真夏の恋の夢

 

 その物語は、古ぼけたスケッチブックの中に静かに佇んでいた。作者すら忘れていた絵本を見つけたのは、彼の家に招かれた小さな客人だった。

 

 

 

「なみだあめ……?」

 

 

 

 発見者である少女――イヴの声で読み上げられたタイトルが、誰もいない部屋にやけに響く。慌てて辺りを見渡すが、家の主がやって来る気配はない。ほっとしながら、それでも慎重に、イヴはそろそろとページを捲った。今なお鮮やかな水彩画と丸みを帯びた手書きの文字が目に飛び込んでくる。

 

 それは、とても温かいお話だった。

 

 

 

***

 

 

 

 その力ゆえに周りを傷つけてしまうつむじ風は、一人ぼっちで当て所もない旅に出る。優しい心は誰にも伝えられず、何時しか彼の中で澱んでいった。

 

  さみしい、かなしい。だれのそばにもいられない。だれもひつようとしてくれない。さみしいよ、かなしいよお。

 

 ある暑い夏の日のことだ。ひゅうひゅうと流れていくつむじ風は、道端に捨てられた綿あめに出会う。子どもに落とされて、そのままにされた彼女も一人ぼっちだと言うではないか。少し距離をおいて互いの境遇を語り合っていると、どこからか呼ぶ声が聞こえてくる。その声が持つ痛々しい孤独は、聞き覚えのあるものだった。

 

  つむじかぜさん、おねがいです。わたしをあっちにつれていってください。ちぎられて、たべてもらうことがわたしのよろこび。からだがきれてしまうのなんて、ちっともこわくありません。

 

 そう言った綿あめと共につむじ風は声のもとに向かう。そこは開かれた納戸で、中から真っ白な綿が呼び掛けてきている。手芸のために買って来られた彼女も、目的の品の完成後には忘れ去られていた。ずっと一人ぼっちで誰かが来るのを待っていたという。

 

 つむじ風は考えた。どこか、皆が幸せにいられる場所はないだろうか。そうして頭を捻って、疲れて空を仰いで、彼は思いついた。

 

  そうだ、そらにいこう。ぼくがかかえていくから、きみたちは、くもになるんだ。じゆうなそらで、ずっといっしょにいるんだ。

 

 綿あめと綿とをしっかり抱いて、つむじ風はただ上だけを目指す。ぐんぐん飛んで飛んで、ようやく行き着いた広い空で、彼らは太陽に声を掛けられた。今日ここには雲一つないんだ。あそこで項垂れる花の蕾がかわいそうで辛かった。君たちが来てくれてよかった、と。つむじ風さん、彼らを連れてありがとう、と。

 

 誰かを傷つけて、傷つけるのが怖くて逃げてばかりいたつむじ風は。

 

 価値を失って見向きもされず見捨てられた綿あめは。

 

 買い主にすら忘れ去られ置き去りにされた真っ白い綿は。

 

 それを聞いてただ涙した。

 

 

 

  ほろほろ、ほろほろ。ながれるなみだはあめになり、かわいらしいつぼみをぬらします。やがて、ゆっくりと、うつくしいすみれのはながさきました。

 

 

 

 愛くるしいアカネスミレが、優しい雨に包まれてささやかに、けれど精一杯花開いている。

 

 

 

***

 

 

 

 最後の菫に暫く見入っていたイヴは、軽やかな足音にぎくりと顔を上げた。スケッチブックを隠すべきか一瞬迷って、画集の下に滑り込ませようとしたがもう遅い。家主は既に部屋に入ってきていた。

 

「イヴってばまたここで絵を見てるの? リビングはクーラー効いてるんだからこっちにもって来なさいっていつも……」

 

 足早に近寄る長身の青年は、イヴの手の中の本に気づき言葉を失った。他人に見られたくないものを許可なく見てしまったのかもしれない。今更ながら自分の無神経な行動にイヴは小さくなる。か細い声で謝罪するが、申し訳なくて顔を上げることができない。

 

「あの、ギャリー……これ、画集と画集の間に挟まってて……勝手に見てごめんなさい!」

 

「よ、読んじゃったの……?」

 

 いつもぽんぽんとよく話すギャリーが辛うじて発した言葉に、イヴはますます罪悪感を募らせる。許してくれないかもしれないけれど、ちゃんと目を見て謝ろう。意を決してギャリーを見上げて、今度はイヴが言葉をなくした。

 

 怒っているか悲しんでいるか、あるいは軽蔑しているかと思ったギャリーは、何故か顔を真っ赤に染めて立ち尽くしていた。緩いウェーブのかかった髪の隙間から覗く耳まで紅潮している。硬直していたギャリーが、イヴの目の前で突然叫び出した。

 

「いやあああああ! 恥ずかしい! 恥ずかしくて消え入りそうよアタシ!! まさかこんなところにしまってあったなんて!!」

 

 両手で顔を覆ったギャリーが床にへたりこむのを、イヴは呆然と見ていた。人気デザイナーとして活躍するギャリーを身近で見てきたから、彼の絵はよく知っている。予想通り、これは彼の作品だったようだ。今でこそデザイナーとして働いているが、美大在学中は絵本作家になるのが夢だったと以前ギャリーは言っていた。

 

「この絵本、ギャリーが作ったんだね?」

 

 こくこく頷くギャリーは、こちらを見ようともしない。顔を隠したままひたすらに恥じ入っている。その両手に自分の手を重ねて、真摯にイヴは話しかけた。

 

「ギャリー。勝手に見てしまって、本当にごめんなさい。でもね、あのね、すごく素敵なお話だったから、恥ずかしがらないで?」

 

 欠片ほどの嘘もお世話も含まれていない声に、ギャリーはゆっくりと手を下ろした。頬の赤みはちっとも引かず、羞恥からくる興奮に菫色の瞳はには水の膜が張っている。柔らかい癖っ毛を撫でると、くすぐったさにギャリーは身を捩った。漸く彼の笑みが戻る。髪を梳く小さなイヴの手を捕まえて握り締める。

 

「わかったわよ。アンタも謝らなくていいのよ、あそこに置いたっきり忘れてたのはアタシなんだから。……素敵なお話って言ってくれて、ありがとね」

 

 お返し、とイヴの頭を撫でるギャリーは、すっかりいつも通りだ。もうこの蒸し暑い部屋を後にして、リビングでおやつにすることに決めた。軽く画集を片付けて、スケッチブックを一番上に乗せる。部屋を出たところで、けたたましく玄関のベルが鳴った。

 

「メアリーかな?」

 

「でしょうね。まったく、鍵は渡してるのに自分で開けやしないんだから……」

 

 ぼやいたギャリーが扉を開けてやると、やはりメアリーが駆け込んできた。高揚した口振りで一気に捲し立てる彼女に、ベルのほうが余程淑やかだとギャリーは呆れる。やたらに興奮して騒いでいても、写生会に持っていったものは丁寧に扱うのが彼女らしい。

 

「だからね、雲! 雲をみんな食べてたんだよ!」

 

「蜘蛛ぉ!? 誰がそんなもの食べるのよ!?」

 

「みんなだってば! 近所の子たちみんな美味しそうに頬張ってたの!」

 

「みんな……ですって……? 好事家だけなら未だしも子どもたちみんなが蜘蛛を……」

 

「だからわたしも食べたいよ、三人で食べに行こうよ!」

 

「アタシ嫌よ絶対!!」

 

「何よギャリーのケチ、甲斐性無し!!」

 

「ケチとかそういう問題じゃない! って言うか甲斐性無しなんて言葉どこで覚えてくんのよ!?」

 

「イヴんち、イヴのママから」

 

「え、ちょ……えええええ!?」

 

 メアリーを見て感じたことも忘れ、ギャリーも大声で話している。ぎゃあぎゃあと玄関口で喧嘩する二人を見てイヴは笑った。もっと見ていたいけれど、このままでは近所迷惑だろう。ギャリーの袖を引っ張って答えを教えることにする。

 

「ギャリー、きっと綿あめのこと、メアリーは言ってる。今日と明日、お祭りがあったでしょ?」

 

「あ、あぁ! 成る程ね……なんかもっと重大な発言があった気がするけどもういいわ……。じゃあメアリーは、白くてふわふわしたあれが食べたかったのね?」

 

「だから雲が食べたいって言ったじゃない!」

 

「そっちの雲ね……」

 

 紛らわしい、と呟きそうになりギャリーは口を噤む。“綿あめ”の一言で解決できたことがこんなに拗れたのは、メアリーのせいではない。

 

「それなら、今日のおやつはお外で食べましょうか?」

 

「いいの!?」

 

「勿論よ。メアリー、アンタが見た雲みたいなお菓子はね、綿あめって言うのよ」

 

「わたあめ、わたあめ……綿あめ! 早く綿あめ食べに行こう! ギャリー急いでよ!」

 

「そんなに急かさないでちょうだい、今クーラー消すから。メアリー、画材は部屋にしまいなさい。イヴ、ポシェット取ってらっしゃい」

 

 メアリーはばたばたと、イヴは静かに言われたことを済ませる。正反対のように思えることも多い二人だけれど、つけっぱなしになっていたクーラーを切って財布とウェットティッシュをポケットに突っ込んだギャリーが玄関に鍵を掛けるのを落ち着かなく待っている様は姉妹のように似ていた。鍵を空いたポケットに収めたギャリーが向き直るのを待ちきれず、彼とイヴの手を取ってメアリーは駆け出した。

 

「こっちだよ、早く早く!」

 

「あんまり引っ張らないで、綿あめは逃げやしないんだから」

 

 運動は苦手だし走るのは嫌いだけれど、イヴは気持ちが弾み出すのを止められない。あっという間についたたくさんの出店の近くのベンチで息を整えても、不思議なほど胸が高鳴っているのがわかる。

 

「ほら、買って来たわよ」

 

「これが綿あめ?」

 

「そうよ。さぁ、召し上がれ」

 

「ん……美味しい! 甘くてふわふわしてる!」

 

「そうでしょう? でも手で触ったらだめよ、べたってするから」

 

 食べるのに夢中で聞いているとは思えなかったが、一応忠告してからギャリーも自分の分を食べ始める。隣に腰掛けたイヴは神妙な顔つきで綿あめを食していた。

 

「イヴ……アンタは何でそんなに真顔になってんのよ?」

 

「これ、食べるのが難しい。美味しいから一気に食べようとすると、口の回りがべたべたになっちゃうの」

 

「そうねぇ……」

 

「ごちそうさまでしたっ! ねぇギャリー、向こうの方にはきらきらの飴とか売ってるんだよ、あれも食べたい!」

 

 話に割り込んだメアリーの顔と手は案の定砂糖で酷くべたついている。丁寧にウェットティッシュで拭ってやった後で、その手に幾らか硬貨を握らせてやる。すぐ帰って来るように念を押したが、しばらくは戻らないだろう。メアリーを見送り、軽くギャリーが自分の口元を拭いていると、漸くイヴも食べ終わった。随分と注意深く食べていたようだが、小さな口には限界があり、メアリー程ではないものの顔の下半分がべたべたしてしまっている。

 

「イヴ、割り箸捨てたらこっちにいらっしゃい」

 

 大人しく顔を拭かれているイヴは何やら思案顔だ。考えていることがギャリーには何となくわかった。

 

「イヴ、何か他に食べたいものがあるなら言ってもいいけど、綿あめもう一本はオススメしないわよ」

 

「なんでわかったの?」

 

「綿あめの屋台ばっかり見てるから。どうする? 他のもの何か欲しい?」

 

「今はいいかな。だからギャリー、メアリーが帰って来るまで二人でお話ししたいな」

 

 その提案を蹴る理由がギャリーにあるはずもない。珍しく饒舌なイヴの話にギャリーは耳を傾けた。

 

「あのねギャリー、私ね、あのお話を読んで私たちのことだって思ったの」

 

「私たちのこと……」

 

「うん。ギャリーはつむじ風。誰かを傷つけたりはしてないけど、最後には私とメアリーを抱っこしてあの大きな絵から出してくれた。私は綿あめ。……学校でね、一人ぼっちだったの。私のこと家がお金持ちで成績がいいからって贔屓する先生に、それはおかしいって言ったら嫌われちゃった」

 

「イヴ……」

 

「大丈夫、今は寂しくないから。それでメアリーが真っ白な綿。ゲルテナに置き去りにされて、ずっと誰かを待ってた」

 

 木陰のベンチに、風がざあっと吹き抜ける。コンクリートジャングルに囲まれたギャリーのアパートと違い、クーラーがなくとも心地よいそれが涼しい。

 

地面に着かない足を軽くぶらつかせ、イヴはギャリーを見つめている。

 

「そう、かもね……。アタシは確かに昔、ちょっと乱暴者だった。芸術と、それからアンタたちと出会わなかったら、アタシの人生は違うものになっていたでしょうね。あの絵本は、アタシの未来を予言してのかもしれない」

 

「あのお話がギャリーの夢で、今は夢が叶ったのかもしれないね。……どうしてスケッチブックに描いたままにしちゃったの?」

 

「タイトルがね、思い付かなかったのよ」

 

「“なみだあめ”じゃダメなの?」

 

「涙雨はね、悲しみに同情して降る雨とか、悲しみが降らせる雨って意味なのよ。だからちょっと違うわねって思ったの」

 

「なるほど……」

 

 あのお話、もっとたくさんの人に見てもらえたらいいのに。そう呟くイヴの頭をわしゃわしゃと撫で回す。驚いて目を見張るイヴの手を引き、ベンチから立たせた。眩い金糸の少女がこちらに駆け寄ってくるのが見える。

 

「お喋りしたら喉渇いたわね。メアリーと合流してラムネでも飲みましょうか」

 

「うん! ……あのねギャリー」

 

「なぁに?」

 

「あの絵本のタイトル、私が考えてみてもいい?」

 

「そうね……お願いしようかしら」

 

「ありがとうギャリー!」

 

 大喜びで早速頭を捻り始めるイヴの横で、ギャリーはひっそりと笑う。懐かしい話も悪くないけれど、久々の新作はもっといい。例えばこんなのはどうかしら、とギャリーは脳内で筋書きを作り絵を乗せ始める。

 

 

 

 それは、甘い香りに誘われて、むしゃぶりつくと離れない。深追いして求めれば胸焼けする。だのに柔らかくて幼い、愛くるしい恋のお話。

 

 

 

初出:2012/08/08(pixiv)