誰かに名前を、叫ばれた気がした。
人の肉と骨が潰れ、圧し折れる音が耳を劈く。思い切り突き飛ばされたアイオロスのまさに真横で、宙に舞った毛先が散る。死に体の異形の最期の一撃は、気高き射手には届かなかった。
怨嗟の声が地に亀裂を走らせ、悍ましい瘴気が薄れていく。
ようやく陽光が差し込み始めた死の森の真ん中に倒れ伏していたのは――
「……シュラ?」
「ぁ……っぅ、」
黄金の聖衣を血に染めた同胞だった。
「っ、シュラ!!」
跪いて抱えた身体は酷く重い。がくりと首が仰け反った拍子に山羊の角を模したヘッドパーツが転げ落ちて地を叩いて、アイオロスは慌てて後頭部を支えてやった。その左手も溢れ出ているものでぬるりと滑る。主人を護る役目を果たし切れなかった聖衣の隙間からは、夥しい量の血が溢れて乾いた土に染みていく。
濁り始めた黒い眼から、目の前の人に一途な視線が捧げられる。蝋のごとき白と鮮やかな赤が目に痛いかんばせに、はっきりと歓喜の笑みが浮かぶ。駆け抜けた怒りにも似た恐ろしさに、アイオロスは知らず声を荒げていた。
「何故だ!? 何故私を庇った!!」
身体が跳ねて震えたのは、ただの反射ではないのだろう。喜びは見る間に厚い雲に覆われて、シュラの顔が悲痛に歪む。微かに動いたシュラの唇は、けれどもう言葉を紡いではくれなかった。
「……っ、」
「シュラ!!」
アイオロスが望む答えの代わりにそこからは鮮血が噴き出して、皹割れた聖衣の胸を濡らした。現実感のなさに苛まれている射手座の意識を、噎せ返るような血の臭いだけがこの地獄に留めている。
折れた聖剣。突き出した骨までもが赤く染まり、鼓動の度に傷からは鮮やかな血が噴き出して止まらない。だがその出血さえも、徐々に弱まっていくのだった。
早く、手当てを。空転する思考で小宇宙を送り込んでも、それを拒むように短い黒髪が微かに揺れる。こちらもやはり骨が折れているのか、明らかにおかしな方に捻じれた左腕で、シュラはアイオロスの頬に触れた。
青年は涙一粒零してはいないのに、泣かないでくれとでも言うように。
「シュ、ラ……?」
かさついた肌が寧ろ血に濡れただけで、行為は何の意味も持たない。
だのにシュラは満足げに息を吐いて、それからゆっくりと瞼を下ろして。
「シュラっ、シュラ!!」
静かに聖衣が肌を離れ、山羊を模した姿に戻った。
弱い呼吸は、物音一つない室内でさえ時折不意に聞こえなくなる。ほんの一瞬でも目を離せば寝台の上の人は消えてしまう。そんな妄念に囚われて、アイオロスはここを動けずにいる。
何もわからなかった。
何故シュラに庇われたのかも、何故シュラが笑ったのかも、シュラが何を言おうとしたのかも。折れた手がアイオロスの頬に伸ばされた理由も。
アイオロスの中には答えがない。
シュラは何も言ってはくれない。
西日に照らされた血の気のない頬が目に痛くて、それでも視線を逸らすことは出来なくて、アイオロスはそっと腕を持ち上げた。
冷たい頬には、辛うじてまだ血が通ってくれている。シュラは生きている。喜びも悲しみも怒りも、いかな感情も込められていない寝顔を見つめながら、あの微笑みを思い返す。
「……シュラ」
懐かしい笑顔だった。かつては毎日のように見ていたものだった。再びの生を賜ってからは、シュラは誰に対してもあの笑みを見せることがなかったように思うけれど。
――私の弱さに呆れようと、笑おうと構わない。
――アイオロス……。
――すまないシュラ、それでも私はお前を……!
許せそうにない、と。告げることまではできなかったものの、間違いなく通じた筈。わかっているとばかりにシュラはぎこちなく頷いて、何も問うてはこなかった。
無邪気に自分を仰ぎ、慕い、全身全霊を傾けてこちらを敬愛してくれた子供が、アイオロスは愛おしかった。だからこそあの日躊躇いなく聖剣を振り上げたシュラを、どうしても許すことができなかった。
悪の半身に意志を奪われ、大いなる過ちを犯した親友の罪さえ受け入れることができたにも関わらず。
「シュラ、どうして……!」
頬に触れた指先が強張る。
ノックもなしに扉が開かれたのはそのときだった。
「……先ほど少し休むと聞いたつもりだったが?」
「あ……アフロディーテ、」
眉を顰めても麗人は美しい。非難の眼差しでベッドサイドの人を一瞥してから、アフロディーテは室内に足を踏み入れてきた。携えている薔薇の芳香が部屋の中に広がって香しい。
文机に花瓶に活けた花を飾り、薄く開けていた窓を閉める。ブラインドを下ろし、臥せる怪我人の様子を見る。きびきびと自身の仕事を済ませていく魚座の青年の横顔は、常の華やかな美に彩られていた。
「アイオロス」
「……なんだ?」
凪いだ声が重い沈黙を破る。続いたのはあまりに唐突な問いだった。
「十二宮での戦いのときのことを、サガとアイオリアから聞いただろうか」
「……一応、簡単にだが」
二人から聞いておく必要があったこと。
真実を知ったアイオリアに、僭主であったサガが何をしたのか。深く頭を垂れて詫びた親友の改悛を聞き弟に問えば、獅子座の青年は言葉少なに話してくれた。
――“幻朧魔皇拳”。教皇位を賜った者にしか使えない業を、確かにサガは俺にかけた。
怒りを全く感じなかったと言えば嘘になる。だがサガの苦しみを知り過ちを許した弟を思えば、自分がしゃしゃり出て詰る気にはならなかった。
「では13年前のあの日のことは? サガから直接話を聞いたか」
「13年、前……?」
過日のサガとの会話が脳裏に蘇る。
――都合のいい、と思うかもしれんが……シオン様がお前を次期教皇に指名して、お前たちの殺害を唆す弟をスニオン岬に幽閉して……それから先のことは今でもよく思い出せない。
すまない。差し向った親友は、豪奢な金糸を緩く揺らして小さく詫びた。
――記憶に、いまだ埋まらない“幾つもの穴”が開いているのだ。
全身を打ちのめす衝撃に知らず立ち上がって。出所のわからぬ憤怒に翻弄されたまま、アイオロスはアフロディーテを強く睨み据えていた。
「……なに、が……いいたい……!」
眼光の鋭さと裏腹に、射手座の声はみっともなく掠れ震えている。常人ならば身を竦ませて立ち竦んでしまうだろう視線に射貫かれても、魚座の青年は顔色一つ変えはしない。
「さぁ?」
立ち去ろうとした彼の腕を、アイオロスが咄嗟に掴む。
「ッ、仮に“そう”だとして、シュラは何故私に何も、」
「では貴方は、“何も知らなかった。サガに操られていただけだった。本当は貴方を殺したくなんてなかった”なんてシュラが泣いて同情を乞えば満足したのか、アイオロス!」
振り払われた手が痺れる。星を散りばめた夜空のごとき瞳には誰に対してとも言えぬ怒りが燃えていて、アイオロスさえも怯ませる。
「そんな風に貴方に縋るシュラだとでも!?」
「だがッ! だが、シュラが一言でも告げてくれさえいれば、私は」
「……シュラを憎まなくてもよかったのに?」
「っ……!」
魚座の激情は嘘のように引いていた。淡々とした囁きが却ってアイオロスの心の繊細な部分に突き刺さって、どうしようもなく痛かった。
蜜色の髪を軽く払い、重厚な扉に軽く凭れる。細く長く息を吐いて、アフロディーテはおもむろに続けた。
「貴方を、シュラが斬れる筈がなかった……」
真実が見えずとも、女神以外の誰を救うことも叶わずとも、それだけ信じ抜いてくれればよかったのに。
「貴方の方こそ、シュラを裏切ったのではないか」
低く言い捨てた背中が、今度こそ遠ざかる。
小さくなっていく足音がやがて完全に消えても、アイオロスはそこを動けなかった。
初出:2017/03/04(Privetter)