神の化身とも称えられる美しい顔は、だからこそ怒りを湛えると言葉にしようのない凄味がある。同じ顔と声と遺伝子情報と、異なる運命を持って生まれた存在。持って生まれた美貌と才覚で人々に慕われてやまなかった人間にこんな顔をさせることが、あの頃のカノンは何よりも好きだった。
何もかもを持っている兄が、何も持たない弟に対し憤怒と妬心を隠し切れない。自分はサガのスペアで全てにおいて兄より劣った存在だと思い込まされていたカノンにとって、兄よりも優位に立てる唯一の瞬間がこのときだった。
もう兄に対しても聖域に対しても鬱屈した感情など持っていないはずなのだが、今でもサガのこの表情を見ると、カノンは知らず興奮してしまう。冷えた声音が苛立ちを御そうと低く這うのも堪らない。
「……それで、何故シュラはお前といたんだ」
外套に身を包んでやっただけで連れ帰ったシュラは、今も双児宮の一室で眠っている。草木も眠るような時間に静かに聖域入りしたにも関わらず、衝撃は瞬く間に十二宮を駆け抜けてしまった。そうしてカノンは半ば引き摺られるようにして兄の部屋で事情を説明させられている。
「何故も何も、偶然としかいいようがないな。似たような奴を見つけて追いかけたら、それが本当にシュラだった。それだけだ」
「それを私達がそのまま受け入れられるとでも?」
椅子に腰かけて睨み合う兄弟。その兄に加勢するかのように、戸口から声が掛けられた。
「アイオロス」
サガが静かにその名を呼ぶ。親友以上に厳しい面持ちでカノンを見つめ、アイオロスはおもむろに歩を進めた。室内に入り込むことはせず、手近な壁にゆるく凭れる。
「お前たちが受け入れるか受け入れないかなど、俺の知ったことではないな。俺は事実を話したまでだ」
「カノン!」
「……サガ」
兄の視線が鋭くなる。それを制すようにアイオロスは兄の名を呼んで、それから一旦口を噤んだ。
聖域の英雄にして、次期教皇。13年前はもちろんのこと復活を果たした今でもカノンにとってアイオロスは眩しすぎる存在で、それ故に真っ向から向き合ったことなど一度もない。こいつの咎も傷もない非の打ちどころのない正しさは、カノンにはちょっと見つめづらい。
「わかった、お前の言うことを信用しよう。お前は街で偶然シュラに会って、そして聖域に連れて帰って来た」
「……ああ」
「カノン。シュラに何をしたんだ」
それが今のアイオロスときたらどうだろう。びしびしと肌を打つ怒りと闘気が痛いくらい。雲のない蒼穹の瞳の奥には、荒れ狂う嵐が見えた。
何故か生まれ持った性さえも変わってしまっている同胞が、男の大きすぎるコート以外何一つ纏わぬ姿で帰って来たのを目の当たりにして、想像できることなどひとつだろうに。
それは問い掛けではなく詰問、激情を孕んだ非難だった。
「抱いた」
小さく息を呑む声。ぐ、と拳を握り締める仕草。反駁を赦さずにカノンは続けた。
「身の奥で精を干さねば男には戻れんというのでな。歓楽街を彷徨っているのを見つけて、売春宿に連れ込んだ」
わざと挑発的な言葉を並べ立て、二人にゆっくりと視線を投げる。
人の上に立つものとして、サガにしろアイオロスにしろ容易に感情を表には出さぬよう訓練を受けている。そんな人間がこうもあからさまに不快を露わにしてしまうこと、そうさせてしまうだけの存在を自分が手篭めにしたのだということ。両方がカノンの背筋をぞくぞくと震えさせ、甘い快感で痺れさせる。
「それで、シュラを抱いたのか」
そう尋ねてきたのはアイオロス。悠々と頷いて、カノンは椅子に深く腰かけなおした。
「無理やり押し倒して犯した訳ではない。双方合意の上でのことだ」
弟の答えを憎々しげに否定したのはサガだった。
「お前がそのように仕向けたのだろう!」
「ならばシュラは何も知らない男たちの慰み者になった方がよかったとでも?」
「そういうことを言っているのではない!」
もういい、と小さな声が石の壁にぶつかって落ちる。冷えた怒りはむしろ憎悪とでも形容した方が適切に思えるほどで、アイオロスの感情をこれ以上もなく表現している。
「甦りに際しての不調など、一人の手に負えるものではないだろう。何故誰にも告げずそのようなことをした。どんな言葉を並べられようと、私にはただ欲を満たすために行為を行ったようにしか見えない」
下劣な、とまで吐き捨てて、腕を組んだアイオロスがカノンを睨み据える。
緊迫した空気を不意に裂いたのは、何か重たい陶器が粉々に砕ける音だった。
「誰だ!」
戸口に立っていたアイオロスが、即座に扉を開け放つ。
「っ、ぁ……!」
そこに立っていたのは、
「シュラ……!?」
白皙を真っ青にした一人の女だった。
いつからそこにいたのだろう。ここまでの会話の不穏さを思い返し、アイオロスは迂闊にも舌打ちしていた。よろめいたシュラがたたらを踏んで、足元に広がった花瓶の破片を踏みしめる。
細い身体に巻き付けたシーツの端が、ひらりと虚しく宙を舞った。
「シュラ、」
「……ぃっ、ぁ……!」
反射的にアイオロスが伸ばした手は、力の限り振り払われていた。拒絶した側もされた側も、驚いたように身を震わせる。
夜の海。星明かりが黒い波に僅かな光を投げかけるだけの晩にも、こんなシュラの目を見たことがあった。
何か考えるより前に、カノンは立ち上がり動いていた。
「シュラ。大丈夫だから落ちつけ」
差し伸べられた腕は拒まれない。むしろ白く頼りない女の手が縋るようにカノンの背に回されて、アイオロスとサガは愕然と目を見開いた。軽々とシュラを抱き上げた双子座の弟が、肩越しに二人に声をかける。
「この件については後にしよう。とにかく今は、シュラの手当てが先だ」
女に宛がわれた部屋に向かい歩き出しても、足音は後に続かなかった。
何故だかはわからない。だが、先ほどまでの高揚感は嘘のように消えていた。
打ちのめされた人間の思い詰めた表情が痛々しくて、かける言葉が見つからない。それでもこの沈黙もどうにも耐え難く、カノンは考え考え語り始めていた。
「……いつから、聞いていたのかは知らんが、」
シュラは黙りこくったまま何も言わない。足に負った傷に包帯を巻いてやりながら、女の顔を見上げることなく続ける。
「あいつらが非難したのは俺のことだからな。お前の困難に乗じて無体を強いたのだと、兄さんもアイオロスも俺を詰っているんだ」
わかるな、お前じゃない。もう一度強く言い切っても、やはりシュラは何も言わない。
「お前が大切だから、俺を赦せない。ついでに言えば、何も知らなかったし何もできなかった自分たちにも腹が立つ。それだけだ」
噛んで含めるように聞かせる言葉はシュラの耳に届いているのか。露わになっている白い腿に、ぽたぽたといくつか雫が落ちた。
女はすぐ泣くなどと言うつもりはないけれど、予測不可能な事態に翻弄され、勝手のわからぬ性に押し込められて、シュラがもう限界であろうことは見て取れた。咄嗟にカノンが顔を上げようとしたところで、柔らかい金糸に指が挿し込まれて押し留められる。殺し切れない僅かな嗚咽が、今更カノンの良心をじくじく差した。
「シュラ……泣いても構わん」
「っあ……!?」
抵抗の手を絡め取って、細っこい身体を腕の中に閉じ込める。肩や首筋がひくりと強張って、だがシュラはもう男に抗おうとはしなかった。
「泣いてもいいが、自分を責めるな」
抱き寄せた女は酷く熱い。呼吸が荒く苦しげなのも、泣いているからだけではないのかもしれない。
これが元に戻る予兆ならばいいけれど、そうでないならば厄介だった。
「……っ、く……ぅ、うっ……!」
食い縛った歯の隙間からほんのささやかな声が洩れてくる。
やがてその嗚咽が消え、束の間の眠りにシュラの魂がひと時救い上げられるまで。カノンはずっと、胸に縋る小さな存在を戸惑いながら抱き締めていた。
初出:2017/03/10(Privetter)