まどろむ、ねむる

 

 館内の明かり全てが落ちた中でもわかるほど、その部屋は豪奢な造りだった。やわらかく焚き染められた香の匂いに、扉を蹴破った次元は眉を顰める。寝台に腰かけこちらを見据える、月明かりを背負った男の影が動いた。

 

「じげん……か?」

 

 思いの外しゃんとした声だった。一週間も前に囚われて連絡がつかなくなったきりだったと俄かには信じられぬほどに。敵方の狙いはこちらが持っている情報のはずだから、手酷く痛めつけられた仲間と対面することになると次元も覚悟を決めていた。だからこそ戸口の男が抱いた訝しみに、暗がりの囚人が微かに笑う。ゆらりと彼が立ち上がると、鎖の音が存在を主張した。伸びた影だけが一足先に次元に触れる。

 

「ああ……五ェ門?」

 

 床は揺らがずにその場所にあり、踏みしめた者の身体を飲みこみはしない。そんな当たり前のことを一歩一歩確認しているかのように五ェ門の足さばきは慎重だった。よろめいて無様に倒れ込むような真似はしない。だがその足取りに言い様のない不安を掻きたてられて、次元は慌てて五ェ門に駆け寄った。広すぎる室内を横切って薄闇に立つ侍に手を伸ばせば、流石に緊張の糸が切れたのか、毅然とした立ち姿が少しふらついて頼りなげになる。倒れるほどではないがたたらを踏んだ五ェ門の足元で、また鎖が小さく音を立てた。

 

「おい五ェ門、大丈夫か!?」

 

 ようやく腕の中に収めた五ェ門をまじまじと見つめて、次元は言葉を失った。首筋から顔、ざっくりと開いた胸元に目立った外傷は一つもない。だがそのかんばせは生気を失くした土気色で、ぞっとするような隈が目の下を塗りつぶしていた。こちらを見上げる瞳はどこか呆然とした光を湛えて、たびたび見返すべき目の前の存在を見失っては虚ろに揺れた。繰り返し噛み切られて傷だらけの唇が虚勢にもならない答えを返す。「大事ない」と淡々と答える声の空しさが、だだっ広い部屋に不気味なほど似合っていた。

 

「待ってろ。今外してやる」

「……待て、次元」

 

 足首と寝台とを繋ぐ鎖に銃口を向けたところで、次元を止めたのは他ならぬ五ェ門自身だった。聞けばこの太い足枷は、時折強い電流を流すのだという。例えば哀れな虜囚が束の間の眠りに身を委ねようとしたときや、彼が縛めから逃れようと奮闘したとき。或いは何となく気まぐれに、その持ち主がそうしたくなったときなどに。五ェ門の視線の先に目を落とすと、ほとんど外傷の見受けられなかった痩身の中で、確かに右足首だけがぐるりと火傷に囲まれていた。無残にも焼け爛れて体液を滲ませているそこが目に痛い。すぐにでも解放してやりたくて、次元はあらためて引き金に指をかけた。

 

「だからならぬと、」

「心配すんな、五ェ門」

 

 愛銃を取り上げようとする五ェ門の抵抗を左手で抑え込み、幼子に言って聞かせるようにゆっくりと話す。銃弾で鎖を撃ち砕くのに、五ェ門が恐れているようなことは起きやしないということ。

 

「そもそも送電線をぶっちぎっちまったからここら一帯はどこも停電。ルパンがぶち込んだバズーカのせいでこの屋敷の自家発電装置ももうオシャカだよ。わかるか?」

「てい、でん……」

 

 鸚鵡返しにもできずぼんやり呟いた五ェ門は、殆ど次元の言葉を解していないようだった。瞬きを繰り返す目が頼りない。彼を混乱させる全てを視界から消すように抱き寄せて、返答を待たず鉛玉で拘束を断った。物騒な銃声と鎖の断末魔に、腕の中の痩身がひくりと震えた。

 

 

***

 

 

 然程必要のなかった傷の手当ても済み、五ェ門は七日ぶりに自室の布団に横になっていた。三人の私室の中では最も奥まった場所にあるのがそこなのに、リビングで話す二人の声は気遣いに自然と低くなる。

 

「医者の見立ては」

「大したこたねぇ。あの怪我もひと月もすりゃあ綺麗に治るだろうとよ」

 

 息を吐くために、紫煙を深く体内に取り込む。ようやく安堵の嘆息が漏れた次元を横目で見やって、ルパンはおもむろに話し始めた。

 

「敵さんが欲しかったのは五ェ門の情報だけじゃあなかったってこった」

「あ? どういうことだよ」

「おかしいと思わねえのか、次元」

 

 一週間に渡る監禁にも関わらず殆ど傷の見受けられなかった身体、拷問の対象を放り込んでおくには豪奢すぎる居室。屋敷の主人の醜悪な面が次元の脳裏を過ぎった。あの狒々じじい、噛み締めたフィルターごと吐き捨てた言葉を聞いてルパンが続ける。

 

「五ェ門にゃなるたけ無粋な傷はつけたくねぇ。だが情報は欲しい、喉から手が出るほどに。奴さんが出した答えがあの足環ってわけだ」

 

 眠りに落ちようとすれば決まって、そうでなくとも思いがけない瞬間に、電流を流して精神を追い詰めていく。実際次元が救出に訪れたときの五ェ門は、気丈に見えてまともな判断ができていないようだった。ルパンと合流しアジトに辿り着いてからも、会話は碌に成立していない。

 

「ほんっと無茶するよなぁ、オレたちの侍は」

 

 針の先ほどの傷も見逃さないようじっくりと検分された身体で痛々しかったのは、言うまでもなく右足首の火傷ともう一つ。服の下、左腕に刻まれた深い爪痕だった。べっとりと血に濡れた右手の五指を盥の湯に浸して洗ってやったのもつい先ほどのことだ。

 

「苦痛に屈してぶちまけたところを、嘲笑いながら抱く心算だったんだろうな」

「当てが外れちまってざまぁみろってんだ……っと言いたいところだけっどもな」

「相手が悪かったな」

 

 そういうこった。話しながら吸い終えていたジタンを灰皿に押し付けて、ルパンはおもむろに席を立った。後は追わない。扉が閉まる音だけを聞いて、次元もまたリビングをあとにした。

 

 

***

 

 

 襖を僅かに引いた途端花瓶が飛んできた。手元が狂ったのか、次元からは1メートル以上離れた壁にぶつかって割れたそれが、もの悲しい音を立てて床に落ちた。肩で息をした五ェ門が不安げにこちらを睨み付けている。主役を失くした床の間がどこか滑稽だった。

 

「なんだよ、驚くじゃねえか」

「じげん……?」

 

 肩を竦めて両手を上げて、次元は努めて鷹揚に部屋に足を踏み入れた。こちらに歩み寄るその動きを目で追って、五ェ門がもう一度繰り返す。次元。噛んで含めるように丁寧に名を紡ぎ直してやっと、得心がいったように一つ頷いた。やつれた身体がふるりと震える。開け放たれた窓から冷え切った風が入り込んで部屋を酷く冷やしていた。

 

「なんだって窓なんか開けてんだ、五ェ門?」

 

 混乱させないように、ゆっくりと。優しく尋ねられて五ェ門は記憶を辿る。いや、ちと暑くて……そう答えた痩身は小刻みに震え、露わになった首筋には鳥肌が立っているというのに、心底そう思っているようだった。跳ね飛ばされてぐちゃぐちゃの掛布、中途半端に捲られた床の間の掛け軸。何を思ってそんなことをしたのか、次元には全く理解できないし五ェ門自身もわかってはいないだろう。

 

「俺はさみぃんだ、閉めていいか?」

「あ、ああ……」

 

 棒を飲んだように突っ立ったまま応じる声を背中で聞いて、次元はとりあえず窓を閉めた。変に捻じれた掛け軸を直して、布団を元通りにして横になる。「次元?」尋ねた声に答えるように、冷え切った右腕を軽く引いた。それだけで倒れ込んできた五ェ門の身体も、やはり恐ろしく冷たい。熱を移すべく、しっかりと抱きこんで毛布の下に潜り込んだ。弱い狼狽と抵抗を抑え込むのは容易いことだ。

 

「なっ! 何を……!?」

「おめぇも寝ろ」

 

 不親切極まりない返答を投げ、自分を腕に閉じ込めたまま寝息を立て始めた男を弱り果てて五ェ門は見上げた。何がどうしてこうなったのか、次元の胸に頬を押し当てた姿勢で緩く拘束されている。頭と肩をそっと押さえる掌から、柔らかい温みが伝わってくる。耳を澄ませば寝息と共に規則正しい心音が聞こえた。

 

「……ん、」

 

 穏やかでまろみのある安寧に浸って、久方ぶりに全身から力が抜けていく。確か自分はこれ以上なく疲れ果てており、一刻も早く眠りにつきたかったような気がする。思い出したら最後、もう僅かに自身を保つ気力も理由も見失って、小さな欠伸一つしきる前に、五ェ門は意識を手放していた。

 

 

***

 

 

 どうやら寝返りをうったらしい。突然飛び込んできた西日に瞼を執拗に射抜かれて、不承不承それを持ち上げた。途端に鋭さを増す日から逃れるためにもう一度窓に背を向け、五ェ門はぼんやり瞬いた。鼻先が触れ合うほどの距離にいる男は、苛烈な瞳を見せずぐっすりと眠っている。見慣れた帽子もなく、厚ぼったい前髪も持ち上げられて。存外長い上睫毛や薄く開かれた唇を見つめると、その奇妙なあどけなさがこそばゆく思えた。

 

 何故、次元に抱かれて眠っていたのだろう。

 

 左腕と右足首と、寝すぎた頭がじくじく痛む。鈍痛と困惑に低く呻くと、目の前の男が目を覚ました。あっさりと事情を把握したらしい次元が笑い、五ェ門の頭を軽く撫でた。

 

「やっと起きたか、お姫さま」

 

 触れるだけのキスをして、そのまま身を起こして部屋を出ていこうとして。今起きたのはお主ではないか。頓珍漢な答えを聞いた背中が笑いに震えた。

 

「いいから、もう少し寝てろ」

 

 笑いながら去っていった次元の声が優しいから、再びの眠気が五ェ門を包み込んだ。よくわからないが随分と眠っていた気がする。でも、もう少しだけ。嗅ぎ慣れた男の香りに安堵して、温い微睡みに降りていく。

 

 

初出:2014/03/12(pixiv)