節々がずきりと痛む。瞼を持ち上げても視界にはごつごつとした岩肌が広がるばかりで、アイオロスは身を起こしながら首を傾げた。
敵の気配はない。だがここは一体……。目を凝らしたアイオロスは、じめついた黒い岩々の上に転がった箱と散らばる鉱石を見て、ようよう自分の置かれた状況を理解して飛び起きた。途端頭を岩に打ち付けて世界に星が散る。
「シュラ!?」
「……う。っん、」
「シュラ、大丈夫か……シュラ!」
聖衣の修復に必要不可欠な鉱石の採集。大した危険の伴わぬはずの任務の最中、急激な地殻変動に巻き込まれて。
共にこの地へ赴いていたのは小さな山羊座の少年で、ほんの少し離れた場所に倒れ伏していた身体を抱き起す。四肢に目立つ外傷はないけれど頭を強く打っているかもしれない。そんなアイオロスの心配は、すぐさまシュラが瞼を震わせたことでひとまず杞憂に終わった。
「あい、お、ろす……?」
少しばかり舌っ足らずに敬愛する先輩の名を呼んで、それからシュラはゆっくりと辺りを見渡した。
「ここ、は……」
「崩落に巻き込まれて閉じ込められたようだな。俺もたった今気が付いたところだ」
起き上がるシュラに手を貸して、狭い空間を見て回る。悠々と動き回れる彼と違い、十四歳の身体は真っすぐ立つこともままならない。それを酷く悔しがる年下の同胞の頭を撫で、アイオロスは一人思案した。
――神聖な地であるが故、ゆめゆめ戦いや血で穢すことのなきように。
――本来ならば足を踏み入れることも畏れ多い場所。僅かな鉱石を頂く他には、花一本、岩の一つとて手折り傷つけてはならぬ。
教皇シオンの言葉を振り返るに、特殊な鉱石が採れるこの地は霊山として地元の住民の信仰を集めているところだそうだ。だからなのだろうか、先程から聖域のサガに呼び掛けているのだが返事がない。
「何か、呼び掛けに干渉する力が……?」
「…オロス、アイオロス!!」
「っわ!? あ、ああ、すまないシュラ」
思考の海に沈んでいたらしい。痺れを切らしたシュラにぐい、と腕を引かれて、うっかりたたらを踏みながらアイオロスは軽く詫びた。小さな、けれど弛まぬ修練の成果が既にいっぱいに刻まれた掌でアイオロスの手を掴んで、シュラはそろそろ壁際へ歩いていった。
「ここ、水が出てるみたいだ」
「本当だ。でかしたぞシュラ」
湧水が少しずつ滲み岩肌を伝い、どこかへ流れ落ちて行っている。それは二人にいくらかの希望を齎した。少なくとも飲み水は確保されたし、微かだが空気の流れを感じるということは窒息死というありがたくない事態を迎えずには済みそうだ。
胸を撫で下ろしたアイオロスは、そこでようやくシュラの左手が握っているものに気が付いた。
「……ランプ?」
「落ちてた。けど……」
それは確かにアイオロスが洞窟へ足を踏み入れる際に持っていたランプだった。奇跡的に割れずにいてくれたそれのお蔭で、今まで非常に心もとないながらに視界が確保されていたというわけだ。けれど顔を曇らせたシュラに倣い煤けたガラスの内側を覗けば、その芯は今にも燃え尽きそうなほどに短い。
「アイオロス……」
どうしよう。不安がはっきりと顔に出てしまっている子どもの肩に手をやって、アイオロスは努めて力強く言った。
「心配することはない。一先ずは光源があるうちにこれを拾ってしまおう」
散らばった鉱石を集めておこうと、シュラを促して身体を動かせる。それで少しは気が紛れたようだけれど、石を拾い集めて箱に戻したシュラは、改めてランプに視線をやってはっきりと顔を歪めた。
いよいよ小指の先ほどの長さになった芯が、じじ……と不穏な音を立てつつ懸命にその身を燃やしている。
「シュラ」
「こ、怖くなんかない!」
まだ何も言っていないのに虚勢を張ったシュラの声が響いて、冷えた岩に染みて消える。そうじゃない、と苦笑して、腰を下ろしたアイオロスは自身の隣を叩いた。水源の反対側の岩壁は、幸いあまり湿っておらずなだらかだ。
「間もなく芯が尽きる。立っていては危ないだろう」
「う、」
「それに、シュラが横にいてくれたほうが俺が安心する」
「ん……」
そうやって少しだけ下手に出るような言い回しをされてしまえば、シュラが拒絶できるはずなどない。無言のままに歩み寄った小さな身体は、けれどそれが最後の矜持であるとでも言うように、ほんの数センチだけアイオロスから離れたところにちょこりと座った。
岩に背を預け、ランプを見つめる。祈るように視線を捧げたところで芯が長くなることなどなく、結局それは二人の目の前で静かに命を燃やし尽くした。
ふつりと静寂が訪れる。見開いても見開いても闇ばかりが広がる空間で、アイオロスは再び思考を巡らせていた。
戦いも血も破壊もご法度。とは言え万一このまま誰とも連絡がつかないとなれば、自力で脱出する以外に手はない。シュラが鉱石拾いに勤しんでいる間に、アイオロスは岩壁をじっくりと検分してみた。黄金聖闘士たる二人にとってそれを打ち壊すことは容易い。だが問題は、どれほどの力を込めれば地表に出られるか見当もつかないところにあった。
「まさか全て吹き飛ばしてしまうわけにもいくまいしなぁ……」
自分が教皇に吹き飛ばされそうなことを独り言ちて、アイオロスは天を仰ぐ。
ムウやシャカ、サガやそれにデスマスクのように優れた空間移動能力を持つ者がいれば話は違っただろう。或いはカミュがいれば、内側からこの空間を護りながら、最小限の力での脱出が図れたかもしれない。
だが実際今ここにいるのはアイオロスとシュラで、二人とも小宇宙を肉体に乗せた物理攻撃を得意とする聖闘士なのだった。
「とにかく誰かが異変に気が付いてくれれば……」
こちらからの呼び掛けには相変わらず答えがない。だが異常事態を察知さえしてくれれば、あちらから声を届けることは不可能ではないはずだ。何しろ聖域には空間支配や精神感応に長けた聖闘士たちが大勢残っているのだから。
「……っう、」
と、そこまで考えたところで、アイオロスは小さな呻き声を耳にした。ここには二人しかいないのだから、自分でない以上その声は勿論もう一人のものに間違いなくて、彼は隣の少年に声をかけた。
「どうした?」
「……ロ、ス、」
食い縛った歯の隙間から辛うじて漏れたという風情の己の名に、アイオロスは目を見開いた。何も見えぬなりにシュラの恐怖が痛いほどに伝わってくる。
先ほどからこれだ。混乱して判断力が鈍っている体たらくに臍を噛みつつも、アイオロスは出来うる限り穏やかに声をかけた。
「シュラ、こっちへ」
「ひァっ!?」
いきなり触れては更に怯えさせかねない。触れるぞ、と優しく声をかけてから、アイオロスはシュラを抱き上げた。それでも酷く驚いて強張った身体を、すっぽりと腕の中に閉じ込める。
細い四肢が氷のように冷たい。腕に触れる左胸は早鐘を打っていた。
「何も見えんというのは、俺も初めてだ」
聖域の夜に電気はない。けれど一歩宮の外に出れば月が、そして頭上いっぱいに散りばめられた星々が宮を、長い石段を照らしてくれていた。
「ここ、なんか……変だ、」
夜闇と違うのはそれだけではなかった。霊地に満ちた神聖な気がそうさせるのか、ざわざわと何かが身の奥を揺さぶるような感覚にシュラは怯え、身を縮こませた。
「寝ろ、シュラ」
大丈夫だから、今は心身を休ませるのが唯一できることだから、と。微かに震える背を繰り返し撫で、冷えた身体に温もりを分け与える。
「ん……ふぁ、」
自分に触れる力強く暖かい腕を感じ、頬を寄せた胸板の下の鼓動に耳を傾けているうちに。いつしか恐怖は遠くへと去り、シュラは優しい微睡に身を委ねていた。
***
――アイオロス、聞こえるか? アイオロス!
「ん、うぅん……サガ……か?」
――無事なようだな。
「サガ!」
聞き慣れた友の声に半ば寝言で答え、アイオロスはごろりと寝返りを打とうとした。ところが人馬宮の糊の効いた、太陽の匂いがするシーツの感触はどこにもなく、硬く冷たい岩に肘がぶつかる。
そこでようやっと合点が言って、アイオロスはシュラを抱いたまま飛び起きた。会話を完全に念話に切り替え、親友の言葉を待つ。
――ああ、俺もシュラも無事だ。崩落に巻き込まれたようで、どこにいるかまではわからんが。
――そのようだな。お前たちが向かった霊山で小規模な地殻変動が観測されて、それ以外連絡がつかんから皆心配していた。
――何か、この地の力に妨げられているようでな……お前のほうから見つけてくれて助かった。
腕の中のシュラは起きているだろうに、二人の邪魔にならぬようにじっとしている。底冷えのする洞穴の中でその温みを抱き込みながら、アイオロスは安堵に胸を撫で下ろしていた。サガほどの力を持った聖闘士であれば、二人を見つけることなど容易いだろう。
そんな期待とは裏腹に、この双子座の少年の声は硬かった。
――今、アフロディーテを連れてこちらへ来ている。
――アフロディーテ? こう言った探索はデスマスクのほうが得意だと思っていたが。
――……積尸気に降りて戻ってこんのだ。“二人が落ちてきたら引き止める”と……。
――なるほど。
サガに懐いている蟹座の子供にはどこか煙たがられているように思っていたが、なかなかどうしてかわいいところもあるではないか。薄っすらと微笑みを浮かべたアイオロスだったが、続く言葉には知らず笑みも強張った。
――私たちに対する干渉も酷い。ここまで来てこうして話していても、お前たちの場所に見当もつかん。
――そう、か……。
――だが必ずそこへ向かう。早まった真似はするなよ。
早まるなよ。念を押すようにそう繰り返されたその言葉で、会話は終了された。ふ、と小さく息を吐けば、固唾を飲んで様子を窺っていたであろうシュラがおずおずと口を開いた。
「サガ、か?」
「ああ、もうここまで来ているらしい」
「そうなのか!」
真っ暗闇の中でも、はっきりと顔が明るくなるのがわかる。それを落胆させてしまうのは少々気が咎めるが、アイオロスはそれから静かに続けた。
「いや、だがどうやら俺たちの場所が感知できないようでな……もう少し、時間がかかるかもしれん」
「そうか……」
しょげたのは一瞬で、シュラは自身を奮い立たせるかのように力強い声を出した。
「だが、サガならばすぐにでも俺たちの居場所を見つけ出してくれるだろう」
「そうだな、シュラ」
水を飲んでくる、と腕の中から抜けていった身体が遠ざかっていく、探り探りの足音が止まって、液体を飲み下す小さな声。やがて戻ってきたシュラはアイオロスの隣に腰を下ろした。
それが全く残念でないと言ったら嘘になるけれど、少年の矜持を傷つけるようなことは言わず、今度はアイオロスが喉を潤すために立ち上がった。
「静かだ……」
「ああ、感覚が研ぎ澄まされていく気がする」
水の清らかな匂い。時折雫が石を穿つ音。頬を撫でる細い細い風。隣に座った仲間の息遣い。視覚が閉ざされてなお世界には情報が氾濫していて、残された四感がそれを余すところなく受け止めんと必死に働いているのがわかる。
二人の頭の中に同時に、乙女座の子供の姿が浮かぶ。
「シャカは、こんな世界で小宇宙を高めているのだな」
「俺も今同じことを考えていた……尤もシャカだって瞼を刺すような強い光は感じていると思うぞ」
それでも視覚を封じて生活していれば、他の人間とは比べ物にならないほど四感が磨かれるのだろうが。
決して居心地の悪いものではなかった沈黙を破ったのは、なんとも可愛らしい腹の虫だった。不服気に空腹を主張したそれを掻き消すように、シュラが大いに恥じ入った声をあげる。何でもない!と言い張るのがなんともいじらしくて、アイオロスは頬の内側に歯を突き立てて笑いを堪えた。
「腹が減ったな」
「俺は減ってない!」
そんな訳がなかろうに、必死でそう言い募るのがどうにも健気で頬が緩む。不平も不満も不安も見せようとはしないシュラに一抹の寂しさを覚えながらも、ようやく十を数えたばかりの子にそぐわぬほどの誇り高さを、アイオロスは堪らなく愛おしく思った。
再び狭い空間に静寂が広がる。しばらくは気を張って細く呼吸していたシュラだったけれど、その内に疲労と眠気が勝ってきたらしい。ぐうぅ、と腹が鳴っても、恥じ入る様子もなくぼうっとしている。
「うぅ……」
「ん?」
「ムサカ……プサロスパ……」
あれだけムキになって空腹を否定したというのに、無意識のうちに零れ出る言葉までは御せなかったようだ。食べなれたギリシャ料理の名をぶつぶつ呟いていたシュラはやがてくぁ、と欠伸を噛み殺した。危なっかしく上体がふら付き始めたのがなんとなくわかる。
「おやすみ、シュラ」
「……ん、おやす……い、」
ほそっこい身体が岩面に叩き付けられる前に。そっと肩に頭を預けさせてやれば、アイオロスに身を摺り寄せたシュラは、すぐさま小さな寝息を立て始めた。
***
「アイオロス! アイオロス!!」
シュラの声が弾んでいる。またもいつの間にか寝心地の悪い岩の上に横になっていらしい。ゆさゆさと無遠慮に揺さぶり起こされて、アイオロスは不承不承瞼を持ち上げた。
途端、得意げに笑うシュラの顔が視界に飛び込んでくる。それを当たり前のこととしてありがたく享受できるほどには寝ぼけておらず、アイオロスは困惑と共に身を起こした。
「あれ……え!?」
「この石、小宇宙を込めると光るんだ!」
子供らしさが多分に残された手の中で、今回の任務の目的である鉱石が薄碧の光を放っている。そのあまりの清廉さと美しさに暫し見入って、アイオロスは言葉を失くしてしまった。それが思い掛けない反応だったので、シュラが上目遣いで射手座の少年を覗き込む。
「ええと、いけなかっただろうか……」
「まさか! ただ少し驚いただけだ。すごいな、シュラ」
大発見じゃないか、と頭を撫でればシュラがはにかんで俯いた。
そのとき鉱石の一つから光が失せて、子供の白皙を照らす光が弱まる。なんの変哲もない――などと言ったら教皇シオンにどやされそうだが――石に戻ったそれを手に取って、今度はアイオロスが小宇宙を込めた。
「わ……!」
途端その石は燃えるような紅の光を放ち始め、シュラが感嘆の声を上げる。手近で光る鉱石を掌に乗せ、少し輝きが薄れてきていたそれに小宇宙を注ぐ。再び目の覚めるような碧の輝きを取り戻したそれと、アイオロスの掴んだ紅い石とを見比べて、シュラもまた黒曜石のごとき瞳を輝かせた。
眩い光は、けれど目を焼くほどの鮮烈さを持たない。暗闇に閉じ込められたのはほんの一日二日程度のことだが、久方ぶりの光は二人の心に大きな安堵を齎した。知らず入ってしまっていたのだろう、肩の力が抜けていく。
碧に光る鉱石を手に取って眺めていたアイオロスの元へ、水を飲みにその場を離れていたシュラが戻ってきた。その掌には、紅い石が乗せられている。それをしげしげと眺めまわして、シュラは表情を綻ばせた。
「アイオロスの小宇宙だ」
そう言って一人、頷いて何やら納得している。訝って視線をやれば、何故だか誇らしげに胸を張って説明してくれた。
「暖かくて、力強い。それなのに優しくて、安心感がある。こうして手に持っていると勇気が湧いてくるんだ。なんだっけ……あ、そうだ、“聖闘士かくあるべき”。そういう小宇宙だ。聖域の誇り、黄金聖闘士の中でも……アイオロス?」
そのアイオロスの小宇宙に照らされて、シュラの白い頬が赤く染まっている。自分のことのように嬉しそうで、そして自信たっぷりのその口ぶりに、照れて俯いたのはアイオロスのほうだった。
額に手をやり表情を隠したこの先輩の心の機微が、僅か十歳の少年にはまだわからない。小さなまなこを丸くしてこちらを覗き込んでくるのを押し留めて、アイオロスはへにゃりと微笑んだ。気を悪くさせたかと戸惑っているかわいい後輩をどうにか真っすぐ見返す。
「嬉しいぞシュラ、ありがとう。あー……その、なんだ、俺は。お前の信頼を裏切らんようにせねばなと、思った」
「アイオロスがそんなことするはずがない! だってアイオロスは“じんちゆう”を兼ね備えた、皆が目指すべき指針で、つまり、俺の憧れ、だッ……!?」
「わかった! わかったから!!」
ムキになって言い募るシュラの称賛にいよいよ耐えられなくなって、まだまだほそっこいその身体をアイオロスは無理矢理に抱き込んでいた。びっくりしてじたばたと暴れているシュラの、貝殻のような薄い耳が眼前に晒される。やけくそになって、アイオロスはそこに言葉を吹き込んだ。
「そんなことを言ったらだな、シュラの小宇宙だってとても綺麗だ!」
「えっ!?」
「お前の右腕に宿った聖剣の色だ。触れなば斬れんという高潔さを持ちながら、慈しみの心もまた持っている」
「え、え?」
ぽかんと呆けているシュラの、混乱の声があどけない。自身の黄金としての実力や、それに対する周囲の一般的な評価はよくよく理解しているシュラだけれど、実のところ面と向かっての賛美はとても苦手だった――尊敬している人からのものであるならば、猶更。
だからこそ言葉を選び、少しずつ伝えてきていたそれを、アイオロスは一息に吐き出した。
「俺は時折、お前がまだ両手の指で数えるに足る年齢の、ほんの子供だと忘れてしまう。真っすぐで折れることを知らない。努力することを惜しまず、自分が傷つくことを恐れない。お前はその年ですでに聖闘士の最高位に相応しい立派な、」
「や……もう、いいからッ!!」
抱きすくめた身体がどんどん熱くなっていく。恥ずかしさのあまりあちこちに跳ねてもがいていたすべらかな両手足が、やがて抵抗をやめておとなしくなる。遠慮がちに両手を背中に回して、シュラは燃えるように火照ったかんばせを厚い胸板に押し付けた。
ぐい、ぐいと額を擦り付ける仕草に、アイオロスが小さく苦笑する。
「俺の気持ち、わかってもらえたか」
「……よく、わかった……」
消え入りそうな声。それで会話は終わってしまって、薄暗い空間にはじんわりと沈黙が広がったのだけれど、それでもどうにも動けない。
この姿勢だってとてつもなく恥ずかしいのだが、どうしても頬に血が上った顔を見られたくなくて。ひしっと固く抱き合ったまま。いつしか二人は優しい眠りに落ちていた。
***
やはり目覚めたときには横になっていた。喉の渇きにアイオロスが目を覚ますと、腕の中ではまだシュラがぐっすり眠っている。背中に回されていたはずの両手が、今は前で胸元の布地を握り締めているのを見下ろして微笑む。十の子であると忘れるとは言ったものの、こうして見ればシュラはやはり十歳かそこらの少年だった。
ふっくらと柔らかさを残した頬。存外彫りの深い顔立ちではあるのだけれど、瞼を下ろしているとあの苛烈な輝きを放つ瞳が隠された寝顔は幼い。小さな唇が僅かに開いて、綺麗に並んだエナメル質が覗いている。安心しきった子供の微かな寝息が、二人きりの空間ではやけに大きく聞こえるのだった。
「ん、うんぅ……」
じっくり眺め回している視線に気が付いたのだろうか、むずかってアイオロスの胸に顔を埋めたシュラはやがてゆるゆる顔を上げた。暫く寝ぼけ眼でアイオロスを見上げていたけれど、いきなり白皙に火が灯る。
「あ、アイオロスっ!?」
「おはよう、シュラ」
跳び退って狼狽する様がかわいくて、アイオロスはつい吹き出していた。ぱくぱくと無為に口を開いては閉じ、混乱するシュラの稚さは、こんなことにならなければ見ることのなかったものかもしれない。喉を潤すべく立ち上がりざま、アイオロスは硬い黒髪を撫でた。
サガからの連絡はない。同じ道を二度通ることはできぬ。山を穢す者は生きては帰れぬ。そんな教皇の言葉がすぐさま腑に落ちるほどには、この霊山は入山するときから奇妙なまでの静謐に満ちていた。サガほどの空間支配力をもってしても捜索は難航しているらしい。
小宇宙を込めた鉱石を並べ、二人はそれを何となしに眺める。弱気に負けまいと、先に口を開いたのはアイオロスだ。
「こうして赤と緑が並んでいると、あれを思い出すな。ええと、何と言ったか……異教の祭りで……」
「クリスマス!!」
適当に振った話題だったけれど、答えるシュラの声は弾んでいた。
アイオロスも弟のアイオリアもロドリオ村近郊出身だ。あの辺は聖域のお膝元、つまり女神信仰の地であるから、兄弟はハロウィンやクリスマス、イースターといった異教の祝祭にはめっぽう疎い。それに対してシュラはスペインの生まれで、教会併設の孤児院で育ったのもあり、聖域に連れられてくるまでは敬虔なカトリック教徒であった。
もちろん女神の聖闘士としての自覚を持っているけれど、それでもスペインで過ごした幼い日々、クリスマスを筆頭とした祝祭はシュラにとって特別な意味を持っている。
今なお鮮烈な記憶を振り返って微笑んだシュラは、けれど隣のアイオロスに視線をやってきまり悪げに顔を逸らした。
その頭に、ぽんと手を置く。
「いいんだ。なぁシュラ、聞かせてくれないか。その“クリスマス”とは、お前の生まれた国ではどんな風に祝われるんだ?」
「え、ええと……」
聖闘士として、異なる神の降誕を祝う祭りのことを語るなど。そう戸惑ったのは数瞬で、興味深げに微笑むアイオロスに、堰が切れたかのごとくシュラは語り始めていた。
「11月、少し日が短くなって、寒くなってきたら、もうクリスマスの準備をするんだ。俺たちはバザーに出すクリスマス飾りをみんなで作る。粘土を捏ねて、小さな人形にして焼いて……」
聖剣を宿す子供の手が、ひらひらと舞って雄弁だった。異教の神や賢者を模した人形を、教会の子らは一心に作っていたのだろう。懐かしさに綻ぶ横顔を、アイオロスは静かに眺める。
「俺たちはいつも一緒だったけれど、クリスマスイブの晩にもやっぱり一緒だった。一切れだけ、七面鳥の焼いたのが出て……その日だけは、でかい奴らもちびのを掠めたりなんかしない。腹がくちたらみんなで祝歌を歌う。マザーがオルガンを弾いてくれて、一緒に、歌って、」
シュラの言葉が不意に途切れた。アイオロスが口を開くより先に、何か綻びを隠すような大声が続く。
「それから、東方から来たる三賢者が、子供たちにプレゼントを持ってきてくれるんだ。1月6日に……これはカミュに言ったら変な顔をされた。バルコニーに靴を並べて、近くにはしばらく我慢して溜めておいたお菓子を置いておく。それで、」
「……シュラ、」
「プレゼントを、もらって……みんなで、ケーキを、」
とうとう歯を食い縛って俯いたシュラの頬に涙が伝った。知らずアイオロスが伸ばしていた手から、逃れるように背を向ける。泣いてなどいない、とでも言うように、いっそ似合わぬ明るさでシュラは思い出語りを続けようとした。
「ケーキを、食べるんだ。ロスコン……ええ、と……ギリシャ語だと、“王様のケーキ”と言ったらいいんだろうか。甘くて、果物の砂糖漬けがたくさん乗っている。近所の菓子屋のケーキにはクリームが、たっぷり入っていて、」
「シュラ」
「お……れは、いつもそれが、うらやましく、て……」
血が流れるほどに掌に爪を突き立てて、この十歳の子供は泣き喚くのを堪えていた。ひと眠りする前の会話が余計に意地を張らせているのは明らかで、健気な虚勢に胸が痛くなる。
何も見えないから、と。後ろからそっと抱き締めれば、おずおずと強張りが溶けていく。それが嗚咽を堪えるための寄る辺であるとでも言うように、シュラは回された腕に強く縋った。熱い雫が止め処もなく落ちてはアイオロスの肌を灼いた。
「っう……ふ、くうぅ……!」
やがて泣き疲れたシュラが静かに意識を飛ばす。そうして眠りに落ちてしまってからも、アイオロスはその身体をずっと抱き締め続けていた。
***
泣いて、泣いて。涙と共に力まで体の外に押し流してしまったのだろうか。目覚めたシュラはぐったりと力なく、まるで人形のように見えた。
涙の痕が白皙に残って痛々しい。
どこを見るでもなく呆然としていた瞳がようやくアイオロスに向けられる。弱く胸元を押したシュラは、よろよろ腕の中から抜け出した。乾いた唇が一言だけ言葉を紡ぐ。
「みず……」
「……シュラ!」
よた、と。危なっかしい足取りで一歩前に踏み出した細い足が、案の定そこでたたらを踏む。よろめいた身体が硬い岩に叩き付けられる前に、アイオロスがシュラを抱き留めた。
「いいから、無理をするな」
そのまま抱き上げて、水の浸みる岩へと歩を進めて。頼りない軽さを支える自分もふら付いていることに気が付いて、アイオロスは一人顔を顰めた。
「ほら」
少しずつ水が滴る岩の尖りに口元を寄せても、ちっとも喉は上下しない。
口の端から雫が零れて、アイオロスが片手でへし折れそうなほどに細い、シュラの首筋を伝っていった。
「シュラ……」
焦れたアイオロスが、岩肌に口を付け水を啜る。
「ふぁ、あ……う、」
かさかさの唇に己のそれを合わせ、少しずつ水を含ませてやっても、そんな僅かな水分さえ今のシュラは飲み込むのに難儀していた。苦しげに柳眉が寄せられ、肩口に縋った指が震える。
「んっ……くぅ、」
アイオロスが舌をのたくり込ませ促すように口内を摩ると、ようやくか細く喉が鳴った。噎せ返らずに水を飲み下せたことに安堵して唇を離せば、濡れた唇が慌てて呼吸を貪る。
「っは……はぁ、あっ……」
「もう少し飲むか?」
「ん……」
ほんの小さな頷きに答え、シュラの呼吸が落ち着くのを待ってから再び口づける。浸みてくる雫の量は決して多くはない。その水を根気よく受け止めて、アイオロスは腕の中の子供に口移しで与え続けた。
随分と時間のかかったそれが終わったときには、ただ与えられるだけだったシュラのほうが体力の限界だった。肌を粟立てて震える身体を少しでも護るべく、アイオロスはシャツを脱いでシュラに着せてやった。ゆるゆる頭を振った弱い拒絶は黙殺する。
そのままぴたりと身を寄せ合えば、少しは寒さも和らいだのだろう。細く細く息を吐いて、シュラは静かに瞼を下ろした。
眠る子供の顔は、安らかとは言い難い。けれどそれでもシュラがアイオロスを信じ切って、すっかり身を委ねてくれるのが嬉しかった。
その信頼に応えてやることのできぬ、自分の無力が腹立たしい。
「シュラ……」
子供の柔らかさを残した、けれど随分とかさついてしまった頬を撫でる。シュラがその手に顔を摺り寄せたそのとき、彼が小宇宙を込めた鉱石の、最後の一つが光を失くした。
「サガ……早く、来てくれ」
“早まるな”と念を押した友人の顔を思い浮かべ、アイオロスは小さくその名を呼んだ。
***
紅い輝きが岩肌に反射していた。その光は勿論二人の上にも注がれていて、シュラの寝顔を紅く照らす。
彼が好きだ、暖かくて力強いと言ってくれた自身の小宇宙がどうにも不吉な色にしか見えなくて、アイオロスはシュラを掻き抱いた。だらりと垂れた右腕が紅く染まっているのを見て、思わず手に取って握り締める。
「ん……う、」
「すまん、起こしたか」
縋るような手の強さに、シュラが睫毛を震わせて。うすぼんやりと暗がりを眺めていた目が幾度か瞬いて自分を見つけるのを、アイオロスは祈るような気持ちで見つめていた。
僅かな水を摂取することしか許されず、一体どれだけの時間ここに閉じ込められているのだろう。4つも年下の子供が辛くないはずがなかろうに、シュラは微笑んで何か言おうとして――そして激しく咳き込んだ。
「シュラ!」
慌てて抱え直し、背中を繰り返し摩ってやる。咳の一つでも更に体力を削られたようで、衝動が収まったころにはシュラはうっすらと生理的な涙を浮かべていた。アイオロスの胸板に身体を預け息を吐くさまは酷く力ない。
ようやく呼吸が落ち着いたシュラが、静かに敬愛する人の名を紡ぐ。
「アイ、オロ……ス、」
掠れ切った声。伸ばされた右手が肩口を掴みそこね、ずるずると落ちた。
「もし……れが、しんだ、ら……」
「何を言ってるんだ、シュラ!」
「……た……て、」
「え?」
弱々しい声は静まり返った空間ですら聞きとることが叶わなかった。自分の想いが伝わらなかったことを悟り、もう一度シュラは、努めてはっきりとした声で告げた。
「たべ……て……」
「シュラ、な、」
「そした……ら、」
アイオロスは生き延びることができる。
聞き間違いなどではない。確かにシュラはそういう主旨のことを言った。絶句しているアイオロスの目をじぃっと見つめて、唇が更に言葉を続ける。
「そ……たら、ずっと……いっしょ、に、い……れ、」
「シュラ! いい加減に、」
その弱気と望まぬ献身を叱り飛ばそうとして、けれどその間隙に続いた言葉に、今度こそアイオロスの思考は止まってしまった。
「ア……ロ、ス……すき、」
だいすき。
「……ッ!!」
限界だった。左腕にシュラを抱き抱え、ふらつく足を叱咤して立ち上がる。
霊地を穢した咎など甘んじて受ける。この子供を腕の中で死なすくらいならば。
腰を落として立ち、右腕にありったけの小宇宙を込める。どれほどの力を持ってすれば脱出が叶うのか、それを知る術はアイオロスにない。全身が疲弊していて、残された力がいかほどかもよくわからない。
とにかく全力を出し尽くすまでだ、と覚悟を決め、黄金の射手は岩壁に右手を叩き付けようとして、
「アイオロス!!」
聞き慣れた――けれど痛いほどに懐かしい友の声と手に渾身の一撃を遮られた。
「サ、ガ……?」
煌めく黄金の聖衣。残響のように広がる、空間を捻じ曲げた違和感。狼狽した友の顔。攻撃体勢に移っていた手を無理矢理に抑え込まれて、アイオロスは不自然な姿勢で瞬いた。
「遅くなってすまなかった」
早まるなと言ったろうに、などと言う小言はなかった。足の力が急激に萎えて、膝から崩れそうになったアイオロスを、容易くサガは抱き留めた。
***
情けないことにそのまま意識を飛ばしていたらしい。次に目覚めたアイオロスの視界に飛び込んできたのは秀麗な――けれど不安を隠し切れず滲ませてしまった――親友の顔だった。
聞けばアイオロスとシュラは麓の医院に担ぎ込まれたらしく、こじんまりとした病室の清潔なベッドにアイオロスは寝かされていた。
全力で燃やされた友の小宇宙にようやく、サガは二人の居場所を感知できたらしい。
だったらさっさと破壊を試みておけばよかった!とは辛うじて口にせずに済んだけれど、その言葉にはアイオロスも脱力した。寝台で伸びているのをどう受け取ったのか、サガが身を起こす手伝いをしてくれる。
「……肉が食いたい」
そうして差し出されたのが粥というのすらおこがましい、言うなれば重湯のような何かだったので、流石のアイオロスも口を尖らせていた。頭ではわかっていても、聞き分けのない子のような文句が口をついて飛び出してくる。
「何日食べずにいたと思っているんだ。いきなり肉など食べては胃がおかしくなる」
「そんなこと、わかっている」
「だったら早く食べてしまえ。子供ではないんだから」
「少なくともお前よりは年下だ」
アイオロス、と呆れた声が聞こえる。肉が食べたいなどと本気で言っているわけではない。だが射手座の少年はこうしてサガの前でだけばかに子供じみた我儘を言ってのけることがあった。それをいちいち咎め立てしないのは、兄弟よりも身近で切磋琢磨してきたこの聖域の英雄が、サガにとってはかわいい後輩であるからにほかならない。
常ならば幼い他の聖闘士たちの前では決して見せないようなじゃれ合いだが、今日は場所が悪かった。
遠慮がちなノックが二人の会話を中断する。サガが扉を開けに向かえば、廊下に立っていたのはアフロディーテだった。その背にはシュラがちょこんと乗っている。両手が塞がっている魚座の代わりに戸を叩いたのは彼のようだった。
ずかずかと室内に足を踏み入れ、狭い寝台にぼすんと友人を落としたアフロディーテが、冷たくアイオロスを睨み据える。何を言うか決めかねて口を噤んでいるシュラとは違う。サガを困らせる人間に、この美しい少年はとてつもなく辛辣だった。
「知らなかった。貴方にもそんな子供っぽいところがあるなんて」
棘のある言いようにアイオロスは苦笑して、ようよう粥に匙をつけた。
「ああ、そうだ二人とも」
その大ぶりの椀が空になるころ、持ち帰った鉱石を分類していたサガが寝台の二人に向き直る。
「今回の件でお前たちは大変な思いをしただろうから、帰還したら好きなものを食べさせてやると教皇が、」
「肉!」
その言葉を遮ってアイオロスが叫ぶ。サガ本人は大して気にも留めぬその振る舞いに、むしろアフロディーテが眉根を寄せて五つ年上の同胞を睨んでいた。
先輩二人と友人を忙しなく眺めていたシュラに、やがて三人の視線が集中する。サガと目が合えば促すように小首を傾げられ、シュラも遠慮がちに口を開いた。
「……王様のケーキ」
聞き慣れない言葉に顔を見合わせたのが二人。シュラの言葉を聞いて、残りの一人は即座に自身の発言を撤回していた。
「それはいいな! 俺も肉はやめてそれにしよう!」
硬質な黒髪にくしゃりと指を差し込み、わしゃわしゃと撫で繰り回してアイオロスは続ける。聴衆は二人。この魅力的な菓子を知らぬサガとアフロディーテだ。
「王様のケーキというのはな、スペインでクリスマスに食べるケーキなんだ。ええと、甘くて、それから砂糖菓子がたくさん……」
聞きかじりの知識を楽しげに披露する朗らかな声を、シュラが隣で聞いている。微苦笑を浮かべたサガが一人掛けのソファに腰かける。溜息一つ、アフロディーテはサガと自分――とついでに友人、ついでのついでに射手座の彼――のための紅茶を用意し始める。
磨りガラス越しの陽光は随分と暖かい。名も知らぬ鳥がどこで囀り、屋根の雪は緩んで泥濘に滑り落ちる。
短い春はどこまでも平等に、穏やかに四人を包んでいた。
***
そんなことも、あったかもしれない。
夜更けにいきなり訪れた隣宮の主。その手土産に遠い記憶が凄まじい勢いで呼び起こされて、シュラは赤面して天を仰いだ。
あれから色々――などという陳腐な言葉では片づけきれないほどに色々――あって、結局シュラとアイオロスが王様のケーキを食べることはなかった。それがまさかこんな形で、13年ぶりに実現しようとは思ってもみなかった。
「よくもまぁ、今になってそんなものを……」
「ああ、時期を過ぎていたので手に入らなくてな、これはデスマスクに頼んで作ってもらった」
「……そういう意味じゃない」
いつの話だと……そう言いかけてやめる。23歳の青年にとっては遥か昔の思い出に過ぎないことも、この14歳の少年にとってはつい最近の約束なのだった。
勝手知ったる隣人の宮にずかずか入ってきたアイオロスは、当たり前のようにリビングのローテーブルにケーキを置いた。大仰な溜息一つ、シュラがナイフやらフォークやら取り皿やら用意してやっている背中を、上機嫌で眺めている。
ケーキだけ食べて飲み物がないというのもつまらない。14歳の彼はコーヒーを好まないから、引き出しを引っかき回し、シンクの下やら戸棚の奥やら漁ってシュラは貰い物の紅茶を引っ張り出した。
振り返ろうとしたところで、腕の中に閉じ込められていた。キッチンに入ってきていたのにはもちろん気づいていたけれど、不意にこんな風に甘えついてくるとは思わなくてシュラは思わず目を瞬かせた。宥めるように腕を叩き胸板に軽く凭れかかれば、心地のいい低音が耳朶を擽った。
「気が変わった。あれは明日食べよう」
「は?」
けれど吹き込まれた思い掛けない言葉に、シュラは知らず柳眉を寄せていた。紅茶の缶を置いて振り返りたいのに、続く誘いの甘やかな熱にじんと腰が痺れて動けなくなる。
「今は、シュラが食べたい」
「……14歳の子供が言うセリフじゃないな」
どこでそんな誘い文句を覚えてくるんだ、と回された腕を小突く。吐息だけで笑ったアイオロスが眼前のうなじに唇を寄せた。舌先で舐め上げ痕を残さない程度に柔く歯を立てる。
忘れたのか。そう囁く声は熱く、それでいて酷くいたずらっぽくて楽しげだった。
「だってお前、言ったじゃないか。“俺を食べて”って」
「……そういう意味じゃない」
呆れて恋人に向き直れば、想像通りの表情を浮かべている。柔らかい栗色の髪に手を差し入れて、シュラもまた笑みを浮かべた。
「子供の貴方を誑かして、俺はどうしようもない大人だな」
「俺が子供なんかじゃないのを一番知っているのはお前じゃないか」
「ああ言えばこう言う」
「じゃあ塞いでいればいい。俺がつまらん屁理屈を捏ね繰り回さんように」
「ベッドの中でか?」
「お前がそう望むなら」
言葉の応酬はそこまでだった。寝室までの僅かな距離すら惜しんで、ソファに二人縺れ合うように倒れ込む。
いつもと一つだけ違うのは、そこに甘い焼き菓子の香りが、ずっと漂っていることだった。
初出:2016/02/10