Requiem

 

 手が届きそうなくらい重く、低く立ち込める空がイヴは好きだった。心の奥の悲しみも苦しみも、全て塗り込めてしまえる気がしたから。

 

 吸い込まれそうなほどに澄んだ、雲ひとかけない空がギャリーは好きだった。心の奥の悲しみも苦しみも、全て浚われていってしまう気がしたから。

 

 薄曇りの昼下がり、ちらちらと雲の切れ間から陽光が覗く。日に日に冷えていく秋風が髪を揺らす頃、二人は出会った。

 

 

 

「ッはぁ……」

 

 焦げ茶色の肩掛けがずしりと重い。胸の前を横切るベルトを指先が白くなる程に握り締め、イヴは荒く息を吐いた。恨めしげに見上げた木々の向こうから、柔らかな雲越しに太陽がこちらを照らしている。その光が強まるにつれて、身体からは力が奪われていく気がした。

 

 どうして今日に限って日傘を持ってこなかったのだろう。日差しに弱い身体については、自覚していたはずなのに。後悔の溜め息一つ、よろめいた小さな身体が木陰を飛び出した。肌を灼かれるような感覚に全てが霧散していく。揺らいで倒れそうになる身体を必死で支えようとして踏鞴を踏んで、結局イヴは諦めた。

 

「ちょ……っと、ちょっと、アンタ!?」

 

 重力に従う身体を誰かが抱き止めた気がして、イヴの意識はそこで途切れた。

 

 ――夢を見ていた。何故夢とわかるかというと、あまりにそれを見慣れているから。イヴは色とりどりの薔薇に囲まれている。月光を浴びて艶めくそれらを、イヴは決して摘み取ったりはしない。自然のままに薫り高い姿を、棘を纏った気高さを、そのまま目に焼き付けて胸の奥に飾る。その香気を全身で堪能する。

 

 永遠を夢見る花園で、いつしかイヴはある薔薇を探し始める。自然界には存在しえないという“神の奇跡”を求め、手足の傷付くのもいとわずひたすらに駆ける。こけつ転びつ、四肢はおろか白雪の頬にさえ血を滲ませてイヴは進む。そうして辿り着いた最果ての地に、その薔薇はいつも佇んでいた。誰よりも強く焦がれたその蒼に、イヴの右手が伸ばされる。意思から離れた身体が、それを手折る。

 

 ――いや。

 

 ――やめて、

 

 ――いやだ!!

 

 どれ程強く拒んでも、彼女の願いは届かない。白魚の指を痛め付けてまで摘み取ったものが、いとけない手の中で散らされる。はら、はらり。淡雪のように、音もなく散る花弁はただ力なく地に伏せる。一片になった瞬間から生命の輝きを亡くし、風に怯えるデラシネへと姿を変える。

 

 最後の蒼に指が触れると、とくりと命の温みが伝わってくる。肉厚ですべらかなそれは、柔らかい指に躊躇いなく引きちぎられた。その胸中の動揺も抵抗も、存在しえないかのように、あっさりと。

 

 花弁はすぐに闇に紛れた。

 

 想いは、届かない。

 

 

 

「ひっ……!」

 

 目を見開いて跳ね起きる。見知らぬ白い壁にイヴは瞬きを繰り返す。喉が乾ききって呼吸が苦しい。無理矢理に息を吸い込むと舌がひきつれ、イヴは激しく咳き込んだ。

 

「目が覚めたのね、アンタ、大丈夫!?」

 

 胸を強く押さえ呼吸を整えようとするイヴに、青年が駆け寄った。乱雑にサイドボードに盆を叩きつけ、イヴの傍らに膝を着く。彼の大きな手に背中を撫でられ、少しずつ咳が引いていく。ゆっくり飲むのよ、と声をかけた青年がイヴの口元に硝子のコップをあてがう。程よく冷えた口当たりのよい水を飲み干すと、ようやく息を吐くことができた。

 

「落ち着いたかしら?」

 

 柔らかい低音が耳に届く。こくりと頷いたイヴに見つめられ、青年は微笑んだ。夜明けの雲のような優しい髪色。彼が立ち上がるとふわふわと揺れた。

 

「そう。良かった」

 

 開け放しになっていた扉を閉め、再びイヴの傍に屈み込む。厚手で広口の硝子瓶を手にとり、コップに水を継ぎ足す。それを手渡しながら青年は、ギャリーと名乗った。

 

「アンタは……へぇ、イヴって言うの。素敵な名前ね」

 

 ギャリーから受け取った水を、一口ずつイヴは飲み下す。ぽつりと言葉が零れた。

 

「怖い夢を見たの……」

 

「そう……起こせばよかったわね。ごめんなさい、気づいてあげられなくて」

 

 栗色の髪を撫でられ、イヴは思わず目を細める。ギャリーの特徴的な服装が目に入った。

 

「あぁ、コレ? カソックって言うのよ」

 

「かそっく……」

 

 耳慣れない名のその服は、神に仕える者のためにあるという。窓から見える古びた教会について彼は話してくれた。

 

「色々あって、アタシにはもう帰るところがないのよ。それでここの神父さまに拾ってもらったってわけ。だから今は見習いの修道士みたいなものかしらね」

 

「へぇ……」

 

 よくわからない、と書いてあるイヴの顔、柔らかな頬をつついてギャリーは笑った。

 

「もう遅いわ。送ってあげるから帰りましょう?」

 

 差し伸ばされた手を取り緩く握り返す。線の細いギャリーの手は、イヴが思うよりずっと大きく節くれだっていた。

 

 ギャリーと手を繋ぎ、家路につく。彼が通う教会と真反対の町外れにイヴの家はあった。年を経た荘厳な洋館を、首が痛くなるほどギャリーは見上げた。絶句している彼をイヴが見上げる。

 

「……あぁ、ごめんなさい。ここまでで大丈夫よね?」

 

 苦笑して繋いだ手を離そうとするギャリーに、訳もわからずイヴはすがった。

 

「今度! 教会に行ってもいい……ですか……?」

 

「いつでもどうぞ。待ってるわ」

 

 尻すぼみに言葉をなくすイヴに、優しい微笑みが降りてきた。

 

 

 

「どこへ行っていたの、イヴ?」

 

 邸宅の回廊、鈴を振る声に振り返ると妹のメアリーが立っていた。彼女の白く細い腕の中には、いつものように人形が我が物顔で収まっていて、イヴは眉をひそめる。青い肌にぎょろりと赤い目、歪につり上がった口。妹の気に入りのこの人形が、イヴはどうしても好きになれなかった。

 

「……学校、だよ」

 

 ギャリーとのことは言ってはいけない気がして、イヴは目を伏せる。その目を覗き込むように身体を傾けてメアリーは笑った。声を出さず、唇だけをにたりと上げて。

 

「ふぅん」

 

 それきり興味をなくし踵を返すメアリーを、イヴは見送ることしかできない。生まれたときから一緒だった妹が、最近遠いのが悲しかった。

 

「メアリーは寂しがり屋だからね」

 

「お父さん……!」

 

 聞き慣れた、けれど懐かしい声は確かに父のもので、イヴの表情が明るくなる。振り向き様に父に抱きつく様は、確かに年頃の少女のものだった。大人びた娘の可愛らしい振る舞いに、彼の顔は綻んだ。絹のような髪をそっと梳いてやる。イヴの紅い目がゆっくりと細められた。腰に回した腕の力を強める。鼻先を彼の服に押しつけると、噎せ返る程の薔薇の香とほんの僅かな雨の匂い。いつもの彼のものだった。

 

「お日さまが出ている間、うちにいなければいけないだろう? イヴの傍にいられないのが悲しいんだよ」

 

 イヴの腕を解き、腰を屈める。そうして父親に真正面から見据えられ、イヴは己を恥じた。言葉にこそしなかったけれど、先程の自分は彼女を拒んでいるようだったではないか。

 

「メアリーと話してくる」

 

 父の笑顔に見送られて、イヴは回廊を奥へと進んでいく。足は徐々に早まり、最後には駆け足になる。毛足の長い上質な絨毯が、その足音を吸い込んだ。小さな背中が角を曲がり、あっという間に見えなくなってしまうまで、彼はそこに佇んでいた。

 

 入り口から最も遠い、二つ繋がりの部屋を姉妹はあてがわれている。自室のベッドに鞄を放り出し、イヴは隣室に繋がるドアを叩いた。遠慮がちなノックに、妹はすぐに答えた。あの人形を携えたまま、ドアを開け放つ。

 

 イヴは無意識に後ずさった。

 

「どうしたのイヴ」

 

 小首を傾げる愛くるしい仕草は、昔からずっと変わっていない。それなのに妹が、イヴの見知らぬ何かに見えた。

 

 真っ青なブルードールを幾つも転がした部屋を背景に、メアリーは美しく笑っている。

 

 一輪も、一片すらありはしないのに、薔薇の香が立ち込めていた。

 

「なん、でもない……ただメアリーに、会いに……」

 

 ひきつった表情と言葉に、それでもメアリーは喜んだ。人形を放り出しイヴの手を引く。気味の悪い部屋の真ん中に座らされて、イヴの視界がぐらぐらと揺れた。父の言葉を思い出してなんとか微笑む。

 

「最近、あんまりメアリーと……話せてないなって……」

 

 それは事実だった。生まれたときから姉妹は日の光に弱い。両親もそうだし、そのまた両親もそうだったという。イヴだけはどうにか日中の外出もできるが、他の家族はそれすらままならない。あと一年もしないうちに、イヴも日の当たる生活を捨てなければいけないと言われている。ひと足早くそれを失ったメアリーは、今では日がな一日洋館で過ごしている。

 

「イヴ、気にしてくれてたんだ!? 嬉しい……!」

 

 大げさに頬を染めて喜ぶメアリーはイヴとちっとも似ていないけれど、いつだって可愛らしい。彼女だけを視界にいれるよう努め、イヴはぎこちなく微笑みを浮かべた。

 

「二人とも食堂にいらっしゃい。もうすぐ夕食よ」

 

 何を話そう。困り果てていたイヴは母の声に救われた気持ちで立ち上がる。メアリーの手を引くと、彼女は目を見開いた。その驚きの表情はすぐに幸福なそれに取って変わられ、二人手を取り合い駆け出した。人形は部屋に捨て置かれている。部屋を出てしまうと、あの人形を持たないメアリーは今までと変わらない。ようやく息を吐くことができて、イヴは心から笑った。

 

 空腹が今更のように思い出されイヴを悪戯にからかう。くうくうと鳴く腹を軽く押さえ、きゃらきゃらと笑いながら二人は走った。

 

 食欲をそそる香りは回廊中を漂っていて、二人は先を争って食堂に飛び込む。オーガンジーのテーブルクロスが引かれたテーブルには、分厚いステーキがのった皿が並べられている。席について待っていた両親に目もくれず肉にかぶりつくメアリーを、普段のようにたしなめるイヴはいない。奇妙な空腹に支配され、負けじと肉を頬張る。

 

 赤い血が皿にぽたぽた零れた。

 

 赤ワインを飲む両親が、微笑んでそれを見ている。

 

「ねぇイヴ、最近学校はどう?」

 

 あっという間にステーキを一枚平らげたメアリーが、ようやく人心地ついてイヴに話しかける。大きめに切り分けた一口を口元に止めて、イヴは答えた。

 

「普通、かな……。でもメアリーがいなくてみんな寂しがってる」

 

 我が儘なところもあるけれど明るく朗らかなメアリーは、学校でもいつも皆の中心にいた。彼女がいない学校は静かで少し寂しい。

 

「エヴァンはどうしてる?」

 

「エヴァン……? 誰、それ?」

 

 聞き慣れない名前にイヴは首を傾げる。

 

「知らないならいいよ、知らないなら」

 

「……ごめん」

 

「なんで? 責めてなんかないよ!」

 

 その言葉通り、メアリーは楽しげに笑っている。両親もだ。

 

 その笑顔に不吉な何かを感じて、けれどそれを上手く言葉にはできず、イヴは血の滴る一切れをただ頬張った。

 

 

 

 その週末、雨の日曜日の昼下がり。イヴは町外れの教会を訪れていた。両親もメアリーも、日中は決して外には出ない。楽しげな三対の目に送られ、イヴは家を出てきた。重たい木の扉を押し開けると、果たしてそこではギャリーが一人で床を掃除していた。

 

「イヴじゃない! こんにちは」

 

 モップ片手に駆け寄ってくるギャリーは、とびきりの笑みを浮かべている。その表情に、イヴもつられて微笑んだ。

 

「こんにちは、ギャリー」

 

「寒かったでしょう、入ってちょうだい」

 

 そこ、滑るから気を付けてね。そう声をかけたギャリーが、モップを立て掛けて近づいてきた。どこから取り出したか柔らかいタオルで、丁寧にイヴの髪を拭いていく。傘を差してはいたものの、横からの風で全身が濡れていた。髪から降りてきて、優しく頬やジャケットを拭っていく。その手つきにイヴは顔を赤らめる。濡れたジャケットを脱がせた手が、ふかふかのブランケットをイヴの肩にかけた。

 

「こんなに冷えて……今温かいものを淹れるわ。こっちにいらっしゃい」

 

 日曜礼拝のあと濡れた床や椅子を拭き、今はイヴを丁重にもてなしている。きびきびと動く彼に手を引かれて、イヴは一旦教会を後にした。

 

 冷たい長雨が止む頃、ホットミルクで身体を温めたイヴとギャリーは再び教会に戻ってきた。

 

「濡れずに済んでよかったわ」

 

 ギャリーの呟きを背中で聞きながら、イヴは教会の中を見渡していた。角がとれ黒光りする長椅子は、大切に使い込まれているのが一目でわかった。見上げた先に填められたステンドグラスは、色褪せたはいるがそれ故に穏やかな光を湛えていた。けれど何よりもイヴの目を引いたのは、幾つもの音管を携えた物珍しいオルガンだった。吸い寄せられてそこに留められた視線に気がついたギャリーが、足音もなくオルガンに歩み寄った。

 

「聞きたい?」

 

 小さく頷くイヴにギャリーも頷き返し、静かに鍵盤に手をのせた。一つ小さく息を吐き、目を閉じる。

 

 瞬間、幾重もの空気の震えにイヴは心を奪われていた。“音”を超越した絶え間ない波の訪れに身を任せ、イヴは深い恍惚に身を投げた。うっとりと目を閉じ、反響し広がり続ける音楽に浸る。

 

 不意に、同時に奏でられ重なりあった和音が小さくなっていく。分散和音が荘厳なメロディを律動的なものに変えていき、イヴはゆっくりと目を開いた。

 

 薄れゆく雲の切れ間からさした陽光が、ステンドグラス越しにギャリーを照らしていた。微かに色づいた光が彼の上に降り注いでいて、イヴを苦しくさせるそれを彼は当たり前のように享受していて、その美しさにイヴは息を呑む。

 

 気づいてしまった。

 

 彼こそが、イヴの蒼い薔薇だと。

 

 それから、どうやって帰って来たのか覚えていない。気がついたら自室のベッドに横たわっていた。酷い空腹感と喉の渇きに目を覚ます。

 

「気がついた?」

 

 傍らには母親が腰かけていた。見上げる二つの目に答え、イヴの栗色の髪を撫でる。その白く細長い指からも、薔薇の香が感じられた。これまでは何とも思わなかったその香りがどうしようもなく蠱惑的で、イヴは目眩がした。

 

「お腹が、空いた……のどが……乾い、た……!」

 

 滅多に生理的な欲求を口にしないイヴが、渇望に負けて涙を溢した。それを親指の爪で受けて、母はうっそりと笑った。娘の涙に濡れた赤い爪が、唇の中で舐られる。遠い目で、歌うように彼女は言った。

 

「あっと言う間に……子供は大きくなってしまうのね」

 

 母の言葉。愛情に満ちているはずのそれが、イヴの背筋を凍らせた。けれど、今は深く考えることもできない。“思いきりかぶりついてすすり上げるための何か”を求める欲望が、思考を霧散させていく。

 

額にキスを落とした母が部屋を後にしても、イヴは眠ることすらできなかった。

 

 まんじりともせず迎えた朝は、憎たらしい程の晴れだった。ふらつく身体に鞭を打ち、いつもの時間に家を出る。全身を灼く日差しよりもずっと、生まれ育った洋館が、イヴを射抜く六つの目が恐ろしかった。

 

「っはぁ……あ、」

 

 自分はどうしてしまったのだろう。今朝も食事など喉を通らなかったというのに、今この身を苛むのは確かな空腹と渇きだ。だのに目に入る全てが違うとわかる。

 

 ――これじゃない、私の身体を満たすのはこれじゃない……!

 

 暑い。照り返しが目に痛い。けれど頬が濡れているのはそれだけが理由ではない。惰性と意地と、恐怖に突き動かされるようにしてイヴは歩き続けた。学校に向かっていたはずの足が町外れに向かっていると気がついたのは、ずいぶんと後になってだった。

 

「……イヴ? イヴ!」

 

「ギャ、リ……」

 

 教会の鐘が見え始める頃、向かいから青年が駆けてきた。それが彼だと辛うじて認識したところで、世界は闇に包まれた。

 

 

 

「心配したのよ。昨日は急に倒れたんだもの。お家におんぶして連れて帰ったら、お母様がしばらく家で療養させますっておっしゃってたのに……どうしたの、イヴ?」

 

 数日前と同じように、意識を取り戻したイヴにギャリーはコップを手渡した。震える手で、僅かな水を飲み下す。渇きは癒えなかった。こちらを見つめている彼から必死で目を逸らす。

 

 カソックの下に隠された首筋を、知らずイヴは思い描いていた。

 

 ――あそこに、思い切り歯を立てたら……。

 

「ち、違う! そんなこと、私……!」

 

「イヴ、イヴ!? 落ち着いてちょうだ、」

 

「触らないで! ……おねが、見ないで、私を……!」

 

 頭を抱え大声で否定する。伸ばされたギャリーの腕を力の限り振り払った。指先が彼の胸元に当たる。十字架に押しあてられた場所が灼けつくように傷んだ。

 

「っう!」

 

「イ、ヴ……」

 

 その痛みが、何もかも証明していた。

 

「お願い、今は一人にして……」

 

 何も言わず立ち去る背中を見ることすらできない。赤く爛れた指を擦りながら、イヴは今までの全てを振り返る。非科学的な仮説。だけどそれこそが、何よりも納得できる現実だった。

 

「わかってもらえた?」

 

「メア、リー……!」

 

「イヴったら目覚めが遅いんだもん。私もママもパパも、焦っちゃった!」

 

 弾むような声は、イヴの鞄から聞こえる。飛び付いて中を改めると、あの人形が収まっていた。反射的に放り出したそれは、床に無様に叩きつけられる。それでいて尚、血のような目が爛々と輝き、縫い綴じられた唇がぐいと持ち上げられる。メアリーの声で、人形はけたけた笑った。

 

「早くこっちにおいでよ、イヴ。初めての恋を吸い尽くして……ね?」

 

「何……言って……ギャリーは人間よ、人間なのよ!?」

 

「そうだよ人間だよ?」

 

「え……?」

 

 言葉をなくしたイヴに、メアリーは語りかけた。道理を知らない子供に語りかけるようにあくまでも優しく、ゆっくりと。

 

「今までと同じよ。牛や豚を食べるのと変わらないじゃない。弱きは強きの糧になる、それだけのこと」

 

「な、」

 

「……ああ、そっか。違うよね! 人間は私たちの言葉がわかるもの! エヴァンも必死で命乞いしてくれたわ! 怖い、痛い、嫌だ、メアリー助けてって、」

 

「エヴァン、て……」

 

「あの子、ほんとにイヴにそっくりだった。そのエヴァンがね、泣きながら私に」

 

「もういや……お願いやめてぇ……!」

 

 涙を多分に含んだイヴの声に、一瞬メアリーは鼻白む。けれどすぐに猫なで声で続けた。

 

「そうだよね。私たちが大好きなイヴは優しいものね。少しびっくりしちゃってるのよ」

 

でも大丈夫、いずれにせよすぐにこっちに来ることになるよ。だってそうしなきゃ、生きていかれないんだもの。

 

 そう言って澄みきった笑い声をあげた人形は、一頻り笑ってからばたりと倒れた。それきり微かにも動かない。

 

「エヴァン……」

 

 物静かで読書が好きな、メアリーに好かれていた少年。なぜ今まで忘れていられたのかとイヴは怯える。彼が姿を消したのは、メアリーが夜に生きるようになった頃だ。

 

 つまりは、そういうことだった。

 

「あ……ぐぅ……」

 

 けれどその結論はイヴに何ももたらしてはくれない。次第に意識は塗りつぶされ、空腹と渇きが再びイヴを苦しめ始めた。胸を掻きむしり喉の爪を立てても消えない渇望。死ぬことへの恐怖すらそこにはない。あるのはただ、純粋な欲だけだった。

 

「ぎゃり、ぎゃりー、ギャリー……」

 

 それでも、朦朧とする意識の中残された一粒の理性でイヴは立ち上がった。震えに幾度も足を取られながら、部屋を後にする。教会を背に歩き出そうとして――穏やかな声に呼び止められた。

 

「イヴ」

 

 振り返ってはいけない。わかっているのに、身体は言うことを聞かなかった。教会に消えた彼を追って歩く。ふらふらとよろめきながら中に入ると、ギャリーはあのパイプオルガンに向かい座っていた。

 

 入り口からでも、彼の手の中の懐剣がよく見えた。

 

「何を……」

 

 ただ微笑んだギャリーが、自分の首筋を僅かに傷つける。

 

 蒼い香気が立つ。

 

 その気高い薔薇の香が、イヴを壊した。

 

 飛びかかったイヴが首筋に牙を突き立てたとき、ギャリーは微かに身体を震わせた。

 

「あ、あ……」

 

 零れた声は確かに艶めいていて、イヴの中の何かを煽り立てる。強張っては力を失い、また強張るギャリーの指が歪にレクイエムを奏で始め、吐息を掻き消す。空間を揺らす音に負けじと、イヴはますます懸命にギャリーに食らいついた。その鋭い牙が食い込むほどに、いよいよ演奏は激しさを増し、彼の指は狂ったように別れの曲を紡ぐ。

 

「くぅ……ふ、」

 

 体温を持った血をすすり上げる度、イヴの身体は力を取り戻していき、その分ギャリーの命は失われていく。止めなければ。その意思を嘲笑うかのように、身体はギャリーを貪り続けた。

 

 最後の一滴を啜り上げる。びくりと痙攣したギャリーの腕が鍵盤上に投げ出される。

 

 悲しい不協和音が、長い間響いていた。

 

 

 

 その音が消えてからどれだけ経ったのかイヴにはわからない。腕の中のギャリーはぞっとするほどに冷たく強張りきっていたし、ステンドグラスの向こう側には月明かりが滲んで見えた。

 

「ギャリー……」

 

 そっと胸元に手を回し、十字架を手にとる。先程よりも激しい痛みが全身に回るのにもいとわず、イヴはそれを抱き締めた。赤黒く崩れる肌すら罪の象徴であり、罰だった。

 

「ごめんなさい……」

 

 届かない謝罪を風に乗せ、イヴは教会の塔を上っていく。ひと足毎に新たな痛みに襲われても、歩みを止めることはない。上り詰めた先の小窓を開く。

 

 ――早く明けてしまえ。

 

 涙腺すら焼き尽くす程に。涙すら溢せない程に。この私を裁いて欲しい。

 

 同じ場所には行けないけれど。

 

 最期に見た紫雲は、彼の瞳の色をしていた。

 

 

 

初出:2012/11/01(pixiv)