わかったから、ただの風邪だから、もう泣くな。
できればもう部屋から出て行ってくれ。
何度慰め宥めすかしても、赤毛は寝台の側を離れなかった。
親友の額に手を当てては自分のそこと温度を比べ、しまいにはぴったりと額と額をくっつけて熱の高さに泣きそうになる、というかくすんくすん啜り泣き始める。柔らかく冷気を込めた手で、熱すぎる額を必死で冷やす。
「ミロ、ミロっ……ミロぉ、」
「カミュ、もう寝ろ」
「ミロが、ミロが死んでしまう……」
「感冒程度で聖闘士が死ぬものか。大丈夫だからお前も寝ろ」
俺がこいつについていると言ったところで、蒼ざめた顔を涙でべしゃべしゃに濡らしたカミュは聞きやしない。確かに頬をりんごの色に染めて常の面影なく寝台に沈むミロは辛そうだけれど、子供は風邪を引くとそうなるもの。この世の終わりのように鼻水垂らして泣くほどじゃあない。
次の誕生日でやっと六つのちびっ子には、それがわからないかもしれないけれど。
親友にしがみついたカミュはもう何をしても離れそうにない。無理矢理引っぺがして部屋を追い出すのは容易いけれど、どうせ何をしたってこの子供は病人のところに戻ってきて、自分で看病しようとするんだろう。
自分まで頭が痛くなってきて、シュラは思わずこめかみを揉んだ。
「……せめてマスクをしろ。何かあったらすぐ俺を呼べ」
ミロに縋り付いて泣くカミュに、果たして聞こえていたのかどうか。
***
俺のせいで、カミュが。
美しい青い目に涙をいっぱいに溜めた子に、なんだか酷い既視感。三日三晩続いたミロの高熱が引いた途端に案の定カミュが倒れて、場所を宝瓶宮に移してシュラの看病は続いていた。
年嵩の先輩の一人は、アフロディーテを伴い長引く討伐任務で聖域の外。もう一人も教皇宮で缶詰で様々な仕事に追われている。年下の子供達に手伝いを頼んでは感冒を蔓延させかねないし、デスマスクは残りのちび達の世話で手一杯。
だから天蠍宮と宝瓶宮の間に挟まれたシュラが一人で、病人ともう一人の面倒を見ている。
「今日は帰らないからな!カミュのそばにいる!」
「……好きにしてくれ」
病み上がりだから無茶はするなとか、隣にいるから困ったときはすぐに来いとか。諸々の注意事項をこの金色のもふもふは、絶対に聞いていないだろう。
歴代の主人たちの小宇宙が留まっていて、水瓶座の守護宮は酷く冷え込む。芯から来る震えに肩を竦めて小さくなって、シュラは部屋を後にした。
本当は——何をしでかすかわからないから——二人についていてやりたいけれど、アイオロスたちの帰還を目処に、と頼まれたスペイン語の文献の翻訳が終わりそうにない。帰還は明日か明後日と聞いているけれど、今晩眠らずに作業をすればどうにか形になるだろうか。
目が霞む。あまりの量に頭がくらくらする。辞書や事典や関連する書籍を積み上げた中に半ば埋もれシュラは片っ端から文章を訳していくけれど、どれだけやっても嵩が減らない。いっそ吐き気まで感じて低く呻く。
どうしよう、どうにもならない、かもしれない。
ついに時計の短針は峠を越えて降り始め、更にシュラを追い立てる。年長の二人は語学が堪能だから、アイオロスが帰ってきたら手伝ってもらえるかもしれないけれど、長らく聖域を離れていた人がやっと帰ってくるというのにこんな些事を押し付ける訳にはいかない。
気分転換に立ち上がり、隣の部屋の様子を見る。ほとんどベッドから落ちかかっているミロを寝台に戻してやって、ベッドサイドのスツールにシュラも腰掛ける。
カミュの額の汗を拭って、そして。
***
「シュラ!」
「アイオロスたち帰ってきたぞ!!」
「っ、え!?」
魚が水から引き上げられるように無理矢理覚醒させられて、椅子から勢いよく転がり落ちる。大丈夫か、と気遣わしげに覗き込んできたカミュの顔色はだいぶよくなっていってシュラはそっと胸を撫で下ろしたけれど、直後に頼まれごとを思い出して息を呑んだ。
慌てて隣室に駆けて行ったけれど、小人が片付けてくれているなんてことあるはずもなく。
いっそ清々しいほどに真っ白で手付かずの部分が目に痛くて、シュラはその場にへたり込んだ。足の力が萎えてしまい、立ち上がるのも億劫になる。
「早く迎えに行こう!」
「み、ミロ、ちょっと待てっ……! っや、」
嫌だ。行きたくない。いつもならば嬉しくてたまらないはずの仲間の帰りに対しそんなことを思ってしまってすぐに反省。どうにか理由をつけて断りたいのにうまく言葉が出てこなくて、結局シュラは二人に引き摺られて歩くよりほかなかった。
宝瓶宮を出て、ひたすら下る。待ちきれず白羊宮まで下りてきているのはアイオリアたちも同じのようで、アイオロスとアフロディーテの周りにはちびたちが纏わり付いている。
弟によじ登られた兄は疲れを見せず笑っている。朗らかな笑顔はいつもとまるで変わらなかった。
「……あ、」
それなのに今日ばかりはあのきらきらを見てもちっとも心が安らがない。それどころか胸がとてつもなく苦しくなって、視界がぐんと狭まってシュラは喘いだ。
「アイオロスー、アフロディーテっ!」
「おかえりなさい!」
「ミロ、カミュ、ただいま。……シュラ?」
少し離れて立ち尽くすシュラの姿を認めたアイオロスが顔を顰める。この人は敏いから、俺の不手際がもうバレてしまったのかもしれない。アイオロスやアフロディーテは外で危険な任務に当たっていたというのに、自分はこの聖域で仕事一つまともにこなせないなんて。
恥ずかしくて情けなくて、頭に血が上ってがんがん痛む。険しい顔のアイオロスに歩み寄られて、もう心臓が破裂しそう。息が苦しくて目尻に涙が浮かんでくる。
「……シュラ!」
「っ、ごめん……なさ、」
「おい、しっかりしろ! シュラ!!」
頬に触れられた手の冷たさにさえ詰られた気持ちになってしまって。
重力にまともに抗っていることさえもうできなくて、シュラは膝から頽れた。
***
いい匂いがする。トマトとタマネギが煮込まれて蕩けた、シュラが大好きなパン粥の匂い。そういえば最後に食事をしたのはいつだっけ。久しぶりに感じた空腹に眠りの底から押し上げられて、シュラはゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井がなんだか霞んで見えて瞬く。身を起こそうとしたのに、全身が鉛を流し込まれたように重くて、シュラは眉根を寄せて小さく唸った。
「シュラ、起きたか」
「ぁ……ロ、ス……?」
ガサガサの声が言葉になりきらない。自分を抱き起こしてくれた人をシュラはただぼんやり見上げるだけ。アイオロスは困ったように苦笑して、子供の小さな頬や額に手をやった。
「やはり熱いな……」
「あ……つ……?」
「こんなになるまで気づかなかったのか? 水飲んで……そう、ゆっくり」
それもシュラらしいといえばシュラらしいのだが。ぬるい水を口元に持っていけば、熱に浮かされた子供は見る間にそれを飲み干した。細く満足げな息を吐いて、そこで少しばかりまともな思考回路が戻ってきたらしい。問い掛けの眼差しをまっすぐ受け止め、アイオロスは一つ頷いた。
「今朝アフロディーテと帰ってきた。そこまでは覚えてるか」
「……う、ん」
「そこでお前、倒れたんだ」
「え……?」
「ほら、口を開けなさい」
少し冷めてきたパン粥の椀をアイオロスが手に取る。巣立ち前の雛よろしく給餌され始めたシュラに、アイオロスは更に続けるのだった。
「典医殿に来ていただいたが、十中八九ミロやカミュのと同じ風邪だ。二人とも責任を感じて半泣きだったぞ」
「っ、ん、」
「俺もアフロディーテも驚いたし、心配した。頼むから無茶はしてくれるな」
無茶? その一言がなんだかどこかに引っかかる。確かにシュラは何か無理をしていた気はするのだけれど、それは一体なんだったろう?
くるくると視線を巡らせて考え込んで、アイオロスの背後のものに目を留める。白さが目に痛い紙の束。あ!と大声が出そうになって、咀嚼途中のものを思い出して慌てて口を閉じて、そのままシュラは噎せ返って咳き込んだ。匙や椀を置いたアイオロスが、根気よく背中を摩ってやる。
ようやく咳が治まったところで、シュラは目の前の人の袖を掴んだ。頼まれごとをちゃんとできなかっただけでも情けないのに、こんな風に身体の調子までおかしくするなんて。寒気も悪寒も変わらず酷いし、頭が割れそうで何も考えられない。それでも凄まじい情けなさと恥ずかしさに打ちのめされて、ぼろぼろ涙が出て止まらなくなる。
「……ロス、ご、めん……なさ……」
うぅっ、ひっくとしゃくり上げながら、シュラが懸命に詫びの言葉を紡ぐ。だがいきなりの謝罪の意味も理由もよくわからなくて、アイオロスは知らず首を傾げていた。
「何がだ?」
「やっと、かえ……って……のに、おれ……」
長期の任務からようやく解放された人に、面倒ごとを二つも押し付けて、そんな自分が不甲斐ない。赤い頬を涙に濡らしてシュラがつっかえながら言うことを聞いてみれば、要はそういうことだった。
なんだ、そんなこと。言いかけて取り敢えず口を噤んで、アイオロスは寝台に上がり熱い身体を膝に乗せた。
反射的に目を瞑った子供の、濡れた目尻にキスを落とす。
「お前が何故謝るんだ。ミロやカミュが倒れたのもお前が風邪を引いたのも、別にシュラのせいではない」
「っ、でも……!」
「謝るというならな、サガも詫びていたぞ。ミロとカミュの世話で忙しかったのだろう? 文献はいつでも構わないと言わなかった自分のせいだと気にしていた」
「え……!?」
「お前が倒れたのはサガのせいか?」
問われたシュラが慌ててかぶりを振って否定する。目尻に残る涙が散って、アイオロスの頬を濡らした。
「……何度も言っているけれど、もっと自分を大切にしなさい。大人になるのには時間をかけるものなんだから、な?」
「は、い……」
答えの不服気な響きにアイオロスは苦笑する。乳幼児期の栄養状態が極端に悪かったらしく、シュラは八つになった今でも年下の子供達に紛れられるくらいに小さい。口には出さないが本人は大層気にしていて、せめて振る舞いだけは大人らしく、黄金聖闘士の威厳あれといつも努力を続けている。
その直向きさが愛おしいけれど、アイオロスは少しばかり寂しくなる。
「急がなくていいんだ。俺にもう少しだけ先輩風を吹かせてくれたっていいだろう?」
そう遠くないうちに必ず、皆小さな身体に背負いきれないほどのものを課せられる。だから今のうちくらいは、子供でいてほしい。それはアイオロスのエゴかもしれないけれど。
小さく頷いたシュラは、それでもまだそわそわしている。わざわざ俺についてなくてもいいのに、なんて顔にも態度にも出ているから、アイオロスは流石にがっくりきた。その落胆を感じ取って、子供が遠慮がちに口を開く。
「だって、リアたち、ずっとアイオロスのこと待ってて、だから……」
「ケーキにチョコレートに、それからプディングに……珍しい甘味を山ほど買って帰ったからな。今頃は双魚宮でみんなで楽しくやってるさ。それともシュラは俺がいたら、嫌か?」
「ッ!嫌じゃない!!」
身体と一緒に心まで弱くなったみたいで。なんだか不安で仕方がない、本当はそばにいてほしい。回した腕に力いっぱいしがみ付いてくるシュラの声が聞こえてくるようで、アイオロスは知らず苦笑する。
「大丈夫。いなくならないからゆっくり寝なさい」
「うん……」
幼い返事。言いたいことはまだまだいっぱいあった気がするけれど、頭を酩酊させる熱と柔らかい眠気とに溶けていく。
時折思い出したように縋り付いてくるシュラの背をそっと優しく摩りながら、小さな身体が安堵にすっかり弛緩するまで、アイオロスはずっとその寝顔を見守っていた。
初出:2017/01/09(Privetter)