突然だけれどこの星はもう明日で終わりで、誰にも、何にもできないらしい。
そんな前提を当たり前のように世界の人は共有していて、その中でシュラは淡々と日常を過ごしていた。
巨大な隕石が落ちてくるとか、全世界で同時に凄まじい地震が起こるとか、はたまた宇宙からの侵略者が人類を皆殺しにするとか。憶測が憶測を呼んで街は酷い有様なのに、この青年は何一つ変わらなかった。
朝、起きる。電気も水道も機能しない家で買い置きの乾パンを咀嚼し飲み込み、それから簡単に身繕い。自転車に乗って——何しろ公共交通機関はもはやどれもまともに機能しないので——誰もいない職場に赴き、黙々と書類仕事を済ます。
見る人のいない、これからいなくなる仕事の成果を上司の机に置いて、きっかり5時に退社する。
変わらぬ日々の最後には、一つだけ違うことが待っていた。
「シュラ!!」
「アイオロス?」
不意に声を掛けられたシュラが振り返る。
三白眼を健気に丸くして彼が見つめているのは“俺”だった。
汗ばんだ額を軽く拭って、鏡で見慣れた顔が笑う。
「よかった、会えて」
「……俺も、最期に会えてよかった」
「っ、なぁ、シュラ」
俺たちのうちに来ないか、なんて。
思わぬことを言われた顔をしたシュラが瞬いて、視線を落として、それからおもむろに顔を上げる。
「せっかくだが、先約があってな」
「そう、か……」
「貴方も早く帰った方がいい。アイオリアと過ごせる時間は、もう長くはないのだから」
下手な嘘。瞬き一つせず、焼き付けるように“俺”を見て、それからシュラは少し笑った。
「さようなら、アイオロス」
踵を返すシュラを何故追わない! 俺にはそれがもどかしくて、腹立たしくて、それでも何もできなかった。
躊躇いのない足取りで家に帰ったシュラは扉の内側で一度溜息を吐いて、感傷的になっていたのはそのときだけ。
一本だけ置いてあったワインを開けて、最後の缶詰を平らげる。
窓から見える空は、悍ましい赤に染まっている。遠くで暴徒の絶叫。何かが打ち壊される音、絶え間のない発砲音、野犬の遠吠え。
「……おやすみなさい」
それは独り言か、それとも誰かへの言葉なのか。
もう目覚めることがないと知っていても、その眠りはどこまでも穏やかで——。
「アイオロス!」
「っへ、ぁ!?」
いっそ怒気さえ孕んだ声に叩き起こされて、挙句ベッドから転がり落ちる。
見慣れた白亜の壁や天井は確かに守護宮の私室のもので、アイオロスは慌てて辺りを見渡した。
眉根を寄せたまま自分を睨み下ろすシュラと目が合い、困惑に首を傾げる。
だってシュラは一人で自宅に帰った筈で。
「……え、あれ……夢?」
「いつまで寝惚けているんだ……!」
朝儀の前に禊があるだろう!なんて焦れて怒鳴ったシュラがアイオロスから剝いだ夜着を寝台に放り、湯殿に引き摺っていって叩き込む。
氷のように冷たい水を頭から浴びてようやく、夢が遠くなっていった。
見上げた空はどこまでも晴れ渡って青く、きびきびと働くシュラはアイオロスが間違いなく法衣を身につけられるか、横目で時折見張っている。
不自然なほど赤い空を電線が区切る街並みも、寂れたワンルームのアパートも、明日を迎えることができない世界も、ここにはない。
「……なぁ、シュラ」
「なんだ?」
そっけない返事。眩い黄金の聖衣は、吊るしのスーツなどよりもずっとずっとこの青年を美しく見せる。振り返った顔が無愛想なのは出会った頃から変わらない。
「もし明日世界が滅びるとしたら、最期の瞬間はお前、どうする?」
「はぁ?」
唐突な質問に呆れたのは一瞬。アイオロスから書簡に視線を戻して、突き放したようにシュラは答えた。
「そんなことにならないように、俺や貴方がいるんだろうが」
「え、」
「女神がこの地上にあられる限り世界が滅びるなどということはありえないし、あってはならない」
一度そこで言葉を切って、シュラは顎に手をやった。
「……ならないが、もしどうにもできず世界が終わるというとしても我らは最期まで人々の安寧の……アイオロス、どうした?」
なんでもない、とかぶりを振って、こみ上げてきた笑いを押し殺す。
あまりにシュラらしい答えに、何故だか嬉しくてたまらなくなる。
あぁ、そうだ。
「シュラ、好きだよ」
「……さっさと支度を済ませてくれ」
嘘も、とってつけたような言葉も、別れの挨拶さえ。
俺たちの間にはいらなかった。
初出:2017/01/01(Privetter)