――大丈夫だ、一緒に行こう。
――っあ、う……。
――さぁ、手を取って。
ほとんど自失状態の子供の頭を撫でてやって、血塗れの手を拭って握り、抱き抱えて聖域まで連れてきたのはいいけれど。
「だけど、これから……」
アイオロスは内心困惑していた。
血と泥に汚れ、おまけに随分と垢じみていた痩せぎすの子は、風呂に入れて全身ぴかぴかにしてやったら――猫のように水に怯えては反射的に鋭い小宇宙を放つので、アイオロスはともかく浴室はめちゃくちゃになった――随分となまっちろい肌をしていた。
壁際に蹲り石のように黙りこくっている子供に纏わりついている弟の、年相応の無邪気さが何だか苦しい。
一体何故、この子は人馬宮預かりになったのだろう?
――山羊座の星のもとに生まれておるからな。
星見をせねばわからぬが、と前置きしつつもシオンの言葉は妙に確信めいていた。
――いずれお前の右腕となるだろうよ。
「これから一体どうしたらいいんだ……」
弟の世話でいっぱいいっぱいのところに、言葉の通じぬのが一人増えるなんて思ってもみなかった。
「そもそも俺だってまだほんの子供なんだぞ……!」
サガであれば! あの双子座の聖闘士ならばなんとかできたにちがいないのに。
常に柔和な笑みを絶やさぬ、けれど訓練では誰よりも己に厳しく研鑽を重ねる先輩の姿を思い浮かべて、いよいよアイオロスは頭を抱えた。
「アイオロス様、私たちにできることがございましたらなんなりとおっしゃってくださいね」
「あまりご無理はなさらないでくださいまし」
「ん……うん、ああ……すまん……」
微苦笑を浮かべた古株の女官たちに声をかけられて、どうにか強張った笑みを返したものの、問題は山積してこの9歳の少年を追い立てるのだった。
まず降りかかって来たのは食事の問題だった。
「アイオロス様、ご朝食の御用意ができております」
「すまん。すぐ行く!」
深夜に帰還し、どうにか子供を風呂に押し込み、身を清めてから謁見を済ます。
もちろん二人とも一睡もしていないし、それどころか騒々しさのあまりアイオリアまで起き出してきてしまった。
盛夏の朝は早いから、少しぐらい朝食の時間を前倒ししたところで問題はないと思ったのだけれど。
女中の言葉や勇んで駆けて行ったアイオリアの姿にも、漂ってくる食欲をそそる匂いにも反応することなく、子供はぼんやりと丸まっているばかりだった。
確かギリシャ語がわからなかったのでは、と遠慮がちに呟いた若い娘の言葉に、ようやくそれを思い出して屈みこむ。
「さあ、行こう」
そっと肩を押したのは拒まれずに済んで、アイオロスは細く息を吐いた。
伝わらないとは分かっているけれど、なるたけ優しく声をかける。
「どうした? 椅子にかけるといい。食べよう」
子供はちらりとアイオロスを見て、そしてアイオリアを見て、それからまたアイオロスに視線をやる。
釣られてそちらを見やれば、待ち切れなかったのか弟は先に食事に手を出していた。
そりゃあまだ2歳だから盛大に跳ねとばしたり零したりして酷い有様だけれど、それを気にしているようにも思えない。
手を引いて、椅子に座るよう促す。
唯々諾々と子は従って、座った――かと思えばその上で膝を丸めてしまう。
まるで正しい座り方を知らないように。
「……ええ、と、」
一瞬何か言おうとして、けれど子供の頑なな目にアイオロスは妥協した。
だが木でできたスプーンを差し出しても受け取りすらしないのには困惑せざるをえない。
骨と皮ばかりの細い右腕を掴めば、痩せた身体がひくりと震える。
固く握り締めた手を開こうともしないので、アイオロスもほとほと困り果ててしまった。
文字どおり匙を投げたくなって、どうにか溜息を堪える。
「もしかして、お腹がすいていないのでは?」
「ん……かもしれない」
そう言ったのは若い女中で、アイオロスは手を叩いて頷いた。
凄惨な現場から連れて来られたばかりの子供は、生来そうなのか或いはあまりにショックが大きかったのか、にこりともせずに身を縮こませている。
碌に食事を与えられてきていないのは一目了然だったけれど、今は何も喉を通らないというのは、考えてみれば実に自然で。
自分では思い至らなかった可能性にアイオロスは頭を掻いて苦笑して、それから小さな子供に視線を落とす。
「じゃあ、今日は休ませてやったほうが……」
いいのだろうか。そう言い切るより前に、子供が食卓のスープ皿に顔を寄せて、
「な、何やってるんだ!?」
咄嗟に皿を引き寄せて大声を出してしまったアイオロスを責めることはできないだろう。
犬のように鼻先をそこに突っ込もうとしていた子供は目標を失って、強かに額を木のテーブルに打ち付けた。
口をあんぐりと開けて仰天しているのはアイオロスのほうだけで、白い額を赤く腫らした子供は何も言わない。
ただ瘤になりそうなところだけを手の甲で擦って、ますます椅子の上で丸くなる。
「アイオロス様、この子のことは私たちに……」
「う、うん……」
呆けた顔を晒していた宮の主を見かね、古株の召使たちが声をかける。
あまりに幼い頷きを返したことに、アイオロスは気付いているのかいないのか。
とにかく促されて食卓につき、冷めたスープにようやく手をつける。
隣ではすっかり自身の食事を食べつくした弟が、今にも椅子から落ちそうな姿勢で船を漕いでいた。
何人もの乳飲み子を立派に育て上げた女たちの手腕は見事なものだった。
何もできない雛に手際よく”給餌”して、さっさと食事を終わらせる。
正直ずっと彼女たちに世話をしてもらえるとありがたかったのだけれど、そういう訳にもいくまい。
子供にどうにか人並みの生活をさせるべく、激務の最中、アイオロスは日夜奮闘している。
「シュラ、食事にするぞ。アイオリアも」
黄金聖闘士の多くは、星に定められて生を受ける。
教皇によりシュラと名付けられたこの子もまた、何らかの使命を与えられているのだというけれど。
「シュラ、そうじゃなくて……手を開いてごらん」
「う……」
そっと手を取り擦ってみても、右手の強張りはなかなか取れない。
押し合いへしあいの末、へし折り、叩き斬られたスプーンの数は今や知れず。
アイオロスだからこそ怪我もなく済んでいるが、危なっかしくて従者に任せるのはとても無理だ。
悪戦苦闘の傍ら、兄の苦労も急に増えた同居人の戸惑いも知らず、アイオリアがムサカをぺろりと平らげる。
食欲をそそる香辛料の香りに、シュラの腹がくう、と鳴った。
腹が空いていないわけがなかろうに、それでも子供の拳は開かれなかった。
「アイオロス、いるか? そろそろ出立の時間だ」
「サガ! わざわざ双児宮から上って来たのか?」
すまない、と先輩の黄金聖闘士に軽く詫びて。
結局今日のところは諦めたアイオロスは、パンの切れ端を咥え慌ただしく自宮を後にしたのだった。
年のそう変わらぬ者と語らうのは楽しい。
シュラや弟の世話を嫌だと思ったことはないけれど、サガと話す時間もまた特別だった。
危険の伴う任務ではないから、きりりと引き締まった双子座の聖闘士の横顔には、柔和な微笑みが湛えられている。
近隣の村への道中、また聖域へと帰還する道すがら。
久方ぶりに切磋琢磨し合う友と長く言葉を交わしたアイオロスは、すっかり満ち足りた気持ちで己の宮へと足を踏み入れたはずだった。
それなのに簡単な視察を終えて帰ってくれば、人馬宮内は大混乱に陥っていて。
「シュラがいなくなった!?」
「はい、それが……」
残っていた女官の話を聞いて思わず天を仰ぐ。
確かにシュラの眠りが酷く浅いのは知っていた。
細心の注意を払ってアイオロスが近付いても飛び起きるのだ、部屋を離して一人にしてやってはいたけれど、宮付きの下男や侍女などが廊下を通るだけで睡眠が妨げられていたであろうことは想像に難くない。
おまけにこの子供ときたら、いまだに寝台にも慣れないらしい。
それなりの広さのそこには一切使われた形跡がなく、どうやらシュラはいつも部屋の片隅に丸まって休息を取っているようだった。
だがそんな生活にはやがて限界が来る。
痩せっぽちの身体に慣れぬ生活の疲労を溜め込んでいたシュラは、昼頃小さな居間のソファで眠りこけていたのだという。
主であるアイオロスは任務で不在、弟のアイオリアもまた、いつものように外を元気に駆け回っている。
宮つきの従者たちも外に出ている者が多く、常ならば人が多く賑やかな人馬宮は今日、珍しくしんと静まり返っていた。
あまりに何もできないので手がかかる子は、けれど何もしないので手がかからない。
すっかり放置されていたシュラは小用の帰りか何かに、たまたま居間へ姿を現したのだろう。
最も日当たりがいいその部屋の、ふかふかのソファは彼の目にも大層魅惑的に映ったに違いない。
知らずそこに吸い寄せられて、ついうっかり寝入ってしまって。
シュラが悪いわけではない。もちろんそれを見かけた女官の親切心が悪いのでも。
「……それで不意打ちで抱き上げられて、反射的に手が出ていたと」
「大した怪我ではないのです、それでもあの子、酷く驚いたようで」
悲鳴に集まってきた従者の一人を、どこにそんな力がと思うような勢いで突き飛ばし、脱兎のごとき勢いでシュラは逃げ出してしまったのだという。
「現在総出で探しているんですけれど……」
シュラは痩せぎすの小さな子供だ。この広い十二宮内で探すのはさぞかし骨が折れるだろう。
「参ったな……」
巨蟹宮の裏手などは崖が崩れかかっている、崩落に巻き込まれてはことだ。
すぐさま捜索の手配を頭に巡らすアイオロスの傍らで、不意に口を開いたのはそれまで黙っていた双子座の聖闘士だった。
「私ならば捜索を中断するな」
「サガ!」
思いがけぬ発言に非難の声を上げたのはアイオロスだけだったけれど、宮に仕える者達もみな困惑の視線をサガに投げかける。
全員を軽く見渡して、サガは冷静に口を開いた。
「シュラは思いがけず女中を傷つけてしまい、どうしたらよいかわからず逃げてしまったのだろう? だとすれば、自分を探す声が聞こえ続けているうちは決して出てはくるまい」
「あ……!」
「確かに」
「幸い白羊宮の前と双魚宮の薔薇園の前には常に衛兵が詰めている。聖域から抜け出ることは不可能だ」
「そうか、そうだな……!」
落ち着きを取り戻したアイオロスが、ぐるりと自身の従者たちを見渡した。
「では、皆も疲れているだろうから少し休め。サガ、」
「ああ、まず我々は教皇に御報告にあがろう」
簡単な報告を済ませた、その帰り道。
第十の宮に足を踏み入れる頃には太陽もすっかり傾き、聖域に夜が近づいていた。
しんと静まり返った宮内にほんの微かな、けれど鋭い小宇宙を感じ、アイオロスは小さく息を呑む。
「サガ……」
「ああ」
それは確かに登宮の際には感じなかったものだった。
サガと二人、息を潜め女神像に近付けば果たしてそこでは、
「よかった……」
「己を呼ぶ声が聞こえなくなり、安心して姿を出したのだろうな」
いつものように手足を縮こまらせたシュラが、すっかり寝入っているのだった。
サガが近付いてそっと手を伸ばせば、やはり小さな子供は跳ね起きる。
アイオロスの姿を認めて自分が何故ここにいるか思い出したのだろう。
顔を強張らせたシュラが、再びそこから逃げ出そうと身を起こす。
「おっと、これ以上脱走はさせられないな」
けれど行く手をサガに阻まれ、シュラはその場に立ち竦んだ。
この双子座の聖闘士は決して恐ろしい人間などではないのだけれど、ようやく十という年齢を思わせぬ完成された美貌の持ち主で、ただでさえ人に慣れていない野生動物のような子供は思わず尻ごみしてしまう。
救いを求めようにも、背後にいるのはアイオロス。
「っひゃ……!?」
結局シュラはおろおろと視線を彷徨わせ立ち尽くして、そのままアイオロスの腕の中にすっぽりと収まってしまった。
くるりと身体を反転させられて、澄んだ空色の目と向き合わせられる。
その瞳の奥に見慣れた怯えがないのを見て取って、シュラは困惑に瞬いた。
けれど身体の強張りは取れない。
殴られるのか、罵倒されるのか。諦念と覚悟に顔を歪めた子供を見て、年長者二人は視線を絡ませる。
頭を撫でてやろうにも、反射的に目を瞑って折檻に備えられるのは既に何度も経験済みで、逡巡の末にアイオロスは、小さな額に己のそれをごつんとぶつけた。
「……っ!?」
薄く乾燥した唇をぱくつかせ狼狽するシュラの幼い抵抗を抑え込む。
元より叱りとばすつもりはなかった。
「シュラ、帰るぞ」
「う……」
「女官の怪我は大したことはない。だが彼女に詫びねばな」
ふるふると首を振るシュラの怯えと躊躇いを見かねて、横から口を出したのはサガだ。
久方ぶりの故国の言葉にシュラは目を丸くする。
アイオロスもまた、形のいい唇から紡がれた流暢なスペイン語に、ぽかんと呆けた顔を晒していた。
「シュラと言ったな。今はまだ、何故自分がここに来て、どうしてここにいなければならないのかわからないかもしれない。……だが」
こちらへ、と少々強引にシュラの手を取ったサガが、痩せた子供を宮の外へと連れ出す。
そこでひょいと身を屈めたこの双子座の少年は、手近に転がった小石をシュラに見せた。
小首を傾げた子供の目の前で、掌に軽く小宇宙を込めて――
「……ひッ!?」
いとも簡単にそれを砕いた。
「ああ、驚かせてすまなかった」
猫ならば尻尾をぴんと立てて全身の毛を立たせていただろう、すっかり怯えたシュラがアイオロスの腰にしがみ付くのを見てサガが苦笑する。
次いで続いた言葉に、身動ぎもせず子供は聞き入っている。
「君は独りじゃない。私達は誰もがこのような力を持って生まれて来たのだ。天より大いなる使命を与えられて」
「ひ、とりじゃ……ない……」
「そうだ。君の手に宿る力は、護るための力なんだ」
「まもる、ちから……まもる、」
それはこの子供が初めて言われた――そしてずっと長い間誰かに言って欲しかった――言葉だったのかもしれない。
護る、その一言を口内で繰り返して、まるで見知らぬものを見る目で、シュラは己の右手をしげしげと見つめた。
燃える太陽の赤に照らされて、白亜が鮮やかに輝いている。
子供の薄い肩に手をやって、サガはその視線を眼下の世界へと向けてやった。
「わ、あ……!」
「美しいだろう。日中汗を流し働いていた人々が家路につき、家々の灯りが灯り始める。信頼し合う友が、愛し合う家族たちが食卓を囲み、今頃今日という一日のことを語らっているのかもしれないな」
聖域の十二宮、訓練生たちの宿舎、ロドリオ村。その向こうにはアテネの町の陰影が見える。
女神に愛された、などと形容される美貌をゆるりと蕩けさせて、サガは甘やかな声で続けた。
「私はここから夜を眺めるのが好きだ。ご覧、あの街の灯は美しくあろうとしているんじゃない。ただ人々の道を、生活の場所を照らしているんだ。それがこんなにも、私達の胸を打つ」
凪いだ囁きは春の海。澄んだ瞳は銀河の星々。
シュラは懐かしい祖国の言葉に、アイオロスは馴染みのない音の羅列に、ただ声もなく聞き入っていた。
「あの灯火に私はなりたい。太陽ほどの苛烈な輝きでなくともいい、月のように闇行く旅人を導く光になれずとも。人々の命に寄り添い、日々の営みを労い、支え、護れるような存在に」
微笑んだサガの金糸が風に舞う。目を見張るような金の髪と夕映えが放つ眩しさに目が眩んだのか、シュラの身体がふらりと後ろへ傾いた。
咄嗟にアイオロスが、それを抱き留めて座らせた。
一緒に石段に腰掛けて、冷えた風から庇うように、小さな身体に外衣をかけてやる。
穏やかに口元を緩めたまま、サガもまたアイオロスの隣に腰を下ろした。
名も知らぬ鳥が一羽、塒へと飛び去る。
最初に口を開いたのはアイオロスだった。
「……やっぱり、サガはすごいな」
「何をいきなり」
訝って視線を投げかけた一つだけ年嵩の友の長い髪が、夕方の風に嬲られて美しい。
暮れなずむ聖域に投げ掛けられる夕焼けに照らされて、それは豪奢に輝いていた。
この世のものとは思えぬ、幼くして完成された美。
絹のごとき滑らかな髪をそっと押さえるサガの手が、頑ななシュラの心をするりと開いたのを思い出して、アイオロスは深く息を吐いた。
「お前のようにはとてもなれない」
聖闘士の最高位として、当たり前のようにこの双子座と並べられて語られることが、今更ながら恥ずかしくなる。
足先に視線を落として口を噤めば、ぽん、と頭に軽い衝撃。
子犬のように撫で繰りまわすようなことはしない。
ただ、そこに掌を乗せたまま、サガは穏やかな声で言った。
「俺のようになる必要なんてないだろう。お前にはお前にしかないものがある」
「本当に、そう思うか……」
「なんだ、らしくもない」
「わかっているが……」
自分でも、柄じゃないことを言っているのくらいわかる。
そんなところが我ながらまずます子供じみて感じられて、アイオロスが口ごもって再び俯きかけた、そのときだった。
「ん? あ……!」
温みと重みが右腕に触れる。
そちらを見やったアイオロスは小さく声を上げ、慌てて左手で口を塞いだ。
視線をそちらに投げたサガが、眦を下げて微笑む。
形のいい唇から漏れる笑いが優しい。
「心配せずとも、ちゃんと懐かれているんじゃないか」
「か、からかわないでくれ……」
アイオロスにしっかり凭れかかって、安心しきった表情で。
小さく寝息を立てるシュラの顔が、美しい夕映えに照らされていた。
月日は瞬く間に駆け、いよいよ無人の宮にも主が現れるのではと期待が高まっていた。
幼すぎるが故に人馬宮で兄と共に過ごすことを赦されていたアイオリアも、次の誕生日が来ればいよいよ他の聖闘士候補生たちとの共同生活に入ることになる。
一足先に訓練に入っているシュラは聖衣を賜れるだろうか。
漏れ聞こえてくる話は聞いていて気分のいいものではない。
まず成績が芳しくない。他の候補生とも折り合いが悪い。指導者たち――古株の白銀が多い――からの覚えもめでたくはなさそうだ。
それに。
「シュラ!」
「あっ……!」
まただ。自分の姿を認めるやいなや慌ててタオルを目深に被ったシュラを見て、アイオロスは溜息を押し殺した。
ちらりと見えてしまったのは、石の壁に押し付けられて引き摺られたかのような真新しい生傷。
幼いなりにシュラが隠そうとしているのを暴くのは気が引けなくもないのだけれど、見てしまった以上知らぬ振りもできない。
「その怪我はどうした」
「け、けが……なんて、」
「しらばっくれるな。この顔の怪我だ」
たどたどしくつっかえながらもとぼけようとしたのを、無理矢理タオルを引き剥がして詳らかにする。
負傷の絶えぬのはこの道を生きる子らの定めではあるけれど、シュラの日に焼けぬ肌に、血の固まった赤黒い傷は酷く痛々しく見えた。
「え、っと……訓練、が……」
「今日は座学だと聞いているが?」
「う……」
下手な嘘にもすぐ詰まり、俯いてしまったシュラに溜息。
聖域を訪れてすぐに人馬宮預かりになっていたこの子供が、いらぬやっかみを受けていることなど想像に難くない。
腹立たしいのは複数の人間による折檻じみた行為を黙認する指導者があまりに多いことだった。
妬まれているのは候補生にだけではないらしい。
それでもシュラがやり返さない――やり返せない――のは、今でも彼が自分の力を測りかねているからだった。
アイオロスとの簡単な手合わせでは、ふとした瞬間に驚くほど冴えた拳を見せることがある。
ひょっとしたらシュラは、候補生、或いは指導教官である白銀聖闘士たちさえも圧倒するであろう己の内なる力を持て余しているのかもしれなかった。
その傲慢なほどの甘さと怯えが、アイオロスには苛立たしくももどかしい。
「お前は実力がないわけじゃないんだがな」
足りぬのは力そのものでも努力でもない。
だがそこに、この雑音が多い聖域で、今のシュラ一人で辿り着くのは難しいだろう。
アイオロス自身がもっと手ずから導いてやれればいいのかもしれないが、相も変わらず多忙を極める身ではそうもいかない。
それでもせめて、何か心の寄る辺、指針となるものを与えられれば。
考えた末に、アイオロスはシュラの手を取った。
「よし! 星を見に行こう、シュラ!」
「ほ、ほし……?」
「さあ、宿舎へ帰ってこっそり支度して! 秋口とはいえ夜は冷えるから外套を忘れないように。そうだな……日が沈んで、月が俺たちの真上に昇るころ。ここに集合だ」
いきなりの提案にシュラは目を丸くする。
そんな時間に聖衣を賜っていない者が外を出歩いていていいはずがない。
戸惑っておろおろと視線を彷徨わせて、シュラはたっぷり30秒、躊躇った。
その狼狽と躊躇いを見守る瞳が泣きたくなるほど優しかったから。
「……うん」
結局小さな候補生は、初めての規則違反を決心したのだった。
「シュラ!」
アイオロスの古着、擦り切れた上着はシュラには大分余裕がある。
濃灰のそれにすっぽりと包まれて現れたシュラに、アイオロスは破顔した。
潜めた声で名を呼んで、いたずらっぽくウインクまでして。
小さな手招きに引き寄せられるように駆けていけば、アイオロスはシュラの手をそっと掴む。
行くぞ、とやや強引に腕を取られて、細い身体がたたらを踏んで歩きだした。
「あ、アイオロス……」
古傷だらけの掌は硬くて大きい。
その手に引かれて歩くシュラは、一度だけ振り返った十二宮や宿舎が見る間に小さくなっていくのに慌てた。
このまま進めば、間もなく聖域を出てしまうではないか。
流石に不安になって見上げると、その視線を受けてアイオロスもこちらを見つめてきた。
「もうすぐだ、あそこからは星がよく見える」
視線の先には小高い丘が広がっていた。
隣に座ったアイオロスに倣い、冷えた草の上に腰を下ろす。
山羊座は……と小さく呟く声が聞こえて、シュラは知らずそれを復唱していた。
「そうだ、山羊座をお前に見せてやりたくて」
星図では見たことがあっただろうが、こうして夜空を見上げたことはなかったろう?
そう語り掛ける声はどこまでも穏やかで、真っすぐに自分一人に向けられていて、シュラの胸は密かに踊る。
そんな胸の高鳴りにアイオロスは気付いていないのだろうか。
いつもと同じように朗らかに笑って、硬い黒髪を遠慮なく撫ぜる。
その手がそのまま空の一点をつい、と指した。
「ほら、俺の指の先を見て」
「……え?」
きょとんと指先を見つめられて、アイオロスは思わず笑ってしまった。
まじまじ見据えられた右手がむず痒い気さえする。
「いや、俺の指じゃなくて……すまん、言い方が悪かった」
「っわ……!」
抱き寄せた小さな身体を膝の上に乗せてやって。
驚きに強張る首筋を擽って揶揄う。
ひゃぅっ、と可愛らしく喉を鳴らしたシュラの初心な反応に頬が緩む。
子供らしい温もりをしっかりと抱きすくめて、それから頭を支えそっと上向かせる。
そうして逆三角形を指で示してやれば、ようやくシュラも理解できたようだった。
「あれが、山羊座……」
三等星以下の星ばかりで構成された星座はお世辞にも明るく目立つとは言い難いのだけれど、月明かりと星明かりを頼りとする聖域で見るには十分すぎるほどで。
ぱちぱち瞬いて星に見入るシュラを抱えたまま、アイオロスはおもむろに口を開いた。
「そうだ、お前に大いなる加護を与える守護星座……いずれその聖衣をお前は賜ることになる」
「……そんなの、わかんない、」
「いいや、そうなるさ」
俺にはわかるんだ。そう言い切って一息置いて、それから更にアイオロスは続けた。
「お前は必ず、あの星々の加護を受けた聖衣を纏う。幼いお前にこんなことを言うのは酷かもしれんが……だが、俺は、お前はそのためにこそそれだけの力を持って生れてきたのだと思うのだ」
静かな、けれど確信に満ちたその声を聞いていると不安や焦燥が驚くほどあっさりと消えていく。
それは本当に酷なことなのだろうか。胸の中でひっそりとシュラは思った。
もしもこの手に宿る力がなければ、きっと自分は。あの少女や他の子供たちと野山を駆け、夜になれば両親に額にキスをされ、温かいベッドで眠っていたのだろう。
そうしてあの日、皆と共に死んでいた。
穏やかで気高いサガや直向きで朗らかなアイオリア、得体の知れぬ子にも優しく手を差し伸べてくれた優しい人々にも出会いはせずに。
何より、温かい腕で自分を抱きすくめているこの人と巡り逢うこともなく。
そんなもう一人の自分の生を夢想して、シュラはふるりと身を震わせた。
「……寒いか? 少し風が出てきたからな」
それを冷えによるものととらえたアイオロスが、どこからか魔法瓶を取りだす。
差し出された温かいミルクには蜂蜜がたっぷり溶かされていて、ほんの一口飲んだだけで、柔らかい甘さに口角が持ち上がった。
そのとき唇から零れ落ちたのは小さな問いかけだった。
「アイオロスは……いま、しあわせか?」
「幸せ?」
不意の思いがけぬ質問に、突き抜けた晴天のごとき瞳を瞬かせて。
だがアイオロスはすぐさま、抱きこんだシュラの頭に手を乗せて笑った。
答える言葉は短く、風を切って飛ぶ矢のように真っ直ぐだった。
「ああ、とても」
「……とても?」
その声のあまりに確信めいた響きに、シュラは何故?と聞きそびれた。
けれど内に潜められたその問いを聞きとったかのように、アイオロスは軽く笑って続けるのだった。
「俺には使命がある。一生とこの命を捧げるに足る崇高なものが。それに俺は独りじゃない。時には重すぎるそれを分かち合い同じ道を進む友がいる」
「……サガのこと?」
「サガだけではない。いずれ星に導かれ多くの同志がここに集う。お前も、アイオリアもまた聖衣を賜りこの地上で最も尊いもののために、」
そこまで言ってアイオロスは口を噤んだ。
射手座の少年は確かに幸福だったのだ。たとえ戦いの日々の果てに、いつかこの身が女神と愛と平和のために殉じることになろうとも。
だがそれは、彼らにとっても幸福と言えるのだろうか?
口にし損ねたその言葉を引き継いで、唇に乗せたのはシュラだった。
「戦うんだ」
「……そうだな、」
「それが、アイオロスのしあわせなんだ」
「ああ」
この真っ直ぐな子供の前でそう言い切ってしまっていいのか、と。僅かな迷いがちりちりと胸を燻る。
けれど己の信念と矜持に嘘を吐くことはできなくて、アイオロスは結局強く頷いたのだった。
しあわせ。もう一度そう呟いたシュラが、ほこほこと湯気を立てるミルクに視線を落とす。
両手でカップを持ち、ちびちびそれを味わって。
一気に飲み干してしまうのはあまりに惜しいと、シュラは唇をそっと舐めた。
「シュラ、シュラ……起きろ」
「ん、ふぁ……?」
「ほら、もうすぐ着くぞ」
「っえ!?」
いつの間に眠っていたというのか。
軽く上下に揺すられ、微睡の海から引き上げられる。
見慣れた景色が視界に飛び込み、シュラは慌ててアイオロスの背から飛び降りた。
すっかり寝入ったシュラが落ちぬよう、また小さい身体が冷えてしまわぬよう、上からショールを巻き付けてくれていたらしい。
半端に落ちて地面を擦ったそれを、アイオロスが軽く叩いて首に巻く。
そんな些細な仕草にさえ罪悪感を煽られて、シュラはきまり悪げに俯いた。
「あ、オレ……」
ぐっすりと寝こけた挙句、小さな子供のように負ぶわれて帰ってくるなんてあまりにも情けない。
恥じ入って俯く小さな頭を、大きな掌がまた無遠慮に撫で繰り回した。
「実は……いや、やめておこう」
珍しく歯切れの悪い彼の物言い。
それをシュラが追及する前に、アイオロスが再び口を開いた。
「とにかく俺が、お前と星を見たかったんだ。遅くまで付き合わせて悪かったな」
「そんなこと!」
「明日も早い。今日は早く休むんだぞ」
「アイオロス、」
「おやすみ、シュラ」
有無を言わせぬ声で言いきって、足早に大きい背が去って行く。
シュラが故郷にほど近い地での修行に入るよう告げられたのは、その明くる朝のことだった。
瞬く間に星々は廻り、アイオロスもアイオリアも一つ年を重ねた。
「アイオロス!」
遠くから聞こえる声の大きさに、名を呼ばれた射手座の聖闘士も負けじと大きく手を振り返した。
「シュラ!」
大地と聳えるピレネーを相手に拳を振るい、小宇宙を研ぎ澄ませ、自らを限界まで追い詰める。
雑音から離れ、対峙するのはあまりに雄大で無慈悲な自然と自分自身。
そんな修行の日々は、確かにシュラの性に合っていたらしい。
時折送られてくる報告には、日々の成長が余すところなく綴られていた。
こうして顔を突き合わせてみれば、その変化は実に顕著だった。
随分と背が伸びた。体もあの頃よりもしっかりしている。顔つきもすっかり変わって聖闘士らしくなった。
けれどこちらを認め、蕾が花開くように綻んだかんばせには、アイオロスが見知った稚さが残っていた。
いよいよ継承試合を明日に控え、修行地から聖域へとシュラは戻った。
聖衣を賜るにあたって、戦うのはかつて共に修行をした候補生たち。
「覚悟はあるのか」
尋ねたのは一言。
結局のところシュラに必要なのは覚悟だった。
護るための力とて、時には他者を傷つける。
それでも己の力を恐れず、さりとて慢心することもなく、最高位たる黄金の地位を賜り聖衣を纏う覚悟が。
問いかけに答えたのは、鋭く輝く黒曜石の瞳だった。
「でなければ、尻尾を巻いて逃げている」
あの頃の不安げな表情はもうない。
空色の瞳を真直ぐに見据えて、シュラは静かにその名を唇に乗せた。
「アイオロス」
「なんだ、シュラ?」
「俺は必ず聖衣を手にする」
烈しい意志が宿った目。
この子供がこれだけの決意を秘めるに至るその過程に、自分が共にいられなかったのが僅かに悔しいけれど。
「そして貴方と肩を並べ戦う、黄金聖闘士になってみせる」
「シュラ……!」
そんな小さな口惜しさなど吹き飛んでしまうくらい、アイオロスは彼の成長が嬉しかった。
その日もアイオロスは、サガとともに調べ物にあたっていた。
「見に行かんでいいのか?」
「直にここまで来るからな」
前聖戦の際には、ここ人馬宮には高い天井に届くほどの膨大な書物や資料が集められていたという。
だがそれらの多くは今や、ほとんどが消失してしまっている。
来たる聖戦へ向けて少しでも多くのことを知っておきたいと、サガ、アイオロス両名は任務の合間を縫って情報収集にあたっていた。
南中を過ぎた太陽が、それでもまだまだ苛烈に輝いている。
足音が二つ、下から上って来たのはそのときだった。
「……ほら、来たぞ」
高揚を知らぬ落ち着き払ったものと、それよりも幾らか軽やかで、興奮を隠し切れていないもの。
「兄さん!」
先に飛び込んできたのは二人の予想通りアイオリアで、小さな少年は勢いよく兄に飛びついた。
暑さにか、熱狂の余韻にか、まあるい頬はつやつやと赤く輝いている。
「シュラ、シュラがな、すごかったんだ!」
「そうか」
「えっと、ほんとに、すごくて……小宇宙が、」
「アイオリア……」
それじゃわからんぞ、と年長二人が微苦笑を浮かべても、仔獅子の勢いは止まらない。
むしろますますムキになって、彼は闘技場でのシュラの戦いぶりを語って聞かせようとするのだった――哀しいかな、興奮しきった子供の少ない語彙ではそれは到底表現しきれるものではなかったのだけれど。
「だって、すごかったんだほんとに! ひらひらしたり、きらきらしたりして、とにかくきれいで、」
「もういいだろう、アイオリア」
他の候補生達よりも小柄な身で軽やかに相手の攻撃をかわし、鋭い一撃を叩き込む。
その身のこなしと宙に煌めく小宇宙の残滓の美しさを教えてやりたくてアイオリアはもどかしげに言葉を紡いでいるのに、それを止めたのは他でもないシュラだった。
不満げに子供は頬を膨らます。
シュラにしてみれば年嵩の、それも黄金位の先輩たちの前でこんなに手放しに褒められても身の置き場がないし、ましてやサガの前で自分がきれいだなどとちゃんちゃらおかしい。
アイオリアの肩を掴んだシュラの白皙に、僅かに血が上っている。
だがまだまだ幼いアイオリアには、その辺りの心の機微は分からないのだった。
ひっついている弟をそのままに、アイオロスがシュラに声をかける。
「シュラ、おめでとう!」
「ああ、ありがとう」
真っ直ぐに見詰められて、シュラが喜びに身を震わせる。
随分と成長した山羊座の子供にサガもまた祝いの言葉を投げかけた。
「おめでとう。これで共に戦う同志だな」
「ありがとう。精進する」
大人びた言い回し。9歳の子供のそれとは思えぬ、栄誉と覚悟に引き締まった顔。
知らず目を見張っていたサガに、シュラが僅かに表情を緩めた。
「……そうか、貴方に会うのは一年ぶりか。久しいな、サガ」
「立派になって帰って来た。頼もしいぞ」
「まだ、貴方達には遠く及ばな、いッ……!?」
硬い表情のままサガに答えているシュラの頭が不意にがくりと沈んだ。
脇から手を伸ばしてきたアイオロスにめちゃくちゃに頭を撫で繰りまわされ、シュラは目を白黒させて頭上に手を伸ばす。
まだまだ細く白い両手に手首を掴まれたまま、少しばかり汗ばんだ黒髪をおかまいなしにぐちゃぐちゃにして、アイオロスはかわいい後輩に笑いかける。
「もっと喜んだっていいんだぞ! 今晩はみんなで祝おうじゃないか。シュラ、何が食べたい?」
「え、ええと……アイオロスが作ってくれたものなら何でも……あっ! ううん、アップルパイ!!」
アップルパイが食べたい!と掴んだ手にじゃれついて。
朗らかなアイオロスの声にようやく、シュラもまた年相応の幼い言動を見せたのだった。
慰問や視察任務のようにすぐさまとはいかない。
四人目――とは言え天秤座の童虎には別の勅命がある故、実際に実働可能な聖闘士としては三人目――の黄金となったシュラだが、戦地へ赴く任務はなかなか与えられなかった。
早く双子座や射手座のように聖域に貢献したい。
そんな山羊座の少年の熱い想いが現実となりいよいよ初陣を飾ることになったのは、彼が10の誕生日を迎えて少しばかり経った頃だった。
あの後立て続けに蟹座の聖衣と魚座の聖衣がこの代における持ち主を選んだ。
新米の黄金聖闘士三人に与えられる任務は慰問や闘技場での指導、それから先輩二人につく形での調査任務ばかりで、それぞれが口には出さないものの焦燥やもどかしさを募らせていた。
与えられた勅命はどれも教皇の名の下に等しく重みのあるものだとはわかっている。
それでもやはり、早くサガやアイオロスと肩を並べて闘いたい、と。
ついに焦れたシュラは、年下の子らが聖衣を賜ったしばらくの後、教皇に直接願い出ることにしたのだった。
いきなりの訪問にもシオンはうろたえるでも、また立腹するでもなく優しい苦笑を湛えていた。
「そろそろ三人のうちの誰かが来るころだとは思っておった」
「え……?」
「蟹座ではなくお前だったのが意外ではあるが」
深い紫紺の瞳に見据えられて、シュラは小さく息を呑む。
輝かしい聖衣にも、まだまだ着られている感がなくもない。
美しい黄金の鎧を身に纏い、幼い少年は真っ直ぐに老教皇を見つめ返した。
その直向きさが長い時を見つめてきた眼には少し眩い。
「いずれにせよ近いうちに勅命を下すつもりだったのだ……お前と射手座にな」
「アイオロスと俺、ええと……私に?」
「そうだ。お前たちには邪龍の封印を頼みたいのだ」
邪龍の、封印。乾いた口内でシュラはシオンの言葉を反芻した。
厳めしく頷いた老教皇が、更に任務の詳細を続けていく。
三つ首の邪龍。神鉄で身を覆い、その羽ばたきは木々を薙ぎ尾の一閃は大地を割り、咆哮は無辜なる命を容易く焼き尽くす、太古から生きる邪悪。
前聖戦のさらに前に当時の黄金聖闘士らによってなされた封印がいよいよ解けようとしているのだとシオンは語った。
「流石に私の力では押さえきれなくなってきた……せめてアテナ様がもう少しご成長されてからであればよかったのだが」
「アテナ様が……?」
降誕されたばかりの女神への拝謁が叶っているのは年嵩の二人とそれからこの教皇、世話をするための極少数の女官のみ。
未だ姿を見たことのない戦女神に思いを巡らすシュラを優しく見下ろし、シオンは緩く頭を振った。
それは言っても詮無いことだ。
「お前の聖剣でもって神鉄の鱗を裂き、女神の血で書かれたこの護符で心の臓を封じる。アイオロスと二人とはいえ危険が伴うぞ」
古い護符を手に、シオンが投げ掛ける視線は痛いほどに厳しいけれど。
「元より承知の上でございます、教皇睨下」
幼さを多分に残した声に隠しきれぬ緊張と喜びを滲ませ、10歳の少年は力強く答えた。
瘴気に覆われた深い森は、真昼だというのに足元もおぼつかぬほどに暗い。
「うあァッ!?」
「シュラっ!!」
翼の一振りに容易く吹っ飛ばされた年下の同胞の名前をアイオロスが叫ぶ。
木々を何本も薙ぎ倒し、圧し折り、巨大な樫の老木に叩き付けられてようやく地に落ちたシュラは、アイオロスの心配を他所に勢いよく立ち上がり再び敵に向かっていった。
聖闘士に同じ技は二度通用しない。
いまだに同年代の子と比べても小柄な体格さえ武器に変え、シュラは邪龍の懐に飛び込んだ。
そのまま心臓の真上の鱗に聖剣を突き立てると、ついにそこに罅が入った。
「よし……!」
あとはもう、この矢さえ射ち込んでしまえば、完全なものとはいかずとも、女神が成長し今いる聖闘士たちが戦士として成熟するまでの時間は稼げるだろう。
「シュラ、下がっていろ!」
アイオロスの小宇宙が爆発的に高まる。
それに応じて呼び出された一つがいの弓と矢が、黄金の射手の手の中に収まった。
一撫でするだけでシオンから託された女神の護符がするりと張り付く。
飛び退って避けたシュラを確認してそのまま矢を放とうとした、まさにその瞬間。
「お、にい……ちゃん、どこ……?」
ふらりと迷い出てきたのは、まだ10にも満たない傷だらけの子供だった。
兄とはぐれたのであろうか、不安げに彷徨う視線はどこにも焦点があっていない。
耳からもだらだらと血が零れているから、戦闘に伴う爆音や爆風で聴力さえも失っているのかもしれなかった。
「あぶないッ!」
「シュラ!」
迂闊だった。
激しい戦いに備えて広域結界を展開してあったのが仇になり、その少女は出口を探し彷徨っていたのだろう。
無防備に激戦の地に迷い出た子は、風の前の塵の如く、羽ばたき一つで吹き飛ばされた。
側頭部から血を吹き出して宙を舞った少女が、咄嗟に飛び出していたシュラの腕の中に収まる。
脳漿がどろりと零れ、シュラの右手を静かに濡らした。
――あの時から、自分は何も変わっていない。
「あ、うぁ、ッあ……!」
――結局は何も護れはしない。
引き攣れた喉がひ、と鳴った。
「シュラ? ……シュラ!!」
次の瞬間、獣のように唸ったシュラは、冷静さをかなぐり捨てて邪龍に飛びかかっていた。
戦略などまるでない破れかぶれの攻撃は確かに敵の鱗にいくつもの薄い傷をつけたけれど、致命傷にはけしてなり得ない。
鋭い爪に利き足を抉られ、地に倒れ伏したのはシュラのほうだった。
柘榴のような肉の奥に白い物さえ見えそうな、だくだくと血が溢れる右足を一瞥して舌打ち。
それでもそのまま再び敵に聖剣を振り翳そうとする後輩に飛びついて、アイオロスは薄い肩を強く揺さぶった。
「待て、シュラ! 落ち着け!!」
「っや、はなせ!!」
怒りで我を忘れたシュラを引きとめようとしたところで、敵の二撃目が続いた。
「――ッ!! ぐ、うっ……」
小さな身体を抱き込んで凶刃から護る。
鋭い鉤爪に黄金聖衣さえ斬り裂かれて、がくりと全身から力が抜けた。
激痛に顔が歪む。激しく明滅した視界の中心では、シュラが愕然と目を見開いていた。
「やッ……アイオロス、なんで……?」
「シュラ……だいじょうぶ、か、」
「ど……して、俺なんか庇って……なんでッ!!」
「……す、こしは……あたま、ひえた……だろ……」
「ッ……!」
黒檀の瞳が見る間に潤んで、涙さえ零れそうになるのが見える。
けれど浮かんだ雫を振り払って、シュラはくずおれた身体を抱きかかえたのだった。
「シュ……ラ……」
小さな呼び掛けにも答えない。応えを返す余裕さえない。
降り注ぐ鋭い毒針から逃れるように跳躍。
細い腕に大人と変わらぬ体躯の射手座を抱え、負傷した足で猛撃から逃れるのは容易いことではない。
案の定、ほんの僅かに敵から距離をとるのがやっとで、シュラは無様に地に膝をつき息を荒げた。
アイオロスを庇うように敵を睨み、次の一撃を見極めようとする。
その後輩の身体をしかし、血に濡れたアイオロスの腕が後ろに退けた。
とすん、と尻もちをついたまま、シュラは両の目を見開いて。
一瞬微笑んだアイオロスは敵に向き直り、そのまま再び矢をつがえた。
「アイオロスっ!」
ならばせめて、彼が一矢を放つその間だけでも盾にならなければ!
痛む足を引き摺って駆けて、結局は二人並んでなす術もなく敵の攻撃に晒されて、
「……あ、れ……?」
けれど結局覚悟していた痛みも衝撃も訪れはしなかった。
二人の眼前には厚い防護壁が聳えるように張られている。
水晶のように硬く澄んだそれからは、確かに教皇の気高い小宇宙が感じられた。
「シオン……教皇……?」
血塗れのアイオロスが小さく呟けば、老教皇の厳めしく凛と勇ましい声が聞こえた。
――長くは持たん。しくじるな。
「はっ……!」
血の抜けて酷く重い腕を持ち上げ、再び弓に矢をつがえる。
その間も敵の猛攻撃は止まらない。
二撃目でクリスタルウォールに罅が入り、三撃目でいよいよそれは軋み始めた。
「くっ……う、」
力の入らぬ手、霞む視界。
今にも取り落とされそうになる黄金の弓を、幼さの残るシュラの手が支えた。
「アイオロス……!」
「ああ……!」
狙うは一つ、心の臓。
五撃目、ついに硬質な音を立てて壁が圧し砕ける瞬間に、黄金の射手は最初で最後の一矢を放つ。
それが邪龍を射抜いたのを見届けた直後、アイオロスの視界は闇に閉ざされていた。
――とにかく、今はまだシュラ様のお耳には入れないように……。
――まずはお怪我を治すことに専念していただかなければ……。
――だけどいつ申し上げたものかしら……。
――我々からではなく、射手座様か、でなければ蟹座様か魚座様からお話しいただいたほうが……。
声を潜めた従者たちの会話を聞いて、いてもたってもいられずに宮を飛び出していた。
帰還の後、傷がおおよそ癒えるまでは宮に半ば軟禁されていた。
その間に、まさかそんなことになっていたなんて。
当てもなく聖域内を彷徨って、そうして行く先行く先でその話を耳にしてしまって、シュラは途方に暮れたまま自宮へと続く長い石段を登っていた。
つい数日前までは足を引き摺りつつ歩いていたものの、利き足に負ってしまった負傷はほとんど完治している。
だがシュラの歩みはどんどん重くなっていって、ついには人馬宮を目前にしたところで止まってしまった。
だって、“彼”と一番親しかったのは他でもないここの主だ。
このよからぬ噂についてだって、おそらくはもう知っていることだろう。
今更何と言うべきか、かける言葉を知らぬシュラは宮の入り口で立ち尽くす。
「……シュラ?」
「あ、アイオロス……」
その不安げな小宇宙を拾ったのだろう、宮内から会いたかった人が顔を出して、シュラはいよいよ当惑してしまった。
そんな揺れる内心を知らず、アイオロスの方は屈託なく歩み寄ってくる。
「もう、怪我の方はいいのか」
「……俺は、怪我なんてほとんどして、ない……」
シュラの上に降り注いだ攻撃は、結局全てアイオロスがその身に受けている。
上体をすっかり覆うほどに巻かれた包帯からはいまだにところどころ血が滲んで痛々しい。
唇を噛んで俯いてしまった後輩の肩に手を乗せて、アイオロスは少し屈んだ。
シュラの瞳を覗き込むその目には、果てのない蒼穹のごとき孤高の気高さがあった。
時に見る者を不安にさえさせるそれが、不意にゆるりと溶けて消える。
「それは何よりじゃないか。シュラ、今日はどうした?」
「あ、ええと……その……」
「……サガ、か」
黙りこくってしまったのが何よりの答え。
二人の療養中、聖衣さえも置いて忽然と姿を消した双子座に纏わる無責任な放言のあれこれを、今になってようやくシュラは耳にしたのだろう。
俯いたシュラの細く白い首筋に視線を落とし、アイオロスは過日に思いを巡らせていた。
今回の勅命を受ける直前に、シオンはアイオロスを次期教皇として指名した。
思えばあの瞬間、サガの纏う凛とした空気がほんの僅かに乱れた。
何故もっとあのとき彼を気にかけることができなかったのだろう。
まさか自分が教皇にならねばならぬとは思ってもおらず、内心狼狽してしまったのは事実。
だが自分が己の懊悩にばかりかかずらわっていなければ、何かが変わっていたのだろうか?
双子座の出奔を耳にした今になって、アイオロスは酷く後悔していた。
「サガは密命を果たせずにのたれ死んだんだとか、聖域を捨てて戦いから逃げたんだとか、敵方に寝返ったんだとか……!」
シュラの握り締めた両の手が怒りに激しく戦慄いている。
アイオロス自身は覚えていないが、先だっての任務の際にも、負傷した二人の救援に向かわされたのはサガだったという。
彼が来てくれなければ、少なくとも自分は間違いなく死んでいた。シュラだってこうして今ここに立ってはいられなかっただろう。
共に叱咤激励し合い高め合ってきた親友を悪し様に語る何も知らぬ者たちに、アイオロスとて不快感を覚えないわけがない。
だが皆が皆そう言った人間ということもないのだ。まだ幼いシュラには、悪意に満ちた声ばかりが大きく聞こえてしまうのかもしれないが。
宥めるように肩を叩く。
「信じていればいい」
「え……?」
「サガの傍で彼を見てきたのは、俺たちか? それとも今陰で心無いことを言って回っている者たちか?」
「あ……!」
「黄金位が無為に不安がったり苛立ったりしていてはだめだ。せめて皆の前では胸を張っていろ……大丈夫だ、サガはすぐにでも帰ってくる」
俺たちがサガを信じないでどうする。
それはほとんど自分に言い聞かせるような言葉だったけれど、それでもこの年下の少年は勇気づけられたようだった。
こっくりと頷いたシュラのまっすぐな眼差しに、アイオロスもまた力をもらっている。
この直向きさに、同じだけの誠実さでもって答えたいと思った。
「怖いか、シュラ」
「っ、怖く……など、」
言いかけて、唇を噛み締めたシュラが俯く。
ややあってから、怖い、と小さな本音が零れ落ちた。
無辜の民を護れず、自分だけでなく大切な人の命さえも危険に晒した初陣。
アイオロスと並び聖域最強と名高い双子座の失踪。
どれほど鍛錬を積んで精進しても――ある意味ではしたからこそ――死は絶えず自分たちについて回り、けして離れることはない。
何故、人はこんなにもちっぽけで弱いのだろう。
己の不甲斐なさに打ちのめされて俯いているシュラの背に手を当て、くるりと外へ向き直らせて。
もう随分と遠い昔、サガと三人で見たときと変わらぬ見事な夕映えが二人の眼前に広がっていた。
「恐れるな。己の死も、仲間の死も。さりとて蛮勇で無駄に散らすことがあってもならない」
「アイオロス……?」
「女神の聖闘士であれ。地上の愛と正義のために戦えることを誇れ。たとえ命尽きたとしても、それが気高き生を貫いた結果ならば、悔やむことも恥じ入ることもない」
想いだけではない。声の温み、空気の震え、僅かな呼吸さえもがシュラに沁みて伝わっていくのがわかる。
細い肩も、強く握り締めた両の手も、もう震えてはいなかった。
「死は終着ではない。肉体の朽ちたあとでさえ、魂と祈りは不滅なのだから」
言葉一つ一つを噛み締めている後輩を見て、アイオロスは優しく笑った。
「さあ、もう遅い。今日は休め」
「ああ……おやすみなさい、アイオロス」
「おやすみ……“また明日”」
包帯の下にはまだ生々しい傷が残っているであろう腕をゆっくりと持ち上げて、アイオロスはシュラの髪を一つ撫でる。
はにかむような笑みを見せ、山羊座の少年は人馬宮を後にした。
そのほんの数時間後に何が待ち受けているかなど、誰も知りはしなかった。
「……何故、何故ッ!?」
どうして、こんなことに。
短剣が掠めたこめかみからはだくだく血が流れ落ちて止まらない。
凶刃から護り通した腕の中の女神は、何も知らずぐっすり眠っていた。
ふくりとかわいらしい口元には仄かに笑みさえ浮かんでいる。
だが感じられる小宇宙はどうにも弱く、アイオロスは不安を掻き立てられた。
奥の間におわすアテナとの拝謁が叶ったのは三月ほど前のこと。
まだその輝きは鮮烈でなかったとはいえ、赤子のものとは思えぬ温かく愛に満ちた小宇宙に震えたのはアイオロスだけではなかったはずだ。
隣にいた親友――サガだって同じ感動を共有していたと信じていたのに。
今晩非礼を承知で教皇宮に足を運んだのは偶然ではない。
確かにまだそれほど強大ではないが、それでも聖域全体にゆるゆると広がりつつあった女神の小宇宙が不意に揺らいだ、ように思えた。
夜もすっかり深まり、草木さえも眠るころ。
丸々と肥えた月も星々も厚い雲に覆われて、聖域はじっとり濃い闇に包まれていた。
寝所にそっと足を踏み入れれば、凶刃が揺れるランプに煌めくところで。
我を忘れて飛び付いて、揉み合いの末に露わになったのは、誰よりも信頼する親友の素顔だった。
「サ、ガ……?」
何故、と震える唇は言葉を紡いではくれなかった。
闇の色に染まった髪も、憎しみに歪んだ瞳も見知らぬものだったけれど、そんな悪鬼のような姿をしていてなお、サガは哀しいほどに美しかった。
「っぐ、う……!」
「サガ!! ――ッ!?」
晒された額に手をやって苦しむ友に駆け寄ろうとしたアイオロスの眼前を金の光が駆け抜ける。
反射的に飛び退いたおかげで眼球を抉り取られるようなことはなかったものの、鋭い刃先に撫でられたこめかみからは思いもよらぬ量の血が溢れ、サガの手を濡らした。
一瞬躊躇ったのを好機と捉え、アイオロスは赤子を抱いたまま窓から寝所を飛び出す。
サガの頬が光ったように見えたのは、あれは黄金の短剣が放つ輝き故なのだろうか?
それはどうしてもわからなかった。
体力を回復しきらぬ身体では聖域を駆けていくだけで息が上がる。
流石に雑兵や候補生たちに追いつかせてやるほどの不覚は取らぬものの、アテネ市街への道を目前にして、流石に息が切れて足元がふらつく。
「アイオロス……!」
己の名を呼ぶ幼い声に、アイオロスの背がびくりと跳ねた。
心の中で親友の名を呼ぶ。
なんて残酷なことをと詰る反面、同じ立場なら自分とてそうすると冷えた諦念が心を覆う。
「……シュラ」
振り返ればそこにはやはり、黄金の聖衣もまばゆい山羊座の少年が立っていた。
アイオロスが腕に抱いた赤子を認め、その表情がはっきり歪む。
すぐにでも斬りかかってくればいいものを、互いに目いっぱい手を伸ばしても触れ合えぬような距離で、シュラは立ち尽くしているだけだった。
「シュラ……討伐令を受けるならばお前しかいないと思っていた」
「アイオロス……貴方、は、」
食い入るようにこちらを見つめるシュラの、その黒檀の瞳が何よりも雄弁だったから。
「言うな!」
尋ねられれば、答えて、縋って、巻き込んでしまいそうだった。
もし、シュラに全てを話すことができたなら……?
シュラと、そしてアイオリアを連れていくことができたならば。
――何か、言葉を。
駆け廻ったのは甘美な誘惑。
――それが俺にとっての真実になるから。
真実を告げ、彼と共に十二宮へ引き返し、アイオリアと女神を連れて逃亡する。
「……アイオロス!」
甘やかで哀しい夢想は、けれどシュラの苦しげな面ざしで儚く散った。
手負いの我が身は逆賊に堕とされ、手中には今は力なき戦女神。
聖域に君臨するは、ただ一人の親友にして”神の化身”。
ここで命尽き果てるとしても、友を救えなかったとしても、大切な人達に一生消えぬ傷を負わせたとしても。
選ぶならばただ一つ。
射手座のアイオロスは、女神の聖闘士でなければならなかった。
「……語ることなどあるまい、シュラよ」
嘘が苦手なのは、この後輩だけではない。
できる限り酷薄な声で、言えただろうか?
続くシュラの言葉に安堵して、アイオロスは胸の内で一人笑った。
「な、らば……あ、貴方は聖域に、いや、地上の平和に仇なす反逆者だ!」
震える声がなお高らかにその人を断罪する。
美しい碧の輝きが宿る右腕を構え、山羊座の聖闘士は自身を鼓舞するように強く叫んだ。
「そして俺はッ、俺はアテナの聖闘士、女神に最も忠誠心篤き山羊座のシュラ! だから俺は、この地上の平和とアテナのために戦う!!」
「シュラ……」
「た、とえ……貴方をこの手で斬らねばならぬとしても……!!」
涙交じりの声。戦慄く細い身体。
ついにはアイオロスを睨み据えたまなこから一筋の涙が零れ、蒼褪めた頬を静かに伝った。
シュラの苦悩がこちらにまで伝わってきて、アイオロスの心を音もなく引き裂く。
すまない、と口にしそうになった詫びを噛み殺す。
「できるのか? お前に」
「……アイ、オ、」
呼びかけに答えるつもりはない。
小宇宙の高まりに合わせて、栗色の髪がふわりと持ち上がる。
目を見開いたシュラが迎撃態勢に移るのなど、待ってはやらなかった。
「アトミックサンダーボルト!」
「――ッ!?」
雷撃がシュラを打ち据え、その身を大岩に叩きつける。
ようやく二人に追いついた雑兵がその光景に声を荒げた。
「シュラ様!」
「おのれ逆賊アイオロス! まさかシュラ様に手を上げるなど……!」
「射手座様、一体なぜ!?」
「アイ、オロス……」
シュラがどれほどアイオロスを慕い、アイオロスがどのようにその慕情と敬愛に応えていたか、聖域に知らぬ者はいない。
だが憤怒や困惑に震える彼らとは違う意味で、身を起こしたシュラもまた激しく混乱していた。
聖衣を纏わぬアイオロスから放たれた光速拳は、見た目こそ派手であったけれど、山羊座の聖衣に護られた身にはそれほど酷い傷を与えてはいない。
勿論痛みはある。身体にも、心にも。けれどアイオロスが本気で自分を葬り去ろうとしていればこんなものでは済まないだろう。
実際に邪龍を前にした射手座の聖闘士の戦いぶりを目の当たりにしていたシュラにわからぬわけがない。
「やはり貴方は聖域を、」
裏切ってなどいない!
そうシュラが言い切るよりも前に、アイオロスは自らの技を繰り出す。
「この期に及んで言葉など無用!」
「アイオ、ぐッ、うあぁっ!」
「シュラ様!」
再び振り落とされた拳を避け切れず、朽ちかけた石柱に激しくぶち当てられる。
激しく咳き込んで唇から血を垂れ零して、それでようやく覚悟が決まったとでも言うように、シュラはアイオロスを睨み据えた。
軽蔑と言うよりは、失望と言うよりは、身を切るような烈しい怒り。
だがそれは造反を信じている者のものではなかった。
「何故、何も言わない……何も話してはくれない! 俺はそれに値しないとでも言うのか……!!」
ならば。
アイオロスを見上げた瞳から、最早迷いは消えている。
「力ずくででも口を割らせてみせる!!」
四肢が碧く輝く。小宇宙の高まりに応じてふわりと外衣や黒髪が持ち上がり、乾いた地面に亀裂が走る。
刹那、シュラの姿が消えた。
「……ッく!」
出血で赤黒く濁る視界の死角から聖剣がアイオロスを狙う。
咄嗟に女神を護ろうとすると、シュラはわかっていたのだろう。
これ見よがしに煌めかせた右腕はブラフ。鋭い小宇宙を込めた右足に腱を切り裂かれそうになって、アイオロスは慌てて跳躍し距離を取った。
足先が掠めただけの脹脛から血が滴る。
激痛に顔を歪めたアイオロスを見てもシュラはもう怯まない。
続く攻撃に腿を狙われ、古びた石の壁の後ろに回って斬撃を避ける。
いとも容易く切り払われ倒れたそれが立てる土煙に身を隠し、アイオロスは体勢を立て直そうとした。
その瞬間、頭上に石柱が崩れ落ちてきて再び逃げることを余儀なくされる。
駆ける足元にまで聖剣は走り、そこに大きな亀裂を走らせる。
普段の手合わせでは愚直なまでに真っ直ぐと相手に突っ込んでいくものだからアイオロスは密かに気にかけていたのだけれど、その心配は杞憂のようだ。
山羊座の少年は、彼の知らぬ間に成長している。
そして彼の知らぬところで成長し続けるだろう。
最後の戦いにも、幕を下ろす時が来た。
近付いてくる小宇宙は蟹座と魚座。
彼らに追いつかれてしまってはもう逃げおおせることは叶わない。
聖剣を構えるシュラを前に、アイオロスは一つの決断をした。
「アイオロスっ!!」
美しい碧の光を放つ聖剣が、一層眩い小宇宙を纏う。
アイオロスならば必ずそれをかわしてみせると確信しているから、斬り上げる手刀には容赦がない。
手負いであろうと、腕の中に護るべき存在を抱えていようと、確かにその一閃から逃れることは難しくはないけれど。
一瞬にも満たぬ僅かな時間、アイオロスは視線を背後にやった。
ほんの数メートル先からは断崖絶壁。あまりに深い闇が、そこにぽっかりと口を開けている。
回避に取れる道は限られる。
結局のところシュラは、次の一撃の先にアイオロスが自ら飛び込むのを待っているのだった。
「シュラ……!」
だとしても今、シュラの望む道を進んでやる訳にはいかないのだった。
避けはしない――元より命など惜しくはない。
腕の一本ならばくれてやる。女神を抱くこの右腕だけあればいい。
左腕を犠牲にシュラの動揺を誘い隙を作り、アテナを連れて聖域を脱する。
僅かに身を引いて衝撃を受けるつもりが、出血のあまり、ほんの一瞬視界が明滅した。
「――ッ!?」
「アイオロスッ!?」
腿のあたりから肩にかけて。
文字どおり光の速さで駆け抜けた一閃が、アイオロスの身につけた傷はあまりに大きく。
与えた側も、受けた側も。それが致命傷になるとすぐさま理解した。
「アイオロス、なんでっ……どうしてッ!?」
あの日、己が所業の意味を理解せずに茫洋としていた瞳が、今は絶望に染まっていた。
皮肉にも凶刃を振るった側の方が酷く混乱して、取り乱してもう一人に駆け寄る。
そのあまりに無防備な身体に、アイオロスは最期の力で拳を叩き込んだ。
白金に似た輝きを放つ聖衣を、己の血がべっとりと汚しているのを別れ際に苦く一瞥して。
「待……て……! 行、くな……アイ……オロスっ……アイオロスっ……!」
広がる闇にひらりと身を躍らせて、“逆賊”と赤子は姿を消した。
待って、行かないで!と叫んだ言葉の幼さと必死さに振り返る余裕さえなかった。
「っは、あ、ぐぅッ……!」
最早立ち上がる気力さえなかった。
まさしく命が、今この身から流れ落ちて行っているのがわかる。
口内にせり上がって来た血を吐き捨てて、アイオロスは冷たい岩に身体を預けた。
――アイオリア。
――シュラ。
聖域で生まれ聖域で育ったアイオロスは、本当はあまりにも世界というものを知らなくて。
そんな自分に護りたい“世界”の欠片を教えてくれた子供たち。
二人とともに過ごした日々が走馬灯のように駆け廻る。
いつしか垂れこめた雲も晴れ、頭上には眩い星々が、いくつもの星座が煌めいていた。
いつかシュラと見た山羊座を思い出す。
この星は、そして宇宙はこんなにも広く大きい。
けれどその広大な世界とは、無数の命が、“アイオロスやアイオリアやシュラ”が、お互いを想い支え合う誰かと誰かが寄り添いあってできているものなのだと知った。
なればこそ、アイオロスはそれに殉じることを悔いも恐れもしなかった。
「女神よ……」
初老の東洋人は突然現れた少年と乳飲み子に酷く狼狽していたようだったが、それでも懸命の訴えに耳を傾け、赤子を受け取り深く頷いてくれた。
あれは信頼に足る人物だとアイオロスの直感が告げている。
最後に見た戦女神は、口元に頬笑みを湛え眠っていた。
大丈夫だ、この空は晴れている。
ただほんの少しだけ、どうしても心を痛ませるのは――。
「ん、う……っう、」
瞼が重い。身体の節々が痛むけれど、取り分け右腕などは痺れて一切の感覚がなくなっていた。
「……あ、」
自然に、清らかな水面に一葉の葉が浮かぶようにとは言えない。
泥濘の中をもがき、水草や泥に足を取られながら懸命に前に進むように、己の意識を引き摺り上げていく。
どうにか瞼を持ち上げると、霞む視界には見慣れた天井が広がっていた。
視線を右に動かせば、まさに腕の上に突っ伏して旧友が爆睡している。
「あ……っ、」
アフロディーテ、とその名を呼んだつもりだったのに、乾き切った喉からは掠れた息しか漏れてこない。
次いで飛び出したのは激しい空咳で、眠っていた友が弾かれたように顔を上げた。
「シュラ!?」
よかった、気が付いたんだな。全くどれだけ眠っていたら気が済むんだ。入れ替わり立ち代わり色んな人が見舞いに来たが君と来たら目覚める気配すら見せないのだから情けない。さあ、とにかく水でも飲んで……。
別段寡黙ということもないが、さりとて不必要なことをべらべら話すわけでもない。
そんなアフロディーテが矢継ぎ早に捲し立てコップと水差しを押し付けてくるのを見て、シュラは知らず呆けた顔を晒していた。
どうやらこの個人主義気取りの腐れ縁には、随分と心配をかけたらしい。
ぼんやりとした反応を咎められて、一発頭を叩かれる。
いつの間にかアフロディーテの後ろに立っていたのは、もう一人の旧友だった。
「起きたのかよ……ったく、手間かけさせやがって」
顔を歪めて吐き捨てる声には優しさや労わりの欠片もない。
けれど言葉とは裏腹に、ついと逸らされた視線には隠しきれない安堵が滲んでいて。
この露悪趣味の現実主義者にも、やっぱり心配をかけていたのだとわかる。
心配を隠すように饒舌になるアフロディーテ。
不安を見せぬように悪辣になるデスマスク。
零れ落ちたのは詫びでも何かを問う言葉でもなかった。
「お前たちは、本当にあの頃から変わらないんだな」
「変わらないのは君だって同じさ、シュラ」
「お前が一番成長してねーんだっての……」
二人が顔を見合わせてめいめいの言葉で答える。
一番大切な記憶を封じ込めてまで、女神の聖闘士でいようとした、愚直で不器用な友に伝えたいことはたくさんあるけれど。
「……おかえり」
優しく微笑んで、或いはあらぬ方を向いて。
今何より口にしたいのは、間違いなくその一言だった。
見送りを固辞した二人をそれでもプライベートスペースの出口までは見送って、それから一人踵を返す。
デスマスクの小宇宙は下へ、アフロディーテのものは上へと静かに遠ざかっていく。
破れかぶれなりにも平静を装っていられたのはそこまでだった。
足の力が急速に萎えて、ほとんど倒れ込むようにしてシュラはソファに身を沈めた。
額を押さえる右手がみっともないほどに震えている。
強烈な色彩を伴った過去が脳内に渦巻いていて、その激しさのあまり吐き気がした。
「そう、か……俺は、」
わかっていたのか。
気高き黄金の射手は逆賊などではないと。
わかって、いたのに。
己の聖剣は真なる英雄を引き裂き、山羊座は13年間も偽りの英雄として聖域に君臨してきた。
「アイオロス……!」
彼に拾われ、救われた身でありながら、その思い出を振り捨てたまま。
それが何よりも耐え難かった。
いつまでそうしていたのだろう。
不意に自宮の入口に感じた小宇宙に、シュラは弾かれたように顔を上げた。
迷いない足音が近づいてくるのに、身体が動かない。
出迎えることも、逃げ出すことさえできずにシュラが戸惑っているうちに、足音の持ち主は扉の前で足を止めた。
「シュラ……」
遠慮がちなノックを一つ。からからに乾いた口内に舌が張り付いて声一つ出せないシュラが答えるより前に、扉はゆっくりと開けられた。
果たしてそこには、今一番会いたくて会いたくない人が立っていた。
「……アイ、オロス、」
絞り出した声はみっともないほどに震えていて、冷えた磨羯宮に響いて消える。
改めて見据えた人は何も変わってなどいなかった。
短い栗色の髪は緩い癖がついていて柔らかそう。
意志の強い目はけれど、敵前以外では驚くほど柔和な光を湛えている。
筋肉のついた逞しい身体と、黄金の弓を引き絞るしなやかで力強い腕。
「シュラ」
己の名を紡ぐ声が、低くそっと耳朶を擽る。
取り戻した優しくて哀しい記憶の中の彼と寸分違わぬ姿。
だからそのかんばせがこれほどにも近く見えるのは、自分が成長したからなのだった。
この人を一人、時の中に磔にして。
「目覚めたと聞いて……お前に、会いに来た」
「っ……すまんが、俺は貴方に、」
「シュラ!」
呼ばれたところで、逸らした顔をそちらに向けられない。
どんな顔をして向き合えばいい? 今になって何を言えばいい?
何もかも、命と未来という最もかけがえのないものをこの手で奪っておきながら、共に過ごした記憶を斬り捨て平然と生きてきた己が。
アイオロスに、何を。
「シュラ、俺は……」
「触るなッ!!」
アイオロスの手が右腕に触れて。
自分でも驚くほどに大きな声を出して、シュラは反射的にその手を振り払っていた。
「っ、あ……!」
小宇宙を込めてなどいないから、斬れはしない。
それでも痛みと驚きに顔を歪めたアイオロスの姿に、喉を締め上げられたような心地がした。
目に見える世界が一段暗くなる。身体が勝手にがくがくと震え、立っていることさえできない。
戦慄く手で首を押さえ膝をついたシュラに、アイオロスは慌てて駆け寄った。
「シュラ、どうした!?」
「さ、わ……な、」
どこまでも優しく触れる手を拒みたいのに――拒まなければならないのに、シュラにはそれがどうしてもできない。
いよいよ一際世界が色を失って意識が掻き消えそうになったとき、その場に割って入ったのは隣宮の住人だった。
「か、カミュ……?」
「……アイオロス、ここは貴方が引くべきだ」
なぜここに、と視線だけで問いかければ、水瓶座の聖闘士は厳しい顔つきで手短に告げた。
肩を貸そうと伸ばされた手が酷く冷たく感じられ、アイオロスは知らず身を竦ませる。
無理やりにシュラと引き剥がされ、腕を強く惹かれてたたらを踏む。
「これほど乱れた小宇宙に気付かぬわけがあるまい。間もなくアフロディーテが来る。シュラは彼に任せればいい」
「だ、だが、」
「アイオロス!!」
声を荒げたカミュに睨み据えられる。
思わず口を噤んでしまったアイオロスを半ば引き摺るようにして、水瓶座の同胞は歩き出してしまった。
アイオロスを人馬宮へ連れて行き、熱い身体を寝台に横たえてやってやっと、カミュは深く息を吐いた。
傍らに膝をついて深く詫びる。
「先ほどは手荒な真似をしてすまなかった」
「いや、俺のほうこそ頭に血が上っていた……すまん」
熱が再び上がっていたのさえ気がつかなかったなんて。
アイオロスの詫びの言葉を聞いて、カミュの表情の強張りが少しばかりとれた。
「……何があったのかは聞くまい。だがシュラのあの様子を見れば、貴方が取り乱したのも無理はないとわかる」
「カミュ……」
汗ばむ額や首筋に手をやり顔を顰める水瓶座の青年は随分と大人びて見えて、アイオロスは不意に言葉にできぬ寂寞に襲われた。
皆、自分を置いて大人になってしまったのだ。
7歳のカミュや弟も、10歳だったシュラも、どこを探したってどこにもいない。
ただ自分だけが14のまま、何一つとして変わらない。
けれどそんな不安と孤独に襲われたのは一瞬だった。
「やはり熱が上がっているな……」
眉尻を下げこめかみを抑える仕草――それは7歳の少年には酷くミスマッチでおかしかったのだが、20歳の青年がすると随分としっくりとくるのだった――は何も変わっておらず、アイオロスは小さく吹き出していた。
いきなり己の行動を笑われ、カミュが眉を吊り上げる。
「その癖。随分と板に着くようになったじゃないか」
「……軽口が叩けるようなら心配はいらないな」
むすっと唇を尖らせるのもまるで同じ。ちっともクールじゃない。
でもそれは、アイオロスに安堵を与えるもので。
「安心したんだ。お前の変わらないところを見て」
「褒められているのか貶されているのかわからないが……貴方が安心したと言うならば私は喜ぶべきなのだろうな」
「ほら、その言い方も昔からそのままだ」
「むぅ……」
デスマスクに“お前は変わらない”なんて言ったのはついこの間のことなのに。
勝手に不安になっていたのは自分の方だったらしい。
くぁ、と一つ欠伸して、アイオロスはとろりと笑った。
急に眠気が襲ってきたのだろう。瞬きを繰り返しては眠気に抗って紡ぐ言葉は酷く拙い。
「なん……だか……いきなり、途方もなく……さびしく、なって、」
「アイオロス、」
「俺だけなにも、変わってない……ひとりぼっち、みたいに、」
「変わったものもあれば変わらないものもあるだろう。だが私たちから貴方への敬愛は変わらない」
貴方は一人じゃない。
それはとても優しくて柔らかい声だった。
先ほどまでの孤独も、戸惑いも、どうしようもない哀しみや苛立ちも何もかも溶けていって、明日へと立ち向かう勇気が湧いてくるような。
「かみゅ……お前、いいやつ、だなぁ……」
片眉を吊り上げたカミュが珍しく軽口を叩けば、アイオロスは眦を下げて微笑んだ。
「酷い人だ。今更気づいたのか」
「ふふ……いいや、13年、前から……知って……」
お前は昔からいい子だったものなぁ、なんて。
最後の一言は殆ど口内に消えてしまったけれど。
「アイオロス……」
額に滲んだ汗を拭う。
やがて静かな寝息を立て始めたアイオロスから視線を外して、カミュは窓の外に目をやった。
雪の向こうに見えるのは隣人の宮。
そこの守護者にも穏やかな眠りよあれと強く願う。
「遅かったな」
友の私室に足を踏み入れれば、香ばしいコーヒーの芳香が一気に広がって鼻腔を擽った。
こんな時間にカフェインか、と眉を顰めたのがわかったらしく、カミュの親友は肩を竦めて笑う。
そうして立ち上がったミロが戸棚から取り出してきたのは、二人の気に入りのブランデーだった。
「たまにはいいだろう。親友と夜通し語らうことがあっても」
「“たまに”とはとても言えないだろう、お前の場合は……」
「お前とは“たまに”しか飲めない」
時にはカノンと、或いはデスマスクやアフロディーテと。またある時はシュラと。ムウやアルデバランと。アイオリアを引き摺ってアテネへ繰り出すかと思えば、聖域に顔を出した老師とまで差し向かいで飲み交わす。
この蟒蛇の酒好きを知らぬものなど聖域にはおらぬというくらいなのに、たまになどと嘯いたミロは上機嫌でボヘミアンガラスのグラスなど並べている。
これでは本当に朝方まで付き合わされることになりそうだ。溜息を一つ漏らしたカミュは、持参したチョコレートをテーブルの上に軽く放った。
広い窓から伝わる冷気が、静かに二人のいる部屋を冷やす。
天蠍宮と人馬宮はほぼ同じ標高のところに位置しているので、雪にけぶる第九の宮の灯りが微かに見えた。
この十三年間、けして見られなかった光景。
何を語るでもなくそれを眺めるカミュに倣って、ミロもまた窓の外に視線を投げる。
「少しだけ……」
「ミロ?」
先に口を開いたのはミロだった。
「少しだけつまらん思い出話をいいか。もう、13年も前のことだが」
磨き上げられた美しいガラスに、金糸を弄ぶ美丈夫が映っている。
太陽の光を一身に受けた見事な金髪。その身に流れるこの神話の地の血と相まって、それは黄金聖闘士の青年を聖域の偶像とならしめていた。
この髪、と。柔らかい蜜色の毛を指先で持ち上げて、語るミロの口調はどこか皮肉気だ。
「神官や従者たちに言われて伸ばしていたが、子供の時分は酷く邪魔だった」
「皆そうだったろう。殊お前は、灌木に引っ掛けたり草やら泥やらで散々に汚したりして、見るに堪えないことが多かったが」
「それで見かねてアイオロスが括ってくれるようになってな」
「ああ、そうだったのか」
いっそ傲慢なほどの苛烈さで輝き、うねる豊かな髪を、幼いミロ自身持て余していた。
あまりに無頓着に外を駆けずり回るせいでぼさぼさの毛玉になりかけていたのが、いつの間にか一本の金の尾になっていたのを思い出す。
あれはアイオロスのおかげだったのか。一人合点がいって頷いているカミュの隣で、ミロがグラスの中身を干した。
手酌もつまらなかろうと二杯目を注いでやれば、僅かに親友の目元が緩んだ。
「天秤宮が無人ということもあってだろうな。アイオロスは俺が寂しくないようよく気を配ってくれていたのだと今ならわかる」
わざわざ髪を梳って括ってくれたり、アイオリアとは喧嘩ばかりしていたにも関わらず夕飯に招いてくれたり――食事の場や風呂、寝所などで諍いを起こすと容赦のない鉄拳が飛んでくることを学んだので、アイオロスの前でつまらぬ揉め事は起こさぬようになった。
「あれはいつのことだったろうか。いつもはアイオロスが天蠍宮まで来てくれることが多かったんだが、俺のほうから人馬宮へ出向いたことがあった」
起き抜けのアイオロスに櫛と結紐とを突き付けて、いつも以上に好き放題に跳ね回った髪を結い上げるように乞う。
寝ぼけ眼を擦ったアイオロスが、軽く笑ってミロの髪に櫛を入れた。
――アイオロス、いるか?
――ああ、入ってこい。
更に上の宮の守護者の声が聞こえたのは、毛量とうねりに悪戦苦闘していたアイオロスが、どうにか髪を纏め上げようとしていたときだった。
――昨日借りた本なんだが、ギリシャ語がよくわからなく、て……。
朝っぱらから生真面目な顔で入ってきたシュラは、けれど目の前に広がる光景に足を止めてしまった。
もふもふに鼻先が突っ込みそうなくらい顔を近づけて、アイオロスは絢爛な金糸と格闘している。
その姿勢もそのままに、彼は平然とシュラに答えて言った。
――ああ、あれには古い言い回しが多いから、難しかったか……よし、できた! どこがわからなかったんだ?
――え、ええと……。
――ありがとう、アイオロス!
行っていいぞ、とぽんぽん背中を叩かれ、その勢いのままにミロは人馬宮を飛び出した。
金の尾の軌跡を追うシュラの視線の意味が理解できたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
――なぁ、ミロ。俺はシュラに何かしただろうか?
顎に手を当てて首を捻るアイオロスに声をかけられたのはいつものように髪を結ってもらったあとだった。
傍から見るだけでも山羊座の少年がこの英雄を慕っているのは明らかだったし、それをアイオロスの方も憎からず思っていたのをミロはよくよく知っていた。
それなのに唐突にそんなことを問いかけられたものだから訳がわからなくて、ミロの方こそ首を傾げる。
ふわふわもふもふの金髪がその動きに合わせ傾いたのを、アイオロスの大きな掌がそっと撫でた。
「それでアイオロスの奴、なんて言ったと思う?」
ちらりと親友を一瞥して尋ねれば、赤毛の友は静かに頭を振る。
再びグラスの中身で唇を湿らせて、ミロは再び口を開いた。
「“シュラが最近、髪を切らせてくれなくなった”」
「……それは、また、」
「傑作だろう」
唇に手の甲を押し当て、カミュが小さく息を漏らす。
ふふ、と優しい声にミロは大いに気をよくして、今度は友人の手土産に手を伸ばした。
珍しいことに、笑いはなかなか引かないようだった。
「それで、お前は何と?」
「切らせてくれんなら洗ってやればいい。風呂にでも連れて行ってやれと、確かそんなことを言った」
「お前にしてはいい回答じゃないか」
「……一言余計だ」
ミロのアドバイスは実に有用だったらしい。
時に弟も交え三人で、時にはシュラと二人きりで。シュラが修行を始めるよりも前に戻ったような特別な時間を、アイオロスはすぐに気に行ったらしい。
こっそりとロクムをいくつか握らせてくれたことまで、ミロは実によく覚えていた。
皆の目を盗んで食べた、あの柔らかい甘味の蕩ける感触までも。
あの日々がいつまでも続くと思っていた、幼い自分の万能感も、愚かさも。
「……シュラの髪がようやく肩についた頃だった」
あの、運命が大きく変わった夜は。
「お前は確か、私の宮に来ていたな。自宮待機の命さえ放り出して」
「お前が俺を離さなかったんだろう! 不安がって、べそかいて」
「逆ではないか、記憶を改竄するのはやめろ」
どっちが、と笑い混じりの悪態を吐いて、ミロは二粒目のチョコレートを口に放り込んむ。
蠍座の青年の記憶が正しければ、蒼褪めた頬に涙さえ零して取り乱している親友を寝かしつけたのは自分の方で、そして天蝎宮への帰り道でミロは足を止めたのだった。
「な、んだよ……これ、」
人馬宮内はめちゃくちゃに踏み荒らされ、酷い有様だった。幼い黄金聖闘士たちが教皇宮に召集される前はこんな惨状は見られなかったから、この僅かな時間に雑兵どもにでもやられたというのか。
唖然と立ち尽くしていたのはほんの数秒。慌てて幾度も足を踏み入れたアイオロスの私室へと駆け込めば、そこはいっそう惨く荒らされていた。
散乱するガラスを注意深く避けて寝台へと歩を進め、ミロはついにへたり込んでしまった。
「アイオロス……」
兄弟が仲睦まじく寄り添った肖像画が執拗なまでに踏み躙られていて。
姿を消したサガに続いてアイオロスまでも皆の前からいなくなってしまうというのか。
ミロ達も、シュラも、血を分けた弟さえも置き去りにして。
「そんなわけないだろ……!!」
不意に血塗れで横たわるアイオロスの変わり果てた姿が脳裏を過って、ミロは激しくかぶりを振った。
柔らかな髪が宙を舞って、あんまり頭を回し過ぎて気分が悪くなって床に手を着く。
そこに落ちた雫を、ミロは見なかったことにした――泣いてしまったら、悪夢が現実に変わってしまうとでもいうように。
だってこんなことありえるはずがない。
アイオロスが逆賊だなんて。そのアイオロスを、まさかシュラが討ちに行くだなんて。
何もかも夢か、それじゃなかったら酷い悪ふざけだ。そう独り言ちてミロはまたもぶんぶんと頑是なく首を振る。
「そう、だ……悪ふざけだ……!」
知らず口に出した夢想は哀しいほどに魅力的で、荒れた人馬宮の真ん中で、乱れ髪もそのままにミロは拳を振り上げた。
消えたサガも、去って行ったムウも、逃げるアイオロスも追うシュラやデスマスクやアフロディーテも、みんなみんなミロたちをからかっているだけ。これほどの大騒動だからには、教皇も一枚噛んでいるに違いない。
今に笑いを堪えた人の悪い顔をして、ぞろぞろと出てきてネタばらし。
「まだ……今なら、スカーレットニードル3発で許してやる……!!」
ムウあたりがしたり顔で何のかんのとありがたい御講評を並べ立ててくるやもしれぬが問答無用で必殺技を叩き込んでやる。シオンが怒ろうと知ったことか。
サガはもちろん、あれで存外生真面目なアイオロスまでこんなことに関与しているとは腹立たしい。
だが二人はきっと首謀者ではないだろう。
サガなどはあの秀麗な面を罪悪感に歪めて詫びてくるはず。もしかしたら、あの品がよい香りがする法衣でミロたちをぎゅうっと抱きしめてくれるかも。
そうしたらサガは、スカーレットニードルなしでもいい。
アイオロスだって、アイオリアまで騙すのは本意ではあるまい。
男らしく潔い謝意を示してきたならばまぁ、アイオリアの判断に委ねよう。
弟が兄を赦すというのならば、この喧嘩友達に免じて不問にしてやる。
「デスマスク、アフロディーテ、」
だがデスマスクには3発などとケチくさいことは言わぬ。
10発くらい叩き込んでも罰は当たらないだろう。何しろ彼は絶対主犯の一味に違いない!
アフロディーテはよくわからない。
だが彼は懐に入れたものには愛情深くて優しいから、意味もなくこんなことをして笑ったりはしないはずなのだ。
それに。
「シュラ……」
少しだけ年嵩の山羊座の聖闘士。勅命を受けたあの先輩の顔は恐ろしいほどに青ざめていた。
それでも彼はわなわなと震える唇を引き結び、白金に輝く聖衣を夜闇に溶け込ませ消えていった。
そんなに長い付き合いではないが分かる。シュラも平然と嘘が吐ける人ではない。
いやしかし、あれが演技だとしたら敵ながらあっぱれだ。もちろんスカーレットニードルは免れないけれど。
「みんな……」
酷い悪ふざけだ。
もしかしたら、日頃悪さをしでかす自分たちにお灸を据えるのが目的か。
だったら反省してやってもいい。
もうアイオリアと喧嘩なんかしない。デスマスクに挑発されてもムキになったりしない。シャカの問答だって笑顔で聞いてやる。
これは酷い悪ふざけなんだ。
そうでなければ、困る。
「今なら、まだ……じゅうよん、はつ、」
いつの間に眠りこんでいたのだろうか。不意に近付いてくる覚えのある小宇宙に、ミロは文字通り飛び起きた。
硬い大理石の床で寝ていた身体は節々まで痛むはずなのだが、とても気にかけてなどいられなかった。
「アイオロスっ!!」
飛び出していって人影に飛びつこうとして、
「え……」
ミロの足はそこに縫い止められた。
噎せ返るような血の臭い。
黄金に輝くはずの聖衣は背筋が凍るほどに紅く、その背には翼など存在しなくて。
山羊座の聖闘士の身体からはおよそ生気というものが感じられず、むしろ彼の身体を濡らす血に残る小宇宙の方がはっきりと存在を主張しているのだった。
「……シュ、ラ……?」
シュラはいきなり歩みを止めて、そして。
そこでミロは言葉を切ってブランデーを呷った。
反らされた喉、美しい喉仏がこくりと上下するのを、カミュは見るともなしに眺めている。
グラスを戻す僅かな音さえ、静かな夜にはやけに響いた。
「アイオロスの血に濡れた右手で、伸びかけの髪をめちゃくちゃに切り刻んでしまった」
「シュラが……」
それはまさしく訣別だったのだろう。
同じく蝋のように蒼褪めたアフロディーテが駆けて来てシュラを教皇宮へ連れて行くまで、ミロは身動ぎ一つできなかった。
「“山羊座は勅命を果たしました” そう壊れたように繰り返しているのを、殴るでも詰るでもできたらよかったのではないかと、長じてから何度も夢に見た」
「ミロ、」
「言わんぞ。お前にだから話したんだ」
先回りして釘を差してくるのが親友らしい。
すっかり空になってしまったグラスに今度は手酌で酒を注いで、まっすぐとミロはカミュを見つめ返す。
本当にこの話を聞きたがっているのはアイオロスだろう……と。言い損ねた言葉がカミュの胸をぐるぐると渦巻いて重かった。
「そのぐらいは俺にだってわかる」
「ならば何故話してやらない」
「アイオロスに今必要なのは、背負い込むことではないと思うが」
主を失くした場所を見るのは辛くて、けれどそこから目を逸らすように窓かけを用意するのも何だか癪で。
どんなに寒かろうと、或いは暑かろうと、依怙地になってこの13年間窓の外を睨み据えていた。
だが視線の先の宮には確かに明かりが灯っている。
その上の宮にだって、今は。
「兄さん……もしかして、休んでいますか? 兄さん……?」
眠りたいのではない。
けれど身を起こしているのも億劫だ。
いまだ熱の引かぬ創痍を持て余して臥せっていたアイオロスは、遠慮がちな弟の声にようよう寝台から上体を起こした。
ふらつく身体を叱咤しつつ、私室の扉を開ける。
「アイオロス、調子はどうだ?」
見舞客の片割れがよっ、と気安く片手を上げる。
その遠慮のない仕草を一睨みしてから、アイオリアは気づかわしげに年下の兄に声をかけた。
「昨晩熱が上がっていたようだとカミュに聞いて……迷惑だったらすぐに帰ります」
「アイオリア、ミロ……よく来てくれたな」
ただ臥せっているよりも、彼らと共にいた方がきっと気持ちも上向く。
弟に肩を借りて寝台に戻り、アイオロスは二人に微笑みかけた。
「おい、毒針で兄さんに食べさせるリンゴを剥くつもりか!?」
「俺はいつもこうしているしカミュにもこうやって食わせてる」
「いったい何を考えてるんだ! ええい貸せ、ナイフはどこだ!」
「お前が剥いたら芯しか残らん!」
ベッドの傍に腰かけたと思えばリンゴを巡って大人げない応酬を繰り広げている。
記憶の中の小さな弟も、ミロとだけはやはりこうして喧嘩をしていた。
随分と大きく、そして立派に成長してなお、変わらぬものがあることが嬉しかった。
逆賊の弟として蔑まれたであろうアイオリアがこんなに無遠慮にやりあえるような相手で居続けてくれたミロに、アイオロスは心中で深く感謝していた。
「そのままでいい。一つくれ」
「あ、兄さん……」
籠に盛られた艶やかなものを一つ取って、簡単に上衣で擦る。
そのまま噛り付けば甘酸っぱい香気が立ち上り口内いっぱいに広がった。
喉を滑り落ちていく果汁が乾いた身体に染みる。
あっと言う間に一つを食べ尽くし二個目を咀嚼し始めたアイオロスに、不意にミロが手を伸ばした。
「ミロ……?」
「おいミロ! 兄さんに何を、」
「何って……見ればわかるだろう。頭を撫でている」
汗ばんだ癖っ毛に指を絡め、わしゃわしゃと撫で繰り回す手は遠慮がないが存外優しい。
それがちっとも不快ではないことに驚いて、アイオロスはしばし呆けた顔を晒していた。
「そうしていると年齢相応にガキくさい」
やがて満足した蠍座の右手がゆっくりと離れていっても、乱れた髪を直すのも忘れて兄と弟は戸惑っていた。
自分まで見舞いのリンゴを齧り始めたミロは突き放したように語るけれど、その物言いはすっかり年長者のそれに変わっていた。
「弟であるアイオリアや随分とお前を慕っていたシュラは勿論、カミュやデスマスク、アフロディーテにサガ……アテナ様までもがお前を大人扱いするのがそもそもおかしい」
さり気なく不敬なことを言い放って、芯だけになったリンゴを屑入れに放る。
その物言いを兄弟が咎める間もなく、ミロは大きく身を乗り出した。
ずい、と間近でまじまじと見つめられると、流石にアイオロスも反応に困る。
困惑に揺れる空色の瞳を真っすぐに見つめ、ミロはおもむろに口を開いた
「お前は誇り高き女神の聖闘士で、仁智勇を兼ね備えた聖闘士の鑑。まさに教皇に相応しい男だ」
「あ、りがとう……?」
「だがほんの14のガキでもある。違うか?」
「は? あ、ああ……」
否定はできない。
だがいきなりそんなことを言われてもどう返したものかわからなくて、食べかけのリンゴを持ったままアイオロスは小首を傾げミロを見返すばかりだった。
「俺からしたらお前も青銅の子供たちもそう変わらんよ」
「なっ……!」
まさかミロにそんなことを言われてしまうなんて!と驚いたのは言われた当人だけではなかったらしい。
むしろアイオリアのほうが愕然として同い年の友人のことを見つめていた。
そんな視線は気にも留めずに、ミロは遠慮なく二個目のリンゴに手を伸ばす。
しゃりしゃりと果実が咀嚼されている音だけが部屋に広がって、誰も口を利かない。
二つ目をあっさり芯だけにしたミロが改めてアイオロスに向き直るまで、そこには奇妙な沈黙が落ちていた。
アイオロス。呼び掛ける声は激情家と称されることの多い青年のものとは思えぬほどに凪いでいる。
「今になって“お前ら”に何があったのか俺たちは知らん」
独立独歩を地で行くこの青年にまで、そんな風に言及させてしまうなんて。
「俺は所詮部外者だからな。いちいち余計なお膳立てをするつもりはないが」
そこで一度言葉を切って、ミロは長い金糸を払った。
窓から差し込む陽光を弾き、それはきらきらと今日も人目を引いている。
「お前たちは一人ではないし、全てを背負うべきでもない……必要なのは分かち合うことだと俺は思う」
「……ありがとう」
真摯に頭を下げられて少し照れが入ったのか、唐突に蠍座の青年は立ち上がった。
「もう行くのか?」
引き止めの言葉に軽く笑って腕を上げて。
「まもなくカミュがシベリアへ帰るのでな。買い出しに付き合う約束をしている」
豪奢な金髪が美しい軌跡を描き、そして扉の向こうへ消えた。
再び宮内には沈黙が静かに広がって、だがそれは決して不快なものではない。
次に言葉を紡いだのは弟の方だった。
「兄さん、俺では貴方の懊悩を共に背負うのに不足ですか」
「何をいきなり」
「ミロも自分は部外者だと言っていたし、あいつはそれでいいのかもしれない。でも俺は嫌だ……! 何も知らないまま喪うのも、護られるだけの自分でいるのも!」
傷に障らぬようにと気は遣っているものの、それでも肩を掴む手には随分と力が籠っている。
腕の中にすっぽりと抱き込めた子供はもういない。対等の男となった弟を改めてまじまじと見て、アイオロスは口を開いた。
大切なのは分かち合うこと、と。ミロの言葉がまだ耳に残っていた。
「どこから話したらいいものだろう……」
「全部だ。全部話してくれ」
既視感を覚えるやりとりの後、アイオロスは考え考え話し出した。
長い話が終わるころには、冬のせっかちな太陽は随分と低くまで降りてきていた。
アイオリアの最初の一言は兄にとっては思いがけないもの。
「……兄さんは、シュラがここへ来た日のこと、よく覚えているんですね」
「え? あぁ、もちろん……」
「俺はそれが少し羨ましい」
少しだけですよ、そう冗談めかして微笑を浮かべた弟が、水を注いで差し出す。
礼を言った兄がコップの中身を一気に干すのを見つめながら、アイオリアは笑みを含んだ声で続ける。
「俺にとってシュラは物心ついたときからずっと傍にいる子供で、だから最初は随分と不思議に思っていた気がします」
「不思議?」
「何故俺と兄さんは名前も見た目もこんなに似ているのに、シュラだけまるで違うのだろう……なんて」
「そうだったのか!?」
確かに弟に物心つく前からずっと近くにいたシュラとアイオリアだけれど、まさかそんな勘違いをしているとは思わなかった。
絶句している兄に照れの混じった苦笑を見せて、アイオリアは小さくかぶりを振った。
ようやっと聞き慣れてきた弟の声。春の陽だまりの穏やさで呟きが続く。
「いや、いつしかそんな疑問も忘れてしまっていた」
窓から差し込む陽光に目を眇めて。
「シュラと共にいるのが当たり前になっていたから……血が繋がっているとかいないとか、そんなことは気にならなくなるくらいに」
「そう……か、」
あの頃からずっと瓜二つと言われていた獅子座と射手座の兄弟だけれど、いつしか年嵩になってしまった弟は時折こんな風に、兄よりずっと老成した顔で笑うようになった。
「シュラを憎んだこともあった……兄さん、貴方を憎んだことも。そうすることでしか俺が俺として立っていられなかったから」
誰もアイオロスの罪とは言うまい。だがこれは間違いなくあの13年間が齎したもので、あの日兄としての自分も友としての自分も捨てて聖闘士として死ぬことを選んだアイオロスは、アイオリアに落ちる影を見ると心臓を抉られるような思いさえする。
咎められて詰られて、そうして楽になりたいと思う己の弱さを、アイオリアはきっと理解している。
だからこそ、弟から僅かにも視線を逸らしたくない。
アイオリアもまた兄の瞳を真っ直ぐに見つめ返して、静かな声で続けるのだった。
「……でも、そんな必要なんてなかった。貴方もシュラも、何者にも恥じることない女神の聖闘士だったのだから」
「そう……だろうか」
気弱な一言が零れて、弟に優しく苦笑される。頭を撫でるのはいくらなんでも気恥かしさが先に立つようだけれど、それでもぐっと距離を詰めたアイオリアが、寝台の縁に腰掛けた。
この弟が、アイオリアが苦節と受難の時を越えて誇り高き獅子へと成長してくれたことにアイオロスは改めて深く感謝していた。
こればかりは神の御業でも奇跡でもない。アイオリア自身の強さと高潔さと弛まぬ努力によってなされたことだった。
兄さん、と。あの日一度兄であることを辞め、今では年下になってしまったアイオロスを、アイオリアは変わらずにそう呼び続けてくれる。
「ごめんなさい……ありがとう」
「アイオリア……」
数え切れないほどの言葉がたった二言の中に消えて、柔らかい静けさが二人きりの部屋に広がっていった。
少しばかり執務の手伝いをすると約束していたので、人馬宮を辞してアイオリアは教皇宮へと向かっていた。
道すがら、人馬宮での道中で友が呟いた言葉を反芻する。
――お前たち二人でも、ましてや青銅の子供たちやアテナ様でもない。シュラを赦せない者があるとしたらそれは他でもないシュラ自身だ。
そして兄の寝室での彼の言葉も。
必要なのは、分かち合うこと。
「兄さん……シュラ……」
来し方を振り返り、二人の守護宮に視線を落とす。
祈るように一度だけ目を閉じてから、アイオリアは再び歩き始めた。
その巨躯の前では、青年の身体は――人となりや強さを知れど――随分と細く儚く見える。
磨羯宮を訪れたアルデバランとシャカを私室に通しながら、シュラの唇からは真っ当な感想が一つ零れ落ちた。
「なかなか珍しい取り合わせだな」
「はは、俺は目付役と言ったところだ」
朗らかで豪快な笑い声。
首を傾げるシュラの目の前に、ずい、と大きな箱が突き出された。
反射的に受け取れば、威丈高でも高圧的でもないのにどこか偉そうな声でシャカが告げた。
「ムウとシオンからだ」
「ムウ、と……シオン?」
牡羊座の師弟は今、ジャミールで聖衣の修復にかかりきりのはず。
そんな彼らから何故、シャカ経由で甘味と思しきこの箱はやって来たのだろうか。
首を傾げたシュラに説明してやる気はないらしい。
勝手に宮内に上がり込んだシャカに苦笑して、仔細を説明してくれたのはアルデバランのほうだった。
「なるほどな……」
つまるところ、こういう話だ。
シュラの意識が戻らなかった一週間の間に、見舞いや諸々の手伝い――なにしろ補佐のみならず現職の教皇も寝込んでいたので――にムウが聖域へ派遣されてきた。
十二宮での戦いの後、聖戦に備えるべく生き残った聖闘士たちを取り纏めていたのはまさにこの牡羊座の聖闘士で。
ばたばたと仕事の手伝いをして慌ただしく帰って行った彼だったが、律儀にも見舞いの品を持って来ることは忘れなかった。
常ならばアルデバランにでも託すのだけれど、生憎この牡牛座の聖闘士はそのとき任務で不在。
「それでシャカが預かっていたのか……」
「そして俺に後から話がきたというわけだ」
存外食い意地が張っているシャカが、預かり物をちゃんとシュラに届けるか見届けるように、と。
だからこそ処女宮に引っ込んでしまうこともなく、こうして我が物顔で磨羯宮のソファに腰掛けているのだろう。
「食っていくか」
「君一人では持て余すだろう」
返す言葉は尊大なのに、口元が僅かに持ち上がるのが隠せていない。
昔からシャカは大人びた子どもで、長じた今となっては不遜ささえ感じさせる人間になった。
だが彼は本当にごく稀に、こうしてごく普通の青年じみた表情を浮かべることがあった。
好きなんだなこれ、と声に出して指摘はしない。
飲み物を持ってこようと厨房へ向かうシュラに、牡牛座の青年が手伝いに続いた。
「お前たち、こんなに甘いものをよくもまあバクバクと……」
呆れているアルデバランは、自分で淹れた紅茶さえ熱くて持て余している。
手持ち無沙汰の彼の分もと言わんばかりの速さでシャカが焼き菓子を口に放り込むので、つられてシュラの食べるスピードまで上がる。
結局甘いものが苦手で猫舌の牡牛座の青年は、小さいカップを片手に友人を見守るばかり。
「傷はもういいのか」
「ああ……迷惑をかけた」
「迷惑だなどと思わんさ。ただ、心配はした。俺もムウもシャカも、ミロもカミュもアイオリアも……皆」
「すまん、」
「詫びてくれるな! いずれにせよお前とこうやって話ができて嬉しい」
豪放磊落を絵に描いたような質の青年が、ようやく冷めてきた紅茶に口を付けてから笑う。
「共にこの十二宮を守護し戦う身だ。もっと早くそうしたいと思っていたのだ」
「アルデバラン」
彼がここへ連れられて来たのは年若い黄金聖闘士の中で最も遅い。
この青年が聖衣を賜ったのをきっかけにシュラはシオンに任務を乞うたのだった。
その後すぐにアイオロスとシュラが負傷して、それが治るか治らないかのころにあの一件があり、その後のシュラはあの有様だったから、こうして顔を突き合わせて語らう機会などないに等しかった。
それより少し前に来ていたシャカも早々に自宮に引っ込んでアイオロスやサガを困惑させるような子供だったから、やはりシュラは交流がなかった。
デスマスクやアフロディーテの好きな物や嫌いな物なら並べ立てて両手両足の指の数では利かぬほどに挙げられるのに、甘味を貪るシャカのことも反対にそれを持て余すアルデバランのことも、これまでシュラは知らなかった。
自分の口にはほとんど入らないものがどんどん減っていくのを見守る牡牛座の青年の目はどこまでも穏やかで優しい――実はロドリオ村の少女たちに一番熱い視線を投げかけられているのはこのアルデバランなのだと、いつだかにデスマスクが言っていた。
その隣に腰掛けているのは乙女座。聖闘士の標準から見たらだいぶ細い身体のどこにそんな量が、と思っているのはシュラばかりらしく、アルデバランにとってはこの健啖家の気持ちのいい食べっぷりは見慣れたもののよう。
頬についたくずを同い年の友人に取らせて平然としている様を見ると、最も神に近い男なんて呼び名が裸足で逃げ出しそうで、シュラは知らず頬が緩んでいる自分に気づいたのだった。
菓子の八割がたを胃に収めてしまって、ようやく人心地ついたかのようにシャカが満足げに息を吐く。
空のカップに甲斐甲斐しく紅茶を注いでやるアルデバランの手つきがとても丁寧で優しくて、何故だかシュラの目を引いた。
ポットの中で少し冷め始めていたのであろう紅茶にティースプーン三杯分もの紅茶を入れて、シャカは一息にそれを乾した。
そして処女宮へと帰るのだろう。特に礼や辞去の挨拶を述べるでもなく、おもむろに立ち上がる。
「……シュラ」
不意にこの乙女座の青年が口を開いたのはそのときだった。
続く言葉は思いもかけないもの。
「女神にこの生を賜ってすぐ君は言ったな。私にしたことを後悔してはいない、誰に逆賊と謗られようと構いはしないと」
「シャカ?」
「それでいい。その程度の覚悟もなく禁忌の技を放っていたのだとしたら五感を奪い去ってもまだ足りない」
もっとも敢えて非難を受けようとした私のときとは状況が違うのかもしれないが。そう呟いたシャカは、それから一瞬だけシュラに向き直った。
目が覚めるような深い青に向き合うのは二回目だ。
アイオロスの瞳は果てのない蒼穹によく喩えられるけれど、シャカのその色は花に似ていた。
命には限りがあると知り、ただその時に蕾を綻ばせ開く一輪の花。
哀しいほどの清廉なひかりが、シュラの心の奥底に届く。
「だが、今更赦されたくないというのは、結局君の弱さではないのかね」
「おい、シャカ、」
慌てて窘めるようにアルデバランが口を開いたのを聞きもせず、さっさと勝手に歩を進める。
その薄い背がぴんと伸びていて美しくて、シュラは何も言えなかった。
「彼は初めから、君を憎んでも怨んでもいないというのに」
僅かに開かれた扉から彼はするりと出て行って、パタンと小さな音だけが残される。
相変わらず捉えどころがない青年は、一体何をどこまで知っているのか本当にわからない。
そんな友人の代わりに何故かアルデバランが困ったように眉根を寄せて、小さく詫びの言葉を入れた。
「すまん、気を悪くしたか」
「そんなことは……」
「ならばいいのだが」
すっかり温くなってしまったであろう紅茶にようやく少し口をつけて、それから細く息を吐いて。
豪胆な戦士であるこの男はけれど、こういった場面では乙女座の彼ほどには無遠慮になれないらしい。
ままごと道具のようにちんまりと見えるカップを置いて、それからようやく、アルデバランはシュラを見つめた。
「13年前。お前が血塗れのぼろぼろで任務から帰還したときは驚いた」
「は?」
「慌てて担いで巨蟹宮に運んでいったが、俺の方が生きた心地がしなかったぞ」
「あ、ああ……」
一体どの任務だ、と首を傾げたのは一瞬。続いた言葉にシュラは軽く頷いて、遠い過日に思いを馳せた。
あの日は、何もかも思い出した今でもどこか遠い。
全て自分が経験したことだとわかっているのに、スクリーン越しの活劇のようにどこか現実味がないのだ。
何となしに右手に視線を落としたシュラに、アルデバランが更に続ける。
「今のシュラは……あの任務を受ける少し前のような顔をしている」
どんな顔だ、と思わず顔に手をやったシュラの仕草に苦笑して。
「付き合いの薄い俺でさえわかるのだから、相当だと思うが」
そんな風に言われてしまっては、ますますシュラは戸惑うしかない。
今度はコーヒーでも淹れないか、と立ち上がった青年の広い背中を視線で追って、けれど何も言えなかった。
磨羯宮は聖域の中ではかなり標高が高いところに位置しているから、窓から外を見れば随分と遠くまで見渡せる。
ロドリオ村の灯りさえ数えられそうなところに住んでいる金牛宮の守護者には、その景色が少しばかり珍しい。
自分の中の想いを探すように少しばかり黙り込んで、アルデバランはただ、抜けるような空を見ていた。
シュラは彼の一言一言を反芻しながら、その横顔をぼんやりと眺める。
ようやく紡がれた言葉は思いがけないものだった。
「俺たちは女神の聖闘士だ。ひとたびこの地上に危機が訪れれば、命を惜しんでなどいられない」
「ああ、わかっている」
「だから時間はいくらでもある、などとは言えんが……それでも、お前たちは今向き合うことができる」
「……アルデバラン、」
歯切れ悪く答えるシュラとは違い、アルデバランは徐々に饒舌になっていった。
「女神から賜ったこの命だ。何も考えずに地上の愛と平和のために捧げるのではなく、俺たちは俺たちという個々の人生に、向き合って生きなければならないのではないだろうか」
「俺たちという……人生……?」
それは思いがけない言葉だった。
戦って戦って、いつかその果てにどこかの戦場で命尽きる。
授けられた名が、賜った聖衣が、この身に宿りし力が、それをシュラの宿命たらしめている。
任務であるとはいえ、人々に害なすものも或いはそうでないものも、多くの命を屠ってきた自分が、望むように生きて死ねるなどと、今更。
ますます口が重くなった同胞に視線を投げて、気持ちはわかるがと続ける声は穏やかだった。
「だが俺は思うのだ。愛も魂の安寧も知らぬ者が、何故それを護るために戦えるのかと」
「そう、だろうか……」
眉根を寄せてこちらを見つめ返すシュラには、まだ道に迷う者の不安と戸惑いが見てとれる。
これは少しばかり卑怯なやり方だが仕方がない。
「アイオロスだってそうだ」
「……は?」
「教皇こそ、愛の何たるかを知らねば皆を導けないではないか」
言葉に詰まったシュラは、何を考えているのだろう。
余り追い詰めるようなことを言うのはかわいそうかもしれないけれど。
関係がないなどと言ってくれるなよ、と釘を刺す。
「お前が一人で悩もうが苦しもうがお前の勝手だと、そう言ってしまえるアイオロスではないのはお前が一番知っているはずだ」
「そ、れは……」
「全てが13年前のあの日に始まっているのならば、尚更。独りよがりな罪悪感など押し殺すべきだとお前は思っているのかもしれんが、全てを打ち明ける勇気も時には必要なのではないか」
今のシュラが自分のために動くことができないというのならばそれでも構わない。
自分には理由を押し付けることくらいしかできないが、それでもシュラに伝えた思いは全て本心からのもの。
「……アルデバラン」
「ん?」
「ありがとう」
「俺は俺が言いたいことを言っただけだが……それがお前にとって何か役に立つものだったとしたら、これほど嬉しいことはないな」
コーヒーの香りが室内に優しく漂っている。
黒く揺れる水面にたらりと白を少し零して、アルデバランは今日一番の笑顔を見せた。
「アイオロス……」
厚い雲からは今にも大粒の雫か結晶が零れ始めそうな、誕生日前夜。
招かれざる客人を前に、シュラは磨羯宮の入口で立ち尽くす。
名を呼ばれた人の方が眉尻を下げて笑って、ゆるりと右手を持ち上げた。
「シュラ」
中に入っても?と問う声はやはりいつものそれに比べると硬い。
油を点し忘れた機械のような頷きの後、シュラは静かに踵を返した。
静まり返った宮内に足音が二つ、広がりきるよりも前に冷たい空気の中に消える。
最も奥まった私室にアイオロスを招き入れて、シュラは彼に向き直った。
過ぎたことを振り返り悔やむためにこの命があるのではない。
けれど過ごしてきた日々を乗り越えぬことには、本当の意味で進んでいくことはできない。
互いにも、過去にも、己の過ちにも――全てに向き合うと覚悟していながらも、うまい切り出し方が浮かんでこなくて、言葉は砂のように掌から零れ落ちていく。
がたん!と突風が窓を揺らす。反射的に顔を見合わせて、そのまま視線を絡み合わせる。
このもどかしさは二人同じなのだと気付いてしまえば、ようやく息ができる気がした。
時が来たのだ。
夜を越え、もう一度生まれ直すために。
「……話を。話をしよう、シュラ」
ついに動いたのはアイオロスだった。
二人並んで寝台に腰掛け、開いた両の手でシュラの右手を包み込む。
見てわかるほどにはっきりと全身を強張らせたシュラは、それでもアイオロスを振り払おうとはしなかった。
「……お前は、何を恐れている?」
「っ、何も……恐れてなど、」
虚勢さえ張り切らない弱い反駁が途切れて、結局シュラは最後まで言い切ることができず、そのまま一度口を噤んだ。
「……恐れているのは、貴方も同じではないのか」
「ふふ……そうかもしれない」
苦い笑い。アイオロスに触れられたシュラの右手が震えているのだとしたら、山羊座の青年に触れる若き教皇の手もまた、かすかな震えを隠せてなどいないのだった。
次に口を開いたのはシュラだった。
「……俺は、貴方から――貴方が真に正しき女神の聖闘士だと知りながら――命を、13年もの時を奪った」
もう逃げないと決めたのに、改めてその事実を言葉にすると喉が締めつけられて、息がうまく吸えなくなる。
「だがシュラ、お前は、」
「それだけではない! アイオリアからはただ一人の兄を奪い、貴方を慕う他の幼い聖闘士たちからも、聖戦を控え混迷する聖域からも貴方という存在を奪ったのだ!」
「……シュラ、」
先ほどまでの沈黙が嘘のように、溢れてくるものが止まらなくなる。
弱々しかった声はいつしか悲痛な叫びに変わる。
「俺は、貴方のことをっ、」
「シュラ!!」
「……ッ!?」
気付けばアイオロスの腕の中に閉じ込められていた。
温かい手に繰り返し背中を擦られて、自分の呼吸が酷く浅くなっていたとわかる。
耳朶を擽る吐息に合わせてゆっくりと何度か息を吐いて、やっとまともな呼吸を取り戻して。
いつの間にか目の前の人に腕を回して縋るようにその服を握りしめていたことに気がつき、シュラは僅かに身を捩らせた。
そんな小さな抵抗はあっさりと封じ込められて、腕の力はますます強くなる。
いよいよ痛みさえ感じ、シュラは困惑に満ちた声でその人の名前を唇に乗せた。
「……アイオロス?」
「シュラ、は……」
「え?」
この人のものとは思えないくらい、みっともなく掠れている囁き声。
「シュラは、この13年間、幸せだったか……?」
「何を……言って、」
思いがけないそんな問いかけの意味がシュラは本気で理解できなくて幾度か瞬く。
そのかんばせをまじまじ見返して、それからアイオロスは静かに続けた。
「……ならば、俺の死はお前からもまた奪ったということだな。温かく幸せな子供時代を」
「なッ!? 何を言っているんだ!」
思わず優しい腕から逃れ、その人を睨むように見る。
悲痛が滲む蒼は、あの晩のそれに酷く似ていた。
「俺が……俺が貴方を殺したんだぞ!」
「俺は今ここにいるだろう!」
生きている、シュラの前にいる。
右手を掴まれて左胸に押し当てられて、シュラは小さく息を呑んだ。
アイオロスの手は酷く熱く、触れた場所は早鐘を打っている。
それは間違いなく目の前の人が生きているという証左であるのだけれど、何故か背筋が凍るほどに恐ろしい。
女神の大いなる御業はしかし、それほどの奇跡でもなければ決して取り戻せない罪の存在をも逆説的に示しているから。
「そ、れでも……俺が貴方から13年もの時を奪ったという事実は変わらない……!」
「シュラ……!」
アイオロスの手に力が籠り、悔んだけれど遅かった。
向き合うと決めたのに、この人を前にすると感傷的な言葉ばかりが零れ落ちて、もどかしくて苦しい。
世界で一番シュラの近くにいる人を、この地上の誰よりも遠く感じる。
重い溜息と共にアイオロスが呟いたのはそのときだった。
「……俺は、やはり間違えたのだな」
――アイオロスはいま、しあわせか?
シュラにとっては14年以上、アイオロスにとってはほんの2年足らず前。
二人で夜空に輝く山羊座を眺めたあの晩に。
――ああ、とても。
「俺の“幸福”がお前を支配して、聖域に縛り付けた」
違う!と絶叫したシュラの声を掻き消すほどに強く大きく。
今度は自分の方が感傷に振りまわされているのだと頭のどこかでわかっていたけれど、溢れ出る言葉は止まらなかった。
「何が違う! 今ならばはっきりとわかる。あの言葉は呪いだった」
「ちがう、アイオロスっ、」
「或いは俺の存在そのものがそうだ……!」
シュラと出会い、聖闘士としての戦いの日々に子供を追い込み、更にはそれを幸福だと思わせさえして、最後にはその手を己の血で染めさせた。
あの日。真実を告げればシュラは間違いなく自分を信じたろう。
だが共に逃亡すればアイオリアは殺され、幼い黄金聖闘士たちが追手として地の果てまでも追ってきたはず。
かと言って獅子宮まで取って返しアイオリアを連れていくことなど最早不可能なのは明らかだった。
最初にサガに戦いを挑み簒奪を告発したとて、手負いのアイオロスでは勝てなかったし、第一赤子の女神の御身がただでは済むまい。
いくらでも理由は与えられる。あれはとても合理的な判断だった。
もう一度あの日あの場所に戻ったとして、アイオロスはやはり同じ行動を取る。
それがたとえ、闇に堕ちかけ苦しむ親友を見捨て、血を分けた弟を置き去りにして、聖剣に同胞殺しの業を背負わせることを意味していても。
女神と天秤にかけて何もかもを捨て聖闘士であることを選んだのだから、今更振り落としたものを拾い集めようなんて自分の方が、本当は浅ましくて愚かしいのかもしれない。
それでももう二度とこの手を離せないと、アイオロスは痛いほどにわかっていた。
いつしか日に焼けた肌を伝っていた熱いものを、震えの残る指先が拭う。
そのたどたどしい手つきに自分の落涙を気付かされて幾度も繰り返し瞬いて。
零れた涙が頬とシュラの手とを濡らし、そのままあてどもなく落ちていった。
貴方でも泣くことがあるのか、なんて。そんな一言に自身を嘲るように唇の端を吊り上げて、アイオロスは再び口を開いた。
「本当はお前だってそう思っているのではないか、シュラ?」
「……何を言って、」
「俺はお前を裏切った。理由はどうあれ真実を告げずあまつさえ躊躇いもなく技を振るい血を流させた。俺を信じようとするお前の気持ちを踏み躙って勝手に死んだ」
反論の一つも赦さずに、アイオロスの言葉は続く。
「何もかも思い出した今、お前は俺のことなど見たくもないし憎んでさえいるんじゃないのか……忘れていられたほうがよかったと、」
「そんなこと、あるわけないだろう!!」
今やシュラの手は怒りに震えて、アイオロスの肩を強く揺さぶっていた。
視界の中心に捉えた人がぼやけて歪んで、遠く滲むのも腹立たしい。
この人に命を救われて、いつか並び立てる聖闘士になりたいと強く願った幼年期だった。
アイオロスを死に追いやりながら思慕の全てを忘れて去っていた自分自身を赦せたわけではないし、この13年間を否定することも肯定することもまだうまくできないけれど。
「貴方のことを、俺がっ……」
憎むことなんてあるはずがない。
絞り出した声はアイオロスにも辛うじて届いて、それなのに彼は眉一つ動かさず更にシュラを問い詰めるのだった。
「だがお前は俺の顔を見るたびあの日を思い出す。そして罪の意識に苛まれるんだろう。俺の存在がお前を苦しめるというのならば俺は、」
「アイオロス!!」
そんなことできるわけがないと頭ではわかっているのに、またアイオロスがどこかへ消えてしまいそうな気さえして、思わず身体が動いていた。
「……こ、にも、行か……な、」
「……シュラ」
「そば、に、」
言葉はそこで途切れ、室内に沈黙が突き返される。
そばにいたい。
好きだ、とかましてや愛しているなんて甘やかな告白にはならなかった。
けれど思えばそれが――
同じものを見たい。同じ理想を追いたい。肩を並べ共にありたい。隣にいたい。
シュラにとって全ての始まりだった。
鍛錬と戦いに明け暮れた硬い両の掌が頬を優しく包む。
シュラの額に自分のそれを押し当てるアイオロスの目は、先ほどまでとは異なりすっかり凪いでいた。
「やっと本音を言ったな」
「……っ、え?」
「焦ったぞ。本当に憎まれていたらどうしようかと思った」
苦笑とともに濡れた睫毛にキスを落とされて、白皙に一気に血が上る。
「あ、なたは……一芝居打ったとでも言うのか!?」
胸を押し突き放して詰る声は知らず荒いものになったけれど、アイオロスは動じなかった。
「何もかも本音だよ。演技ができるような器用な性格じゃないって、シュラだって知ってるだろう?」
いつもよりも幼い口調。
流石に涙まで見せるつもりはなかったらしく、自分の濡れた頬を拭う仕草は少し羞恥が混じって乱暴になる。
呆気に取られて間抜けな顔を晒していたのだろう。吹き出して笑ったアイオロスはシュラの髪を無遠慮に掻き回し、それからおもむろに視線を壁へ向けた。
釣られてシュラもそちらを見れば、掛けられた時計の短針は既に1の数字に届きそうなところまで来ていて。
「おめでとう、シュラ……生まれてきてくれてありがとう」
「あ、りがとう……?」
「俺も、お前と共にありたい」
この青年の中にある苦しみや後悔は降り積もり踏み締められた雪のように固く冷たく、それがすぐに消えていくことはないだろう。
自分の中にあるそれもまた。
それでも、この温みを求めていたいと思う。
互いにしか溶かせないものがあると信じて。
「アイオロス、その……俺、は……」
「いい、シュラ。今は無理に言葉にしなくても」
時間はいくらでもあるなんて甘ったれたことを言うつもりはないけれど。
もう一度壁掛け時計に目をやったアイオロスがようやっと立ち上がり軽く伸びをした。
「ふふ、そろそろ休まないと、お前を祝う時間が短くなってしまうからな……今は帰ることにしよう」
「あ、ああ……」
歩き出した人を見送るべく、シュラも立ち上がって戸口へと向かう。
ドアノブに手をかけたアイオロスが振り返ってそれを制した。
「いや、ここまで構わない。おやすみ、シュラ。“また明日”」
「……っ、あ、」
「シュラ?」
自分でも訳がわからないうちに右手が伸びて。
アイオロスの手に縋って引き留めてから、シュラは困惑に瞬いた。
早く手を離して、気遣わしげにこちらを覗き込んでくる人に何でもないと伝えたいのに、身体は鉛でも流し込まれたように動かない。
無言で固まっているシュラを見つめ返して、先に動いたのはアイオロスだった。
「……気が変わった」
「は?」
「やっぱり、ここに泊めてくれ」
「ちょっ……と、アイオロス!?」
小麦の袋か何かのように担ぎ上げられたシュラの声が裏返るけれど聞き流す。
そのまま寝台に寝かせて毛布をかけて、そこに一緒に潜り込む。
腕枕までされたシュラがじたばたと抵抗していた時間は僅か五分にも満たなかった。
どうやったってこの人は出ていきそうにないし、力ずくで追い出すことなんて色々な意味で到底無理だ。
諦めてそのまま目を閉じたシュラが寝入るまではあっけないほどに早くて。
結局すぐさま安らかな寝息を立て始めた人に嬉しさと呆れと愛おしさの混じった感情で少し笑う。
薄いカーテン越し、雲の切れ間から覗く月が室内を照らし、横顔を見つめるには十分すぎるほどだった。
白皙は涙の痕を隠してはくれなくて、赤く腫れてしまった目尻が痛々しい。
いつもは年齢不相応なほどに鋭く威厳ある眼差しも隠されて、泣き濡れ、それでもすっかり安堵したシュラの面差しにはあの頃と変わらぬあどけなさがあった。
硬質な髪に触れ、何度も撫ぜる。
「……ん、」
額に親愛のキスを落としても、深く眠るシュラは僅かに身じろぐだけ。
こんな風に一枚の毛布を分け合って夢を見たあの日は、ほんの数ヶ月前のようにも十年以上も前のようにも感じられる。
同じ寝台で眠り、目覚めたら食事を。
それから皆で彼の生まれた日を祝って、夜を明かし語らって。
不意に思い出したのは弟の呟きだった。
――いや、いつしかそんな疑問も忘れてしまっていた。
――シュラと共にいるのが当たり前になっていたから。
「ああ……そうか、」
恋を知るよりも、愛がわかるよりも先に与えられたこの優しさが、アイオロスの指先から髪の一筋まで巡って心を熱くする。
そばにいたい、大切な人の隣にいたい。
そんな他愛もない願いがどれほど途方もなく、叶えがたいものであるか、今のアイオロスもシュラも涙が出そうなほどにわかっている。
今日この日、共に朝を迎えられる。
女神とこの生に深い感謝を。
いま、夜が終わる。
初出:2017/01/12(pixiv)