『無題』

「アイ、オ……リア……?」

 驚愕に震えた声。アイオロスとて弟の攻撃を受けるなど微塵も想像していなかったろう。任務は終わったものと誰もが信じきっていた。そこをいきなり殴り飛ばされ朽ちた城壁に叩きつけられた彼の兄はそれきり意識を飛ばしてしまって、それを庇うように立ったミロを歯噛みさせた。
 勇猛果敢にして誠実、女神に忠誠心篤き聖闘士の鑑と謳われた青年はどこへ。人喰い獅子の残虐さと獰猛さで血を分けた兄を手にかけようとするアイオリアの振るう拳を受けながら、蠍座の青年は声を張り上げた。

「おい、アイオリア! しっかりしろ……正気に戻れ!」

 兄が愕然としたのも無理はない。深い森の泉、その最も静かで澄んだところの水を汲み上げたかのような静謐と孤独――そしてそこに溶ける透明な哀しみ――を湛えた美しい獅子の瞳は今、憎しみと血を渇望する興奮で真紅に染まっているのだった。
 妖しく輝く双眸。歪に吊り上げられ酷薄な笑みを浮かべる唇。兄の知らぬ激情は確かに敵の悍ましい悪意により“増幅され、歪められ”ているものだけれど、この激しさが確かにアイオリアの中にあったものだと、ミロはよく知っていた。

「アイオリア、目を覚ませ……アイオリア!」

 受け止めた拳が重い。伝わってくるのは邪悪に冒された感情だけではなく、その奥にある、涙と絶望を心の奥底に封じた子供の苦しみだった。純度を極限まで高められたその感情は、人が心に抱いているにはあまりにも鋭すぎた。
 こんなものを、アイオリアは13年間も。彼が抱えてきた痛みに涙さえ溢れそうになって一つ舌打ち。
 だからこそアイオリアに、兄を殺させるわけにはいかなかった。

「ッ、あ、やめろ……アイオリア!」

 それなのに。無防備な身体を晒しているアイオロスを庇いながら一切の遠慮をかなぐり捨てた獅子座と戦うのは容易なことではなく、ついにミロは殴り飛ばされて傍の木々に身を打ち付けた。

「よせ……――!! え……?」

 振り下ろされる最後の一撃をミロには止められない。立ち上がり必死で駆けても二人は遠く、それを為す術もなく見届けるしかない。そんな諦念が心の奥に生まれそうになったところで、アイオリアの手を掴んだのは思わぬ人物だった。

「シュラ……?」

 攻撃を妨げられたという怒りだけではない。それ以上の激烈な憎しみを叩き付けられても、だがシュラは眉一つ動かさなかった。
 振り下される拳を半身で躱す。山羊の角を模したヘッドパーツだけが吹き飛ばされ、凄まじい勢いで乾いた地面に叩き付けられた。二撃目を開けた場所に誘導させて受け、シュラはミロを一瞥した。

「俺が隙を作る、その間にやれ」
「だが、」
「いいな!」

 相も変わらず強引な指示がこの山羊座の青年らしい。だが隙を作ると言ってもどうやって? 倒れ伏すアイオロスを抱き起こし、激しさと速さを増す攻防を見守りながら、ミロはじりじりと苛立った。
 千日戦争にでも持ち込むつもりか。けれどそれでは時間がないのだ。
 もどかしさから二人の間に飛び込みそうになったところでそれは起こった。

 気付けば随分とこちらからは距離が取られている。アイオリアから数メートル離れたところに棒立ちになり、シュラはだらりと腕を下ろした。戸惑ったのはミロだけではない。何か裏がとでもばかりにこちらを睨めつけてくる獅子の目を真っ向から見つめ、黒曜石の瞳が眇められた。

「どうしたアイオリア。今更怖じ気付いたか」
「……ッ!」

 常ならば乗るわけもない安い挑発。だが憤怒に顔を歪めたアイオリアは容易く拳を振り上げてシュラへと繰り出す。
 だからミロはシュラには何か策があるのかと思っていた。

「っ、シュラ!?」

 磨き抜かれた獅子の牙、秒間100000000発とさえ言われる猛攻を甘んじてその身に受け、山羊座の青年があっさりと宙に浮く。いくら聖衣を纏った黄金聖闘士と言えど、互いの必殺の一撃を防御もせずに受ければただでは済まない。
 もうもうと上がる土煙が消えた後、そこには血塗れのシュラが無様に倒れ伏している。寸分違わぬ予想をしたアイオリアとミロは、しかし次の瞬間にはそれを裏切られて衝撃を受けた。
 足元に広がる血の海が、傷の深さを物語っている。目に見えぬ内臓は散々に痛めつけられ、折れた肋は肺に刺さっているのだろう。更に夥しい量の血を吐き捨てて、それでも尚シュラは笑った。
 だらりと垂れ下がった右腕の先端から、止めどもなく鮮血が落ち続けている。

――どうしてっ、どうして兄さんを……!
――……気は済んだか。
――兄さんは逆賊なんかじゃない……!!

 不意に蘇ったあの日の風景にアイオリアもミロも息を止めた。聖衣は血を吸って紅く染め上げられている。力なく下された右腕はどこよりも多くの血を浴びていて、その指先から落ちた雫が十二宮の石段を汚していた。
 泣いてシュラに拳を叩きつけ詰っていた幼いアイオリアが、一瞬シュラにもミロにも見えた。

「気が……済む、わけが……ないだろう、な……」

 口を開いたシュラの声は、出血と身体の損傷のせいでくぐもって掠れている。森を抜ける風が木々を揺らす音にさえそれは掻き消されてしまいそうなほどだというのに、不思議と耳元で語られているかのようにアイオリアの元へと届いた。
 棒を飲んだように立ち尽くすアイオリアのところへ駆けるべきだとわかっていても、ミロの足もまたそこに縫い止められていて動けない。

「……だから、俺は……アイ、オリ……アになら、かまわない、と……」

 兄を奪われたアイオリアの憎しみが逆賊というレッテルによって奥底に封じられて圧し固められてきたものならば。敬愛する聖闘士を、年端も行かぬ子のたった一人の家族を手にかけたシュラの業もまた、聖域の新たな英雄という仮面の下に隠されてきたのだろうか。
 いつか来るかもわからぬその日を、待ち続けていたのはこの山羊座の方だったのかもしれなかった。
 淡々とした、けれどどこか穏やかな声が途切れて消える。紅い眼を睨み据える黒は苛烈そのもの。

「だが、それ……は、“お前”じゃない……!」
「……ッう、ぁ、」
「アイオリア!!」

 彼の名を呼んだのはどちらだったか。アイオリアが右胸を抑えて苦しみ出した瞬間、ミロは弾かれたように駆け出していた。
 震える手を取り、抱き締める。いよいよ心の臓に根を下ろそうとしている憎悪の種を引き抜くべく、ミロはそこに真紅の針を突き立てた。獅子を乗っ取った敵が激痛と死から逃れようとアイオリアに激しい抵抗をさせるけれど、そんなことでミロが怯むはずもなかった。
 見開かれた瞳を覗けば、ほんの僅か、あの揺蕩う泉が見える。清らかで寂しく、けれど優しくて温かい。命を愛し育む者のそれ。
 その不思議な色に、ずっと惹かれていた。守らせるどころか、立ち入らせてすらもらえない秘めたる場所を、遠くから近くから見つめていた。

 こんなものにアイオリアは負けない。
 気高き獅子の心は絡め取られたりなどしない!!

「アイオリア」
「……み、ろ、」

 蠍座の右手に触れる手には、それに抗う意図も一方的に縋る意図もない。
 ただ、ずっと傍に在ったものを確かめるように。震える手が静かにそこを辿る。

「……アイオリア」

 気の利いた言葉は何一つ出てきてはくれなくて、結局ミロは、とても大切なその人の名を唇に乗せた。これが一番、自分たちらしい。
 諦め悪く足掻く意志ある種子を指先で捉え直して。

「返してもらうぞ」

 勢いよく右手を引き抜けば、長い断末魔が森を震わせ木霊した。蠍の猛毒と眩い陽光に絶命させられた悪意の種は砂となって消えていく。元の美しさを取り戻した瞳が、下りた瞼の向こうに消えた。完全に意識を失った身体が腕の中で重くなる。

 おかえり、と小さく囁く。戦いを終えた地に常の静けさが突き返されたその真ん中で、ミロは一度だけ獅子の額に口付けを捧げた。

 

初出:2016/10/07(Privetter)