プラハはいいぞっていう話

 ふわぁ、と間の抜けた声が聞こえる。それについ吹き出してしまって、慌ててシュラが口を引き結んだのを感じて少し反省。聖域と修業地であるピレネーとを往復して育った子供は多分に世間知らずなのだけれど、それを表に出さないようにしようと奮闘する程度には賢いし気位が高い。緩んだ表情を引き締めて、アイオロスは彼に向き直った。

「今回の任務の件、猊下には明日の朝ご報告に上がればいいそうだから、今日はここで宿を取ろうか」

「ここで……?

 おずおずと尋ねる声が弾み出すのを必死で押さえ込んでいる。上目遣いの黒目にイルミネーションが映り込んで眩くて、アイオロスは今度こそ破顔して答えた。

「ああ、まずは腹ごしらえにしような」

 日没が近づくプラハの町に子供の促して連れて行く。隣に続く子供の駆け足にはやっぱり隠せぬ喜びと興奮が滲んでいて、年嵩の少年はそれを横目に微笑んだ。

 

「……アイオロス

 立ち並ぶ出店には食欲をそそるものばかり。真っ赤に揺らめく火で炙られる肉の隣には、まぶされた砂糖がきらきら艶めく焼き菓子。蜂蜜がたっぷり溶け込んだホットワインの香りは甘く、けれどなんだか大人の秘密めいたものを持っていて、シュラはうっとりとその芳香を堪能する。

 そうして振り返って、瞬き二回。先ほどまで確かにすぐ隣にいた人は、影も形もなくなっていた。ぐるりと辺りを見渡しても、見慣れた姿はどこにもない。

 鮮やかな熱帯の見たことはないのだが魚のように泳ぐ人々の群れ。自分よりも背の高い大人たちがほとんどのその中でシュラはほとんど溺れそうになって、慌てて背伸びして行き交う人から一人を見つけようとした。

ボク、パパとママはどうしたの

 そんなとき、上から声が落ちてくる。すぐさまシュラの目線までかがみこんできたその人は、アイオリアくらいの年の子を腕に抱いていた。隣に立つ若い男は、シュラとそう年の変わらぬ子供と手を繋いでいる。

 十にも満たない異邦の子が一人ということもあるまいと彼らは声をかけてくれたはずで、だが肝心の言葉がシュラにはさっぱりわからない。別にだからと言って不安だったり焦って泣きそうになったりしているということもないのだけれど、むしろ若い子連れの夫妻の方が困惑に顔を見合わせた。

 さらにそこに妻の手を引いた老紳士まで近寄ってきて。今度は違う言葉で何事か言われたけれど、やっぱり何が何だかわからない。

 流石に申し訳なくなって、眉を顰めたシュラのところに、アイオロスの声が飛び込んできた。

シュラ、どこにいる

アイオロス

 それは脳内に直接響くもの。他人には聞こえないとわかっているのだが、目の前であれこれと思案している人たちそっちのけで話すのもなんだか気まずい。

今から俺が行くから。お前のところから何が見える

ええ、と……。

 ガラスの天使がラッパを吹いているクリスマス飾り、厚手で暖かそうなウールの靴下、甘い香りの蜜蝋細工。どこにも似たような店はありそうだけれど、アイオロスにはわかるのだろうか。

 周りを囲む大人たちは、真剣に何事か話している。母親に抱かれた子はすよすよと愛くるしい寝息を立てていて、父と手を繋いだ子はその手にじゃれて楽しそう。

 よく見ればそんな子供達が、広場には数え切れぬほどいた。

 シュラは両親の顔など知らないから、別にそれそのものは羨ましくもなんともない。この善良そうな老夫婦や子供連れの夫妻などは顔を歪めて泣くかもしれないけれど、親がいないということも、いずれ始まる聖戦でこのような無辜の民を護るために命を捧げるということも、シュラにとっては当たり前で。だから今更寂しくなったり苦しくなったりなどしない。

 しない、けれど。

「シュラ

「っ、アイオロス

 軽い足音。駆け寄ってきた人に後ろから腕を掴まれて肩が跳ねる。慌てて探し回ったのだろう。栗色の癖っ毛はますます乱れて、アイオロスの頬は僅かに紅潮していた。

 血の繋がった家族とは到底思えないし、友人というにはどうにも年が離れて見える。それでも片割れを認めた子供の表情で全てを察して、安堵の笑みで大人たちは散っていった。

 軽く頭を下げたアイオロスが顔を上げるのを少し待って。

「アイオロス、」

「ん

 早く、帰ろう。先ほどまであれほど喜んでいた子供が哀しげに眉根を寄せてそんなことを言うものだから、言われた方は少しばかり驚いてしまう。迷子になったくらいで落ち込むシュラではないのだが。

 袖を引いた子供が続ける言葉は予想外のもの。

「アイオリアが聖域で待ってる」

「シュラ……」

 小さな子供から、たった一人の家族を奪って独占するなんて。小さなかんばせに浮かぶのはそんな罪悪感で、右手に力を込めたシュラは、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「アイオリア、一人で待ってる……」

 そういうシュラのいじらしさが時折とんでもなく可愛く見えて、アイオロスはたまらない気持ちになる。

 弟はといえば、どうせミロとやんちゃ二匹大暴れして、今頃はとっくに夢の中だろうに。けれど精一杯の優しさに水を差すのも躊躇われるから。

「じゃあ、腹拵えして、アイオリアに土産でも買って、それから帰ろう。な

「……うん」

 納得が行く言葉を与えられたろうか。躊躇いがちに頷いたシュラの頭を撫でて、それからその手を下に下ろす。

「こうしておかないと、はぐれてしまうからな」

 掴んだ手が随分と冷たい。子供の柔らかさと繊細さが多分に残る掌に自分の熱を分け与えながら、アイオロスはゆっくりと歩きだした。

 

***

 

「……アイオロス

 なんという早業だろう。ホットドック二本にホットサイダーを買い、釣り銭を受け取って振り返ればもういない。昔のアレも自分ではなくアイオロスが引き起こしたのではと真実に気づきかけて溜息。流石に人波に溺れる子供ではないので、やはり背の高い尋ね人はまもなく見つけることができた。

「シュラ!!

 悪びれない笑顔でアイオロスが歩み寄ってくる。満面の笑みで見せてきたのは、一抱えもある戦利品。ザワークラウトとビーツの酢漬けが添えられた脂と肉汁がてらてらと光る厚切りのベーコンからはまだ湯気がたっているし、油紙に包まれたドーナツはふっくら柔らかくおいしそう。それから薄切りのジャガイモがバネのように連なったチップスに、グリルチーズにクランベリーを添えたもの。四、五種類が袋にぎっしり詰まったナッツ。細長く伸ばした小麦粉を鉄の棒に巻き付けて焼いた甘いパンは、トゥルデルニークと呼ばれるこの時期の菓子。極め付けは寒風吹き荒ぶ十二月の冬空の下に、キンキンに冷えたチェコビール。こんなことで光速移動を駆使しないでほしかった。

買いすぎだろ、それとか、よくこんなに一人で持てたなとか、まだ酒はダメだろうとか、色々言いたくなったけれど、とりあえずそれを腹の内に押し込める。

「……冷める前に食べるか」

「ああ

シュラ、頼むから兄さんを甘やかさないでくれ。あの人ただでさえ常識がないんだから。

 先日のアイオリアの小言が脳裏を過ぎり、だがシュラはそれを思い出さなかったことにした。

 手頃なテーブルに晩餐を広げて、アイオロスが早速ホットドッグに齧り付く。あまりにがっつくものだからマスタードとケチャップが顔を汚して、見かねてシュラがハンカチで拭う。

 ん、と目を細めたアイオロスがもごもごくぐもった声で礼を言う。指先のケチャップを舐め取る仕草に、シュラはつい吹き出していた。

「今は貴方の方が子供のようだな」

「ふふ、そうだな」

 困ったように笑って、頬に残るパン屑を払う。生きてきた長さだけを見れば確かに否定できないのだけれど、そのことについてはもう、口に出さないと互いに決めていた。

 それからシュラも、手近な焼き菓子に手を伸ばす。

 いつしか雪がちらつき始めて、一年の終わりを白く染め始める。それに急かされたという訳でもないが、あっという間にテーブルはすっかり片付いて、くちくなった腹を摩る二人だけが残された。

「行くか」

 弟への土産を物色すべく、広い背中が再び人混みに向かっていく。それなりに勇気を奮い起こして、シュラは勢いよく右手を伸ばした。

 冷たい指先が掌に滑り込んできて、驚いたアイオロスが振り返る。

「……こうしておかないと、はぐれるんだろう」

 繋がれた手は硬く骨張っていて傷だらけで、あの日の面影はどこにもない。

 けれど赤く染まった耳朶が、遠い日々を思い出させた。

「そうだな……シュラ、」

「なん、ッ!?

 腕を引いて、無理やりこちらに向き直らせて。

 めいめいがそれぞれの幸福に夢中な雑踏の中。

 美しく照らされた樅の木だけが、恋人たちのキスを見ていた。

 

初出:2017/01/03(Privetter)