おやすみのまえに

お届けものでーす、と。

人馬宮の通り抜けスペースにいきなり現れたのはデスマスクだった。顔を出したアイオロスには特別言うこともなかったのだろう。骨という骨が溶けてしまったかのようにぐでんぐでんの生き物を放り捨てて彼は帰っていき、お届けものとやらだけが残される。あちこちに赤やら緑やら琥珀色やら色取り取りの染みが付いたシーツに包まって、それはうーうー呻いては蠢いていた。

中身こそまるで見えないものの、小宇宙は常とーーいつもの鋭さこそないもののーー変わらない。

 

「シュラ

 

名を呼べば、ぴたりとその動きが止まる。やがて布の隙間から顔を覗かせたのは、白皙を真っ赤に染めた年嵩の後輩だった。 こちらを認めたその顔が綻ぶ。

 

「……アイオロス」

「……っ、」

 

続く名、敬愛と慕情ばかりをひたすらに込めた声に、歩み寄りかけた足が止まる。手を伸ばしても僅かに届かぬ距離で立ち尽くすと、シュラはそのままの表情で手を伸ばした。

 

「アイオロス

 

反応がないのを訝ってか、さらにもう一度その名を唇に乗せる。甘ったるく語尾を上げた響きに、14歳の英雄は知らず生唾を飲んでいた。

尚も動かないでいるうちに、痺れを切らしたシュラの方がよろよろと立ち上がりーー途端、後ろにひっくり返りそうになる。

 

「シュラ

 

慌てて抱えて、その勢いのまま抱き上げて。

いつ誰が来るともわからぬ、吹きさらしの場所にいるよりはと、私室へと歩を進める。13年前でさえ顔を赤くして怒って見せたであろうことをされても、シュラは相変わらず微笑んでいた。

日に焼けぬ肌。無数の傷が刻まれた右腕は躊躇いなく背中にじゃれついて、熱を持った身体は猫のように摺り寄せられる。

首筋を擽る吐息は酒の味を知らないアイオロスが顔を顰めるほどには酒臭くて、生まれて死んで二度目の生を受けてこのかた酔っ払いの相手などしたことがない次期教皇は困惑に高い天井を仰いだのだった。

 

***

 

他の宮同様、人馬宮にも従者のための寝室や生活スペースはもちろんある。とはいえ長らく死んでいた身なので未だ身の回りの世話を任せられる者は見つかっておらず、結局アイオロスは一人でこの広い宮を管理している。

元より細々した雑事が苦手な性分でもないので炊事も洗濯も掃除も苦ではなかったが、アイオロスはここに来て初めて、従者を置かずにいたことを後悔した。

 

「アイオロスのにおいがする……」

 

どうにか汚れた薄布を剥いで、依然泥酔中のシュラを寝台に転がす。ひんやりしたそれが心地いいのか、糊の効いたシーツの上を転がって、子供のようにシュラは笑った。手近にあった枕を強く抱き寄せて言う言葉には男を誘う意図こそなかったけれど、ない故にアイオロスは額を押さえた。

下男のための小部屋で休もう。埃まみれでベッドさえないがここよりはマシだ。

だがそうやって踵を返したところで、足が床に縫いとめられた。

 

「アイオロス……」

 

すきだ。

 

「シュ、ラ……!?

 

幸福を煮詰めて蕩かしたような声。寝台に伸びたまま枕に頬擦りして、シュラは確かにそう言った。ぎこちない動きで振り返って見ても、枕にじゃれついたシュラはその言葉を繰り返している。

どうやら夢でも幻聴でもないらしい。

 

再びの生を得てよりこちら、シュラはずっとアイオロスを避けていた、はずだった。

アイオリアとの間にも何か確執めいたものがあったようだが、そこは13年間幾度も危機を乗り越えてきた者同士、いつの間にか和解していた。

けれどアイオロスのことだけは怒ったような戸惑ったような顔で半ば睨みつけてくるものだから、疎まれているとさえ思っていた。

寝台への数歩がもどかしい。そこに乗り上げてシュラに触れる。抱き起こして腕の中に閉じ込めても、変わらずふわふわへらへらと笑っていたのに。

 

「私もシュラが好きだぞ」

 

瞬間、シュラの笑みが消えた。

 

「嘘だ」

「嘘なものか」

「では錯覚だ」

「錯覚でもない」

「じゃあ思い違いかつまらん同情だ

「シュラ、」

「そんなことはあり得ない

 

先ほどまでの表情は何処へやら、悲痛に眉根を寄せて、冷えた声でシュラは言い捨てた。

しまいには堅牢な檻となったアイオロスの腕を引き剥がそうと、そこに爪を立てては強く押し始める。

ひっきりなしにぼやけては歪む視界。手足はふにゃふにゃと頼りなく、まるで力が入っていない。それなのにシュラはアイオロスの胸板を力なく叩き、嘘だ、違う……と弱く呟くのをやめなかった。

 

「それは、お前のこの手が私を斬ったからか」

「うるさい……

 

かぶりを振る度、黒髪があちらこちらを擽ってこそばゆい。今のシュラは14歳のアイオロスから見てもまるで子供と変わらなかった。

 

「貴方が、俺を好いている訳などないんだ…… そんなつまらん慰めを言う貴方は、」

「嫌いか

「……っ、う、」

 

肩が跳ねる。力なく肩口を叩いていた手でアイオロスの夜着を掴んで、シュラは必死になって吐き捨てた。

 

「嫌いだ……

「シュラ。私の目を見て言いなさい」

「……っ、きらい、だ……

 

挑むような目。瞳の奥の輝きはサイドテーブルのランプにゆらゆらと揺れ、幼げな不安を滲ませていた。

赦されてはいけない。ましてやこんな優しくて温かい想いを寄せられるなど。13年前にアイオロスに凶刃を振り下ろしたときから、今こうして新たに時を紡ぎ始めた今もなお、シュラはそう固く信じていた。

殺したいほど憎んでいると、いっそ吐き捨ててやったほうが安堵できるのだと知っているけれど。

 

「私を見縊るなよ、シュラ。愛情も憎しみも喜びも悲しみも、誰かに決めてもらわねばならんほど私は愚かでも弱くもない」

 

腕に込めた力を強める。

 

「誰が何を言おうと、私は私の生き方も思いも貫く。アテナは私が仕える唯一の神で、アイオリアはかわいい弟。サガは無二の親友だし、シュラ……お前に対しては、」

 

熱い身体を今一度強く抱きすくめる、耳元で囁けばシュラはふるりと身を震わせた。

 

「ずっとこうしたいと思っていた」

「ずっと……

「ああ、ずっと」

 

頼むから、私の心を斬り捨ててくれるな、と。右腕を手に取って心の臓に導けば、早鐘を打っているそこにシュラは瞬いた。

そのまま今度は、シュラ自身の左胸に掌を押し当てさせて。やはりそこでは張り裂けそうなほどに心臓が脈打っている。

 

「同じだろう

「アイオロス……」

「私たちは、同じ気持ちでいると思っていいのだろう

 

黒檀の眼がいよいよはっきりと潤む。今にも雫が零れ落ちそうな、いっそいとけない危うさがアイオロスの視線を引き付けた。

人知れず泣いた夜もあるやも知れぬ。けれど今はこうして、その涙を受け止めてやれる。

 

「ああ……好きだ、貴方が」

 

けれどその瞳はもう泣き濡れることはなかった。

もう一度、今度はしっかりとアイオロスを見据えて言って、シュラは微笑った。

途端上体がぐらりと傾く。

 

「おやすみ、シュラ」

「ん……」

 

そのまま夢の世界の住人になってしまったシュラにキスを落として。ベッドサイドのランプを吹き消しながらアイオロスはひっそりと笑った。

明日の朝が楽しみだ。

いつだかに今日の配達人がアイオリアは飲むと記憶がなくなると言っていたから、もしかしたらシュラも覚えてはいないかもしれない。

或いは白羊宮の守護者のようにこれはミロから聞いた話だが二日酔いと消えぬ記憶にのたうち回るのかもしれない。

いずれにせよ、面白いものが見られそうだ。

安心しきった顔でかわいらしい寝息を立てているシュラをしっかりと抱き直して、アイオロスも静かに瞼を下ろした。

 

初出:2016/05/26(Privatter)