なお、回答は事前のアンケートに基づいてるっP!
「……はぁ?」
後ろに音符か星でも飛んでいそうな悪友の言葉に顔を顰める。白い壁と目の前のドア以外何もない部屋に聞こえるその声は、粗悪なスピーカー越しであるようにざらざらと掠れていた。
――相手が自分のどこを好きか、当てるまで部屋から出られません。
回答も事前のアンケートもクソもない。そんなくだらない質問をされた記憶などどこにもなくて、シュラは思いきり顔を顰めていた。わざわざ答えてやる気など微塵も感じないのに、何故か隣にいる人は顎に手を当てて真剣に考えている。
「アイオロス、」
「回答は“一つ”きりなんだろう?」
「そうだね。あまりつらつらと羅列されては面白みにかけるから」
「なるほど」
おい……!」
アイオロスの呟きに答えたのはもう一人の腐れ縁で、シュラは慌てて辺りを見渡した。こぢんまりした部屋の中、一体どこからこの声は聞こえてくるのだろう? 敵の罠かとさえ思って警戒するシュラをアイオロスは大らかに笑い飛ばすのだった。
「だってこんな情報、何の利にもならないだろう」
「さっすが教皇補佐官殿は話がわかるぜ!」
「その様子だと答えにももう見当がついているんだね?」
「当たり前だ」
何やら自分を置いてすっかり盛り上がっている三人に頭を抱えても詮無いことだった。やがて胸を張ったアイオロス、ずい、と一歩前に進み出た。
「回答は一つきり。だが“答え”そのものが一つであるとは限らない」
「鋭い」
「回答者はシュラ。だとすれば考えられる正答はこれしかない」
「ア、アイオロス……?」
「なんだ、私が間違うとでも?」
そういうわけじゃないが。シュラは思わず口ごもった。シュラ当人すら答えを知らぬというのにこの人は何故こんなにも自信満々なのか。わけがわからないけれど、それこそがアイオロスがアイオロスたる所以なのであった。
確かにシュラ自身、アイオロスが間違うはずもないと思ってはいる。
果たしてその確信通りだった。
「――“全て”」
「……っ、」
ぴんぽーん、と間の抜けた蟹の声が憎たらしい。白皙に一気に血が上るのを感じて、シュラは口元に手の甲を押し当てる。
それは確かに、自分にとっての唯一の答え。
がちゃりと錠が外れる音がする。
「シュラ、」
「アイオロス、ノーヒントでなければ面白くないじゃないか」
「だがそれではシュラは出られないぞ」
「いーんだよ! こいつの珍回答を楽しむためにやってんだから!」
戸口で振り返ったアイオロスの言葉はあっさりアフロディーテに遮られる。悪ノリのすぎる悪友二人に本気で聖剣をかましてやりたいと思うものの、今のシュラにはその手立てさえ与えられないのだった。
馬鹿正直に扉が閉まるのを見送って――再び錠が下ろされる音に正気を突き返されて、後悔。それでも木板一枚を斬り捨てるでも粉砕するでもなく、シュラは律義に立ち尽くしていた。
「シュラ、それではいつまで経っても出られんぞ」
「う……だが、」
「まぁとりあえず言ってみたまえ。失敗してもペナルティーはないのだから」
「どんだけ外そうが俺たちに笑われるだけだ」
それが腹立たしいのに決まっているだろうが!と怒鳴りつけたくなって息を吐く。
いつの間にか二人と合流したらしいアイオロスも、シュラの答えを待っている。逡巡の後、重たい沈黙に押し出されるようにしてシュラはようよう口を開いた。
「……弟のような、ところ?」
途端吹き出した蟹の声に、失敗した、と思っても遅かった。ふふ、と笑いを噛み殺しているのはアフロディーテだ。少しばかり困惑したアイオロスの感想に、シュラはいよいよ消えたくなって額を手で押さえた。
「うーん……わ、私も弟とは“あんなこと”はしないな……」
「“あんなこと”ねぇ……」
「貴方がアイオリアをまさしく猫かわいがりしているのも事実だから……訓練のとき以外は、の話だけれど」
「たった一人の血を分けた弟だ、かわいくないわけがないだろう。言うまでもないが恋人と弟は違う」
「だってよ。よかったなーシュラ」
「何がだ!」
苦笑の滲む声。いちいち茶化してくる悪友の笑い。怒りやら戦いでも感じたことのないような焦りやら疲労やらその他もろもろの感情やらで頭がぐるぐるする。ほら次、と促すアフロディーテの声が存外落ち着きを取り戻していたから、シュラは取りあえず気を取り直して次の答えを探した。
何かとっかかりになる思い出はないか、記憶の扉を片っ端から開いて中を引っかき回す。そう言えばいつだかに、アイオロスはこんなことを言っていた。
「ご飯をおいしそうに食べる」
「嘘つけ! お前何作ってやっても石噛んでるみてーなツラで食う癖に!」
「いや、昔はそうだった。ゆで卵が好きでいつも最後までとっておいてニコニコ顔で食べるのに、いつだか君がからかって横からかっさらったものだから……」
「あー……んなことあったかも……」
「はは、あの頃のシュラはころころ表情が変わってなんだか子犬みたいだったな」
「確かにいつも貴方の後ろをついて回っていた」
どうやらこれも違うらしい。そのまま思い出話を始めてしまった三人の会話を聞くともなしに聞きながら、シュラはまたも考え始めた。
無意識に髪を掻き回していた右手を下ろし、おもむろに口を開く。これもかつてアイオロスに言われた言葉だ。
「……小宇宙が綺麗?」
「ハズレ」
「だが私もシュラの小宇宙は綺麗だと思うよ」
「あの触れなば斬れんという研ぎ澄まされた美しさが好きなのだが……回答は一つだけだからな」
「仕事や訓練を真面目にする」
「それもハズレ」
「う……」
やけっぱちになって思いつくままに答え続ける。
朝は大抵アイオロスより早く起きて朝食の支度をしているところ。いつも宮内を整理整頓しているところ。青銅や白銀の面倒をよく見るところ。わからないことは調べるか人に聞くかしてそのままにしないところ。挨拶や礼の言葉を欠かさないところ。
「お前なー、外すならもう少し突っ込みがいのある外し方しろよ」
あれも違うこれも違う。別にお前の楽しみのために間違っているんじゃない!と言いたいのをぐっと堪え、シュラは一旦口を噤んだ。
再び部屋に静寂が広がる。
これ以上何を言えばいい。何を考えても、言葉にする前にこれは違うだろうと脳内で結論が出てしまう。だってシュラの恋人はアイオロスなのだ。“強い”だとか“地位がある”だとか、“かっこいい”――と自分で思っているわけではないのだが、時折雑兵や候補生の熱い視線や囁きを拾うことがあった――だとか。彼の前でそんなことを言うのもおこがましい。
黙りこくってしまったせいで、見かねたデスマスクが助け舟を出した。
「お前さ、一旦もっとシンプルに考えろよ」
「シン、プルに……?」
「恋人に求めるモンと宮の従者に求めるモンじゃ全然違うだろ? お前の答え、それホントに恋人の好きなところって胸張って言えるもんだと思うか?」
確かにそれはそうだけれど。尚も考え込んだままのシュラに対して、先程助言を禁じたはずのアフロディーテまで口を出していた。
「君がアイオロスのどういうところが好きなのか。それも併せて考えてみるといい。いずれにせよ何でもいいから口にしなければ永遠に正解へは辿りつけないよ」
「シュラ、照れていても始まらん」
しまいにアイオロスに背中を押されて、シュラはきっ、と扉を睨んだ。無意識に避けていた答えをようやっと言葉にする、その頬には再び朱が上っていた。
「か、か……わ、いい、ところ……」
「すっげー戸惑って言ってくれたところワリーけどハズレ」
「ッな……!?」
「いや、当然のことだがシュラはかわいいと思っているぞ」
別に186センチ83キロの三白眼がかわいいなんて思っているわけじゃない。けれど恥を忍んで言った答えまで不正解とあって、シュラは愕然と目を見開いた。誤答とアイオロスのフォローと、二重の恥ずかしさで耳まで赤くなっていくのがわかる。
シュラくんかわいー、なんて、常ならば腹立たしい野次に怒る余裕もない。とにかく早くここから出たくて、シュラはついに完全に開き直った。
正解を言い当ててからでいい、蟹を捌くのはその後だ。
「顔」
「ハズレ」
「身体」
「違う」
「……笑顔」
「お前笑った顔めちゃくちゃ凶悪だろうが」
「いや、シュラははにかんで笑うとかわいいんだ」
「じゃあ泣き顔……?」
「それ選んでたらアイオロスの人格疑った方がいいぞ」
「シュラは泣いてもかわいい」
「……身体の相性!」
「それも違う」
「もちろん悪くないと思っているからな!」
「あ、アイオロスのことをとても好きなところ……!」
「思い切った回答だが、それもハズレ」
「何というか……流石にすまなく思い始めてきた……」
「今更だな、アイオロス」
「何故だ……!?」
がっくりと膝をついて項垂れて。とうとうシュラには打つ手がなくなってしまった。
手持ちのカードは全て切った。もうこれで本当に、何一つ思いつくものがない。
脳味噌をぎゅうぎゅうに絞り上げるのを止めて、もういっそ、ドアを蹴り開けてここから出たい。古びた木の扉は、小宇宙を燃やすまでもなく山羊座の一蹴りで容易く吹っ飛びそうだった。
けれど不穏な計画を知ってか知らずか、相変わらず掠れてノイズの入ったアイオロスの声が何もない室内に聞こえてくるのだった。
「シュラ。最悪の状態でこそ、見えてくるものがあるとは思わんか」
「最悪の、状態でこそ……」
「そうだ、いつも言っているだろう」
「“どん底とは、それ以上落ちることのない上昇の地”……!」
「ああ!」
なーにいい話っぽくなってんだ、という至極真っ当な蟹の呟きは右から左。諦めてなんかいられない!と主人公よろしく再び立ち上がったシュラは、嘆きの壁を目前とした瞬間の熱意でもって一枚の扉を睨み据えた。
「そうだ……俺は間違っていた……」
「おっ?」
「肝要なのは発想の逆転」
「おお?」
「つまり逆に考えるんだ……好きなところ、とは美徳ではなく、」
「シュラ!?」
ついに核心に近づいた一言に、ギャラリーの反応に再び熱が入る。それをほとんど上の空で聞きながら、シュラは一人考え耽っていた。
誇り高さは時に傲慢へと姿を変え、また反対に冷酷さは時として冷静さという美徳になる。悪徳と美徳とは背中合わせの双子であり、また公転によって姿を変える月のようでもあるのではないか。
だからきっとシュラ自身が欠点だと思っていることの中に、アイオロスは美点を見出してくれているのだ。
「例えば……」
人の話を聞かない。13年前のあの日、アイオロスの訴えに耳を傾けていれば、彼が歩む未来は変わっていたはずだ。
そのくせ人の話をすぐ鵜呑みにする。そもそもその前に教皇の話を聞いて少しでも自分で考える頭があれば、アイオロスを手にかけることもなかったろうに。
さらには自分の行いに自分で責任が取れない。アイオロスを半殺しにしておきながらその重みに耐え切れず、支えてくれた二人がいなければ13年前、シュラは聖剣も聖衣も捨て廃人となっていただろう。
ついでに言えば過ぎたことをいつまでも気に病む。再びの生を歩む今となっては、それらは全て過去のこと。それを自分ばかりがこうして、うじうじと捏ね繰り回しては一人いつも袋小路に迷い込んでいる。
口を噤んでいるシュラが放ち始めた陰気なオーラに、恐る恐るデスマスクが声をかけた。
「おい……シュラ?」
「……俺が、好きなところが当てられないのではなく。アイオロスは俺のことなど好きではないのではないだろうか」
「なんッでだよ!!?」
「いくらなんでもその発想はなかったよ」
発想のコペルニクス的転回だな、とわけのわからないことを独り言ちて、アフロディーテが呆れ果てている。とんでもないところに行きついた腐れ縁の思考回路に突っ込みが追い付かずデスマスクが頭を抱える。
声に出さず、唇すら動かさず。アイオロスは呟いて小さく笑った。
――そういうところなんだがな、シュラ。
「あ……」
それが聞こえたはずもなかろうに、弾かれたようにシュラが顔を上げる。
「…… もしかして」
――“面倒なところ”?
正解だっP!なんて叫ぶ声はなかった。
錠前が外れて落ちる音がする。目を刺すほどの光が飛び込んでくる。
開いたのは扉ではなく――。
***
「ん……う、うぅ……?」
随分と高くまで昇った日に執拗に瞼を射抜かれて、不承不承瞼を持ち上げる。視界に飛び込んでくるのは普段と何ら変わらぬ磨羯宮の天井で、シュラはぼんやりと趣味のいい――何年か前の誕生日にデスマスクからもらった――ランプシェードを眺めていた。
身動ぎしてやっと、隣の温もりに気が付く。
「おはよう、シュラ」
「ア、イ……ロ、」
「酷い声だな」
水差しを、と身を起こして身体を捻ったアイオロスの後ろ、サイドテーブルの上のシンプルな置時計が目に入る。
無言でそれを眺めること数十秒。トップスピードが光速の世界を生きる黄金聖闘士にとっては気が遠くなるほどの時間の後に、シュラの意識は急速に覚醒した。
上掛けを跳ねのけ、飛び起きる。
「……ッ、え!?」
「シュラ、どうした」
気怠さと腰に残る痛みに突っ伏しそうになったのを抱き留められて、シュラはすっかり混乱しきってアイオロスを見上げた。恋人手ずから水を飲ませてもらって、まだひりひりと痛む喉からどうにか声が出るようになる。
動転しているのはシュラだけで、アイオロスは冷静そのものだった。
「と、時計……!」
「ああ。無意識に止めたのか気が付かなかったのかわからないが、私もさっき起きたところだ」
視線の先、短針はいっそ昼と呼んだほうが潔いような時間を指している。焦るでもなく平然としているアイオロスの腕を押し返して、シュラはほとんど転がり落ちるようにして寝台を抜け出した。
「もう少し横になっていた方が、」
「貴方は今日明日と休みを取っているからいいだろうが、俺は今週は休みなく出仕なんだ!」
日に焼けぬ肌には昨夜の情事の痕が色濃く残っている。丁寧に畳んである訓練着を放り捨てて内衣を引っ張り出すシュラの手つきは、まだどこかたどたどしくて危うかった。
もう遅刻どころの話ではないが、それでも行くつもりらしい。
「だがそれだって、ムウの代わりに引き受けたものだろう。急な修復業務が入ったからと」
「元が誰の仕事かなんて関係ない。俺が請け負った以上俺がやらねばならん」
薄絹の外衣をも身に纏い、シュラは遅ればせながらも教皇宮へと参じる気満々だった。そんな恋人の姿を、髪の一筋から足先まで眺め回し、アイオロスはひっそりと呆れ笑いを漏らした。
硬質な髪はこんなとき妙な癖がつかなくていい。だが昨夜アイオロスがあまりに泣かせてしまったせいで、目尻には重ったるい腫れが引かずにあった。薄い唇はぽってりと紅く艶めかしい。そして何より首筋から胸元にかけて、刻み込まれた所有の証がはっきりと昨夜の夜伽を連想させた。
ぎこちない歩き方で寝室を出ようとするのを、抱き留めて腕に閉じ込めた。
「おい、アイオロス……!」
「明日私が手伝おう。その方が効率がいい」
その様では仕事にならないと暗に告げても、シュラは困ったように眉根を寄せるばかりで。
「だが、明日はアイオリアと出かけると、」
「約束を取り付けたわけではないし、恋人との時間を優先することがあってもいいだろう? “恋人と弟は違う”のだから」
「……っ!?」
「奇妙な夢だったな」
その一言で突然に、目を開けるその瞬間までがまざまざと思い出されて、シュラは意味もなく唇をぱくつかせた。千々に切り裂いて風に散らしてしまいたいようなあの夢をまさかアイオロスと共有しているだなんて。
首筋まで赤く染まった身体を、アイオロスは軽々と抱き上げた。
「ひぁっ……!」
「私は、お前とアイオリアを同じように扱っているつもりなどないのだが」
寝台に横たえてやったシュラに覆いかぶさるようにして、戸惑いと羞恥に揺れる黒檀の瞳を見下ろす。硬い黒髪に指を通してそっと撫ぜると、物言いたげな視線がちらりと投げかけられた。
「その……アイオロス、」
「ん?」
シュラが言いかけた言葉が宙に消える。
もごもごと口ごもれば、返ってくるのはいつものようにどこまでも穏やかな微笑み。今では実の弟にさえもしないようなこと――ハグやら抱っこやらお休みのキスやら頭をぽんぽんと撫でるのやら――をアイオロスがあまりに頻繁にやってくるので、シュラは時々いまだに自分は10歳の少年なのではと錯覚しそうになる。
とは言え貴方が俺を子ども扱いするから、などと臆面なく言えるほど子どもではないので、結局シュラは、問いかけの眼差しに質問でもって答えたのだった。
「俺は、ええと……貴方に面倒をかけないように善処したほうがいいのだろうか」
「……まさか!」
思いもよらないことを言われて呆けたのは一瞬。真剣にこちらを見上げるシュラを見下ろしたまま、アイオロスは声を上げて笑い出していた。
相変わらずのピントのずれた言葉。その問い自体が既に面倒、とは指摘しないでおいてやる。
「頼むから変わってくれるな」
愚直で、不器用で、馬鹿正直なままで。
優しいさざ波のような笑いが引かない。こみ上げてくる感情に正直に、アイオロスはこの面倒な――つまり、とびきりかわいくてたまらなく愛おしい――彼の恋人を、力いっぱい抱きすくめた。
初出:2016/05/22(Privatter)