呆れるほどの痴れ者だな!」

 

 赤く染まった顔にいよいよ青筋さえ立てて怒鳴るカインに猛将の猛々しさは見えず。「お前たちも笑うな!」必死に声を張り上げるほどに老夫婦の笑い声は大きくなっていく。ひとしきり笑ってからしみじみと、噛み締めるように二人は言った。

 

「若旦那、どこに行かれても、誰とお住まいになっても……たまには私たちに会いに来て下さいましね」

 

「ここがカイン様のご実家なんですから」

 

 涙交じりの言葉に面喰ってカインは戸惑う。こういうときに口が達者なほうではないのだ、不意打ちのしんみりした姿に言葉を掛けあぐねる。

 

 立ち上がったゴルべーザが、そっとカインの肩に手をまわした。

 

「必ず幸せにすると、約束いたします」

 

 気恥ずかしさを多分に含む激情に流されて、竜騎士の脚力でカインは隣の男を蹴り上げていた。

 

 

 

***

 

 

 

 暮れなずむバロンの街並みは美しい。傾いていく陽の速さに家路を急ぐ人々が、それでも時折足を止めて夕焼けに染まる木々や建物を振り仰ぐほどには。

 

 屋敷を辞したあと、飛竜の上の二人にはずっと会話がなかった。バロン城が目前に迫ってようやく、意を決したカインが口を開く。ごうごうとなる風の中、聞こえるかどうかの瀬戸際の澄んだテノール。

 

「……今日はすまなかった」

 

 後ろから返事はない。

 

「あそこは、俺にとって一番居心地のいい場所だから……ずっと帰るのを避けていた。どんな俺でも受け入れてくれる人たちだから……彼らに甘えてしまいそうで、だから」

 

 お前がああ言ってくれてよかった。返事はないけれど全て言いきって、カインは飛竜の鱗を撫でた。

 

 応えの言葉の代わりにそこに掌が重ねられる。ふわりと向き直るカインに、今度はゴルべーザからキスをした。

 

 

 

初出:2013/10/03(旧サイト)