想定の範囲内と言えばそうなのだけれど、宴に彼の姿はなかった。
それを面と向かって誰かに問えるほど無神経にはなれず、かと言って主役がパーティーから抜けるのを皆が許してくれる筈もなく、次々注がれる酒を曖昧に笑って躱しながら、アイオロスは今ここにいない人を思った。
「ほら、景気良く飲めよアイオロス!」
「デスマスク! アイオロスは未成年だぞ!」
「あぁ? 酒の味も知らねぇで教皇サマが務まるかっての」
「教皇は聖職だ! 何をふざけたことを、」
あー真面目ちゃんはやだやだ、なんてワインを掲げたデスマスクの標的が紫龍に移ったところでそろそろとその場を離れる。だが結局逃げた先でまたわっと人々に取り囲まれ、受け取り切れぬほどの贈り物と言葉の真ん中にアイオロスは立っていた。
おめでとう、誕生日おめでとう、おめでとうアイオロス。猊下に心よりお祝い申し上げます。射手座様の一年に幸い多からんことを。またアイオロス様をお祝いできて嬉しゅうございます。
雨のように降り注ぐ祝いと敬愛とを一身に浴びて、もちろん嬉しくない筈がない。身に余る祝福に頬を緩め、一人一人の目を見て謝辞を述べる。微笑む者、喜びに頬を染める者、涙ぐむ者、感極まって倒れそうになる者さえいて、とても収集がつきそうにない。
いつまでそうしていただろう。ようやく盛り上がりの渦からそっと抜け出して、アイオロスは細く長く息を吐いた。
主人を置き去りにし続くどんちゃん騒ぎを背に、不意に口を開いたのは水瓶座の青年だった。
「いいのか?」
「……は?」
短すぎる一言に瞬いてそちらを見遣っても、カミュは一瞥すら寄越さない。見事な赤毛を掻き上げながらブランデーを口元に運ぶ仕草は随分と様になって美しくて、まあるい頬を真っ赤にしていた下膨れの子供の面影はほんの微かに残っているばかり。それ以上は何も言う気がないと見える親友に呆れた溜息を一つ漏らして、ワインを片手にミロが続けた。
「もう充分、義理は果たしたと思うが」
「……い、いや、だが、しかし、」
その言葉でようやく二人の言いたいことを悟って、慌ててかぶりを振って見せる。
そんな勝手ができるかと続けようとしたところで、三人目が割って入ってきた。
「貴方が主役なのですから、貴方が好きなようにすればいい」
「ムウ、」
「行ってあげてください。尤も、彼は望んでなどいないでしょうが」
優しいんだか辛辣なのだかわからないのは相変わらず。苦笑したアルデバランに歩み寄られ大きな外衣を手渡され、アイオロスは反射的に受け取ってしまった。まるでこれでは自分が行きたがっているようではないか。
「まさかアルデバランの厚意を踏み躙ったりはしませんよね?」
「今晩は冷え込むぞ」
そんな微笑みでこちらの逃げ場を潰してくるのだから、この子達は狡くなった。
「……寒い、」
まろび出るように自宮を出て、けれど会いたい人がどこにいるのかもアイオロスは知らない。
熱気と酒気と歓喜で暑いくらいだった人馬宮内とは異なり、外は確かに酷く寒い。借り物の外衣に身を包み無人の宮を下へ、下へ。限界まで潜められた小宇宙は辿れようもなかったけれど、つきんと冴えた空気の中を歩いているうちに、知らず逸る足が行く先を教えてくれた。
ここを越えれば、もうアテネの市街は目と鼻の先。鋭利な刃物に切り裂かれたように不自然な断崖に、やはりその人は立ち尽くしていた。
シュラ。
呟いたつもりの名前は強い風に攫われ消える。とはいえ別段気配を殺していたわけではないから彼だってもちろん気づいているだろう。一年の最後の月を間近に控えているとは思えないほど薄着の背中は隠し切れぬ緊張に強張っていた。
三歩、二歩、一歩。いよいよ手を伸ばせば簡単に触れられる距離にまで近づいたのに、シュラは何も言ってはくれない。崖の淵から闇を覗く身体はこのまま斬りつけられて地に叩きつけられることを望んでいるようにさえ見えて、アイオロスは思わず手を伸ばしていた。
まさか抱きつかれるとは予想していなかったに違いない。
「ッ……!?」
「……冷たいな、シュラ」
「ア、イオロス……?」
いつからここにいたのか、長身はすっかり冷え切っている。最後に腕の中に閉じ込めたときとは違い、一流の闘士として円熟した男の体躯はアイオロスのそれとほとんど変わらぬものだった。
「祝いの言葉一つないのか」
「……言える理由がない」
「今日は誕生日だぞ、私の」
忘れたのか? そうおどけて言ってみせてもシュラは身動ぎ一つしない。絶壁から吹き上がる風が二人を包む外衣を激しくはためかせ、耳元でばさばさと喧しかった。
「……言う、資格がない」
淡々とした声は震えてなどいない。真っ直ぐと吐き出された言葉は虚空ですぐさま掻き消されて、風が和ぐと同時に辺りには深い沈黙が落ちた。
月のない夜の束の間の静けさを破ったのは、温もりに満ちた囁きだった。
細く鋭く息を吐いて。それから舌が軽やかに跳ね、音の羅列に意味が与えられる。
——シュラ
そうして立て続けに五度も名を呼ばれて、さすがに持ち主は決まり悪く身を捩らせた。
「……なんだ」
「私の名前も」
項に頬を摺り寄せて催促。冷えた耳や鼻先に首筋を擽られて、僅かにシュラの肩が跳ねた。
「……アイ、オ……ロス……?」
「もう一回」
「……アイオロス、」
もっと、とそのままの姿勢で繰り返す。ようやく温もりが移っていった身体と触れ合っているのは心地がよくて、ずっとこうしていたいほど。
戸惑いの滲む低音はあの頃とはまるで違う筈なのに、何一つ変わらず愛おしかった。
「……アイオロス」
「うん」
「アイオロス」
「ああ、」
「アイオロスっ、」
「うん」
「アイオロス……!」
「……シュラ」
「……っ、あ、」
だらりと下げられたままでいた右手に触れる。弾かれたように振り払おうとしたのを決して許さず、アイオロスは氷のごときその手を握り込んだ。
柔らかさと繊細さを失くした大人のそれ。小さく息を呑んだシュラはそれきり黙りこくってしまって、再びの静寂が二人を包む。
「……ここにいるから」
薄手のシャツに包まれただけの腕を撫ぜる。たったそれだけの行為で、どれほどシュラが弛まぬ研鑽を積んできたかがアイオロスには詳らかになるのだった。
もう一度、乾いた唇を舌で湿して口を開く。
「ここにいるぞ、シュラ。私はここに」
たとえシュラが自分自身を赦せなくても。
たとえ今日という日を、シュラがまだ受け入れられなくても。
「……とう、」
やがて握られるままだったシュラの右手が、アイオロスの手にゆるりと触れた。
「え?」
「……ありがとう、アイオロス」
「ふふ……そう言うべきは私だったんだがな」
待ち望んでいた一言をもらえぬうちに今日は昨日に変わってしまい、けれど心は十分満たされていた。
気長に待ってみせるさ、と独り言ちて若き射手は優しく微笑う。
その日が来るまで、今度こそ傍に。
初出:2016/11/30(Privetter)