日が落ちて月が満ちる夜。

 その“剣豪”は世界から消える。

 

 

 そのとき一匹の獣を狂わせていたのは、身を捩じ切らんほどの飢餓感だった。元来の理性は完全に消し飛ばされ、彼はひたすらに森をさまよい歩いていた。冴えた春先の空に煌々と照る月を木々が陰鬱に隠しても、優れた嗅覚は今宵の糧を容易く捉える。唾液が滴るような魅惑的な香は生きた野兎のもの。昂奮に喉がひくりと震えた。

 

 風下から身を低く屈め、一跳びに喉笛を食い千切る。断末魔の叫びはおろか末期の微かな呻きさえ上げることもなく死んだ獲物の、今度は胴体に牙を突き立てた。柔らかい身体を鋭く貫く感覚がたまらない。吹き出した血もろともに腸を啜り上げて貪っても、心身を苛む飢えはしばらくこびりついて残っている。

 

 ようやく気狂いじみた空腹が去ったとき、あたりには血に濡れた毛と骨が虚しく散らばるばかりだった。血肉を腹に収め骨までもしゃぶり尽くす悦びは最早跡形もなく消え果てている。代わりに襲った途方もない惨めさが、人の理性を取り戻しつつある彼を散々に打ちのめした。獣じみたそれが嫌でも、べっとりと汚れた鼻面を拭う術はないから、敗北感に足を引きずりながらも彼は水辺へと歩き始めた。心の機微など知らぬとばかりに、ぴいんと立った耳はせせらぎの存在を知っていた。

 

 切り立った岩場を下ることなど造作もない。しなやかな四つ足は、突き放したように聳える岩場の僅かな足掛かりを踏みしめて駆けるのに適していた。こじんまりした河原に下りれば濃い水の香と共に、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔を擽る。

 

 硝煙と煙草と人間の血。それから微かに、洋酒と男物の整髪料。

 

「……でっけえ狐だな……お、こっち来た」

 

――次元。

 

 そう叫んだはずの口からは獰猛な咆哮が飛び出しただけだった。それでも傷だらけのその人はゆっくりと身を起こし彼に手を伸ばしてきた。どうして、ここに。問うことの叶わない疑問が胸中に澱として積もっていくのに、駆け寄った先の次元は気楽に笑っているのだった。人に慣れてんのか、と痛みを堪えながら呟いた声にはどこか惚けた暢気ささえある。見慣れた手にするりと背筋を撫ぜられて、獣の身体が強張った。硬い掌が幾度か広い背を往復したかと思うと、次の瞬間には冷えた痩身に思い切り抱きつかれた。傷を負っている相手を慮れば仰け反って振り払うこともままならない。掠れた声が耳元を擽った。

 

「あったけえ……」

 

 それきり意識を飛ばしてしまったらしく、次元はそれ以上何も言わなかった。困惑した彼がうろつかせた視線の先には、ごく小さな崩落。先程獣が軽々と降りたそこで、ちょっとした事故があったようだった。怪我に障らぬよう細心の注意を払い、彼はそうっと歩き出した。弱々しく呻く仲間の、力なく投げ出された腕を離さないよう慎重に咥えて。

 

 急な崖や生い茂った藪は避ける。山のあちこちを思い浮かべつつ、道を迂回してやって来たのはみすぼらしいトタン屋根の粗末な管理小屋だった。明かりが漏れる戸口に忍び足で近寄って、気を失っている怪我人を横たえた。枯れ枝の折れる乾いた音は、幸いにも中には届かなかったらしい。頭を振って瞼を震わせた次元も目を覚ますことはない。

 

 最早その人を表すアイコンとなったボルサリーノを失い、血の滲むいくつもの傷と泥で頬を汚したガンマンを見下ろす。心配だけでない奇妙な感覚で全身がざわつき、鼻先をボタンダウンの襟元に寄せたところで彼は動きを止めた。好き放題に食らった生き物の血と肉に汚れたそこがとても不釣り合いに見えたから。彼がここにいる意味は、次元のためにできることはもうない。すん、と鼻を鳴らすと踵を返して獣は駆け出した。

 

 夜露が毛むくじゃらの足を冷やす。茨が尻尾を裂いて痛い。それでも脇目も振らず山道を走り、掘っ建て小屋から十分離れる。ぽっかり開けた場所に立ってようやく、獣は朗々と一つ鳴いた。そうして幾重にも木霊したそれが消えて、小屋の戸が開き次元を内に入れたとわかるまで、身動ぎもせず月明かりを浴びていた。

 

 狭苦しい寝ぐらに帰っても、男の手の優しさと温い体温が残り、じんじんと全身を痺れさせる。それほどに思いがけない邂逅だった。近年では理性を粉々に打ち壊すほどの欲に襲われたことなどなかったから、獣が借りぐらしにと決めた洞窟を出ることは稀だった。それに次元。ルパンと共にアジトにいるはずの男がここにいるなどと、一体誰が想像できただろう。

 

 それは泣きたくなるくらい優しい手つきだった。愛銃はもちろん携行不可能な重火器やあらゆる乗り物、最新の電子機器まで巧みに操る無骨な手指の動きが、彼の想像もつかないほどに穏やかだったなんて。あんな風に慈愛すら感じる触れ方をされたのは久しかった。

 

 獣のときも、人のときも。

 

 俯いた視線に入るのはつるりとした白い肌で、それで彼は夜明けを知る。洞にあの狐の姿はない。朝日を拝むべく両の足で立ち上がったのは、かの義賊が子孫、十三代目石川五ェ門その人だった。

 

 

 

***

 

 

 

 その昼ごろにふらりとルパンが訪ねて来た。既に修行を再開していた五ェ門を探すべく、随分と歩き回ったであろうスーツ姿の痩身は草臥れて泥塗れだ。二人してなぜ、山歩きに適した服を選ばない。滝に打たれての呆れの溜息はルパンに届かず流されていった。

 

「よう、五ェ門」

 

 疲れ果てた声は轟音に掻き消えがちになる。不承不承滝行を辞め、巌の上に伸びたルパンに五ェ門は歩み寄った。尋ねる声が上擦らないよう、改めて意識してから問いかける。

 

「お主が来るとは珍しい」

 

 それは事実だった。山に籠った五ェ門を迎えに来るのはいつだって次元の役割だったし、そういった折ルパンは何かの作業に掛かり切りのことが多い。そのルパンがわざわざここに来た理由を五ェ門はようく知っていたけれど、直接的に問う方法はわからなかった。

 

「今回のヤマは延期だ」

「……何故」

 

 言ってからますますわからなくなった。“五ェ門”はもっと察しがいいか、或いはこの程度で次元のことなど頭に上らないか。木の枝に掛けていた手拭いをひっかぶって、五ェ門は表情を隠せないかんばせを覆った。冷えた岩に火照った頬を押し当てていたルパンは、幸いにも伏せたまま身じろぎせずに岩肌を見ていた。

 

「次元がよお、」

 

 手拭いを絞る手がびくつかぬよう構えていたから、それなりに自然に聞くことができたはずだ。今はまだ鷹揚に、先走らずに聞くべきだ。普段の行動を必死に思い返し、続きを促しながら五ェ門は単衣に手を伸ばした。

 

「ちいっと怪我しちまってな。対したこたぁないんだけっどもよ、ありゃ仕事は無理だ」

 

 肋骨と左肩と左腕。咄嗟に頭と利き腕は庇ったんだけどよ、と続けたルパンの声を五ェ門は言葉なく聞いていた。

 

「……五ェ門?」

「次元は、いや……そうか。無理をせぬようにと伝えてくれ。拙者は今しばらく修行を続ける」

「おう、先のことはまた連絡すっからよ」

 

 ひらひらと片手を振るルパンは、もう少しここで休んでいくようだった。飛沫に濡れた大岩を身軽に降りていく五ェ門に、足滑らせんなよ、と一言だけ声をかけた。

 

 わかっておる。そう答えようとして思いとどまり、五ェ門は口を固く噤んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 時期を逸した仕事はリカバリーが難しいようだった。大樹の下で剣を振る五ェ門に、次に機が熟すまで半年は計画を延期すると改めて告げてルパンは下山していった。それだけの時が経てば次元と顔を合わせるのに気まずさもあるまい。雪解けの凍れる水で汗を流して、五ェ門はようやく溜息を吐いた。

 

 心身を鍛え上げる日々が瞬く間に過ぎれば、再び苦難のときがやって来る。古ぼけた庵を離れ黴臭い洞穴を五ェ門が訪れたのは、満月を今晩に控えた日の朝だった。

 

 頭上に仰ぐ日輪が沈めば、侍は一匹の獣に姿を変える。あまり日に焼けることのない、それでも節くれだった男の手は毛むくじゃらになって斬鉄剣を手に取れもしなくなる。二本の脚で立っていることは叶わず四つ足で大地を踏む。頭を振っても黒髪は頬を擽らず、ぴいんと立った耳が遠くの音を拾い上げるのだった。

 

 いつものように軽く身体を震わせて、それから五ェ門は湿り気を帯びた穴の中で丸くなった。予め衣類と愛刀は行李に入れて最奥に据えてある。その手前には多少保存のきく食料も少しばかりおいてあるし、催したときは穴のすぐ外の藪で用を足せばいい。幼い頃張り手や木刀で教え込まれた言いつけを、五ェ門は概ね忠実に守っていた。ひたすら眠り、腹が空いたなら食べ、時がすぎるのを伏して待つ。時折強い飢餓感――血の滴る生き物を貪りたいというような――に屈したとき以外、外をふらつくことは決してなかった。いつしかそうしたいとも思わなくなっていた。

 

 それなのに。夜風に乗った桜の香に誘われて、五ェ門は立ち上がってしまった。いけないと脳内で警鐘が鳴り響いて、一足ごとに過去の折檻の幻影が歩みをもたつかせた。今引き返せば間に合う。穴ぐらの外に背を向けて、行李の前で眠りにつこう。幾度も繰り返した警告と自身に向けての懇願は、外に出た瞬間に掻き消えた。

 

 じっとりと黴臭い空気はなく、噎せ返るほどの夜の香が広がる。満月にひたむきに愛された桜の木々が、豪勢な枝ぶりで狂おしく咲き誇っていた。盗みのスリルや命のやり取りにまとわりつく冴えた興奮はない。それでいて背筋を震わせるような“夜”だった。

 

 見上げる梢はいつもより高い。花々を支える厳めしい幹から、瀟洒に飾り立てる幾つもの枝へ。半ばへたり込むようにして桜に引き込まれていると、後ろから聞き慣れた声がした。

 

――今日は花見か。

 

 そうして声をかけられるまで本当に気がつかなくて、驚愕に五ェ門の身体が跳ねた。飛び上がるようにして自身に向き直った狐の姿を認め、声の主は少し笑ったようだった。懲りずに濡れ羽色のスーツを身に纏い帽子を目深にかぶっている。右手には見慣れない小さな袋を携えていた。

 

 次元、と呼びかけることは叶わない。一月前に見たときとは違い、普通に歩きこちらに近寄ってくる仲間の姿に、五ェ門はすっかり混乱してしまった。傷はもういいのだろうか。それよりも早く身を隠さなければ。どうするか決めかねて狼狽えているうちに、次元は目の前に立っていた。いきなり屈み込まれ頭を撫でられて、ますますどうしたらいいかわからなくなる。犬のように尾っぽを丸めて尻込みした五ェ門を見つめ次元が微かに微笑んだ。

 

「礼だ」

 

 ゆっくりと袋から取り出され、存外丁寧な手つきで広げられた包みの中には、狐の好物と広く言われるものが入っていた。油揚げと次元の顔を交互に見比べて、それから五ェ門は首を傾げたらしい。人間みてぇな真似しやがる。そう笑った次元の手が伸びてきて、また頭を撫で回した。銃器の扱いに長けた手は、今度は離れていかなかった。やや乱雑に耳の間を行き来する右手が覚えのないこそばゆさと心地よさを齎して、五ェ門は知らず目を細める。

 

「お前さんだろ、先月の晩助けてくれたのはよ」

 

 だから礼だよ、よかったら食え。そう言った次元の両手が、耳の後ろから背を撫で下ろし、そうしてゆるゆる離れていった。

 

「……なんだ、食わねえのか」

 

 逃げはしない。けれどつんと鼻先を持ち上げてあらぬ方を向く五ェ門に、鷹揚に次元は問いかけた。食べたくない訳がなかった。柔らかそうな薄揚げの匂いが食欲を刺激して、五ェ門の胃はきゅうと締め付けられている。修行中の身は久しく手の込んだものを口にしていなかったし、もともと薄揚げそのものが五ェ門の好物の一つでもあった。

 

 だからと言ってまさか、相手は知らぬとはいえ仲間の前で、地面に置かれたものに鼻面を突っ込んでかっ食らうなんて――。

 

「いらねえなら俺が食うッ……!?」

 

 何枚も重ねられたうちの一枚をガンマンの指が摘み上げたとき、五ェ門の逡巡は霧消した。反射的に次元に飛びかかり、掠め取った獲物を口内に引き込んで咀嚼する。一度噛み締めてしまえばもう一切の抑えがきかず、五ェ門は鼻を鳴らして好物を堪能し嚥下した。油物など随分口にしていないから、広がる風味もどこか懐かしい。

 

 奪い取ったものをすっかり胃袋におさめ満足げに口もとを舐ってようやく、獣は自身が組み敷いた存在に気がついた。右手で帽子を抑えた次元が、まじまじとこちらを見上げている。笑いを堪えた唇が歪められて、けれど限界を超えてしまったそこからはすぐさま大笑が溢れて止まらなくなる。跳び退ろうとした狐の身体を、げらげら笑いながら次元は抱き寄せた。

 

「やっぱり食いたいんじゃあねえか! 痩せ我慢しやがって!」

 

 爆笑に息も絶え絶えな次元にそう揶揄されても、何故か不快にはならなかった。そこかしこをやたらめったら撫で回されて、困惑のあまり五ェ門はうろうろと辺りを見渡した。桜がどこまでも舞い散っている夜の山に、頼みの綱など見えはしない。

 

「ほら食えよ、俺が食っちまう前に」

 

 笑いの余韻を引きずったままの次元に促されたとき、五ェ門はもう逆らわなかった。積まれた薄揚げを何枚か纏めて頬張り噛み締める。食べている自分より嬉しげにしている次元に、その次元の右手が時折自分を撫でることに、居心地の悪さを感じているのに胸が熱くなる――優しいのだ、この男は。心の温みとそこに刺さる一本の棘、どちらにも気づかぬふりをして五ェ門は黙々と糧を平らげた。

 

 そうすることで自分でも知らぬ間に、何かに懸命に抗っていた。 

 

 

 

***

 

 

 

 夢を見ていた。

 

 幾度も見たことのあるものだ。

 

 子狐が丸まって眠るのを五ェ門はどこかから眺めている。あの頃の隔離場所は冷たく閉ざされた土蔵の中で、外に出ようとしたり遠吠えをしたりしようものならこっ酷く殴られたものだった。

 

 誰がそう教えたのか忘れたが――或いは女中か誰かの話を立ち聞きしたのかもしれない――数えで六つだった五ェ門は自らの出自をよく知っていた。顔も知らない母親が人ならざるものであったということまで。幼い世継ぎに人々は深く傅きながら、影では“化け物”を疎み遠巻きにするばかりだった。

 

 その満月に至るまでの数日間、五ェ門は床に臥していた。何の変哲もない風邪も幼い身体には辛いもので、けれど月が満ちればいつものように子狐は蔵に放り込まれた。……喉が乾いた。高熱から来る尋常じゃない渇きに耐えきれず五ェ門はよろよろと布団がわりの麻袋から這い出した。母屋から人を呼ばねばどうにもなるまい。だが鳴けば恐ろしい仕置が待っている、それでもどうしても水が欲しい。湯飲みに一杯で構わないから。

 

 僅かに土が抉れた場所に、熱に浮かされたまま鼻先を寄せた。ここを掘れば子どもの狐一匹抜け出せる穴などすぐ作れそうだ。土蔵の裏手の川で水を飲んで急いで戻ってくればいい。悪魔の囁きに身を委ねた過去の幻影を、五ェ門は止めずにはいられなかった。

 

 声は決して届かないと、全ては夢だと知っているのに。

 

 

――満月の晩に会った、満月の晩にしか会えねえ不思議な狐がいるんだ。

 

「なんてったって毛並みがいい。頭から背中を撫でると嬉しそうに喉を鳴らして、それから俺の手に頭を擦り付けてくる」

「そうか」

「狐ってえのは頭も悪くねえんだな。俺が食うところが残るように、尾を咥えて魚を取ってくるんだ。火も怖がらねえで、俺の側に丸まって寝る……もっとも朝にはいなくなっちまってるが」

「……そうか」

「こないだ手を怪我しちまったときがあってよ、尖った岩肌でざっくりと。そんときなんか駆け寄ってきて俺の手を舐めるんだ。随分懐かれたもんだと感心したな」

「……そう、か」

「いい加減名前がねえのもやり辛くなってきたからな……なんかいいの考えてやらねえと」

 

 いよいよ生返事をする気にもなれなくなって五ェ門は席を立った。小ぢんまりしたアジトからは幹線道路がよく見える。ルパンを追いこの道を通って来る追手をここで足止めし、その後に別の隠れ家で合流する手筈だ。ところが昼下がり、入念に変装を施したルパンの腕には当然のように次元の天敵が絡みついていて、そのせいで留守番のガンマンは酷く不機嫌なのだった。そのくせ不二子とルパンへの愚痴から始まったはずの話が気に入りの山狐のことになった途端、上機嫌で侍相手に口上を続けている。

 

――次元。

 

“五ェ門”として次元大介のそばにいて、彼を苛むのは喩えようもない罪悪感と虚しさだった。仲間を騙している、この義理堅い男のことを。あれからの数ヶ月、もう何度も辞めようと自分自身に言い聞かせたのに、満月が近づく度に山奥での奇妙な密会に心を躍らせていた。生まれて始めて、月が満ちるのを楽しみにさえした。幼い子が両親にそうしてもらうように頭を撫でられて。そのまま満天の夜空を見上げ芝生に寝転ぶのが幸せだった。自分が慈しまれていると、錯覚でもいい、感じていられる気がした。

 

 だがそれもこれで終いだ。延期されていた仕事を済ませてしまえば五ェ門たちがここにいる理由は最早ない。この古びた街を離れ次元はどこへなりとも行くだろう。古巣のニューヨークに帰るのか、或いはアフリカ辺りで繋ぎの仕事を請け負うのかもしれない。こちらも満月を過ぎれば街を去り、新しい修行と隠遁の場を求めることになる。そうしたら次元は全てを過去にして、いつかどこかで自分に懐いた狐のことなど、じきに忘れていくのだろうか。

 

 ブラインドの隙間から見た街並みはつっけんどんで物寂しい。うらぶれたネオンと家ごとの明かりの合間に不穏なハイビームのせめぎ合いがちらついて、五ェ門は仕事の時を知った。

 

「……来るぞ」

 

 そうかい、とだけ答えた次元は気軽にバルコニーへの窓を開け放ち、外からの視線が遮られたウッドテラスに寝そべった。手に馴染んだ対物ライフルで追手を食い止めるはずがしかし、見慣れたフィアットを追う車はどれもロケット砲でもなければ歯が立たない装甲車ばかりだった。舌打ちしてスコープから目を離す。

 

「まるで軍隊だな……あんなブツ出されたんじゃあお手上げだ」

 

 ど田舎の小金持ってる小悪党、じゃあなかったのかと毒づきながら、次元はライフルを隅のコンテナに固定し直した。地上ではなくビルの屋上を照準にしたそれを改めて構え、次々と巨大な看板を撃っては落とす。多少の目くらましにはなるのだろうが、所詮気休めでしかないことは次元自身がよく知っていた。大口径弾の出処を探ることは容易く、五枚目の広告を落としたところで幾つもの砲口がこちらを捉えた。放たれた砲弾を五ェ門が切って落とす。

 

「ここは退くしかあるまい」

 

 軽く頷いた次元と共に脱出口に飛び込んだ。ダストシュートを改良したそれは一気に地下まで滑り降りられる便利なものだった。特徴のないセダンに乗り込んだ二人がアジトを離れると同時に、ひときわ大きな爆発音と共に仮の住まいは半分近く吹き飛んだ。

 

 

 

***

 

 

 

「作戦は失敗、だあ?」

 

 普段は耳に心地よい渋い低音が凄みのあるものになっていた。第二のアジトに辿り着いた次元と五ェ門が目にしたのは、焼け焦げた襤褸を着替えもせずにパソコンに向かっているルパンの姿だった。

 

「騙されたんだ! 畜生、このまますっこんだら俺様の名がすたるってえの」

「だから俺はあの女が加わるのは反対だったんだ」

 

 呆れの混じった嫌味にもルパンは動じなかった。

 

「いんや、この件に不二子は無関係と見ていい。あの狸オヤジこの田舎じゃあ満足できねえんだとよ! すんばらしい手土産持ってボス猿様に取り入ろうってんだからよ」

「“素晴らしい手土産”ね……」

「そういうこった。世界を股にかける超天才大泥棒ルパン三世様の首と、それから凄腕のガンマンと剣豪……こいつらは使える手駒として」

「俺たちの進退まで勝手に決められてるたあ、ありがたすぎて涙が出るぜ」

 

 だからすんばらしい手土産って言ってんじゃあないの、と軽口の応酬を続けるルパンの目はモニターに釘付けで、彼が何か策を講じていることがわかる。そのまま続けられた説明によって次元と五ェ門は事のおおよそを把握することができた。

 

 つまるところ、今回の獲物は周到な情報操作によって生み出された虚構であったということだ。まんまと誘き寄せられたルパンたち四人はそれぞれ館の主の目的を果たすために――すなわちルパンの命は献上品として、次元と五ェ門は取り入るボスの部下として、不二子は愛玩品として――利用されるはずだった。

 

「だけっども俺様を怒らせちまったのが運のつきってわけ……爺さんの遺した手記ってのは嘘っぱちだったようだが、そこそこいいお宝が揃ってやがるかんな」

「迷惑料として根こそぎいただいていくってことか」

 

 そういうこった、面目丸潰れざまあみやがれと締まりのない顔で笑うルパンは作業を全て終えたようだった。ようやくボロ切れと化していた一張羅を脱ぎ捨てて気に入りのジャケットに袖を通す。ルパンに脅されていた被害者を演じる不二子とは屋敷で別れてきたという。鼻で笑った次元が煙草に火をつけた。深々と煙を取り込む姿から先ほどまでの怒りは消えていた。

 

「あの女が被害者ってタマか……それで、いつやる?」

「明後日、満月の晩に堂々と、」

「降りる」

 

 侍が沈黙を破った。その第一声があまりに思いがけないもので、ルパンと次元は顔を見合わせた。いつの間にか窓から朝の光が差し込んで眩しい。手入れを済ませた愛刀を収めた五ェ門が立ち上がって告げた。

 

「はじめに言ったはずだ、この日程では後の予定に差し障ると。それを無理に仕事を入れたのはお主だルパン。だがこれ以上待てん」

「五ェ門ちゃんそこをなんとか……」

「断る」

 

 取りつく島もない言葉を返されて消沈するルパンを見て、ちょっとした軽口が次元の唇から零れ落ちた。普段ならばムキになった五ェ門があれこれと文句を並べ腹を立ててみせつつも腕を振るってくれるであろう、笑いまじりの言葉が。

 

「んなかてえこと言うなよ五ェ門。お前さんの武士道ってのはよ、仲間の命や自分の誇りを守ろうって気概はねえのか」

「フン、もとはと言えばお主がくだらん怪我などせねばこのようなことにならなかったのだ」

 

 間髪入れず斬って捨てた五ェ門の声はかなり棘があるものだった。仕事の失敗での苛立ちがぶり返し、それを受けての次元の言葉も険のあるものに変わっていく。

 

「……そりゃあ悪かったな。どうせまた山籠りでもすんのかと思ったが随分と大事な用でもあるのか、何か月も前のくだらん怪我をあげつらってくれる侍さんよ」

「お主こそ、大した用もなく畜生風情のために山登りか。商売繁盛なようで何よりだな」

「ケッ、その“畜生”はおめえよりかよっぽど可愛げがあるのは確かだからな」

 

 思いがけず訪れてしまった一触即発の瞬間にはさしものルパンもお手上げだった――というより、こんなとき余計な口を挟むと碌なことがないのをよく知っている。斬鉄剣片手に次元を睨み上げる五ェ門と、マグナムをさしたまま乱雑にローテーブルに足を上げた次元との間には絶対に入りたくない。獲物を構えて派手に喧嘩でもしてくれたほうが二人の仲はマシになるかもしれないが、仲裁に入るほどの気力はもはやルパンにも残っていない。どうしたものか頭を抱えたところで、不意に扉が開いた。

 

「珍しいわね、アナタたちが喧嘩なんて」

「不二子じゃねえかぁ、よっくここまで来られたなあ」

「窓から出てきたの。しばらく一人にして、横にならせてってお願いして、ね」

 

 救いの女神の登場に飛び上がらんばかりの喜びようのルパンと戸口の不二子を見て、二人の頭も少し冷えたようだった。決まり悪げに煙草を咥えた次元が尋ねる。

 

「……そもそもルパン、なんだって明後日の晩に仕事をしようってんだ」

「明後日の昼から、あそこの屋敷から装甲車やら警備兵やらが半分以上出払っちまうのさ。こいつを狙わない手はねぇだろ」

「……なるほどな」

 

 確かにどこぞの軍隊と見紛うばかりの武装は、再び侵入する際にもネックとなるだろう。どんなに早くとも作戦の決行は明後日の夜以降でなくてはならないとはっきりしてしまった。

 

「じゃあそれを一日早めれば問題ないのね?」

「簡単に言うねえ不二子ちゃん……」

「私には簡単なことだもの。それで五ェ門も降りるなんて言わないわよね?」

 

 本当のところ、今すぐにでもここを発って一人になりたかった。だがこれはもはや盗みの仕事だけではなく、五ェ門自身の名に関わる問題でもある。自分を利用しようとする相手をそのまま看過したくはなかった。

 

「……致し方あるまい」

 

 

 

***

 

 

 

 いよいよ月は丸みを帯びて煌々と辺りを照らしていた。決してしくじることができないと覚悟を決めるのはいつだって同じだが、それでも五ェ門の胸は冷えた緊張に締め付けられていた。指先が白くなり腕がわななくほどに愛刀を固く握り、それから一気に脱力する。無駄な力を落とした身体は、修行に明け暮れ剣技に長けた剣豪のそれ。この後に及んで命を賭した戦いを恐れはしない。ただ今は少しばかり、感傷的になっているだけで。

 

「それぞれ準備はいいか?」

 

 馬鹿らしい。瞑目して五ェ門は感情を振り払った。それらは全て仕事において不要なものだ。発信器から聞こえる呑気な声に誰からも異論は上がらず、奇妙な沈黙の中で作戦開始までの数分は流れていった。袂に入れたルパンの腕時計――使い慣れた懐中時計は壊滅状態のアジトに置いてきてしまったため押し付けられた――は必要なかった。五ェ門の居場所からは邸宅の正面に据えられた大時計がよく見える。ゆっくりと持ち上がっていく長針が天辺の短針に重なった。繰り返される鐘の音に被さるようにして屋敷のあちこちで爆発音が響き渡る。混乱しては飛び出してくる警備隊を五ェ門は次々と片付けていった。

 

 爆発物の管理と狙撃担当が次元、誘導と敵の足止めが不二子、実際にお宝を頂戴するのがルパン。正門から正面玄関への道を作り退路を確保するのが五ェ門の役目だった。ルパンは仕事を終えたあと四人で逃走するつもりだったようだが、相棒たちの仲違いを見て計画を変更した。次元はルパンと二人東に、五ェ門は不二子と共に西に逃げる手筈となった。

 

 噴水や彫像を模した砲台は全て破壊した。そもそもそれを操る人員も皆地面を舐めている。丁度十分後には美術品をたんまり積み込んだフィアットが堂々と正面から帰る筈で、五ェ門と不二子はその混乱に乗じて裏口から退散する予定だったのだが。

 

「……不二子?」

 

 ふと見上げた屋敷の最上階で男と揉み合っているのは間違いなくこれから落ち合う筈の彼女で、しかも何やら事態は不穏そうに見える。ルパンすら手玉に取る女のことだ、心配はあるまい。そうは思っていてもやはり気にかかり、斬鉄剣を握り直し五ェ門は屋内に足を踏み入れた。

 

「おお、なんということだ……私の宝物たちは皆コソ泥の手に渡ってしまった……。ただ今残されたのは、不二子……お前だけだ……!!」

 

 階段を上り詰めた先は主の私室のようだった。館が燃え、崩れ落ちていく音の中、啜り泣く男の声が辛うじて聞こえてくる。薄く開いた扉から室内の様子は伺えない。だがそこに不二子がいるのは確かだった。

 

「少しは落ち着いたかしら。そうよ、私だけはあなたのそばにいてあげる。だから早く逃げるの、ね?」

 

 何もお屋敷と心中することはないでしょう、と。慈愛に満ちた声には彼女の本性をよく知るものでもうっかりと騙されそうになる。五ェ門は苦笑して愛刀を構え直した。脛に傷を持つものの住まいらしく頑丈そうな造りの豪邸だが、派手に攻撃を加えた以上いつまでも持つ訳ではない。不二子の狙いはいまだ不明瞭だった。

 

「逃、げ……る?」

 

 無様に震えた男の声が不穏に震え、訝しんだ不二子の呼び声は歪んだ笑いに途切れて消える。

 

「無駄だよ……奴らはどこまででも追ってくる。逃げ落ちる先は一つしかない」

 

 ひ、と息を呑むか細い声が聞こえた。いよいよ事態は抜き差しならぬものになっており、五ェ門は突入のタイミングを真剣に計り始めた。不二子に逆転の手はあるのだろうか。だとすれば今はまだその時でない。

 

「安心しておくれ……痛くはしない。寂しくもない、私がすぐに後を追うのだから……!」

 

 だが待つのも限界だった。明確な殺意が膨れ上がるのをはっきりと感じ、五ェ門は分厚い扉を斬り開けていた。たとえ作戦を無に帰する可能性があったとしても、これ以上彼女の身を危険に晒すことはできなかった。

 

「不二子!」

 

 想い人から突然の闖入者に向け直された凶弾を侍の業物が斬って捨てた。返す刀で男の握る武器を始末しようとしたところで、屋敷全体が大きく揺れ軋む。歪みに耐えかねて砕け散った窓ガラスが月明かりに煌めいて眩しい。更なる激震と傾きによろめいた不二子の身体が暗闇に投げ出されそうになって、宙に浮く腕に五ェ門は必死で手を伸ばした。辛うじて指先を掴み取ったところで、ぐちゃぐちゃの室内に響き渡ったのは二発の銃声だった。

 

「っぐ、う……!」

「五ェ門!」

 

 幸いなことにそこで弾は切れ、男は不二子を無事抱きとめた五ェ門の当て身で沈黙させられることとなった。震動で照準がぶれたのだろう、利き足と左腕につけられた傷は然程深いものではなさそうだった。膝をついた身体から飛び降りた不二子が傷を診ようとするのを五ェ門は押しとどめる。館全体の揺れは激しさを増し、このままでは退路が絶たれるのは時間の問題だった。

 

「……ありがとう。助かったわ五ェ門」

「礼などいい。早くここから脱出せねば」

「ええ、でもあとちょっとだけ……あぁっ!」

 

 銃口を向けられても小さく息を呑んだだけだった女が素っ頓狂な悲鳴を上げて這いつくばるのを五ェ門は呆然と見守っていた。先だっての揺れで落ちて割れた額縁に飛びついた不二子が凄まじいスピードで紙片を拾い集めている。

 

「もうこんなところに用はないわ。行きましょう五ェ門」

 

 振り返った彼女の変わり身の速さには流石に溜め息しか出なかった。倒れた男に一瞥をくれ、五ェ門も不二子に続いて駆け出した。豪奢な絨毯の敷かれた階段を駆け下りながら戦利品について尋ねれば、片目を瞑って不二子は微笑む。

 

「ま、郊外の山で採れる鉱石に関する諸々の書類ってとこね、自分の肖像画の裏に隠すなんて趣味の悪い男」

「輝石に目がないお主らしい……」

「やあね、あそこの山で出るのなんてただの石っころに毛が生えたようなものよ……ただ、何かの研究に必要みたいで高く買ってくれる人がいるの。さあ、乗って」

 

 エンジンが唸りを上げる。猛スピードで駆けるハーレーに腰掛け、脱出を果たした五ェ門は屋敷の終焉を静かに見届けた。不二子とはこの先をしばらく行った三叉路で別れることになっていた。

 

「ホントにいいの、送っていかなくて?」

「構わぬ」

「怪我の手当ては?」

「それも無用」

「アナタって全くもってつれない男よね」

 

 放っておいてくれ、と言いかけて口ごもる。ルパンに押し付けられた腕時計の針の音が聞こえる気さえした。早く一人になりたい。本来ならば修行の場まで送り届けてもらうことも何ら不自然ではないのだが、あの山の鉱物に興味がある今の不二子をあそこに近づけたくはなかった。

 

「まぁいいわ。そうだわ五ェ門……はい、コレ」

 

 胸元に手を入れた不二子が取り出したのは小さなペンダントだった。小さなルビーがあしらわれた表面に何やら見慣れない紋様が描かれている。

 

「勝利と武勲、無事の帰還を保証する武神のお守りですって。アナタにぴったりだと思って……助けてくれたお礼よ」

「……かたじけない」

 

 五ェ門の右掌にそれを乗せて、今度こそ不二子は去っていった。

 

「よーお五ェ門ちゃん、首尾は上々だぜ。そっちはどうだ?」

 

 突如として鳴り出した通信機のタイミングの良さに五ェ門は跳び上がりそうになった。まさかどこからか見ている訳でもあるまいと、わかっていても視線は周囲の様子を伺う。潜めた声で答えを返す。

 

「……大事ない。不二子なら今頃は港に向かっていよう」

 

 大事ない。嘘を言ったつもりはなかった。左腕の傷は銃弾が掠っただけのものだし、右脚のそれも大きな血管を傷つけたりはしていないだろう。ざっと検分した銃創に少し解いた晒を巻きつけながら五ェ門はそう応えを返した。

 

「お前、何かあったんだな?」

 

 途端に真剣味を帯びた声。この男の賢しさが侍には好ましく――そして憎たらしかった。舌打ちを堪えて淡々と傷の状態を報告し、分け前は次の仕事の折でよいと告げる。返答は待たずに衿元の機械を放り捨てた。発信機付きのこれがなくとも、ルパンはいつもどうやってか自分の居所を突き止めるのだから構うことはない。

 

 

 

***

 

 

 

 道中運良くトラックに拾われて麓まではやって来ることができた。それから五時間近く、鎮痛剤一つ飲まずにただひたすら歩き続けている。負傷についての見解が誤っていたかもしれないと五ェ門は認めざるを得なかった。絶えることのない鈍い痛みに加え、傷口から広がっていく嫌な熱が苦しい。利き足の怪我を押してまでここに戻って来たのは、どこまでもついて回る恐怖からだった。人里で獣の姿となれば、或いは無辜の民を歯牙にかけるやもしれない。修行を積み心身の研鑽に励んでも決して拭い去ることのできなかったこの思いが、五ェ門を駆り立て独りにさせようとしている。

 

 倒けつ転びつ、木に手をついて岩肌に噛りつくようにして山の奥に逃げ込みながら、五ェ門は幾度も背後を振り仰いだ。古びた家々や背の低いビルディングの間に沈んでいく夕日が、徒らに手負いの侍を追い立てていた。

 

 まもなく、望の日の夜が来る。

 

 辛うじて狐の寝ぐらに転がり込んで、ひび割れて爪の割れた指先で五ェ門はもどかしく衣服を――千々に裂けて使い物にならなくなるのを防ぐために――剥ぎ取った。放り出した袴やら晒やらを一纏めにする時間もなく、日輪は姿を消したようだった。

 

「……っあ、ぐ……う、」

 

 左腕と右脚、二箇所の銃創が焼け付くように痛む。食い縛った歯の隙間から漏れた呻きも、徐々に人から獣のそれへ変わっていった。四つ足の狐に姿を変じたとき、半ば熱に浮かされた五ェ門が思うことはただ一つだった。

 

 なんでもいい、血の滴る獣の肉にかぶりつきたい。

 

 よたよたと左右の揃わない歩き方で穴ぐらから出た五ェ門は当て所もなく、本能にのみ耳を傾けて歩き始めた。溜息の零れる名月もしっとりと色づいた木の葉も見上げる余裕はない。冷たい風が運ぶ獲物の匂いに引き寄せられて、山の更に奥へと足を踏み入れる。

 

 やがて目視できるようになった若いヤマドリは、群れから逸れたのか、長い尾を持て余し不安げに木々の合間を彷徨っていた。枯れ枝や落ち葉で音を立てぬよう忍び寄れば、今夜の糧もまた身体を痛めていることがわかる。翼の矢傷は酷く空に逃げることはままならないだろう。そのことに哀切など微塵も感じず、五ェ門はすぐさま獲物に躍りかかった。首を落とす勢いで喉笛を噛み切り、そのまま鼻面を突っ込んで身体に食らいつく。怪我で失った分を補うかのように、数瞬前まで生きていた肉を咀嚼し生温かい血を啜り上げた。赤く濡れた頬に、抜けた羽が張り付くのも気にも止めなかった。

 

 衝動に身を委ねていた獣に理性が突き返されたのは、あまりに暴力的なそれが去ったからではない。唐突に飛び込んできた気配に驚愕し、ここまで接近を許した己に臍を噛む思いで五ェ門は勢いよく向き直った。歯を剥いて見知らぬ敵に唸ってみせようとして、けれど立ち尽くす男の姿を認めた途端、何もかもを忘れてしまった。

 

――次元。

 

 いつしか空に現れた群雲が月にかかり、見慣れたその顔を隠していた。お前、その怪我。呟いた次元が腕を伸ばそうとするのを気配で感じて、踵を返し五ェ門は逃げ出していた。

 

「っおい、待て!」

 

 袋か何かを取り落として追いかけてきた次元の声が聞こえる。径を抜け灌木を飛び越え、無我夢中で五ェ門は逃げた。おざなりな止血は今や功をなさず、傷痕から流れる血が転々と追跡者に居場所を告げていた。

 

「お前さん怪我してるんだろう、いいからこっちに来い!」

 

 懸命の呼び声にこそ追い詰められて、五ェ門は逃げに逃げた。切り立った崖を山羊のように駆け上り、赤い足跡を隠すべく秋の冷えた川を遡り、息が上がるまでひたすらに走り一晩を過ごす。暁まで一刻を切ったころには、全身に数えきれないほど細かい傷を負っていた。十月の川に飛び込んだ身体には体温が戻らず震えが止まらない。

 

 這々の体でじめつく虚に戻り、ぐったり臥して夜明けを待つ。痛みと疲労と緊張で荒くなる呼吸を必死で抑えるなかで流れる時は、どろどろと引き延ばされて五ェ門を怯えさせた。早く。少しでも早く。次元に会う前にここを離れなければ。ようやく人の姿を取り戻した五ェ門は心身に鞭を打ってどうにか立ち、傷だらけの手で衣服を身につけていった。皺くちゃのそれは拾い上げるだけで血と泥に汚れ、今も血が滲む銃創の周りにはすぐさま赤い染みができる。

 

 何とか身繕いを済ませ斬鉄剣を手に振り返った五ェ門の目に、眩い光が飛び込んできた。自然のものではあり得ない、小さな一点だけを指す閃光に立ち竦んだ侍の目の前に現れたのは、今誰よりも会いたくない人物だった。

 

「……次元」

 

 洞穴まで残された血の跡。拭うことも忘れていた口元と頬を汚す血。今もじわじわと染みを広げている左腕と右脚の傷痕。そして何よりも、酷く狼狽して蒼ざめた五ェ門のかんばせが、俄かには信じ難い事実を次元に呑み込ませた。何か言葉をかけてやりたくて、けれど言うべきことが見つからなくて黙りこくった彼を押し退けるように、五ェ門はそこを去っていこうとする。

 

 咄嗟に右腕を掴んで引きとめれば乱雑に振り払われ、挑むような目で睨み据えられた。その態度と過日と同じ苛烈な視線に射抜かれて引き出されたのは酷い苛立ち。そして自分でも思いもよらない言葉だった。

 

「面白かったか……人を騙して」

 

 抑えられた声には責めるような色すらない。淡々とした低音を耳にした五ェ門の身体がひくりと震えて、わななく唇がおもむろに答えを紡いだ。

 

「……っそう……だ」

 

 その呟きは五ェ門自身が呆れるほどに掠れたものだった。右腕で忌々しげに口元を拭い、弱さや感傷を振り捨てるように頭を振って、今度は声を張り上げた。

 

「そうだと……言っておる! たかが畜生一匹のことを阿呆面晒して語るお主は大層滑稽でな、こちらとしても言うに言えずにいた次第だ!」

 

 叫ぶように言い切って、五ェ門は再び歩き出した。次元の何もかもを拒絶するように歩みは速まり駆け足に変わる。

 

「待て五ェ門!」

 

 呼び止めたのは怒りからではない。まじまじと見た仲間の身体に幾つもの傷が見て取れたから。本当は何よりもまず手当てをしなければならなかった、こんな言葉の応酬などの前に。けれど手負いとは思えぬ速さで急斜面を駆け下りていく五ェ門に追い付くことが叶わない。距離を広げられている気さえした。いつからか降り出した雨で道はぬかるみ視界も頗る悪い。

 

 どこをどう走ったのか。生い茂る灌木から抜けたときには、見慣れた風景のところだった。麓に向かう長い吊り橋を五ェ門が渡り切ろうとしている。

 

――五ェ門。

 

 そう叫んだかもしれないし、或いは何も言えなかったかもしれない。何れにせよ流れる水の轟音で何も聞こえなかっただろう。それでも振り向いた五ェ門はしかし、橋を渡るべく対岸に駆け寄る次元には一瞥もせずに斬鉄剣を持ち上げた。一閃。次元が息を呑む間も無く向こう岸へ行く手立ては消えた。おもむろに愛刀を収めた侍が再び踵を返し去っていく。

 

 その頬を濡らしていたのが雨だけなのか、次元にはどうしてもわからなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 謝罪を繰り返そうとする唇は、両頬がぱんぱんに腫れたせいでほとんど満足に動かせなかった。 いつだって五ェ門を庇ってくれていた祖父母は邸宅に不在で、それが折檻をより酷いものにしていた。熱のせいか仕置のせいか、まともにものを考えられないままひたすらに頭を下げる。それほど水が欲しければくれてやる、と盥の氷水を頭からかけたのは従兄だった。

 

――あまり傷をつけてくれるな。

 

 氷の角で切れた額を抑えたとき。蔵に入ってきたのは数える程しか見えたことのない父だった。震える呼び声は耳に届かなかったのか、五ェ門には一瞥もくれることはない。

 

――これは石川の跡目だ……それをゆめゆめ忘れるな。

 

 深く頭を垂れる男たちに見送られて、去って行く父は振り返らなかった。その当主の後に続いて、皆が蔵を後にする。

 

 次の望の晩からは、五ェ門の両足は枷に繋がれることとなった。

 

 今でも父の顔は思い出せない。

 

 

 霜月の空は痛いほどに冴え渡って惚れ惚れとする夕映えだった。先月までそれなりに長く滞在した山を離れ、五ェ門は馴染みのない山中に一人いる。

 

 予定より半月以上山籠りが遅れたのは、全身の傷のせいだった。碌な処置をせず放っておいたうえ更に雨の中をふらついたせいで、信頼できる医者のもとに辿り着いたときには酷い有様だったと聞いている。戸口で倒れた挙句三日間も眠っていたと言うのだから、目覚めた後の尋常ではない彼の怒りにも頷ける――最も、その後の過保護を厭って遂には脱走してきたのだから不義理なことこの上ない。

 

 麓の町に着いて宿に荷物を預けたのが四日前の夜遅く。それから山に入り狐の仮住まいに丁度いい廃寺を見つけたのが一昨日の昼下がり。慌ただしい限りであったが、今は無事仕度を済ませ五ェ門は静かに日の入りを待っていた。

 

 冬の夜は長い。朽ちた寺の本堂からは澄んだ夜空がよく見えて、つまらないことばかり思い出させる。次元大介は大概ロマンチストな男で、視力を鍛えるためとか自分の居所を知るためとか、そんな理由抜きにしてやたらと星座に詳しかった。五ェ門は西洋の星物語などにはとんと疎かったものだから、いつだって興味深く次元の話を聞いていた。

 

 あれからずっと、誰にも連絡を取らずにいる。衝動が去ったのち五ェ門に残されたのは、自分自身への失望と諦念だけだった。この身体に流れる血を否定することは受け継いだ名やこれまでの生、現在の稼業に至るまでの全てを否定することだ。そう頭ではわかっていても、ここ暫くの出来事は流石に堪えた。

 

 嬰児の五ェ門を腕に抱いて、ただ一度乳を含ませて死んだという母。命と引き換えに己を産み落とした女性に感謝こそすれ、人ならざる血を呪わしく思うなど――。だがこの身を絆す枷と秘密はあまりに重すぎた。

 

 何もかも受け入れるということと、何もかも諦めるということはどこか似ている。誇りを持って自分の全てを認めようともがくうちに、いつしか何もかもを諦め始めている気がした。

 

 まんじりともせず物思いに耽っていた五ェ門は、じりじりとこちらに近づいてくる不穏な気配に気がついた。

 

 裾野から少しずつ接近し廃寺を囲もうとするその集団は、どうもここにいる自分に用があるようにしか思えない。侍、石川五ェ門にか。あるいは今ここに伏す一匹の獣にか、それはわからない。しかし何れにせよ平和的な付き合いができる相手でないのは確かだった。

 

 手狭な廃屋を離れ森に出る。大立ち回りを演じるのに床が所々腐り落ちたそこは少々不都合でもあった。風上から三人に風下から四人。一人が発砲したのを皮切りに、追い風に乗じ五ェ門は近づいてくる大男に飛びかかった。見事に当て身の入った身体が完全に沈むのを横目で確認し、銃を構えた男に向かっていく。ジグザグに駆け抜ける獲物に照準を合わせられず狼狽える敵を二人倒し、五ェ門は更なる一人を睨み据えた。風上からは銃弾が雨のように降り注ぐ。開けた場所で斬鉄剣が使えない以上、それを防ぐ方法はただ一つ。五ェ門は四人目の男に駆け寄った。同士討ちを恐れた敵の手が止まる。

 

 迎え討つ男は相当の手練れだった。巧みに振るわれる長槍に阻まれ、一気に距離を狭めることができない。風上の敵はじわじわと歩み寄ってきている。さらに近づかれればこちらだけを狙い撃つことも可能になるだろう。四人目を倒し一時撤退すべく、五ェ門は不意打ちで槍の中ほどに食らいついた。勢いを殺せず武具を取り落とした男に飛びついて、獣の本能で首筋に牙を突き立てようとしてぴたりと止まる。

 

 数えきれないほど人を手にかけてきた。それなのに今更、殺すことが恐ろしいなどと。だがそれでも、獣のまま人間を殺めたら、もう二度と人に戻れない気がした。

 

 僅かな逡巡を男たちが見逃すはずもない。小さな銃声。首筋に走る焼け付くような痛みを最後に、五ェ門の五感は闇に閉ざされた。

 

 

 

***

 

 

 

 ぎゃはぎゃはと汚く笑う声が喧しくて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。木床に伸びた手足はどう見ても獣のもので、意識を失っていた時間はそう長くないと知れる。後脚二本には重苦しい鎖が巻き付いていた。

 

「お目覚めか、狐ちゃん?」

 

 下卑た呼び声。睨みあげた五ェ門の凄みのある視線にも男たちが怯む様子はない。辺りを見渡せば、そこが先ほどまでいた寺の本堂と知れた。

 

「ったく、手間取らせやがってよ」

 

 無様にも気絶させられた男の一人が力任せに腹を蹴り上げ、息もつまる痛みに五ェ門は身を捩らせて呻き声を上げた。知らず尾を股に挟み丸まったその仕草をあげつらって笑われて、怒りと屈辱に全身が熱くなる。銃床で五ェ門の顎を持ち上げた大男が、汚らしいにやけ顔でこちらを見下ろした。

 

「もうすぐ夜明けだぜ。その畜生姿がどう変わるか間近で拝ませてもらおうじゃねえか」

 

 やはり男たちは知っていたのだ。いよいよ鋭さを増した視線はそれだけで人を殺せそうなものだったが、圧倒的優位を知る彼らが焦るはずもない。歯噛みした五ェ門は初めて夜が明けないことを願った。

 

「……薄気味悪い、聞いてはいたが本当に化け物なんだな!」

「ああ、畜生が人間になるたぁ怖気が走るぜ!」

 

 具にその瞬間を観察された挙句、聞くに耐えない罵りの言葉を浴びても五ェ門は身動ぎ一つしなかった。

 

 仏像の裏、ここから辛うじて手が届きそうな場所に愛刀や衣服を隠しておいたことは僥倖だった。今は無理でもいずれ隙を見て剣を取り戻す。反撃の機会があることが五ェ門を冷静にさせていた。今できることはただ一つ、敵の意図を探ることだ。

 

「……お主ら、何が目的だ」

 

 地を這う低音も縛られた身では虚しく響くばかりだが、僅かな焦燥も見せない五ェ門に、男たちは少なからず苛立ったのかもしれない。殊更にねっとりと嫌味な口調で立て続けにまくし立ててくる。

 

「なあに、俺たちゃちいっと興味深い噂を耳にしたんでな……なんでも、人のなりをしてる癖に満月の晩だけ狐に変わっちまうバケモンがいるっていう」

「そんな気色のわりぃ怪物がいるってんなら是非とも見てみてぇと思ってよ!」

「この目で拝んだ後は売り飛ばすのも悪くねぇしな!」

 

 耳慣れた悪口雑言。五ェ門の秘密を知った者は例外なく嫌悪の情を込め、それらの侮蔑の言葉を吐くのだった。

 

――次元。

 

 違う。次元だけは、化け物だの気色悪いだのと、慣れたくもなかった罵声を浴びせたりはしなかった。弾かれたように顔を上げた五ェ門に男たちがまた何事か言ったようだが、それも今や耳には入らない。

 

 もう、自分を嘲笑うばかりだった。

 

 騙すつもりなどなかった。ただあの手は優しくて、次元のそばは居心地がよくて、告げるべきことをずっと隠していた。傷つくのを恐れたばかりに仲間を裏切り、結局は自分自身も傷つけた。

 

 すぐにでも会って詫びたいのに、それすらも叶わない。

 

「それにしてもよお……」

「ああ、そうだな……」

 

 素裸の五ェ門を見下ろしてニヤつく男たちが、ゆっくりと距離を狭めてくる。

 

「だから俺は腕も抑えといた方がいいって言ったじゃねえか」

「仕方ねえだろ、こんな器量よしとは知らなくてな」

 

 反撃を恐れ少しばかり離れたところに立った男たちを叩きのめすべく、五ェ門も静かに立ち上がる。

 

「化け物に欲情するなど、躾のなっていない獣以下だな。お主らこそさっさと人間になったらどうだ」

 

 安い挑発に乗った男をあっさりと投げ飛ばして気絶させる。更にもう一人に手刀を叩き込もうとして、不意に五ェ門の足元が揺らいだ。足枷から伸びる鎖が強く引かれたせいで、バランスを崩した身体が押し倒される。抵抗しようとしたところで前髪を掴まれ頭を床に打ち付けられた。視界が明滅し意識が遠くなる中で、五ェ門は必死で身体をもがかせていた。

 

「は、なせ……下衆、がっ……!」

 

 真上から屈強な男二人に両腕を押さえつけられては、流石に跳ね除けることはできない。足を開かせようとして鎖を引かれ、訳の分からぬうちに哀願の言葉が零れ落ちていた。

 

「い、や……いやだ! 離してくれ……この枷を外せっ!」

 

 縛めは解けてなどいなかった。今もこうしてこの身を絆し続けている。いきなり生娘のように震えだした眼下の生贄を男たちは訝ったけれど、続く行為をやめようとはしなかった。懸命に抗う五ェ門の頬を張り、身体にゆるりと手を這わせる。

 

 銃声が響いたのはその時だった。

 

「な、なんだ!?」

 

 驚きに手を離した凌辱者たちの下で、五ェ門だけが何が起こったのかを即座に把握した。よく知った発砲音はある男の愛銃のもの。男たちを恐慌状態に陥れたその音でむしろ五ェ門は落ち着きを取り戻し、鎖を断たれた両足を跳ね上げる。己の上に陣取った不埒者を蹴り飛ばして立ち上がり、何よりもまず愛刀のもとに駆けた。烏合の衆と化した敵は確実にマグナムに仕留められ――こめかみを掠めた銃弾に意識を奪われ――ていく。五ェ門に飛びかかってきた最後の一人も、剣を抜くまでもなく斬鉄剣の鞘に沈められた。

 

 振り向けばやはり、樫の柱に身体を預けて次元が立っていた。

 

「次元……かたじけ、な、」

 

 どれだけ走り続けてきたのだろうか。これほどまでに息を荒げた彼の姿を見たことがなかった。詫びと感謝をと思っていたのに、気絶した男たちを蹴り飛ばしながら足早に歩み寄ってきた次元に抱き竦められ、五ェ門は言葉を失くしてしまった。

 

 続く言葉は思いがけないものだった。

 

「……悪かった」

 

 スーツ越しでもわかる、汗と夜露に濡れた身体。何が起こったか理解できず、惚けて突っ立っている五ェ門の頭に次元が手を伸ばした。柔らかく髪に触れてから肩に凭れさせる。

 

「……悪かった、五ェ門」

 

 思考は繰り返された謝罪の中に乱されていく。一糸纏わぬ肌で触れた濡れ羽色は懐深くて優しくて、頭を撫でる手つきはどこまでもいたわしげだ。もう二ヶ月も前、狐にしたのと全く同じ触れ方。

 

 頬を押し当てた布地が湿っていくのを感じ、ようやく五ェ門は“それ”を知った。

 

「……な、ぜっ……?」

 

 何故次元はここにいて、自分を抱き締めて詫びているのか。どうして自分は感情が抑えられず、溢れる涙が止められないのか。幾つもの疑問が渦巻いて、けれどそれを形にすることができない。

 

 しゃくりあげつつの一言は謝罪の理由を問うていると次元は思ったようだった。

 

「“畜生”なんてひでえこと、」

 

 畜生。その言葉を先に口にしたのはお主ではないのに。何も言わねど、反射的に顔を上げてまじまじこちらを見つめた五ェ門は確かにそう訝しんでいて、次元は決まり悪く瞬いた。拭うことを忘れられた両頬はべっしょりと湿り気を帯び、侍の表情は見たこともないくらい幼い。

 

「……俺が、お前に言わせたんだ。それに対してだけじゃねえが……すまなかった」

「詫びて、くれるな……!」

 

 それは言わずにはいられなかった懇願だった。固く瞑った目から涙が零れ、侍の顔をひたすらに濡らした。腕を突っ張って離れようとする痩身を、それより強い力で次元は引き寄せる。腕の中で弱々しくもがいた後で五ェ門は力なく呟いた。

 

「次元、拙者は……お主を、」

「騙してたんじゃねえ。お前はただ、黙ってただけだろ」

「だが、ずっと気づかねばよいと願った……!」

「……真っ直ぐすぎるんだよ、お前は」

 

 隠しておきたければ言わなければいい。それが辛くなれば話せばいい。それだけのことだろうが。溜め息混じりの声なのに、そこには嫌悪の一つもない。

 

 それとな。正面から五ェ門を見返して、きっぱりと次元は付け足した。だがその声はお終いに向けどんどんと尻窄みになっていく。

 

「気味が悪ぃとも思っちゃいねえぞ。誓って言うが、端から俺はそう言った類のことはひとっことも言ってねえ。……だから……あんまり、泣かねえでくれると……助かるんだがな」

 

 知っている。けれどそれは無理だ。はらはらと泣き濡れるかんばせを次元の肩に押し当てて、それでも五ェ門は少しだけ笑った。

 

 

 

***

 

 

 

「落ち着いたか」

「……かたじけない」

 

 今更なように素裸なことを恥じ入った五ェ門が慌てて衣服を身につけている間に、下衆な男どもはふんじばって外に捨てた。一際大柄な木偶の坊を蹴って園庭に落としたあとで、次元はおもむろにあれからのことを話し出した。

 

 五ェ門を探し、街から街へ国から国へ。思いつく場所をどれだけ訪ねてもその影すらも掴めなかったこと。

 

――俺は五ェ門の秘密とやらは知らねえけどもよお、次元。あいつがお前に会いたくないと思ってるってことはわかるぜ。

――いやよ。私は五ェ門の味方だもの。命の恩人ですから。

 

 藁にも縋る思いで二人を頼ったが、すげなく対応されたこと。それでも世界中を巡る覚悟を決めた次元に、それぞれある機械を貸してくれたこと。

 

 呆れ声で次元は続けた。

 

「お前さんよ、もう少しあいつらから貰ったもんに気ぃ配ったほうがいいぞ」

「……あれか」

 

 ルパンに押し付けられた腕時計と、不二子から贈られたアミュレット。それらに付けられた小さな発信機二つを頼りに次元はここを探し当てたのだった。

 

「ルパンの腕時計は麓の宿に置いてきただろ。女将が心配してたぜ。しばらく帰らないとは聞いていたが、この辺りは熊が出るのに……だとよ」

「それは申し訳ないことをした」

 

 不二子からの贈り物を五ェ門が身につけていたのは幸いだった。あまりに薄く小さなそれはルパンのものほど高性能ではなかったが、それでも麓から山中の五ェ門の居場所を知らせるのには十分だった。

 

「確かにこれは拙者を守ってくれたのだな」

「まぁ、随分とハイテクな守り方だがな」

 

 袂から出したそれをしげしげと見つめる五ェ門を揶揄しても、返ってくるのは穏やかな声だった。

 

「そうか?」

 

 真っ直ぐに見つめ返す視線は何よりも雄弁で、気恥ずかしさに次元は帽子を目深にかぶり直す。

 

「……帰ろうぜ、五ェ門」

「ああ……っと、」

 

 腰を上げズボンを払う隣の男に倣い、立ち上がろうとして五ェ門はふらりとよろめいた。咄嗟に抱きとめた次元の気遣う声に首を傾げる。どこにも不調などはなく、むしろその逆、身体が軽く勢いがつきすぎたくらいだった。

 

 違和感に足元を見下ろして訳を知る。

 

 枷はもう、どこにもなかった。

 

 

初出:2014/04/05(pixiv)