俺でいいのか。
それがシュラの最初の一言だった。
「貴方がいいんだ」
貴方が。
そう重ねて強く言っても、くろがね色の瞳は僅かな困惑に揺れるばかりで、紫龍は思わず柳眉を寄せた。
「シュラ……」
吹き上げる風が酷く冷たい。
それは十二宮での苛烈な戦いの直後のことだった。
紫龍は一人磨羯宮から宝瓶宮へと続く道に佇んでいた。
一つ上った宮では、氷河やミロがカミュの亡骸と向き合っている。
凍気と凍気のぶつかり合いの果て、氷河と彼の師がどのような思いを分かち合ったのかなど、紫龍にはもちろんわかりえないことだ。
だがちらりと見たカミュの死に顔は、ただひたすらに穏やかなもので。
あの微笑みにきっと、氷河は少しばかり救われたことだろう。
割れた大地、散乱する己の聖衣、そして乾いた地面にわずかに残る血。
そこに力なく横たわる、蝋のように無機質な右手を、傷だらけの手で拾い上げる。
屈み込んでいた紫龍が、不意に背後から声をかけられたのはそのときだった。
「悔やんでいるのですか」
「……悔やんでなど……ならんと思う」
嘘はついていない。
ただ、必ずしも本当のことを言っているとも言えないのだけれど。
シュラの――これだけしか残らなかった――亡骸を手に俯く紫龍の傍らに、白羊宮の主が膝をつく。
嫋やかで優美なその面からは想像もつかないほど、ムウの手も古傷が多いものだった。
その手がそっと肩に伸ばされ、外衣を外す。
「ムウ……」
差し出されたすべらかな布を、紫龍は目礼して受け取った。
腕一本、剥き出しのまま抱えているのはあまりにも忍びない。
不器用なりに外衣で亡骸を包み立ち上がった紫龍は、改めてムウに向き直った。
「その……ムウ。貴方に頼むことではないかもしれないが……」
シュラの私室に足を踏み入れてもいいだろうか、と。
断る権利もないと、ムウは黙したまま小さく頷いた。
主を失った磨羯宮は、じいんと冷えて物寂しい。
主人が骨も残さずに消えたというのに、戦禍を免れたこの宮は酷い内乱など知らぬかのように、ただ静かにそこにあった。
「……こちらへ」
「ああ、すまない」
宮の造りなどどこも大体同じだ。
泰然と輝く女神像の脇をすり抜けて二人は歩く。
シュラを抱えた紫龍の代わりに、ムウが重く閉ざされた扉を開けた。
「な……!?」
「これは……」
流石に予想できなかったのだろう、ムウさえも小さく声を上げたきり黙り込んでしまった。
「なぜ、こんな……」
変声期を終えたばかりの声が震える。
その呟きが、何もない部屋に響いて消えた。
衣類や本などといった私物はおろか、カーテンやマットレスさえもない。
据え付けのものであったのだろう、本棚とベッドと机だけが置かれた、あまりに寒々しい私室。
「なぜなんだ……!」
反逆者を排除して聖域の安寧を取り戻すのだと、平然とそう言ってのけたくせに。
答える者のない問いが消えたとき、熱いものが頬を伝った。
「……シュラ?」
「何をぼさっと突っ立てるんだ、早く入ればいいだろう」
「……お邪魔します」
両腕いっぱいに荷物を抱え、毎度のことながら律儀に深々と頭を下げる。
そんな紫龍を一瞥して、シュラはさっさと奥へ引っ込んでしまった。
慌てて居住スペースの奥へと後を追いながら、紫龍はぴんと伸ばされた背筋を見つめる。
視線も小宇宙も聖剣も、寧ろ生き方そのものが触れなば斬れん刃のようなシュラだけれど、今纏う雰囲気はどこか優しい。
こんなとき紫龍は、柄にもなく少しばかり自惚れる。
「相変わらず何もないな」
「増やす必要性を感じん」
女神の慈悲で再び生を受けてからも、ここ磨羯宮はいつまでも殺風景なままだった。
まるでいつまた命を落とす――今度はきっと、最初から胸を張ってシュラは女神のために殉ずるのだ――ことがあってもいいように。
それが恐ろしいのだと紫龍が言ったら、目の前の青年は何と言うのだろう。
「シュラ……花瓶があったら、」
「あるように見えるか」
「いいや、見えない」
だから置かせてもらう、とシンプルなガラスの器を見せれば、シュラの細い眉が顰められる。
文句を言われるかとちらと思ったが、結局彼は何も言わない。
引っ掴んだ花瓶を片手に厨房へ消え、ややあって水を満たして戻ってくる。
アフロディーテから受け取った香り高い薔薇を活けると、無機質で素っ気ない部屋がいくらか華やいだ。
「お前が贈られたものだろうが」
「いいんだ」
苦笑交じりの声がかけられても、置き場所を探してうろつく紫龍は上機嫌のままで。
薔薇がアフロディーテからであるならば、実のところこの花瓶はデスマスクからのもの。
結局紫龍がこうすると知っていて、二人して今日の主役をだしにしている。
だがそれすらも気にならないほど、今日の自分は浮かれているらしい。
「ほら、主賓がふらふらしてどうする」
ようやく窓際に花瓶を据え置くのを待ちかねて、両手に大皿を持ったシュラが窘める。
それでやっとテーブルにつけば、そこに次々と料理が並べられていく。
「うわ……!」
真っ先に置かれたのは、素朴なパンにすっかり熟したトマトが塗りつけられたもの。
つやつやと輝いているのは惜しげもなく垂らされたオリーブオイルだ。
隣に並べられた生ハムと一緒に食べればいいのか、初めての料理を前に想像が膨らんで、知らず顔を綻ばせていた。
柔らかそうな蒸し蛸やぷりぷりのエビ、見慣れぬのは干物を水で戻した刺身だろう。
「日本ではこうして一度にメインまでテーブルに並べるんだろう?」
「ああ、そうだが……すごいな……」
オレンジ色のソースも鮮やかなサラダもおいしそうだし、脂が室内灯の下で艶めいている子豚の炭火焼きも大層魅力的。
ニンニクの香りが食欲をそそるソースをかけて齧り付いたら、溢れる肉汁を幸福感がさぞ口内と胃と心を満たしてくれることだろう。
けれど一際目を引いたのは、大きなパンに入ったまま運ばれてきた一品だった。
黒い、とにかく黒い。
食べるのを躊躇しそうなほど黒く染まった米の上に、輪切りのイカと色鮮やかなパプリカが並べられている。
さっとシュラがレモンを絞ればブイヨンと魚介の香りの中に香気が立って、紫龍の腹がくう、と鳴った。
「じゃあ、食うか」
赤面した子供の頭に手を乗せて。
対面に腰かけたシュラがやっと、思い出したかのように祝いの言葉を口にした。
「そうだ。誕生日おめでとう……紫龍」
「ああ、ありがとう。……いただきます」
「……Bon profit」
どれもあんまりおいしそうだから、何から手をつけたらいいかわからないくらいだ。
そんな惜しみない賛辞とともにしっかりと手を合わせて頭を下げる相手に、シュラが呟くように母語で返す。
そんな小さな照れ隠しに、ふと紫龍は、彼もまた23歳の青年であったことを思い出した。
――何もいらない。ただ、誕生日を一緒に過ごしてほしい。
――は? ……俺で、いいのか。
――貴方がいいんだ。貴方が。
きっぱりと言い切って、それから一つ、遠慮がちに付け加えて。
――そうだ、もしよかったら……貴方が生まれた国の料理など、食べてみたいんだが……。
――なんだ、欲のない奴だな。
本当にそうだろうか。
随分と贅沢を言ったものだと彼の旧友二人にも老師にも呆れられた――ついでにデスマスクには“身の程を弁えろ”と頭を小突かれた――のだけれど、シュラ自身はきっと気付いていないのだ。
“俺のために買い物をして、いろいろなものを揃えて。俺のためだけに時間を使って、手ずから料理を作ってほしい”なんて、そんな頼みごとの重さにも。
楽しい時間は瞬く間に過ぎてしまった。
何もかもを平らげて、すっかり腹がくちくなる。
揃えたばかりなのが一目でわかる、真新しいカトラリーや食器の数々。
糊の効いたテーブルクロスも――紫龍が少しばかりトマトソースやイカ墨を跳ねさせてしまったのだけれど――目に痛いほど白かった。
「シュラ、濡れた布巾はどうしたら?」
ゲストにそこまでさせるのは、などとやんわり言われたのに、無理を言って後片付けを手伝っている。
並々と容量の残る洗剤に新品のスポンジ。
オリーブオイルも封を開けたばかりのようだし、砂糖と塩のポットの中身だってほとんど減っていないに違いない。
購入したばかりらしい冷蔵庫にミネラルウォーターを入れながらシュラが答えた。
「そこの籠に入れておいてくれ。新しいものは戸棚の中にある」
「ああ、わかった」
言われた通り戸棚を開け、やはり使われた形跡のほとんどないそれを手に取る。
ふと紫龍の目に留まったのは、片隅に立てられた一本のワインだった。
あの日の記憶が不意に蘇る。
「これ……」
見間違うはずがない。
あの何もかもなくなった部屋の、机の一番下の引き出しに隠すように仕舞われていたものだった。
動きの止まった紫龍を訝って、後ろからシュラが覗き込む。
彼の纏う空気ががらりと変わった。
「ああ、これか……」
「シュラ?」
「アイオロスから贈られたものなんだ。俺が山羊座の聖衣を賜った祝いにと」
おかしいだろう、自分も13歳の子供だったくせに9歳の俺に酒など。
あの人はそういったところがいつもどこか抜けていた。
そう小さく笑うシュラの声は、けれどもちっとも楽しそうになど聞こえなくて。
紫龍はそっと、今生に蘇ることのなかったその人を思った。
「さっさと飲めばよかったんだが……出し惜しみしているうちに飲み損ねたな」
「シュラ、」
「そうだ紫龍、今飲むか?」
「え?」
「このワイン、お前の生まれ年のものになるだろう。俺などが飲むよりよほどいい」
勝手に一人で決めてしまったシュラがソムリエナイフを探し始めて、紫龍は流石に狼狽して声を上擦らせた。
放っておけば瓶の首を切り落として開けかねない。
「だがシュラ、それは貴方がもらったものだろう!」
「俺がいいと言っているんだ」
「俺がよくない!」
「何故」
紫龍だって同年代の少年たちと比べたら決して小さいわけではない。
だがシュラと比べれば話は別だ。
威圧しているのでもないのに見下ろす視線は鋭くて、紫龍は知らず口ごもっていた。
「な、ぜって……そ、そもそも俺は未成年だからだ!」
「未成年……」
「なっ……どうしてそこで笑うんだ!」
ぱっと口をついて出た理由はそれだけで。
我ながら見事な切り返し、そう思ったのは紫龍だけで、シュラは一瞬の呆け顔のあと腹を抱えて笑い出していた。
この年で酒の味も知らないとは、老師もとんだ箱入り少年を育て上げたものだと思う。
「普通だろう、日本では酒は二十歳からなんだ!」
ムキになって言い募る様にますます笑いを誘われる。
早くから平然と酒を味わっていたのは何も自分たち年嵩の三人だけではない。
生真面目な、かつ品行方正な忠臣であることを強いられ続けたアイオリアはともかく、他の面々は酒など普通に飲んでいた。
見かけによらず下戸で殆ど飲めないミロや、人目につかぬ程度に嗜むだけだったアルデバランなどかわいいもので。
時折シベリアから帰ってきては淡々とショットでウォッカやサマゴンを楽しむカミュなど、チェイサーすら用意せずに次々瓶を空にしていた。
シャカだって本来は酒気を忌避する身の上ではないのだろうか。
顔色一つ変えずに度数の高い酒を干していた記憶しかないが。
「そうか、未成年だからか……そうか、」
「そんなに笑わなくともいいだろう……!」
「いや、すまん……だが、」
自分を打ち倒した少年の、潔癖なまでの正しさがシュラはいたくお気に召したようだった。
遠慮なくげらげら笑っているのは気に食わないが、先程までの憂いはすっかり消えていて、紫龍はそっと息を吐いた。
シュラが抱えたままでいたワインを手に取る。
確かにそこには、自分がこの世に生を受けた年が大きく書かれていた。
「そうだな……飲ませてもらおう」
「ほう?」
急に物分かりがよくなった紫龍に、片眉を持ち上げシュラは薄く笑う。
ともすれば酷薄にさえ見えるその笑みが、実は彼が上機嫌なときに見せるものだとわかるようになったのはいつのことだったか。
こんなことを告げたらシュラは、一体どんな顔を見せてくれるだろう。
「俺が成人するまであと数年あるだろう。二十歳になったらそのとき飲ませてくれないか? 貴方と一緒に飲みたい」
「……紫龍、それは、」
「なぁ、いいだろう?」
黒目がちの瞳にじいっと見上げられて、溜息一つ。
その目のひたむきさに免じて、シュラは折れてやることにした。
「紫龍。お前、存外厚かましいな」
「なんだ、今頃気が付いたのか!」
それでも一言言わずにはいられなかったのだけれど、この少年に堪えるわけがない。
そんな呆れ声さえも嬉しいと言うように、まっすぐな黒髪がさらさら揺れた。
「厚かましいついでに泊めてくれ、シュラ。今晩はもっと貴方と話がしたい」
「おい、紫龍……!」
困惑に声を詰まらせたのは瞬きにも満たない僅かな時間。
不敵な笑みを浮かべたシュラは、自ら先導して自宮の最奥へと足を踏み入れていった。
「ここの宿賃は高いぞ」
扉を開け放った先には、やはり最低限のものしかない。
「朝は俺より早く起きて朝食の支度と掃除を済ませておくこと。俺が起きたらシーツ類を洗濯して裏庭に干せ」
「ああ、まかせておけ」
傍から見れば連れ合い同士のような会話にも、それを指摘してやるギャラリーは不在で。
「そうしたらその後で、鍛錬くらいは付き合ってやる」
適当に棚を漁ったシュラが夜着とタオルと新品の下着を放ってよこす。
「それから、せめて下着くらいは持って来い」
「明日にでも必ず」
「……明日も居座るつもりか?」
「ダメか?」
「……好きにしろ」
先にシャワーを浴びてくると、早々に部屋を後にしてしまったシュラを目で追い、それから紫龍は古ぼけた椅子に腰かけた。
あと数年、そう遠くない未来のこの日を想う。
この磨羯宮は、今よりもきっと色々なものに溢れていることだろう。
紫龍にはそれが待ち遠しくてならない。
初出:2015/10/04