聖域を抜ける風が、氷の刃のように鋭く冷え切っている。
だがこの、冷徹で冴えた空気が嫌いではない。
日が昇る前には寝台を出て寝ぼけた身体を叩き起こす。
自身が守護する磨羯宮から下へ下へ、白羊宮までの道のりは決して短いものではないけれど、黄金聖闘士にとっては息一つ切らさずに駆けられる程度のもの。
第一の宮を抜けてほど近い草原で日課のトレーニングを済ませてから、再び十二宮を上っていく。
静まり返って人気のない――主がその師と共にジャミールへ行っているのだ――白羊宮。
朝食を作っているアルデバランの、上機嫌な歌声が聞こえる金牛宮。
時折朝方までサガが根を詰め、カノンが気を揉んでいる双児宮。
巨蟹宮の主はこんな時間には惰眠を貪っているのが常だが、そもそも今は長期任務で聖域を離れている。
その一つ上の獅子宮では、アイオリアもまた朝の鍛錬で汗を流している。
処女宮は清らかな空気が流れ、いつも静謐な小宇宙に満ちて気が引き締まる。
次に抜けるのはやはり主が不在――弟子と共に世界を回っている――の天秤宮。
寝ぼけ眼のミロが起き出してくるには少しばかり早いようで、天蠍宮からは生活音一つ聞こえてこない。
その天蠍宮を出たところで、シュラは来し方を振り返った。
冬の太陽がのたくたと地平線を染めはじめ、聖域が徐々に目覚めていく。
そうやって一日の始まりを迎えるのが、シュラはとても好きだった。
いつもと変わらぬそんな朝が、今朝は少しだけ違っていた。
「おはよう、シュラ」
「……アイオロス?」
人馬宮の入り口で主に出迎えられて、シュラはそこで足を止めた。
こうして鍛錬を終えて上ってくるころ、アイオロスは既に起き出して仕事をしていることが多い。
けれどこんな風にわざわざ声をかけられるのは初めてだった。
何か、急ぎの用事でもあるのだろうか。
汗ばんだ体が冷えてしまうから、と宮内に招き入れる手は力強く優しい。
告げられたのは思いもかけない言葉だった。
「……誕生日?」
「ああ。この間、俺の誕生日があっただろう。つまり次はお前じゃないか」
何故か朝食まで振る舞われながら、シュラはアイオロスの話に耳を傾けている。
先日のアイオロスの誕生日は、女神の計らいによって兄弟二人だけで静かに祝われた。
一週間の休暇をもらった二人は日本を訪れたということで、プレゼントを渡しに行って反対に土産物を一抱えも受け取ったのは記憶に新しい。
そんな過日を思い出すともなく振り返っているシュラの前で、ミルクたっぷりのコーヒーを飲み干したアイオロスが勢い込んで続けた。
「早くから準備しておくに越したことはない。なぁシュラ、来月の12日はお前のところに行ってもいいだろう?」
「俺に断る理由などないが、」
「では決まりだな!」
この13年間、誕生日などただ過ぎ去っていくだけのものであったと言っても過言ではない。
聖域にいればデスマスクかアフロディーテがちょっとした贈り物を渡してくれることもあったし、悪辣な人格を抑え込んだサガが祝いと労いの言葉をかけてくれることもあった。
だがこんなにきらきらとした表情で己の生を祝おうとする態度など覚えがなくて、流石にシュラは戸惑いに目を瞬かせていた。
俺は貴方を殺した人間だ、と。
そんな言葉が喉に引っ掛かる。
だが結局シュラがそう口にすることはなかった。
アイオロスを相手に、この話題を繰り返すのは詮無いことだった――それでもこのあまりの大らかさには時々驚かされるけれど。
「……貴方がそうしてくれると言うのなら」
「ああ。……ついてはシュラ、12日は俺もお前も休みが取れるように、仕事を調整しておいてくれ。何だったら前後も休みにしてくれてかまわんぞ」
当たり前のように付け足されたお願いに、今度はシュラも苦笑で答えた。
「そう仰るならば書類仕事を溜めぬようお頼み申し上げます、教皇猊下」
朝食後には人馬宮を辞したものの、すぐにアイオロスとは教皇宮で顔を合わせることになる。
聖戦後の聖域には、数え上げることができないほどの仕事が山積していた。
女神の慈悲で生を得たとはいえ、我が世の春を謳歌できるはずもなく。
シオン及び女神アテナから改めて教皇として指名されたアイオロスを筆頭に蘇った黄金聖闘士皆が仕事に追われている。
シオンとムウは貴鬼を連れてジャミールへ――彼らには彼らにしかできない仕事がある。
童虎は長きに渡る封印監視の役目から解き放たれて、後進を探すべく紫龍と共に世界中を回っていた。
粛清や内戦の鎮圧など血で血を洗う凄惨な戦いを引き受けてばかりだったデスマスクの仕事は減ったものの、いくらか残るそれらを少しずつ年下の聖闘士たちに経験させている最中で、文句を言いつつも今なお誰よりも現場に赴いている。
双魚宮の主アフロディーテは、十二宮最後の砦の守護者として聖域全体の防衛を見直し日夜奔走していた。
年若い黄金聖闘士たちは、候補生たちの育成を選んだカミュ以外は皆デスマスクかアフロディーテと共に動いているようだった。
そんな中でシュラだけは、日々アイオロスと顔を突き合わせて働いている。
サガを頂点とした13年間、外での粛清任務を受ける傍ら、主に偽教皇の隣で政の手助けをしてきたのはシュラだった。
アイオロスが討たれ、表向きサガが消えた聖域の黄金聖闘士の最年長は彼とデスマスクの二人。
死に顔で宮を飾り、怨嗟と嘆きを讃美歌にしては誇るデスマスクを傍に置くのはあまりに聞こえが悪い。
その点逆賊を誅した山羊座の聖闘士とあれば、祀り上げるのにもちょうどよかった。
神官の権限を縮小し独裁に移行していく中で、シュラが果たした役割は大きい。
空白の13年間を持つ新教皇を補佐するうえで、その知識と経験は不可欠だった。
無論、本来ならば資質の面から言ってもこれまでの治政から言っても、補佐をサガに任せたほうがうまく回ることもあるだろう。
それでもサガがこの教皇宮を訪れることはなかった。
もちろんできうる限りの協力は惜しまない。
伝令及び片腕としてカノンを傍らに置きながら、双児宮において彼の知りうることを活かし、彼にしかできない仕事を淡々と続けている。
倒れるほどに職務に打ち込んで、血を分けた弟に心配をかけることもままあるという。
いまだサガ――そしてシュラ、デスマスク、アフロディーテ――をアテナに弓引いた逆賊として見る者も多くいる。
そんな中で、今自分に与えられた使命を果たす。
サガが自身に課した贖罪の道に、意を唱える者はいなかった。
「……サガ? それにカノンも」
彼の覚悟を知っていたからこそ、兄弟に教皇への拝謁を請われてシュラは目を丸くした。
珍しいという驚きよりも、何かあったのだろうという確信のほうが強い。
予想は違わず、硬い表情を浮かべたサガは何事か書き付けてある紙を広げてみせた。
星見の結果や近隣住民の証言、聖闘士の報告などが含まれたそれの中には、真新しいものもあれば随分と古いものもある。
「邪龍の封印の件で教皇猊下にお目通りを」
「ああ、わかった」
神官たちの中には、この双子座の聖闘士二人を忌む者も少なくない。
人払いを済ませるべく、シュラはその場を後にした。
「……シュラ?」
「終わったか」
「ああ」
二人がアイオロスのもとへ消えてから優に二時間は経っただろうか。
書類仕事を続けていたシュラは、不意に声をかけられて顔を上げた。
相変わらずサガの秀麗な面には色濃い疲れが滲んでいる。
これでは片割れが心配もするはずだ。
だがそれを指摘してやるよりも先に、口を開いたのはサガだった。
「手が酷く荒れているな。それでは紙を扱うにも苦労が多いだろう」
「は……?」
気づかわしげな視線を受けて、シュラは改めて己の手を見下ろした。
鍛錬で負った怪我、戦いでの負傷、日常の生活でつけた小さな傷。
それらに加えて冬の乾燥故の皸や罅割れも多くあって、確かにシュラの手は酷く痛々しく見えた。
「そうだシュラ」
傷だらけの白い手を見下ろしていたカノンが、不意に外套のポケットを探り出した。
縒れたハンカチ、小さなキャンディーとガム、小銭にレシート、潰れたタバコの箱とマッチ、果ては避妊具――これは兄に渡されることなくすぐさま再び狭い場所に捻じ込まれることとなった――まで。
あちこちから細々したものを取りだしてはサガに持たせていたカノンは、ついに内ポケットから望みの物を探し出した。
「これ、使うか?」
黒地に赤い模様の入った手袋が目の前に突き出され、シュラは二、三度瞬いた。
手の甲の部分には囀る鳥、その後ろには葡萄の木がどっしりと聳えていて、手首へと向かうあたりには薔薇の花が散らされている。
五指のうち親指を除く四本は一緒になっているタイプの手袋――所謂ミトンだった。
「これは……また、随分と……可愛らしいデザインだな」
礼よりも何よりもそんな言葉が出てきてしまって、隣にいるサガが思わず吹き出す。
かつて幼い兄が、影として生きることを強いられ自分のものは何一つ持てずにいた弟に贈ったもの。
それを後生大事に持っていたばかりかついには似たような意匠のものを見つけ出してきてまで使っているこの弟が、サガには可愛くてならなかった。
「おい、サガ……?」
シュラが訝って顔を覗き込んでくるのも、片割れが耳まで赤くしてこちらを睨み付けているのもおかしくて堪らない。
業を煮やしたカノンが、ずい、と手袋をシュラの眼前に突き出した。
「ほら、使うのか使わないのか! さっさと決めろ!!」
「あ、ああ……せっかくだが、そういう手袋は昔から好かん。厚意を無にするようで悪いが」
「そう、か……」
すまん、と生真面目に頭を下げられ、カノンも毒気を抜かれたらしい。
残念なような、少しほっとしたような。
複雑な表情を浮かべたものの、結局はそのミトンを大事そうに自分の手に嵌める。
ようやく笑いを引っ込めたサガが、涼しい顔をして双子の弟を促した。
姿かたちの非常によく似た、だがそれでいて佇まいがまるで違う二人の背中を見送って、それからシュラは踵を返す――返そうとした。
「あの二人の距離も、随分と近くなったな」
「アイオロス」
いつの間に教皇の間から出てきたのか、不意にアイオロスに声をかけられてシュラは瞬いた。
寒さに首を竦めつつ、シュラの隣に立った彼が双子の背中を指さす。
「ほら、前よりもぐっと近づいた」
随分と小さくなった二人、長い石の階段を下りていくサガとカノンの肩は今にも触れ合いそうで。
ちらちらと雪が舞う中、兄と弟は何を思い何を語らっているのだろうか。
人――それもシャカどころではなくアルデバランのような大男――ひとり優に間に入れそうなほど距離を開けていた少し前までの日々を振り返り、もう殆ど見えなくなった背中を見つめ、アイオロスは薄く微笑んだ。
「アイオロス、ここは冷える」
「……あ。誰か上ってくるようだぞ」
「え?」
今度こそ屋内に引き返そうとしたシュラを呼び止めて目を凝らす。
雪と白亜の合間を揺れる銀色は、当人の性格をよくよく把握していてなおどこか儚くさえ見える。
聖衣を脱ぎ珍しく純白の外衣などを纏っているものだから、蟹座の黄金聖闘士の姿は強くなる雪の中を消えては現れ、また消える。
それを見るともなく眺めているうちに、ついに彼は教皇宮にまで上り詰めてしまった。
「……何やってんだ、お前たち」
「ん? 寄り道せずに上ってきたようだな」
アイオロスの言葉は問いかけの答えにもなっていない。
感心感心、と小さな子どもにするように頭を撫でられて、露悪趣味のリアリストが顔を歪めた。
再びの命を得てなお悪名高きデスマスクにこんなことをするのはこの若き教皇猊下くらい。
やめろっての!と悪態を吐きながらも振り払うことはしない悪友の醜態を見るともなく眺めていたシュラだが、英雄と蟹では勝負の結果は火を見るより明らかだ。
伊達にセットされた髪がどんどんめちゃくちゃになっていくのを見て、ようやく助け舟を出してやる。
「意外だったな。双魚宮で道草を食うものと思っていたが」
「この雪だろ? 半休もぎ取って飛んで帰ったらしく、薔薇の手入れにかかりっきり」
やっと構い倒しから逃れたデスマスクが、先陣を切って宮内へと歩き出す。
外衣を脱いで雪を落とす。
そうして肩を竦めて笑う仕草まで、妙に様になっていて色気があった。
「聖闘士様を殺し岩をも砕く魔の薔薇だぜ? 心配するこたねぇと思うんだけどよ」
「そうは言っても手塩にかけて育てている己が武器だ。気にもなるだろう」
足早に己から逃げていく後輩の態度など気にも留めず、デスマスクの後に続くアイオロスが答えた。
誰を相手にしても変わらぬ朗らかな笑み。
いつもは血色のよい唇が寒さに少しばかりくすんでいるのを見て、シュラは教皇宮付きの女官に声をかけた。
ひと月以上聖域を開けていた蟹座の報告もまた長くなるだろう。
アイオロスの補佐をするために、シュラもまた教皇の間へと足を踏み入れた。
デスマスクとシュラにとっては甘ったるすぎるコーヒー片手でも、真剣な面差しは変わらない。
天鵞絨の絨毯に膝を付き、頭を垂れる男の話しぶりは実に簡潔でわかりやすかった。
聖戦の終焉、サガの乱や海闘士、冥王軍との戦いで死した聖闘士の復活、そして新教皇の即位に伴って聖域のありようは大きく変わった。
その変化の一つが、脱走兵の激減だった。
脱走は死罪――そう知らされてなお、死への恐怖や教皇への不信から聖域を去るものが絶えなかったころ、彼らを粛清する仕事は主にデスマスクやシュラが請け負っていた。
そのこと自体に慙愧の念はないが、それでもこれは年下の黄金や白銀にはあまりやらせたくない仕事だった。
ましてや青銅の子供らなどに務まるわけがないとデスマスクは強く思っていた。
「そうか……母親の死に目に会いに?」
「矢も楯もたまらずといったところでしょう。私が顔を見せてようやく自分のやったことに思い至って蒼褪めておりましたが。一応白銀に見張らせてはおりますものの、元より逃げる気はないかと」
「なるほど……」
直近の“脱走”騒ぎもふたを開けてみればこんなもので。
聖域を抜け出した少年は、母を看取った後は死を覚悟でここへ戻ってくるのだろうが、そこで待っているのはアイオロスなのだ。
「シュラ、懲罰房の管理はどうなっている?」
「基本的には一等以下の兵に当たらせておりますが、最終的な管理責任者は矢座となっております」
「簡単な掃除と備品の確認を行っておくように。哨務を担当するものは矢座に選ばせてよい」
「かしこまりました」
ほらな!とデスマスクは声に出さずに呟いた。
思っていた通り、年若い“脱走兵”に与えられる罰は随分と生易しいものになりそうだ。
すぐに母親を追う羽目にならずに済んだな、なんて。
シュラとデスマスクはちらりと視線を交わし合った。
「暗黒聖闘士の残党のほうは?」
「一般人、それも女子供や老人を狙うような者ばかり、私の見立てで言えば青銅聖闘士を派遣すれば十分ですが」
「が?」
含みのある蟹座の言い回しに、教皇アイオロスが眉を持ち上げる。
続きを促され、デスマスクはおもむろに口を開いた。
「敢えて黄金を派遣されてはいかがでしょう。ここで圧倒的な力を見せて芽を摘んでおくことが肝要では」
「なるほど。してお前は誰が適任と考える?」
「蠍座がよろしいかと」
「ミロか……」
アイオリアと親しかった少年の顔が頭に浮かぶ。
実のところ立派な黄金聖闘士になった青年とはあまり交流できておらず、こうも自信ありげに蠍座を推す蟹座の言葉の根拠をアイオロスは掴み損ねている。
それを読み取ったのだろう、デスマスクが静かに続けた。
「他の聖闘士では人質を取られた際や市街地に逃げ込まれた際の被害が大きすぎます。その点蠍座の技であればターゲットのみに絞って攻撃することができる」
「ふむ……」
「それだけではありません。スカーレットニードルは15の針でもって降伏か死を敵に迫る技。他の聖闘士のように一撃で相手を葬り去るものではありません」
それが意味するところを理解できないアイオロスではない。
本来ならばそのような――苦痛のうちに命乞いする様、そして黄金聖闘士の実力を見せつけて抑止力とするなどという――やりようはあまり好まないアイオロスではあったけれど、ややあって鷹揚に頷いた。
「そうだな……討伐は蠍座に向かわせる。シュラ、追って勅命を出す故そのつもりで」
「承知いたしました」
脱走兵の件、暗黒聖闘士の件、魔獣や邪神の封印の件。
案件と議題はなかなか尽きず、時計の長身が頂点を三回ほど過ぎてようやく、長時間に渡る報告は終わった。
「ふう……いくらなんでも疲れたな」
いつも通りのフランクな口ぶりでアイオロスが大きく伸びをする。
星を散りばめた空はインク壺をひっくり返したよう。
とっぷりと日の暮れた聖域、寒風吹きすさぶ中を自身の宮まで下りていくのは屈強な肉体を持つ聖闘士だとて面倒だ。
人馬宮や磨羯宮を守護するアイオロスとシュラでさえそう思うのだから、蟹座の男など猶更だろう。
ますます激しさを増す雪を横目に、シュラは珍しくデスマスクに同情したのだった。
旧友に憐憫の目で見られているとは露知らず、先を行く白い外衣がぴたりと足を止めた。「お、そうだ。土産があるんだよ」
「土産?」
「アンタ食いたいっていってただろ」
誰よりも聖域と他の地を往復する蟹座の言葉に、アイオロスは暫し記憶を巡らせる。
なかなかここを離れられない身の上故ついつい用事を言いつけまくっているので、どれのことだかすぐには思い至らない。
“アンコ”とやらがたっぷり詰まった中国の菓子のことか、或いは日本の“マッチャ”か。それとも甘酸っぱいマシュマロのようなゼフィールとかいう菓子だろうか。
オムレツに入れてみようと思って魚醤を頼んだこともあったから、もしかしたらそれかもしれない。
一向に思い出せずうんうん唸っているアイオロスに大げさに息を吐いて、デスマスクが正解を教えてやった。
「……薔薇のタルト」
「あー! あれか!」
いつぞやに雑誌で見かけた、蜜たっぷりのリンゴを大輪の薔薇の形に並べて焼き上げたそれ。
随分前に思いつきで言っただけのものを、土産に買ってきたとデスマスクは言う。
いちいち声高に誇られるでもないそのマメさや律義さがアイオロスには可愛くてならない。
それを言えばまたヘソを曲げる――なんて、あの蟹座に対して思うのは彼ぐらいなのだが――から、感謝の言葉を述べるだけに留めておくけれど。
「そうか、いつもすまないなデスマスク。巨蟹宮へ取りに行けば?」
前を歩くデスマスクは手ぶらで、タルトの影も形もない。
土産は勿論嬉しいのだが、下まで受け取りに行くのは率直に言えばこれまた面倒だった。
アイオロスの内心などお見通しというように、振り返りもせずにデスマスクはこともなげに言った。
「いや、予め双魚宮に置いてきてある」
「と、言うことは……」
「アフロディーテが何か食わしてくれるだろ」
「本当か!?」
思わず上げた喜びの声が、しんと静まった夜に響く。
外見にそぐわず大雑把なところがある彼の料理は、大体が大味で盛り付けも適当。
だがその味が不思議とアイオロスは気に入っていた。
寒冷地出身だからか、材料を火にかけて気長に放置しておけばいいからか、煮込み料理が多いのもありがたい。
こんな底冷えする夜は、何か温かいものが口にしたかった。
「今日は豆と鶏肉のスープだろうか、それとも胡瓜のピクルスが入ったものだろうか」
それからあのゴロゴロしたミートボールがまた出たら嬉しいのだが、なんて。
きゅうう、と空腹を訴える腹を押さえて食べたいものを並べ立てるアイオロスを見て、シュラは勿論デスマスクまでつい苦笑していた。
14歳の無邪気さで独り言ちる姿には、先程までの教皇としての威厳はない。
夕食に舌鼓をうち、すっかり腹がくちくなったらデザートもある。
アフロディーテが淹れてくれる紅茶を飲みながら味わうタルトは、夢のように甘く美味しいことだろう。
「ああ、そうだ!」
艶めく甘い花園にすっかり想いを馳せていたであろうアイオロスが、急に立ち止まり振り返った。
「シュラの誕生日にはちゃんと俺が作ってやるからな!」
「何をだ?」
「何をって、誕生日にはアレが定番だったろう。大好きだったじゃないか」
「……アレ?」
「ああ、アレだ」
自信満々のアイオロスがそう繰り返すほどに、シュラの眉間の皺は深くなっていく。
本気で思い出せずに首を捻っている相手に衝撃を受け、アイオロスは思わず立ち止まった。
「アップルパイ! よく作ってやっただろう!」
「そう、だったか? アップルパイ……別に嫌いではないが」
「まさか忘れたのか!?」
お前は自分の誕生日も知らなかったから、シオン様に星見をしていただいて調べただろう。あの頃は実際に動ける黄金聖闘士が俺とサガしかいなかったからとにかく忙しくて。そんな中でせめてケーキくらいはと思ってあれを焼いたんだぞ。それなのにお前ときたら、一口食べた途端に泣くものだから……。
身振り手振りまでつけながらつらつらと思い出を並べ立てても、シュラは思ったような反応を示してはくれない。
衝撃に打ちのめされながらも更にアイオロスは言葉を続けた。
「味見もしなかったからな、もしや砂糖と塩でも間違えたかと思ったんだが。食べてみたらそんなことはない。普通のアップルパイじゃないか」
「そんなことがあったか?」
「あったさ。お前が泣いて固まっているものだからアイオリアが“食べないならもらう!”とばかりにフォークを突き出してな。そうしたらお前、慌てて皿にしがみついて……」
記憶の中の小さいシュラに、アイオロスはつい目を細める。
弟に取られぬように慌ててそれを口に押し込めた子どもにもう一切れ差し出してやったら、泣き濡れた目を輝かせて笑ったこと。
――“おいしい”って。シュラ。
――おい……しい……?
――そう。おいしい。
――おい、しい……おいしい……!
無邪気に笑うアイオリアが教えた言葉を、何度も何度も反芻したシュラ。
思えばそれが、初めてシュラが笑い、自分の気持ちを話してくれた日であった。
「あー……すまない」
あのかけがえのない日が彼の記憶からはすっかり抜け落ちてしまっているだなんて。
自分ばかりが大切な思い出としてしまい込んでいたのかと思うと少しばかりアイオロスは切なかった。
「ま、13年前がつい数か月前のアンタと俺たちは違うってこった」
「ひゃぁッ!? っおい、いきなり何の真似だ!」
気まずい沈黙を破ったのは、デスマスクがシュラに放り投げた一掬いの雪で。
いきなり後頭部から首筋に直撃したそれに素っ頓狂な声を上げてしまって、シュラが羞恥に声を荒げる。
暗闇に慣れた目には白皙が耳まで染まっているのがよく見える。
「シュラくんにもそんなにカワイイ時代があったんだと思ってなぁ」
「デスマスク!」
揶揄する声に冷たさも感じなくなったらしい。
二重の恥ずかしさのあまり己に詰め寄ってくる友人の肩を無理矢理抱き込んでデスマスクは駆け出した。
双魚宮はもう目の前。
「アイオロス、置いてくぞ!」
「あ、ああ……」
漂ってくる食欲をそそる香りにも、だがアイオロスの心の靄は晴れなかった。
深夜の巨蟹宮は、冷たい闇に閉ざされていた。
持ち込んだカンテラの光が宮の主人の姿を照らす。
「来ると思ってたぜ」
「デスマスク……」
声をかけるより先に、そんな言葉で出迎えられた。
行儀悪く反対向きに椅子に腰かけたデスマスクは、巨蟹宮の壁に向き合ったままアイオロスを見ようともしない。
背を丸め、背もたれに顎を乗せ、視線の先には死に顔が一つ。
アイオロスにも見覚えがある少年のものだ。
「彼は……」
「成仏しそこなっちまったんだよ、未練が強すぎてな」
苦悶の表情を浮かべ、何事か呟いている子どもの声がアイオロスには聞こえない。
目立った素質のある子ではなかったが、朗らかで人望のある努力家だった。
「訓練中の事故……だったと、聞いている」
「聖域と繋がりが深い人間は余計に引っ掛かりやすいんだよ」
めんどくせぇ、と独り言ちて。
それでも自身の技でもって無理矢理冥界に叩き落すような真似はしない。
デスマスクもまた、壁に浮かぶ苦悶と嘆きに満ちた顔に何事か囁きかけた。
そのときアイオロスは確かに見た。
悲痛に歪められた幼い顔が、あどけなく穏やかな少年のそれへと戻るのを。
「あ……」
瞬きの後には死に顔はもう消えていた。
真昼であっても薄暗い巨蟹宮の中に、仄かな光が散る。
それを最後まで見届けて、ようやくデスマスクは立ち上がった。
冴え冴えと夜を照らす月の色をした髪。
凪いだ海色の目が眇められてアイオロスを見つめ返す。
青年が残す、僅かばかりの13年前の面影に、やっと労いの言葉が出てきた。
「お前は……いつも難儀な道ばかりを歩いているんだな」
正確に言えば、歩かせてしまった。
それが今の少年のことだけを指しているのではないと知りながら、デスマスクは大仰に肩を竦めとぼけてみせた。
「ケッ、老師んとこの青銅みてェなのに見咎められちゃたまんねえからな」
大体こんなガキに、俺様の技を使うまでもないっての、と悪態を吐いてみせる。
「そうか……」
礼を言いたいと強く思った。その露悪的な生き方が哀しいほどに愛おしいとも。
けれどアイオロスからの謝意など、デスマスクが受けてくれるはずがないだろう。
「少し話があってここへ来た」
だから切り出したのは、先程のシュラのことだった。
「……入れよ。こんなところでする話でもないだろうが」
それとはっきり言わずとも十分だったらしい。
ひょい、と念動力で椅子を持ち上げ運びながら、デスマスクはプライベートスペースへと歩き出した。
お構いなく、とは一応言ってみたものの、室内には香ばしい香りが満ちている。
そもそも湯を注ぐだけのインスタントコーヒーなど巨蟹宮には置いていない故なのだが、わざわざ豆を引き、ミルクをスチームさせているのを見ると何となく申し訳ないし気まずい。
「ほらよ」
「ああ、ありがとう」
自分のそれはブラックのまま、けれどアイオロスのマグには牛乳と砂糖をたっぷり、それからシナモンを少し入れて、デスマスクが戻ってきた。
渡されたそれを両手で受け取って、ふうふう息を吹きかける。
アイオロスがなかなか口をつけられずにいるうちに、最初の一口を飲んだデスマスクが溜息を吐いた。
「どこから話したもんかねぇ……」
「全部だ。全部話してくれ」
「簡単に言うんじゃねぇよ」
13年だぞ13年、と。美しい銀の髪を掻き乱しながらデスマスクは思案する。
回りくどいのは好まない。
もう一口まだ熱いそれを飲み下して、それからデスマスクは重い口を開いた。
「アンタを殺した後、アイツは……シュラはエクスカリバーを振るわなくなった」
「……は?」
「それが意識的にか無意識にかはわからない。だが聖剣を封じたシュラをあのサガは快く思わなかった」
聖剣がなかろうとシュラは黄金聖闘士、それも厳しい訓練によって極めた体術で右に出る者はいない強者だ。
だがそれでも、ときには光速拳や体術だけでは敵を裁き切れず、手傷を負って帰還することもあった。
それがもどかしかったのがデスマスクとアフロディーテだとしたら、それが腹立たしく疎ましかったのがサガだろう。
新たな聖域の英雄として祀り上げられた身でありながら、“逆賊”を討った事実に内心異様に固執している。
それどころか、格下の敵相手に全力を出すことすらできずに負傷することさえあるなど。
アイオロスやサガに代わる新たな聖域の象徴であり御旗である山羊座の黄金聖闘士。
その少年を己が御すことができないことに、“あの”サガは苛立ちを隠せなかった。
「それほどにエクスカリバーを繰り出すのを拒むのであれば、無理矢理にでも出させるしかない。それが……サガ、の出した結論だった」
「つまり、」
「ああ」
短い肯定。それだけで全てを察したアイオロスが顔色を変えた。
そのときシュラに与えられた任務は、造反者の粛清だと聞いていた。
デスマスクの述懐はそんな呟きから始まった。
13年間、あまりにもいろいろなことがあった。
多くを殺し多くを奪いすぎて、己が手にかけた者の顔や命乞いの言葉はおろか大まかな数すらも思い出せなくなるほどに。
それでもあの時の出来事は、いまだ記憶にこびり付いて時折デスマスクを苛むのだった。
「造反者っつったって所詮白銀一人と神官が一人。シュラの敵じゃねぇと思ってた」
本当に聖域への反逆を試みたのがその二人だけだったのだとしたら、デスマスクの判断は間違いではない。
だがもしも真実――あのサガのもくろみを知っていたならば、決してシュラを一人では行かせなかったものを。
「シュラが誅殺に向かった裏切り者どもは、端から聖域に忠誠なんぞ誓っちゃいなかった」
神官として教皇宮に潜り込んだ青年は邪教の魔物の封印について調べるため。
そして見事白銀にまで登り詰めたもう一人は訓練を通じ小宇宙を高めるために。
目的を果たした二人は聖域を出奔した。
「神官のほうが漁った書付やら記録を見て、サガは奴らが何をするつもりか悟ったんだろう」
その上で刃の毀れたシュラを一人で討伐に向かわせた。
故郷である密教の里に逃げ込んで、そこで二人は封印を解いた。
「白銀ごときの小宇宙を原動力にしてる泥人形なんざ大したことねぇって思うだろ?」
「ん、いや……」
聖衣の色は関係ない、勝敗を決めるのはその時の小宇宙だ。
それが信条のアイオロスは曖昧に相槌を打つに留めておいた。
白銀だからと言って黄金に必ずしも劣るとは思わないが、あのシュラが容易く誰かに引けを取るとも考えられなかったからだ。
「だが相性の――少なくとも聖剣を封じたままじゃあ――悪い敵だった。おまけに相手は命を捨ててかかってきてる。それだけじゃない……」
いくら光速拳で打ち抜いても、崩れた手足はいとも簡単に繋がってしまう。
それでも復活までのタイムラグを狙って追撃しようとすれば、死角から放たれる攻撃が邪魔をする。
かと言って散らばる密教徒どもを始末するのを赦すほど、魔物は愚鈍ではいてくれなかった。
少しずつ劣勢に陥っていく中で、それでもシュラは打開策を探し続けただろう。
疲労が蓄積された身体で強引に核を打ち抜こうとして、反対に腕を絡め取られて。
そのまま岩肌に叩き付けられたところに降り注いだのは毒矢だった。
戦士の――或いは生命の危機に瀕した人間の――本能はあっさりと、シュラが自身に課していた戒めを解き放ってしまった。
「そ、れで……」
「何もかも一刀両断、皆殺しだよ」
「……っ、」
予想のついた答えが、それでも重かった。
雪が世界の音を吸う。
時折耳に入るのは啜り泣き。
帰る肉体のない魂の嘆き以外、巨蟹宮では物音ひとつ聞こえない。
両手で包んだカップを握り、唇を噛み締めたアイオロスを一瞥してデスマスクは続けた。
「目標は沈黙させた。ズタボロにこそなったシュラだったが、どうにか聖域に帰還してきた」
唖然と見送る雑兵どもの視線にさえ気を払えずに、僅か10歳の少年は十二宮を上っていく。
無人となった白羊宮を抜け、主となったばかりの幼い子どもが一人いる金牛宮へ。
「牡牛座がアルデバランだったのは幸運だった。アイツも相当面食らったようだが、とにかくシュラをここまで連れてきてくれたからな」
“英雄”でありながら、陰では黒い噂の絶えない、死にかけの年嵩の黄金聖闘士。
血塗れになってふらつきつつも尚助けの手を拒絶するシュラを黙って見過ごせるアルデバランではなかった。
すぐさま考えを巡らせて、重症の仲間を連れていく先として巨蟹宮を選んだ判断も間違っていない。
外衣も聖衣も、その下の白い肌さえも赤黒く染めた山羊座の少年は、デスマスクを認めて小さくその名を呼んだ。
それきり意識を飛ばしてしまったのを、慌てて私室に抱えていって。
戦士として、人として未完成の心身の消耗は激しく、シュラはそれからひと月も眠り続けたままだった。
デスマスクの語り口を聞いて、アイオロスは一つ気になることがあった。
「しかし、デスマスク……お前、」
まるで見てきたように語るではないか。
シュラを単独でその任務に当たらせてしまったというのは、先程の述懐でもわかったとおり。
その割にデスマスクの口ぶりときたら、妙に確信的で断定が多い。
「ああ、“見た”」
「“見た”って、」
「アイオロス、忘れてねェか?」
俺様一応、超能力者ってやつなんだけど。
空のカップを何気なく宙に浮かしながら、口の端を歪めてデスマスクは嗤った。
まぁこんなのはどっちかっていやぁ専門外でね、そう皮肉気に言ってのける言葉が鋭い。
「ムウやサガと違って俺の能力は人間の精神、つまるところ魂に特化してるものが多い」
「しかし!」
「……アイオロス、あれは誉れある黄金聖闘士なんかじゃなかった。ただの手負いの仔山羊だった」
人間の記憶領域に入り込むなど、本来ならば異能者であってもそう簡単にできはしない。
ましてや一般人とは違い、精神を統一し己を律することに長けた聖闘士のそこになど。
任務で何があったかを大まかに知った後、デスマスクはシュラの記憶の深層に少しばかり触れてしまった。
だがあの時シュラの中で何を見たか、それを生涯話すことはないだろう。
「俺にも任務が入ることがあったから、ずっと付きっきりで傍にいたわけじゃない」
酷く魘され、時に死んだ――己が殺した――男の名を口走るシュラを置いて、後ろ髪を引かれる思いで戦いに赴いたこともある。
死に顔が垂れ流す怨嗟の声、慟哭。
生きる人間が漏らす絶望の声、懊悩。
あのときの巨蟹宮は生者と死者の苦悶に満ちていて。
シュラが意識を取り戻したときは心底安堵した。
記憶の海に沈みそうになるデスマスクを促すようにアイオロスが口を開く。
「それで……シュラが目覚めてからは……?」
「あれ程苦しんでたのが嘘みてぇにある朝あっさりとシュラは目を開けた。しれっとした顔で“デスマスク、腹が減った”なんざ抜かしやがるから殴ろうかと思ったぜ」
そうだ。
煩悶の全てが流れ落ちたかのような表情でシュラはこちらを見上げていた。
そのことに違和感を覚えなかったわけではなかったけれど、それを追及するより先にするべきことが多すぎたから。
そのおかしさの正体に思い至ったのは、傷が回復しどうにか日常生活を送るのに支障がなくなったシュラが巨蟹宮を出て磨羯宮に帰る日のこと。
自身の宮つきの女官に差し出されたものを見てデスマスクは顔色を変えた。
――これ、リンゴをたくさん貰ったので作ったのですが……山羊座様もよろしかったら……。
――おいッ!!
あの日までは、別段隠されていたわけではなかった。
だからシュラが年に一度のそれをとても楽しみにしていることなど、年少の黄金聖闘士たちはおろか、各宮で働く従者たちでさえ知っていた。
それはあの人が逆賊として討たれた今、この新入りの召使にとっては知り得ない情報であったというだけで。
だが目の前に差し出されたリンゴのパイを見て、シュラは顔色一つ変えず礼を述べただけだった。
――気を遣わせてすまん。初めて食べるものだが、頂こう。
――シュラ……?
我慢強いが嘘は下手なシュラのこと、虚勢を張っているとも思えない。
その後時間をかけてシュラと話しているうち、デスマスクは確信を深めていった。
聖域で生きていくために。
何者にも恥じぬ誇り高き女神の聖闘士であるために。
この山羊座の少年は最も大切な思い出を封じ込めてしまったのだ、と。
「今のシュラの中にあるのは、かつて“逆賊”アイオロスを討ったという事実だけ。……13年間、アイツは思い出さなかった。紫龍との戦いを経て骨も残さず死に、幾度も神々の都合とやらで蘇っては死に、こうして今再びの生を与えられたシュラにアンタとの記憶が残されているのかどうか。俺にはわからん」
俯いたアイオロスの表情は窺えなかった。
せっかく淹れてやったコーヒーはすっかり冷たくなってしまっていた。
淹れ直そうと伸ばした手から逃れるように、アイオロスがそれを一息に干す。
「ありがとう、冷めてもうまいな」
「……そーかよ」
味なんかわかっちゃいねぇくせに、なんてわざわざ指摘するほど子どもじゃない。
そのままふらふらと巨蟹宮を出ていくのではないかとまで思われたアイオロスだったけれど、立ち上がった彼はまずデスマスクに歩み寄った。
「な、なんだよ……うぎゃぁッ!?」
鬼気迫ると言っても過言ではないその様子に思わず身を引いたけれどすでに時遅く。
上背の高い筋肉質な身体に抱き込まれ、デスマスクは全身を強張らせた。
思わず上がってしまった情けない声をアイオロスは気にも留めない。
そりゃあデスマスクだって黄金聖闘士として恥ずかしくない程度には鍛え上げているのだけれど、聖闘士の中でも一・二を争う武闘派の男にぎゅうぎゅうと抱き締められては分が悪い。
「オイ、骨が軋んでる! 折れるだろうが!」
蛇に巻き付かれた獲物はこんな気持ちだろうか、なんて失礼なことを考えるけれど、アイオロスの抱擁はまだまだ続く。
痛い、痛ぇから、ギブギブ!などと繰り返しては美しい筋肉のついた背をぼすぼす叩く。
それでもたっぷり5分は腕の中に閉じ込められていた。
「し、絞め殺す気か!」
「……デスマスク」
ようやく熱いハグから解放されて、痛みから解放された安堵やら気恥ずかしさやらで怒鳴りつけても、アイオロスはどこ吹く風だった。
真摯な声に呼びかけられて、つい怯んでしまう。
「ありがとう」
伝えられた言葉は、風を切って飛ぶ矢のようにどこまでもまっすぐで、デスマスクの胸にすとんと刺さる。
「礼なんざ……言われる筋合いはない」
寧ろ誹りを受けて然るべきだ。
真の英雄を謀殺した偽りの教皇に付き、幾度もこの手を血で染めてきた。
力がなければいかな理想も信念も貫けはしない。
強き力でもって地上の平和を護ると、犯した罪の重さに慄きながらも誓ったサガに着いていった13年間を、デスマスクは後悔してなどいなかった。
「ああ、お前はきっとそう言うと思っていた」
大きな掌が頭に乗せられる。
黄金の弓を引き絞るその手は肉厚で硬く、あの頃と何も変わっちゃいなかった。
ただ、その手に触れられているデスマスクが変わってしまっただけで。
「お前は本当に変わらない」
「……はぁ?」
心を読んだかのように反駁されて、知らず声が出ていた。
どこがだ。そう言い返してやろうとしたのに、先に口を開いたのはアイオロスのほうだった。
「お前といいアフロディーテといいシュラといい、肝心なところで口を噤みすぎる。それでもアフロディーテは――彼が望むと望まざるとに関わらず――見目の麗しさでいいように解釈されやすかっただろう。シュラもなんだかんだ言って、“あの堅物があそこまでするんだから何か理由があったんだ”、なんて言ってくれる人間がいたものだ」
「……まぁ、そうだな」
「その点お前はいつも誤解されてばかり。おまけにそうやって作り上げられた虚像を平然と利用してのけるから質が悪い」
精悍な面差しに苦笑を浮かべ、アイオロスがもう一度銀糸を掻き乱す。
その手を今度は振り払って、デスマスクは敢えて冷淡に吐き捨てた。
「虚像だなんて、簡単に言ってくれるぜ」
13年間、俺たちが何をやってきたかも知らんくせに。
だが己の手を払い落としたデスマスクの手を取って、アイオロスははっきりと言うのだった。
「俺は見たからな。お前の真実の姿を」
聳える嘆きの壁の前で。遠く離れたアスガルドの地で。
「今も見続けているつもりだ。誇り高き蟹座のデスマスクを」
それは教皇としての言葉だったのかもしれない。
だが語るアイオロスの瞳は、年長者の深い愛情を乗せた、ただひたすらに優しいものだった。
いつしか雪は止み、美しい月が雲の切れ間から顔を覗かせていた。
「遅くにすまなかった。今晩はゆっくり休めよ」
「それはこっちの台詞だ。さっさと寝ろ14歳」
「はは、そうだな……お休み」
14歳のガキのくせして、こっちよりデカく蘇りやがって。
俺やアフロディーテはおろかサガのこともシュラのことも憎みはせず、歩んできた13年を認めやがって。
アンタの弟はあの獅子ならぬ猪だけだろうが、兄貴面しやがって。
散々悪態を吐いてやりたかったのに、結局は何も言えなかった。
かつて確かな憧憬と共に見上げた背中は、今もやはり広くて頼もしい。
それでもそこに滲む寂寞に、柄にもなくデスマスクの胸はざわついた。
頭の中から、デスマスクの声が消えない。
――覚えてねぇんだよ、アイツは。
「……う、」
――それが、10歳でアンタを殺したガキが壊れずにいるために必要なことだった。
「きょ……う、……か?」
――シュラが今でもアンタの前に立っていられるのは忘れちまってるからだろ。
「……猊下……ア……ス、アイオロス!!」
「う、わッ!?」
「っあ!」
執務机に向かったまま、呆けた顔を晒していたらしい。
不意に耳に飛び込んできた大声に仰天して、アイオロスは椅子から転げ落ちた。
いくら集中を欠いているのが見て取れていても、そこまで驚かれるとは思ってもいなかったのだろう。
声をかけたシュラのほうまで面食らって手にしていた書簡を取り落とす。
硬い紙がばさばさと顔面に降ってきて、アイオロスは思わず目を閉じた。
二人して散らばったそれを拾い集めながら、どちらともなく溜息。
ちらりとシュラの様子を窺えば、視線は重厚な紫檀の上に向けられていた。
教皇のお目通りを待つ硬質な紙には曲がりくねった意味不明の曲線が引かれているばかり。
うず高く積まれた書類の束が微動だにしていないのを認めて、シュラはアイオロスに向き直った。
感情表現に乏しい黒曜石の瞳に、僅かながら気づかわしげな色が浮かんでいる。
「お加減が悪い……わけでもなさそうですが。何か悩み事でも?」
お前のことだ、などとまさか言えるはずもなく、アイオロスは慌てて頭を振った。
その否定がどれほど虚しいことかなど、自分自身が一番よく知っている。
案の定、アイオロスの顔をじっと眺めたシュラの顔がはっきりと曇った。
「何もないというようにはとても……隈も酷い」
「その、少しな……」
「少しではないでしょう……」
貴方は何でも自分で背負い込みすぎなんだ、と苦言を漏らす。
お前には言われたくないと口をついて出そうになるのを堪え、アイオロスは殊勝に頭を下げた。
「すまん……」
「……猊下、どうか今日はお休みになってください」
その態度にますます心配になったのか、シュラの口からはいよいよそんな言葉が飛び出す始末で。
流石にその提案は受け入れがたくて、アイオロスは慌てて机に噛り付いた。
「そういうわけにもいかないだろう!」
やるべき仕事は目に見える形で眼前に積まれている。
それをただの自分一人の懊悩で放棄するなど教皇としてあってはならないことだ。
だがシュラも、一度決めたことは頑として曲げない質の男だ。
無理矢理取り上げたペンを戻し、次々に書付や書簡の類を自身の事務机に動かす手は澱みない。
「シュラ!」
「貴方がそのご様子では仕事になりません故」
「いや、だが、しかし、」
「俺ができることは進めておく。とにかく今日は休んでくれ。今の貴方がここにいたところでどうしようもないだろう」
“教皇”と話す気はなくなったのだろう。
ぴしゃりと言い切ったシュラに教皇宮を追い出されて、アイオロスは仕方なく歩き出した。
昨日とは打って変わって空は晴れ渡り、遠くの山々まではっきり見渡せる。
確かに昨晩は考えることばかりで寝付けなかったのは事実だが、そんなのは任務でもよくあること。
それほど酷い顔をしているだろうか?
頬に手をやり首を傾げているアイオロスに声をかけたのは双魚宮の主だった。
「アイオロス……アイオロス?」
「……あ、アフロディーテか。今日も精が出るな」
夕べ顔を合わせたばかりの麗人に声をかけられて、アイオロスは足を止めた。
88星座を守護星座に持つ聖闘士の頂点であることは言うまでもなく、世界中を血眼になって駆けずり回っても見つかりはしないであろう美貌が、こちらを真っすぐに見据えている。
泥だらけのジャージに、適当に高く括った髪、汚れた頬もその美しさをちっとも損なうことはない。
つかつかとこちらに歩み寄った彼は、軽く土を叩き落としただけの手で迷わずアイオロスの腕を掴んだ。
そのまま宮のほうへと引っ張っていく手に抗うことはせず、アイオロスはとりあえず問いかけた。
「おい、いきなりどうした?」
「見るに堪えない顔をしているな」
「そりゃあ、誰だってお前と比べたらそうだろう」
わざと混ぜっ返して答えれば、佳人の眉が顰められた。
「私はそういうことを言っているんじゃない」
アイオロス。貴方の顔は、信じがたい事実に直面し困惑している者の顔だ。
ぴたりとそう言い当てられて足が止まる。
「……驚いた。読心の類はシャカの専売特許かと思っていたが」
「まさか。私にできるのは小宇宙を通じた念話くらいだよ、アイオロス」
「……デスマスクか」
そういうことだ。答える声は柔らかく響いて美しい。
「さぁ、入って。顔色の優れない親愛なる猊下に自慢のハーブティーを御馳走しようじゃないか」
私室に招き入れる手つきは優美で、けれどその掌は硬く、聖闘士としての研鑽を積んだ人間のものだった。
「俺は知りたいんだ。13年の間に、一体何があったのかを」
厚ぼったい磨り硝子が嵌め込まれた窓から、熱く燃える恒星の熱が優しく降りそそぐ。
無毒の薔薇が植えられた小さな庭に面しているサンルームは、確かにティーブレイクにお誂え向きの場所だった。
「知ったところで過去は変えられないよ、アイオロス」
「だが知ることで未来を変えられるかもしれんとは思わんか、アフロディーテ」
曇りのないその声が、アフロディーテの心を揺らす。
話してはならぬと、口を噤めと厳しく戒める叱咤の声の隙間から、浅ましい願いがじわりと漏れる。
「13年前、俺はサガが抱えていた苦しみにも孤独にも気付くことができなかった」
「アイオロス……」
「そして今、俺はお前たちの歩んできた道のりも乗り越えてきた戦いも知らずに教皇という立場に就いた」
「……別に私たちは、貴方に何もかも理解してもらって救ってもらわなければならない子供などではない」
嘘を言ったつもりはなかった。
この13年間、アフロディーテがどのように戦い、聖域を護り、聖闘士として生きてきたか、誰かに理解されたいなどと思いはしない。
だがそれでも、もしアイオロスに伝えられるのだとしたら……。
「そうだな、わかっているさ。だからこれは俺のエゴなんだ」
ただ知りたい、知らねばならない。それがアイオロスの想いだった。
そうすることで何ができるのかはまだわからないけれど。
過去を知らぬままに現在を、未来を背負うことはできそうになかった。
「あの討伐後、後始末をしたのは私だった」
蜂蜜をたっぷり溶かしたハーブティーを一口飲んで、アイオロスが細く息を吐く。
不意にアフロディーテが口を開いたのはそのときだった。
いきなりのことで驚いたのは一瞬で、アイオロスは表情を引き締めた。
アフロディーテはこちらを見るでもなく、小さなスプーンに木苺のジャムを掬っている。
とろ火で十分に煮詰められた赤いそれが、ふっくら魅惑的な唇に触れ、口内に収められていく。
口の端についたジャムをちろりと舌が舐め取った。
「あの頃はまだミロやアルデバランたちも幼かったし、私は十二宮最後の砦として、聖域を離れることは今以上に少なかったのだけれど……」
外での任務を任されることが多かった友のうち一人は倒れ、もう一人は片割れの看病にかかり切り。
となれば自然、始末を任されるのはアフロディーテとなる。
「当時の私はまだ冥界など知り得なかったが、あの地獄にも引けを取らない惨状だった」
人は無残にも両断され、地には大きく亀裂が走り。
家々までもが鋭利に切り裂かれ崩れていた。
薔薇の香気までも覆い尽くす壮絶な臭いは、とても死臭などという一言で表せそうにはない。
戦い方の特性上、聖闘士でありながら血臭や腐臭というものに縁遠かったアフロディーテは、思わず胃の中のものをぶちまけそうになって足を止めた。
デスマスクであれば死体を積尸気に落としてしまえただろうが、魚座の技ではそんなことは望めない。
吐き気を堪えながら腐敗し蛆の湧いた肉塊や廃墟に灯油を撒いて火をつける。
ひょっとして“サガ”は、この光景を自分にも見せておきたかったのではないか。
踊り狂う炎が全てを灰に変えていくのを見て、アフロディーテは不意にそんなことを思ったのだった。
「実におもしろいことに。貴方が死にサガが表向き消えた後、聖域の頂点に立つ十二人の、そのまた頂点に立たねばならなかったのはデスマスクとシュラだった」
ちっともおもしろくなどないだろうに、麗人は美しい唇を歪めて笑う。
似合わないだろう? 死に顔で宮を飾る子どもと悪魔のような黒い山羊だ……英雄と神の化身とは大違い。
そう続ける苦しげな横顔に、アイオロスも知らず眉根を寄せていた。
「……貴方たち二人のようになれるべくもなかったけれどね。だが13年間、蟹は踏み潰されず戦い続けた。山羊は決して己の姿を曲げて逃げたりなどしなかった」
英雄と神の化身。二人の教皇候補。聖域の双璧。唯一無二の好敵手。女神に祝福された人の子ら。
アイオロスとサガを指す美しい言葉はたくさんあったけれど、そのどれもがデスマスクとシュラには似合わない。
彼らはそもそも表立って人々を統率するタイプにはなり得ないとアフロディーテは思っていたし、それは他人から指摘されるまでもなく彼ら自身理解していることだ。
「いつも心身に過酷な任務ばかりを率先して受け、傷ついてきた」
邪神の封印や世に災いを齎そうとする密教徒との戦いならば、戦果をアテナの聖闘士として掲げられもするだろう。
或いは小宇宙の力を悪用する輩や裏切り者の粛清だって、辛くはあろうが誇れるだろう。
そう言った戦いを任せられるのは大抵年少の黄金たちで。
蟹座と山羊座が受けていたのは、もっと醜くて凄惨で、血で血を洗うようなものだった。
戦闘員も非戦闘員も入り交じり混乱を極める戦地へ、紛争の鎮圧に赴かされたデスマスク。
周辺国にまで広がりそうな内戦のただ中へ、ただ一人送り込まれたシュラ。
そのどちらもが、数え切れないほどの普通の、小宇宙に目覚めてなどいない人間を手にかけている。
軍人も、兵士も、ゲリラ兵も、民間人も、銃を持った少年少女も、閨で兵士を殺す女も、何も知らぬ無辜の子らも。
特に隠密行動や死体を残さず始末することに長けたデスマスクは、教皇宮での仕事も与えられたシュラよりも遥かに血を浴びて――無論、どのような任務に出ようと彼は返り血一つ浴びずに帰還するのだけれど――きた。
それに加え、真実を知ってしまった人間の抹殺。
「私はそれが口惜しくてならない……!」
――お前が最後の砦だろうが、アフロディーテ。
――いかなことがあろうと“教皇猊下”を護ることこそが魚座に課せられた使命だ。
――頼んだぞ。
そう言って笑う二人は、任務のほとんどを争うように掻っ攫っていってしまって。
共犯者たるアフロディーテのことさえ、護ろうとしていた。
「……アフロディーテ、」
「私は……私こそ、エゴの塊なんだよ。アイオロス」
女神の聖闘士として最も正しく気高かったが故に命を奪われ、実に13年もの間その名を辱められ――そしてそれをしたのは自分たちだ――続けてきた男。
彼は今自身の名誉も命も取り戻し、再びの生を得てなお、地上の平和のためにそれを捧げようとしているのだ。
そんな人間に、こうして友の過去を語ることに何の意味があるというのか。
ほんの14歳の、一人の人間の肩に余るものを背負った彼に、更なる重みを押し付けようとは。
それでもあの二人に、かけがえのない友に救われてほしかった。
できることならば、他でもないアイオロスに、彼らの苦しみを知ってほしかった。
加害者たる人間の懊悩を、謀殺された男に押しつける。
何たる傲岸さ、何たる醜悪さであることか!
右手に持ったカップがかたかたと震えて、水面に映るかんばせが歪んだ。
「なあ、アフロディーテ」
「えっ?」
不意に華奢なつくりのそれが更に大きく揺すられる。
ぴしゃりと手の甲にかかった紅茶はもう熱くなどなかったけれど、アフロディーテは思わず小さく声をあげていた。
美しいまなこが驚きに見開かれたのを見て、アイオロスは眼をすがめ満足げに笑う。
勝手に頭をこちらに引き寄せて、わしゃわしゃと撫で繰りまわす手の動きがますます強くなった。
「こういうのも悪くないな」
「ちょっ……と、アイオロス……!?」
煌びやかな蜜色の髪が、どんどんめちゃくちゃに掻き回されていく。
仕舞いには立ち上がったアイオロスに後ろから半ば羽交い締めにされたあげく揉みくちゃにされ、流石のアフロディーテも目を白黒させて抗った。
痛いとか苦しいとか、そんな感覚より何より困惑が大きい。
「お前はいっつもサガ、サガ、サガ。それでなければデスマスクかシュラ」
「は……?」
「俺を頼ったり何か相談したりすることなんかちっともなかったじゃないか!」
それはデスマスクも同じだったが、と苦笑して続けて。
どうやらアイオロスは本当に、この年嵩になってしまった後輩が己の弱みを晒してくれたことが嬉しくてかわいらしくて仕方がないようだった。
「貴方は、本当に……!」
その後何と続けようとしたのだろう。
もう何も言えなくなって、アフロディーテは俯いた。
随分と嵩が減ってしまった琥珀色の液体に雫が一つ落ちたのに、どちらも気付かないふりをした。
「その……シュラのことだが……」
しばしの沈黙のあと、先に口を開いたのはアイオロスだった。
「やはり何か手を打つつもりか?」
アフロディーテの問いかけにアイオロスはゆっくりと首を振る。
短い栗色の髪がふわりと揺れて陽光に煌めいた。
「いや……無理に記憶を取り戻させるつもりはない」
反駁の言葉ともにシュラの言葉を思い出す。
この命を与えられてすぐ、アイオロスのもとへ彼は現れた。
――あのとき得られた情報と聖闘士としての信念に基づいて、俺は使命を果たしたつもりでいた。
そう告げる声は鋭く冴え、だが僅かな悔恨を滲ませていて。
――だがそれが結果的に大いなる過ちであったことを、貴方にもアイオリアにもすまなく思う……こんな言葉で赦されるなどとは思っていないが。
深く頭を垂れるシュラの背は、アイオロスとほとんど変わらない。
最期の晩を思えば、冷静すぎるとさえ思えるけれど。
あの月夜、苦悶に満ちた表情で聖剣を振りかざしてきた少年はもういない。
自分の歩んできた道を受け止めた青年の言葉、それが失われた記憶によって支えられているなんて皮肉なものだ。
「忘れているからこそ、そんな風に達観した言葉が言えるんだろうな」
アイオロスの話を聞いて、デスマスクと同じようなことをアフロディーテは呟いた。
失くした過去、それが突き返されたときシュラは一体どうなるのだろう。
「だが、今の安定した心を揺り動かすことはしたくない」
あのシュラが聖剣を振るえなくなるなんて、アイオロスには想像さえできない。
デスマスクから聞かされた過去を思えば、無理やりに記憶を取り戻させることはどうにも躊躇われた。
とはいえ寂しくはあるがな、と困ったように笑う年下の年長者を見て、ふとアフロディーテは口を開いた。
「恐れるな。己の死も、仲間の死も。さりとて蛮勇で無駄に散らすことがあってもならない」
女神の聖闘士であれ。地上の愛と正義のために戦えることを誇れ。たとえ命尽きたとしても、それが気高き生を貫いた結果ならば、悔むことも恥じいることもない。
形のよい唇から紡がれる言葉を、もちろんアイオロスは知っていた。
「死は終着ではない。肉体の朽ちたあとでさえ、魂と祈りは不滅なのだから」
「そ、れは……」
「貴方の言葉なのだろう? アイオロス」
「何故……アフロディーテが、」
「シュラは、いつもそう繰り返していた」
瞬いて視線を落としたアフロディーテの、すべらかな頬に睫毛の影が落ちる。
「もっとも、それが誰の言葉かは忘れてしまったようだが」
それは数少ない、シュラの中に残されたアイオロスに関する私的な思い出だった。
見る者を虜にする魅惑的な魚座のかんばせに、複雑な色が浮かんでいる。
「デスマスクがどう思っているかは知らないが……私にはシュラの記憶が消え失せたとはどうにも思えない」
「そうなのか?」
「……特に確証があるわけではない。何せあれからずっと貴方の存在は聖域では不可触だったのだから」
アフロディーテは真正面からアイオロスを見やる。
厳しい顔をしていてもその美貌はちっとも損なわれておらず、だからこそどこか背筋が寒くなるような凄味があった。
「これまでの13年間とは大きく状況が変わったのだ、何が起こっても不思議ではあるまい」
「……俺自身が、ここにいるからか」
小さく頷いたアフロディーテが淹れ直した紅茶を口に運ぶ。
日の光を浴びて緩んだ屋根の雪が、地面に落ちていく音がした。
――射手座アイオロス及び山羊座シュラ。両名邪龍の封印に当たる可。
「ああ、聖域は大丈夫だろうか……カミュを呼びつけてあるとはいえ、書類仕事は滞りなく進むだろうか……」
「しつこいぞアイオロス……そもそも今回の件についてはほぼ全て貴方の采配だろうが」
教皇とその補佐が同時に聖域を離れるのはどうなのだろうか?
自ら決断を下しておきながら、最後まで難色が隠せなかったのはアイオロスのほうだった。
封印が不完全であったせいで甦った邪龍は、今や近隣の山に甚大な被害を与え、いよいよ人里へ降りていこうとしているという。
普段はそんな体裁など一切気にしない癖に珍しいことを言う。
呆れた声で同僚――今のアイオロスは教皇としてではなく、射手座の黄金聖闘士としてここにいるのだ――に声をかけたシュラは、何の気なしに十二宮を振り返った。
邪龍は神鉄にも匹敵する硬度の鱗によってその身を護られている。
かつて、13年前に封印に当たったのは黄金聖衣を賜ったばかりの己であると聞き、シュラは思わず首を傾げたのだった。
その時もやはり射手座山羊座の両名が勅命を受け、邪龍の一先ずの封印に成功したという。
その過去が完全に記憶から抜け落ちているのは、悪しき龍の魔力が故か?
それとも。
「シュラ?」
「……なんでもない」
釈然としない気持ちを抑え込んで、山羊座の聖闘士は肩で風を切って歩を進めた。
「何も起こらなきゃいいんだがな」
遠く離れていく二つの背中を見守って。
行儀悪く自身の守護宮の屋根に腰掛けたデスマスクは呟いた。
冷たい風が首筋から全身を冷やしていく。
首を竦めた友人に、アフロディーテは手に持っていたブランケットをひっ被せてやった。
何も言わずそれを体に巻き付けたデスマスクは、真摯な瞳で山羊座と射手座を見送っている。
「……何か、起こればいいのかもしれない」
「はぁ?」
とても平和主義者の旧友から発せられたとは思えない言葉に、呆れた声をあげて彼を見上げれば。
どこか苦しげに顔を歪めて、アフロディーテはシュラとアイオロスを目で追っていた。
あの二人はこのままでいいのだろうか。
殊シュラは。再びのこの命を、13年間と変わらぬまま、取り戻さぬままに過ごしてしまって。
「水面だけ凪いで見えて、その下で波が荒れ狂っているよりも或いは……」
小舟は穏やかに揺れているのだ。
転覆しそうなことにも気づかずに、今も。
三つ首の龍の額にはその力の源となる紅玉が埋め込まれている。
硬質な鱗に護られた心の臓及びそれらの輝石を同時に射貫く。
それによって邪龍の力は失われ、再び長い眠りにつくことだろう。
「アイオロス」
「なんだ、シュラ?」
「何故以前の封印はうまくいかなかった? どうしてこれほど早く邪龍が蘇った?」
それはシュラも知っていて当然のことだった。
だがいくら思い出そうとしても、記憶は像を結んではくれなかった。
ならばと記憶から探ろうとしたものの、当時の報告書の現物はサガが持って行ってしまっており、シュラにはおおよそのまとめが聞かされただけだ。
ああ、と軽く頷いたアイオロスは、ちらりと視線を矢立てにやった。
「13年前の任務の際に用いられたのは、先代アテナ様の血で書かれた護符を貼りつけた矢だったのだ。あの頃はまだアテナ様は地上に降誕されたばかり、女神として覚醒されてはいなかったからな」
「それでは効果が不十分であったということか」
「ああ。だが、それだけではない」
そこでアイオロスは言葉を切った。
「あの戦いでは、俺たちは黄金の矢で心臓を射抜くことしかできなかった」
確かにそのときは倒れたように見えたものの、少なくとも百年は復活することがないと思われた邪龍が目覚めて暴れ回っているのだから、やはりそれでは不十分だったのだろう。
「だから今回は三つ首と心臓と、全てを同時に攻撃することになっているのだな」
「そうだ。アテナ様の小宇宙が込められたこの矢を、お前の聖剣が断ち切ることでな」
その作戦は今生のアテナ――城戸沙織から齎されたものだった。
前聖戦において射手座の放った矢を見事断ち神をも滅した山羊座の聖闘士。
記録はほぼ全て消失してしまっていたが、無論神としてその戦いに臨んだアテナには記憶があった。
「さぁ、見えてきたぞ」
「……ああ」
勝利の鍵を握るのは己が聖剣。
小宇宙を燃やしそれをどこまで高められるかだ。
瘴気が満ちる山を眼前に、シュラは改めて気を引き締めた。
アイオロスもまた、女神の力が込められた矢を一人で御すために、極限まで高めた小宇宙を制御しなければならなかった。
凪いだ心身でもって矢を番え、その一瞬を見極める。
そこに累が及ばぬよう少しばかり離れたところで交戦しているシュラの、鋭い小宇宙が肌にぴりぴりと心地よかった。
獰猛な爪が、鋭い牙が、木々を薙ぎ倒す羽ばたきが、大地を割る咆哮が、勇猛な山羊座の聖闘士の身体に傷をつける。
それが気にならないと言ったら嘘になるけれど、その小宇宙がますます硬く鋭く研ぎ澄まされていくのがわかるから、アイオロスは心配などしなかった。
瞼を下ろし、風の囁きに耳を傾ける。
踏みしめた両の足から、地の震えを感じ取る。
暗闇に包まれた視界で、黄金の鎧に包まれたシュラの四肢が美しい碧に光るのが確かに視えた。
「今だ! アイオロスよ!!」
跳躍、そして一閃。
それと悟らせないように薄く、細かく疵をつけては弱めていった神鉄の鱗を、何物をも斬る聖なる剣がついに裂いた。
青黒い血を頭から被ってもなお、黄金の鎧と澄んだ小宇宙の輝きが穢されることはない。
大いなる祈りが満ちた矢に、アイオロスはさらに自身の小宇宙を乗せる。
一人では弓を引き絞ることさえも困難なほどの力に、弦を引く手ががくがくと震えた。
そのみっともない激震を力づくで抑え込み、悪しき龍を、そしてそれに立ち向かうシュラの雄姿を感じて。
「ああ!」
己の小宇宙を沿わせ、全身全霊を込めてそれを放った。
黄金の軌跡を残して矢が疾る。
眼を見開けば、応、とほんの小さな頷きだけでシュラが答えた。
まさしく一振りの刃のように、鍛え上げられた四肢がしなる。
細い矢の一本を四片に裂いたその動きは、黄金の射手にとってさえ辛うじて捉えられるかどうかのもの。
小宇宙が彗星の如く尾を引いて、それらは引き寄せられるように邪龍の輝石と心の臓を貫いた。
おぞましい断末魔の悲鳴が鼓膜を震わせ、大地に降り立った山羊座の聖闘士が少しばかりふらつく。
そのときだった。
「シュラっ!!」
「あ、がッ……!?」
弓を取り落して駆けたアイオロスが間に合うはずもなく。
凄まじい勢いで振るわれた龍の尾に容易く薙ぎ払われ、吹っ飛ばされたシュラが大岩に叩きつけられる。
すぐさま立ち上がり攻勢に出ようとした身体は神鉄の硬さを保ったままのそれに絡め取られ、骨を砕きかねない強さで締めつけられた。
「う、あ、ぐぅっ……!」
ぴくりと動かすことも叶わぬほどに締め上げられた両の腕がそれでもかすかに踠く。
だがそんな儚い抵抗は内側から僅かに尾を傷つけるにすぎず、拘束を免れた両足の爪先が苦悶に戦慄いた。
「シュラ!!」
――間に合うか。
死に体の魔物の怨嗟の呻き、凄まじい悪意が突き刺さる。
弱く痙攣したシュラの身体の、骨が軋む音さえ聞こえる気がした。
尾に拳を叩き込む。
千切り落とすほどの勢いで繰り出したその攻撃も、硬質な鱗を切り離すには至らない。
だがその渾身の一撃は、尾の締め付けを緩めるには十分だったようで。
憤怒に瞳を燃やした三つ首の龍が、六つのまなこでアイオロスを睨めつける。
「――――ッ!!」
次の瞬間、針のように細く鋭い毒針が射手座の聖闘士を貫いていた。
アイオロス!そう叫んだシュラの言葉がどこか遠い。
猛毒が足先から髪の一筋に到るまで駆け廻り、全身が燃えるように熱く痛んだけれど、その程度でアイオロスの闘志は折れはしなかった。
限界まで高めた小宇宙を右腕に乗せる。
「アトミックサンダーボルト!」
光速で打ち込まれた拳に、鼓動の中心を破壊された邪龍が生き永らえる術は最早残されておらず。
憎悪を滾らせた呻きと共にその肉体が崩れていくのを、アイオロスは言葉もなく見届けた。
「終わっ……た、か、」
流石に足の力が萎え、その場に膝をつく。
「アイ、オロス……」
「……シュラ?」
激痛に顔を歪め、よろめきながら歩み寄ってきたシュラの瞳は、いつもと違う色をしていた。
「どうして、俺なんか庇って……なんで……」
「シュラ、おい、どうした?」
どこか幼い口調は、あのときと丸きり同じそれ。
アイオロスが思わず伸ばしてしまった腕を、シュラの右手が強く掴んだ。
血塗れのそこが掌の中でぬるりと滑る。
赤に濡れた手を見つめ、シュラが茫然と呟いた。
「あ……ち、が……おれ、が、」
「シュラ、しっかりしろ! シュラ!!」
「アイオロスは、俺が、殺して……アイオロス……アイオロス、は……」
シュラ、シュラ!と。肩を掴んで強く揺さぶり、幾度その名を叫んでもシュラの瞳は今目の前にいるアイオロスを映してはくれなかった。
その間にも毒は全身を蝕み、今や意識さえも浚っていこうとしている。
同じものが邪龍の血そのものにも流れていたとしたら、それを全身に浴びたシュラもまた、一刻も早い手当てが必要だろう。
おぞましい魔の物が消えた後も一帯に立ち込めた瘴気は消えることなく、息を吸うだけでも臓腑が侵され灼かれていくのがわかる。
「っシュラ、すまん……!」
「う、あっ……」
なけなしの小宇宙を酷く無防備な身体にぶつけて。
抱き留めた身体はずしりと重く、あの頃とはまるで違うというのに胸が苦しい。
帰らねば、そう独り言ちたものの、シュラを抱えどうにか立ち上がったところで、急速に視界が明滅した。
足元に夥しい量の血が溜まっていて、己の惨状をぼんやりと思う。
「こん、な、姿……子ども、た……に、見……れな、」
今は己こそがある意味黄金の最年少だというのに、そんなことを考えてしまって少し笑う。
内腑からの血が一気にせり上がってきて、薄く開いた唇から溢れ出した。
慌ててサガを呼ぶ小宇宙があまりに貧弱なのが我ながら情けなかったけれど。
届くかどうか心配にさえなった声を、けれど親友はばっちり受け取ってくれたらしい。
――どうした、アイオロス! 何があった!?
冷静さを保とうとしているサガの声に、隠し切れない焦りが滲んでいる。
いよいよ眼に映る全てが霞の向こう側へと行ってしまって、シュラを抱えたままアイオロスは巨木に体を預けた。
「サガ、か……すまな……が、も……うごけ、そ……に、」
――すぐ向かう。シュラは無事か?
「だい……ぶ、だ、」
蟹座の異能が魂に特化したものならば、双子座のそれは空間を操ることに長けている。
アイオロスの全幅の信頼に違わず、自身の能力を駆使したサガはすぐさま二人のもとへ駆けつけてくれた。
「アイオロス、シュラ!」
「サ、ガ……」
「っおい、アイオロス……アイオロス!!」
駆け寄った友にシュラを託して。
続けようとした言葉は声にならず、アイオロスの意識はそこで途切れた。
空の色を、その子供は忘れてしまっていた。
四角い窓枠から見えるのは向かいの家のくすんだ壁ばかり。
日がな一日そればかりを眺めて過ごす。
最後に外を出歩いたのはいつだったろう。
自由に土を踏みしめて歩き、駆け回り、他の子供たちと泥だらけになって遊んだのは?
穏やかな笑みを浮かべた誰かが、今は鉄の拘束具に覆われた手を取り共に歩いてくれたのは?
碌に思い出せず、また思い出せたとしても決して帰っては来ない日々を思い返すのは酷く詮無いことだった。
村の喧騒に、物売りの口上に、駆けていく子供たちの歓声に耳を傾けながら長い一日は無為に過ぎていく。
――外に、出たいなぁ……。
何気なく伸ばした手、拘束具の内側で金属同士が激しく擦れる耳障りな音が聞こえて慌てて頭を振る。
折檻には慣れた。
朗らかな笑みが似合っていた男性の罵声や、かつて優しかった女性の涙交じりの金切り声にも。
それでもあの、何かおぞましい異形を見るかのような瞳にだけは慣れることができなくて。
だからひとりぼっちの子供は、無意識に力を振るってしまうことを何よりも恐れていた。
ここにいれば、誰も何も傷つけることはない――もとより一度だって、そうしたいと思ったことなどないのだ。
いつかきっと、誰かがそれをわかってくれる。
この腕の縛めを解いて、手を握り、微笑んで頭を撫でてくれるはず。
そしてきっとその人はこう言うのだ。
さぁ、一緒に行こう、と。
いつか、いつかきっと……。
「――、おきてる……? ――?」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
不意にどこか覚えのある音の羅列が耳に飛び込んできて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
随分と外は薄暗くなっており、どこかから流れ込む夕餉の香りが子供の鼻腔を擽った。
きゅう、となった腹を押さえれば、小窓から覗き込んでいた顔が笑う。
「今日ね、母さんと一緒に作ったから……――にもあげるね!」
できる限り声量を落とした、押し殺された声でも愛くるしさは変わらない。
久方ぶりに頬を緩めた子供は、小さく頷いて窓際に歩み寄った。
細い縒り糸の先に括りつけられた手捻りのパンは確かに随分と不格好なものだったのだけれど、ぐちゃぐちゃの残飯ばかり与えられてきた子が知る由はない。
それをどうにか両腕の内側で受け止め、犬歯で糸を切る。
食べかすや飲み零し、泥に埃、それ以外のもの――外に出ることが許されていないから盥に用を足しているのだが、時折しくじってしまうことがあった――で汚れた床に落としては、食べられなくなってしまう。
どうにか無事に受け止めることができて、ほっと一息。
丸まった奇妙な姿勢になってそれを咀嚼すれば、甘酸っぱい香りが口内一杯に広がった。
こんなにおいしいもの、生まれて初めて食べたかもしれない!
そう口に出して喜んだわけではないけれど、目を見開いたままリスのように頬に詰め込む、その仕草のほうがよほど雄弁だったから。
木箱の上に乗ってめいっぱい背伸びしたまま、おませな少女も得意げに胸を張っていた。
「おいしいでしょう? それ、リンゴの蜂蜜漬けが入ってるのよ!」
「ん……! ん、あ、」
がくがくと頷いて、礼の言葉を述べようとする。
「あ、母さんが呼んでる!」
けれどがっついて頬張ったものを飲み下すよりも前に、少女の姿は消えてしまった。
「――、また来るからね! “また明日”!!」
軽やかな足音が遠ざかり、再び窓から見えるのが色あせた壁だけになる。
少女の家族が自分と彼女の関わりを疎んでいることくらい、この小さな子供にでもわかる。
明日、あの子は来るだろうか。
薄汚れた灰色の壁の前に、少女の長い三つ編みが愛らしく揺れるところを夢想して。
くちた腹をそっと撫で、子供は納屋の隅に丸くなった。
その、晩のこと。
夜の静寂を裂いたのは一発の銃声だった。
後を追うように、馬の嘶き。犬の唸り声に鶏たちのけたたましい鳴き声。悲鳴、怒声、破壊音。
飛び起きた子供は、見慣れた壁が奇妙なほどに紅く照らされているのを見た。
朝焼け? それにしては色がどきつすぎるし、風に煽られるようにして揺らぎすぎる。
どれくらいの時間見知らぬ色をぽかんと見上げていたのかはわからないけれど、不意に扉が蹴り開けられて、小さな子供は身を跳ねさせた。
こんな風に戸が開いたとき、待っているのが碌なことではないと経験上良く知っている。
果たして飛び込んできたのは、夕下がりに出会ったばかりの少女だった。
どこから持ってきたのだろう、古びた大きな鍵を右手に握り締めている。
「――、たいへんなの、たいへんなの……!」
怯えと混乱に、円らなまなこは今にも涙を垂れ零しそうに見えた。
けれど気丈にもそれを抑え込んだ彼女は、一つ息を吐いて話し出す。
この貧しい小さな村を盗賊たちが襲っていること。
自警団の青年たちは既に皆殺され、残った者たちは烏合の衆となって逃げ惑っていること。
混乱の最中、両親の手を振り解いてここまで来たこと。
もぬけの殻となった子供の家で、これを見つけたこと。
「これ、で……これで取れるはずなのに……!」
話しながらも少女は、手の動きを止めることはない。
戦慄く手が何度も鍵を取り落し、鎖を揺らす。
十回近くに及ぶ挑戦の末ようやく壁と子供とを繋ぐ錠前が外れて落ちた。
じゃらじゃらと長い鎖が邪魔だけれど仕方ない。
棒切れのように細い腕をもどかしげに取り、少女は勢いよく駆けだした。
「立って、走って! 逃げるのよ、――!!」
久方ぶりの人のぬくもり。
彼女の栗色のおさげ髪から、太陽の匂いと、甘い花の香がした。
そこここに倒れ伏している人に構っている余裕などあるわけもない。
懐かしい、けれど変わり果ててしまった家々の間を無我夢中で走って。
だが痩せこけた身体では、少女について行くのもままならない。
何度も躓き、転んでは惨めにもがいて立ち上がるのを、彼女は咎めたりしなかった。
話によれば、このような非常時のための、村民しか知らぬ山間の隘路があるのだという。
そこまで逃げれば、きっと両親や兄弟たちと合流できるはず。
そう固く信じた少女が、僅かに表情を緩ませた。
「もう少し……もう、少しだから……」
この角を曲がれば。きっと。
そのとき耳を劈いたのは、いやに乾いた破裂音だった。
子供のほうを振り向いて微笑んだ彼女の顔が、あまりにあっさりと半分吹き飛んで。
後ろに傾いで倒れんとする少女に引き摺られるようにして、子供もまた地面に無様に倒れ伏した。
「――ッ!?」
慟哭は言葉にならず、その行為に何の意味もないと痛いほどに知りながら、鉄に戒められた手を少女に伸ばす。
自由のない手で零れた脳味噌を掬い上げ、懸命に元の場所に戻してやろうとして、背中に衝撃。
後ろから蹴り飛ばされたのだと理解したのは、ごろごろと転がり壁にぶち当てられてからだった。
明滅する視界で聞くに堪えない馬鹿笑いをしている男の一人にはおぼろげながら見覚えがあって、子供は瞬いて夜盗どもの顔を凝視した。
村の中に内通者がいたのだとか、その彼が秘密の抜け道の存在を詳らかにしてしまっていたのだとか、そんなことは知るべくもない。
「薄汚いガキだな」
「すぐオトモダチのところに連れて行ってやるよ!」
「……ッ!!」
同じく蹴り飛ばされたもの言わぬ少女が、どうにか立ち上がった子供の前に転がった。
思考を焼きつくしたのは絶望か、怒りか。
下卑た笑い声が鼓膜を震わすのも、蹴り上げられた場所が痛みを訴えているのも、噎せ返るような血の臭いも、どろりとした液体に濡れた不快感も、もう何も感じない。
骨と皮ばかりの手を縛めていたそれが、地面に落ちる音がした。
――急激な小宇宙の爆発が感知された。早急に確認に向かえ。
スペインはピレネー。切り立った山々に囲まれた寒村。
一つ年嵩の先輩は別件で聖域を離れていたから、今動ける黄金聖闘士は自分だけ。
射手座の聖衣を賜ったばかりの少年は神妙に頷いてその勅命を受けた。
「俺の……初めての任務だ……!」
教皇宮を辞したあとも激しく心臓が脈打っている。
冥闘士やその他聖域に仇なす者の小宇宙ではないと教皇シオンは言うけれど、それで緊張が薄れるわけではない。
だがこの射手座の聖衣に、そして共に切磋琢磨してきた双子座の親友に恥じぬよう、精一杯役目を果たそうではないか。
武者震いをどうにか抑え込んで、アイオロスは夜闇に駆けだした。
逃げるという選択肢は、元より子供の中にはなかった。
背後から迫る火はいよいよ痩せっぽちの身体さえも絡め取ってその身を焼きつくそうとしている。
火の粉が降りかかり、灼熱が肌を撫でる。
けれど不思議なほどに恐怖はなかった。
だって炎は、自分を恐れたり蔑んだりしないから。
踊り狂うそれに、少女と一緒に身を委ねれば、同じところに行けるかもしれない。
諦念にも似た期待から、だらりと腕の力を抜いた、そのときだった。
一筋の光が夜闇を貫き、立ち尽くす子供の前に光明が差す。
その羽ばたきは業火を掻き消すほどのものなのに、それでいて酷く凪いでいて、あまりに軽く小さい身体を吹き飛ばしてしまうことはない。
燃え盛る炎よりもなお眩く。
天空の覇者たる大鷲よりもなお気高く。
金の翼をもつ少年は、彼に似つかわしくない殺戮の現場にまさしく“舞い降りた”。
熱気と血臭、折り重なる死体の山に一瞬顔を歪めて。
ただ一人の小さな生存者に、彼は静かに声をかけた。
「君、大丈夫か? 怪我は? おれ……じゃなくて、私の言っていることがわかるか?」
黄金聖闘士としての初任務に、僅かに声が強張っている。
けれどそんな金色の少年の緊張を、返り血に染まり立ち尽くす子供が知るはずもなく。
「Án......gel」
「え?」
震えた声は確かにそう呟いたのだけれど、それはあまりにも掠れすぎていて誰にも――口に出した当人にさえも――聞こえなかった。
それは“天使”の弟、アイオリアが2歳になったばかりの、蒸し暑い夏の晩のことだった。
訪問者が扉を開けた瞬間、瑞々しい香気が流れ込んでくる。
その華やかでふくよかな香りさえ気持ちを和らげることはなく、デスマスクは小さく息を吐いた。
持参した花瓶に薔薇を活けたアフロディーテが、椅子を引き寄せて隣に座る。
「丸一週間か」
アイオロスが身を挺して庇ったこともあり、眠り続けるシュラにそれほど酷い外傷は見られない。
それでも目覚めることがないのは、邪龍の血を全身に浴びてしまったことが原因だろうか。
或いは。
「来る前に人馬宮に寄ってきたんだがよ……」
怪我はアイオロスのほうが重い。
とはいえ意識はしっかりしているので、それほど悲観的になる必要もないだろう。
簡単な軽食を持って人馬宮を訪れて、デスマスクは安堵さえした。
硬い表情を浮かべたアイオロスの言葉を聞くまでは。
「思い出したんじゃねェか、だと」
「……そう、か」
思い出した、と声に出さず呟いて、アフロディーテは寝台に沈む友人を見下ろした。
白皙に滲む汗のせいで黒髪が額に貼り付いている。
柳眉をきつく寄せた苦悶の表情のまま、シュラは大きく身じろいだ。
柔らかい枕に顔を半分埋め、小さく唸る。
「今日はずっと魘されているのか」
「……いや、死んだみてぇに穏やかに眠ってるときもある」
「縁起でもない言い回しをするものじゃない」
呆れ声で友人を窘めてから、濡れた黒髪を軽く払う。
なんとなしに撫ぜた硬質な髪がぐっしょりと濡れていて、アフロディーテは思わず嘆息していた。
「とにかく、汗を拭いて着替えさせてやろう。これでは身体に障る」
意識のない身体はぐったりと重い。
もちろんこの程度の重量が聖闘士にとって負担になるはずもなかったが、どうしてか重みが胸に刺さる。
「アフロディーテ、タオル」
「ほら」
濡れた服を脱がし、熱い蒸しタオルで身体を拭いてやる。
デスマスクが甲斐甲斐しく世話を焼いているのを横目に、アフロディーテはクローゼットを勢いよく開けていた。
勝手知ったる友の部屋だ、今更中を物色する必要もない。
引っ張り出したネルの夜着を後ろに放れば、そちらを見るでもなくデスマスクがキャッチする。
彼がそれをシュラに着せてやっている間に、湯を張っていた盥を手に、アフロディーテは一旦部屋を後にした。
「シェリーか」
「シュラ気に入りのね」
ややあって彼は、まろやかな洋酒とコーヒーの香りと共に戻ってきた。
眠りこけているのだから、我々が頂戴したところで構うまい。
悪びれもせずそう言い涼しい顔でカップを口に運ぶ。
優雅なその仕草に肩を竦め、デスマスクもまたコーヒーを口にした。
酒精を伴ったそれが胃の中に流れ落ちて、意地の悪い言葉が零れた。
「“何か”が起こったぞ」
お前が望んでた通り、とは言わない。
非難の響きはなかったけれど、アフロディーテは秀麗な顔を顰めて返した。
「……うるさい」
“何か”が起こるとしたら、その時はきっとアイオロスもシュラも酷く傷つくだろう。
そんなことはわかっていた。
それでも過去の幸福を置き去りにしたまま歪であり続ける二人を見ているのは心が痛んで、いつしか不自然な日々の終焉を望んでいて。
彼らの苦しみや懊悩を受け止める覚悟ならできていた。
けれど実際今の自分たちにはそれすら叶わないのがもどかしくて堪らない。
「っく……う、うぅッ……!」
「ひっでぇツラ。どんな夢見てるんだか」
「夢、ね……」
夢ならば、夢神が齎すどれほどおぞましい悪夢であっても、これほど苦しまずに済んだかもしれない。
きっとシュラが目の当たりにしているのは変えられぬ過去。
脳が見せる幻想などよりも遥かに重い事実。
幼い彼を深い絶望に陥れた過去が、往時と変わらぬ鋭さでもって今のシュラを斬り裂こうとしている。
「忘れていられたほうが幸福だったのか……?」
なぁ、シュラ? そう問いかけても返事などあるはずがない。
シュラの唇が僅かに動き、けれど言葉を紡ぐには至らなかった。
初出:2016/01/12(pixiv)