カプリコーンを俺にください!

 今日だけ山羊座を私にください。

 お前は何を言っているんだ、という双子座の視線が凄まじかったけれど、口から出た言葉はもう内腑には戻せない。水瓶座裸足の絶対零度の横目で睨みつけられたまま、アイオロスは真っ直ぐに女神を見上げていた。

 穏やかな微笑みは豊饒の海のように凪いでいる。だが天上の音楽すら褪せる麗しき声までもが、痛む胃を押さえたサガの度肝を抜く。

 

「今日だけなどと言わず、お好きになさい」

「いいえ、山羊座シュラは貴女の聖闘士。そのような訳には」

「……ふふ、ならば急ぐことです」

「……女神のお慈悲に感謝を」

 

 深々と首を垂れた若き教皇が法衣を翻して去っていくのを女神は慈母の瞳で見送っていた。

 済し崩しに朝儀は流れ、サガの頭は割れそうに痛む。

 とんでもないことに巻き込まれたシュラを憐れむ思いはあれど、どうにかしてやれるほどの余裕は到底持ち合わせていないのだった。



「そういう訳だから、お前をもらいに来た」

「……はぁ

 

 そういう訳ってどういう訳だ。何一つとして理解できない。磨羯宮に無断侵入するや否や自分を寝台に押し倒してきた相手を見上げて、シュラは暫し惚けた顔を晒していた。

 この人の説明下手は昨日今日始まったことではないのだが、それにしたって意味不明すぎる。稽古後の汗ばんだ訓練着を無遠慮に毟られ放り捨てられて、そこでようやく正気に戻されてシュラはいよいよ蒼ざめた。

 

「もらいに……って、」

「だから今日だけ、シュラをもらいに来たんだ」

 

 いつものことながらどうしてこの人は何をするにも全く悪びれないのだろう。まるで自分が間違っているかのようにうっかり錯覚しかけて、それでも懸命に下履きを抑えシュラはアイオロスの下で身を捩らせた。

 

「お、俺はやるともやらんとも言ってないだろう!?

「じゃあ今言えばいい」

「やらんッ

 

 この俺が小娘のように貞操問答を繰り広げるなど、と矜持に光の速さで罅が入る。だがこれ以上を赦してしまえば罅どころでは済まないのは火を見るよりも明らかで、どうにかアイオロスの下から抜け出したシュラは半裸のまま寝台を抜け出そうと身を起こした。

 

「何故」

「な、ぜ……って、」

「年の一度の日のことなのに」

 

 何故でもだと絶叫してアイオロスを突き放せないのがシュラの愚かしいところで、だからこんな言葉で容易く揺らぐ。この年に一度の特別な日を長きに渡りアイオロスから奪ってきたのは紛れもない自分で、そういうことを考えてしまうとシュラの抵抗はどこか覇気のないものになる。

 

「シュラ」

「っ、あ 待てっ、んッ、んうぅっ……

 

 顎を掬われ、そのまま唇を重ねられる。厚ぼったい舌に歯列をぐるりと辿られると背筋を得体の知れぬ感覚が駆け抜け、じたばた暴れているシュラの力を弱めていった。

 

「っふ、ぁ……ん、むぅ……

 

 幾度も角度を変えられて唇が合わさるたび、飲み下せぬものが口の端から零れては首筋を濡らす。上顎を舌先に執拗に擽られシュラはうっとりと鼻にかかった声をあげてしまった。はしたないそれに今更羞恥が込み上げてきても、口づけは止まらない。とうとう息が苦しくなって、肩口を押し返していた手で必死にそこを叩き慈悲を乞う。とうとう意識さえ遠くなって震える指先が最高級の生地に弱く縋るだけになっても、それでもなおアイオロスは責めの手を緩めなかった。

 

「ひ、ぁ……ッ、」

 

 抑え込まれたシュラの足先が虚しくもがく。視界が激しく明滅して、悲しくもないのに涙が溢れる。甘やかな嬌声一つ上がらなくなる。

 そこまで追い詰められてからやっと呼吸を突き返されても、すぐには息を吸うことさえままならなかった。

 ひぅ、ひっ、と泣きすぎた子供のようにしゃくり上げるのをアイオロスが背中をさすって宥めてくれる。

 

「吸うんじゃない、シュラ……ゆっくり息を吐くんだ。そう……」

 

 少し落ち着くまでは待ってやろうと、そのくらいの気遣いは辛うじて残されていたらしい。背や頭を撫でる手は昔と変わらず優しいシュラの大好きなもので、疑問や強張りが溶けていく。

 

「……ロス、」

 

 甘ったれた懐かしい口調にアイオロスが相好を崩す。二度目のキスのためにシュラをそっと抱き起こして、膝の上に乗せようとする。

 その選択が間違いだった。

 

「ッひ……!?

 

 ぼやけた視界でもはっきりとわかる。法衣さえ纏ったままのアイオロスの下肢は、恐ろしいほど熱く滾っていて。

 それはつまり、そういうこと。

 

「いやだッ!!

 

 何か考える暇もなく、シュラの身体は動いていた。渾身の一撃に流石に壁まで吹っ飛んだアイオロスを一瞥もせず、今度こそベッドからまろび落ちる。

 誰よりもあんなことがあったけれど、それでも変わらず敬愛している人がこうまで露骨で激しい肉欲を自分に向けている。

 それは処理落ちした頭でも、とても受け入れられそうにない。

 

 散らばる服を掻き集め脱兎のごとく逃げ出したシュラは、アイオロスの一言だけを反芻していた。

 

今日だけ、シュラをもらいに来たんだ。

 

 窓の外の火時計は今、処女宮を指している。


***


一日が終わる前に、山羊座を御前へ連れて参れ

 

 最早何も言うまい、なんていきなり氷の輪が飛んできたかと思えば、悪く思うなよと軽く詫びたミロにはスカーレットニードルを仕掛けられる。すまなそうに眉根を寄せたアルデバランのやる気があるんだかないんだかわからない攻撃をひたすら躱して、こっちは明らかにやる気がないムウのクリスタルウォールを叩き斬ってひた走る。二人して明らかに面白がっている蟹とカノンを壁面の死顔に叩き込む。

 教皇宮に缶詰のサガと、相変わらず五老峰に居を構えている童虎、珍しく暇乞いをして日本に滞在しているシャカと対峙しなくて済んだのは不幸中の幸いだった。

 それでもこの半日でシュラはだいぶくたびれ果てて、皮張りのソファにらしくないだらしなさで腰掛けている。

 紅茶の香りは鼻腔を擽って、疲れた身体にいやに沁みる。

 

「アイオリアなら匿ってくれたろうに」

「……ますます話がややこしくなるだろう」

「それはまあ、そうかもしれない」

 

 教皇の勅命とはかくも残酷なものなのか。13年も前に思い知らされたことをこんな形で再確認させられて、シュラはうんざりと息を吐いた。

 差し出された紅茶を口に運ぶ。蜂蜜の甘さがじんわり広がって疲れた身体を癒してくれた。

 

 あちこちが破れては裂け、泥や埃に塗れた服は自分でも見るに耐えなくて、アフロディーテがどこからかもってきた毛布にシュラはおとなしく包まれた。

 身体の内から外から温もりが与えられて勝手に全身が弛緩していく。二杯目を慣れた手つきで注いでいくアフロディーテの姿に脳のどこかで今更警鐘が煩いけれど、それもやがてくぐもった音になり消えていった。

 

「お前を信じていたのに」

 

 静かな寝息の後ろには、いつの間にかその人が立っている。

 

「猊下のご命令ですから」

「心にもないことを」

 

 苦笑して受け取った荷物はあまりに無防備。こんな風に生殺与奪を全て委ねられた身体を好きにするのはいくらなんでも気が咎めて、アイオロスは苦笑してシュラの寝顔を覗き込んだ。

 怜悧な、時に酷薄にさえ見える瞳が隠れるだけで、昔日のあどけなさが戻ってくる。

 この子供が全身全霊をかけて自分を信じ、想ってくれていた、あの日々は決して帰らない。

 

 それでも今、この腕の中にはシュラがいる。

 

「……今日はこれで満足しておくよ」

「ではこちらは、私から猊下への贈り物といたしましょう」

 

 眠るシュラの手に、何か滑り込ませた麗人が微笑む。

 純潔と尊敬を花言葉に持つ薔薇が一輪、ふくよかな香りとともに揺れていた。

 

初出:2016/11/30(Privetter)