“はじまり”のさよなら

 

 人を傷つけないための嘘は罪じゃない、なんて嘘ね、とギャリーは独り言ちた。

 

 奇妙で奇怪な美術館で出逢った道連れの一人は、哀しいほどに気丈な少女だった。大丈夫、と呟くのはギャリーに心配を掛けないためで、はやく行こう、と急きたてるのはギャリーに迷惑を掛けないため。悪意なき、むしろ純然たる善意からなる言葉だからこそ、ギャリーの胸はちくりと痛んだ。

 

 ――こちとらアンタの倍以上生きてんだから、少しは頼りなさいってのよ。

 

 一人きりでの探索の場に、その声がやけに大きく響いて。

 

 

 

 青い人形たちの部屋からなんとか抜け出して、肩で荒く息をする。勝手に喉が締め付けられてうまく呼吸できない。

 

「ああ……もう!」

 

 ギャリーは震える手でもどかしくズボンのポケットを探り、ひしゃげた箱を取り出した。オイルが切れそうなライターで何とか火をつけて、肺に紫煙を満たしていく。息がくるしいときこそ、こうやって深呼吸してきた。美術館に行くのだから、と新しい一箱を買わなかったのが悔やまれて、けれど気を取り直し湿気かけた最後の一本を捨てずにいた自分に感謝した。

 

 ふと浮かんだのは、出会ったばかりの少女の、ルビーの瞳。ライターを、火を付けるさまを珍しげに見ていた。あの子にとっては、見たこともないものってわけね。それはもちろん良いことのはずなのに、何故だか寂しい。寂しいと思う自分が、腹立たしい。

 

 自分があの子くらいの年の頃、何をしていただろうか。「お母さん」などでは決してない、母と思うことすらはばかられる、しかし大層美しかった女のことをギャリーは想う。彼女はいつもムスクの香りを纏っていた。着ていてもそうでなくてもさほど変わりはしない薄く煽情的な下着に、厚い芳香を被せた婀娜花。男たちを部屋に連れ込んでは獣のように抱き合い、貪りあい、ついにはそのうちの一人に胸を刺されて死んだ。ギャリーが一六の年の暑い夏のことだった。

 

 女主人は肌の香を乱すものをひどく嫌ったから、あの家を出入りしていた男たちは誰も煙草を吸ってはいなかった。けれども、いや、だからこそギャリーは早くにそれを覚えた。表向きは、家に帰れない口実の一つとして。本当はなにより、自分の遺伝子にまで刻み込まれた女を少しでも消すために。淫らに腰をくねらせる女を憎んでいた。必死に腰を打ちつける男たちを憎んでいた。

 

 それでその口調にその性格にそのファッションなんだろうな、とくわえ煙草で言ったのは誰だろう。顔も忘れた知人の、声ばかりが思い出される。

 

 そして、あのころの――ちがう、ついさっきまでの――自分。性別の境界線に立って、紫煙の向こう側に立って、全てぼやかしてごまかして生きてきた。誰かの心や人生に踏み入れられたり踏み入ったり、そんな生き方は自分じゃなく他の誰かのためのものだと、固く信じていたから。

 

 年若いギャリーに煙草を教え、あちらこちらに連れまわしてくれた彼らのことは嫌いではなかった。自分に居場所をくれたことも、今こうして生活していけるだけの知恵や伝手をくれたことも、無論感謝しているけれど。ただそれだけだ。いつだって自分からにこりと笑って、きゃあきゃあと騒いで、周りを踏み込ませないようにしていた。

 

 ――イヴ。

 

 それなのにあの少女だけは違った。赤い薔薇からふんわり優しい香をさせて、抱き上げれば暖かい日向の匂いが漂ってきた少女は、今はギャリーの隣にいない。おぞましい作品たちが襲いかかる美術館の中で、まっすぐにこちらの目を射抜いてきたイヴの、その瞳の強さに圧倒された。燃え上がる太陽よりもなお赤い瞳が、幾度頭を振っても離れていかない。初めて、あんなふうに直向きに見つめられた。初めて、誰かを真剣に見つめ返した。

 

 人を頼るのが下手で、弱音を吐くのが苦手で、それでいて全身全霊をかけてこちらを信じてくるイヴを、護ってやりたい。今まで知らなかった感情に驚いて、なんだか全身がこそばゆくて、いつの間にか燃え尽きていた吸殻を携帯灰皿に乱暴に押し込んだ。だいじょうぶ、もう息は苦しくない。ギャリーは勢いよく立ちあがった。

 

 

 

 

 

 

 

 幾枚の花弁が散らされたのだろう。身体は重く、最早立っていることすら辛い。視覚も聴覚も嗅覚も、何もかもが閉ざされようとしている今なお全身で幅を利かせる痛覚にいら立つ。振り返るイヴに心配かけまいと嘘をつこうとして、先ほどの独り言を思い出した。狡い自分の言葉まわしに、きっと気づいていただろう。それでも、ああするしかなかったのよ、と。声に出して呟いたつもりが、微かな吐息が零れただけだった。情けない。苦い笑いに唇の端が引き攣れた。

 

 ずるずる這いずってどうにか壁にもたれる、それだけで息が上がって眩暈がする。煙草が吸いたい。完全につぶれた箱にはもう何も入っていないのがわかっていたけれど、諦めきれず中を左手でまさぐる――やはり空だった。いずれにせよ煙草があろうと、もうライターを握りしめた右手を上げられそうにない。ため息一つ、ギャリーはゆっくりと目を閉じた。

 

 霞みつつある世界の中で、随分と聞き慣れてしまった小走りの足音が耳をくすぐる。初めて聞く号泣が胸を刺す。この不可思議な世界がもたらす幻影とは違う、たしかな存在感に安堵以上の焦りが広がる。わずかな声を出すことはおろか、もう唇を震わせることすらできないというのに。

 

 ダメよ、イヴ。戻ってきちゃダメ。アンタは先に進むの。アンタのこと愛してくれる人がいっぱいいるあっちの世界に、帰るの、帰るのよ……。

 

 身も世もなく泣きわめくイヴを、撫でてやることも抱きしめてやることもかなわない。もう、彼女を護れない。脳裏に立ち込める黒い霧にひたひたと身体をしゃぶられて。それでもギャリーが怖れたのは、自身の死でも消失でもなく、イヴの孤独だった。

 

 時間が止まったこの場所で、どれくらいの時が立ったのだろう。イヴはゆっくりと顔を上げた。借りるね、と呟いた小さな手がライターを取り上げた。全てが霧に包まれそうで、かろうじて意識をここにつなぎとめて、ギャリーはその声をどうにかとらえる。これであの子は進んでいけるだろう。賢く勇敢なイヴならば、きっと元の世界に帰れる。

 

 そう確信できてようやく穏やかな感情が広がって、もう動くはずもないと思われた口角が持ち上がった。その唇に触れた柔らかな感触、押しつけるだけの拙い口づけ。

 

 その温みを最後に、ギャリーの全ての感情、感覚は途絶えた。

 

 かわいいキスしてくれちゃって。ライターのお代はそれで十分よ。だから、返しに来たりするんじゃないわよ……。

 

 ――さようなら、イヴ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゲルテナ展に飾られたある一枚の肖像画に、心を奪われる人は多いという。「忘れられた肖像」――一目見たら生涯忘れ得ぬ、奇跡の青薔薇と称された青年に与えられた皮肉な名。その由来を、誰も知らない。

 

 

 

初出:2012/05/12(pixiv 旧題:<ハジマリ>のさよなら)