さよならの味がした

 

 透き通った小さなかたまりは、太陽に似ていた。ギャリーのコートからこれを取り出したときを思う。それはイヴにとって奇妙なほどに、悲しいほどに、遠い昔のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

「イチゴとかリンゴとか、もっと甘いのがあったらよかったわね。酸っぱいかもしれないけど、ごめんね」

 

「大丈夫、ありがとう」

 

「イチゴとかリンゴのキャンディーって、なんとなく作りものっぽい味に思えるのよね。アタシはだから、レモン味が好きなの」

 

 何とはなしに本を手にとっては棚に戻す。イヴに気を遣わせないためだろう、冗談めかしてギャリーは続けた。

 

「アンタはまだ小さいからね、本物のレモンなんて食べられないかしら」

 

「……お父さんとお母さんとシチリア行ったとき、」

 

「げ。そんないいのと比べられたら困るわよ。あんまり期待しちゃだめだからね」

 

 棚に伸ばしかけた手をぴたりと止め、ギャリーがイヴの言葉を遮る。急に振り向いたその表情が思いのほか真剣で、ようやくイヴは声をあげて笑ったのだった。

 

 ギャリーの瞳に浮かんだ安堵と慈愛のひかりに、気がつくことはできなかった。

 

 

 

 彼の命はみな、床に這いつくばって拾い集めた。優しく、けれどかけら一枚たりとも落とさぬようにしっかりと、青い花弁と茎を抱えギャリーのもとへと駆けて。腕のなかのものをそっと彼の膝に散らし、くたりと投げ出された身体に手を伸ばす。頼りない掌を存外筋肉質な胸に押し当てる。そこが微かに上下することを確認し、今度はあたたかい頬に手を滑らせた。

 

 「ギャリー、おきて。ギャリー」

 

 動かない身体に、小さな囁きはやがて慟哭の叫びになる。名前を呼んで揺さぶって、強く強く抱きしめて、力の限り頬を張って……それでもなお目覚めぬギャリーに縋りついて、イヴはひたすらに泣きわめいた。クレヨンの粗い線で辿られた世界とその深い嘆きは、滑稽なくらい不釣り合いだった。

 

 いつまでそうしていただろう。声が枯れるほどに泣いて、枯れない涙に顔中を濡らして、それでもイヴはゆっくりと顔を上げた。涙に色濃くなったタンクトップとコートの皺を直し。目を幾度も瞬くと、ぼやけた視界の片隅に鈍色のきらめきが見えた。前にも彼が使っていた、古ぼけたちっぽけなライター。けれども寄る辺ない小さな掌中では随分と頼もしげに見えた。借りるね、とポケットにおさめようとして、中に先客を見つけた。

 

 かわいらしい包み紙にくるまれたキャンディーは、たしかにギャリーからもらったもの。蜜色のセロハンをほどいて、小さなかたまりを頭上に――光源なんて把握できないけれど――透かす。

 

 やわらかい、ひかり。

 

 ほの暗い空間でそれは太陽のごとくきらめいて、脳裏に想いを巡らせる。両親と行ったシチリアの海とレモンの木々。ギャリーのコートの重みと温み。作りものの陽光を浴びて交わした約束。

 

「わたし、行かなきゃ」

 

 キャンディーを舌で転がして、そのままそっとギャリーにキスを落とす。ポケットが寂しくないようにライターを収め、右手には紅い薔薇を握り、もう一度立ち上がり歩き出す。口内で舐ったかけらは甘くて、酸っぱくて、ほんの少し塩辛かった。

 

 

 

 黄薔薇に秘められた部屋の、瀟洒な額縁に守られた絵。それを焼き切った瞬間にメアリーは崩れ落ちて消えた。これでもうみんないなくなってしまった。震える手で再びライターをしまい、イヴは部屋を飛び出した。無我夢中で駆けて、最後の鍵でドアを開け放つ。いつしかそこは、ひどく懐かしい場所になっていた。美術館に飾られた、ひと際大きい一枚。淡光を放つそれが自身をどこへ導くか、イヴは本能的に理解した。

 

 目を閉じてふたりのことを思う。眠り続けるギャリーは、最後まで自分のことを心配してくれていた。燃え尽きたメアリーは、憎悪と狂気の奥に隠しきれない羨望と孤独を孕んでいた。

 

 わたしだけ、ごめんなさい。

 

 微かな罪悪感はあれど、躊躇いはなかった。指先でポケットのかたちをなぞり、イヴは“向こう側”へ身を躍らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 随分と長いあいだここにいたような気がして、イヴはそっと館内の時計を見上げた。美術館に入る前にちらりと見た父親の腕時計が指した時間と、小一時間も変わっていない。それなのに疲れは酷く、深いため息が零れた。美術品を眺めながら両親の姿を探そうと歩きだして、イヴはある肖像画に惹きつけられた。

 

 青薔薇を抱き眠る青年の肖像に、どのゲルテナ作品より胸をかき乱される。暁光のようにも黄昏のようにも見えるロイヤルブルーの柔らかい髪。疲れも何もかも忘れてその面差しに見入った。緩やかに閉じられた瞳はどんな色をしているのだろうか。頬笑みを浮かべた唇はどんな声で、どんな言葉を紡ぐのだろうか。記憶を手繰り寄せるような空想を、しかし優しい声が遮った。

 

「イヴ、ここにいたのね」

 

 耳に飛び込んできた穏やかな声に、イヴの思考は霧散した。こちらに近づいて頭を撫でるその手が妙に懐かしい。何も考えずに心地よさに目を細めた。

 

「あらあら、疲れちゃった?」

 

 常よりも甘えたイヴの姿にくすりと笑い、彼女は続ける。

 

「やっぱり一緒にまわりましょうよ。せっかくみんなで来たんだから。そうだ! 観おわったらお父さんに飲みものでも買ってもらおっか!」

 

「レモネード……がいい」

 

 思わずそう答えて。

 

「あら、レモンはすっぱくて嫌いっていつも言ってるじゃない」

 

「レモネードが、いい」

 

 どうしても、と理由もわからず意固地になって母を見上げる。

 

「なんでもいいのよ。あなたが飲みたいものにしなさい」

 

 それじゃあ行きましょ、と歩きだす紅いワンピースの背中を追わなければ。けれど不思議と名残惜しく去りがたく、肖像画に向き直る。こくりとのどを鳴らすと、何故だか優しい甘さと酸味が感じられて……何か考えようとして、纏まらなくて、結局は母親の呼ぶ声にイヴは急いで歩を進める。

 

 今度は振り返らなかった。

 

 

 

初出:2012/05/12(pixiv 旧題:ARIA)