Mine

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「オイ娘。暑いからといってアイスクリームばかり食べては腹を下すぞ」

 

 喧しく生殖活動に励むのは蝉ばかり。後はもう猫も杓子も地球人も天人も、ぐったりと伏せるばかりの夏の日だった。

 

 臨終間近の扇風機の取り合いの末、銀時と新八を万事屋からたたき出すことに成功した神楽は、それでも茹だるような暑さの中でソファに半ば倒れこんでいた。

 

 しつこくインターフォンを押した挙句勝手に上がり込んで来た銀時の古い友人とやらが、その様子にただならぬものを感じ手にしていたものを差し出したのはつい先ほどのこと。

 

 マルチパックの外箱をびりびりに毟って。薄いプラスチックのスプーンを取り出すのももどかしく、神楽は降って沸いた天の恵みに飛びついた。

 

 熱中症寸前だったこの少女の健啖ぶりは池田屋の際に目の当たりにしたから、一箱をぺろりと平らげたくらいでは何も言わない。

 

 だが、二箱目の中身までも食べ尽くした神楽が、早々に冷凍庫に避難させておいたパイントにまで手をつけようとしたとき、流石に桂は眉を顰めた。

 

 蓋に手をかけたところで、細っこい腕を掴んで静止する。掛けられた非難の言葉など神楽は意にも介さなかった。

 

「夜兎の胃袋はそんなにヤワじゃないアル。それにウチにあるものをワタシがどーしようと勝手ネ」

「それは俺が銀時を勧誘するために買ってきた手土産だ! 一応貴様らの分もあるものの……もう一人の童の分まで食べておるではないか……」

 

 神楽の右腕を掴んで離さない桂の手は、汗一つ掻いてはいなかった。

 

 猛暑の只中でさえさらりと乾いた掌。結い上げることもせず垂らしたままの長髪。きちりと着付けた着物からは、汗ではなく焚き染めた香が仄かに香っている。

 

 目の前の桂は神楽にとって、三人の万事屋の中に入り込んだ異質な存在だった。

 

「そんなだから、」

「なんだ?」

「そんなだからお前、銀ちゃんに置いて行かれるネ」

 

 “ケチくさい”とか“ぐちぐちうるさい”とか、“ネチネチお前は京女――というものを神楽はよく知らないけれど――か”とか。そんな類の言葉ならば、返ってきた反応は違っていたかもしれない。

 

 邪魔されずにアイスを堪能したい。神楽のささやかな願いはすぐさま叶えられることとなった。

 

「そうだな……また置いて行かれるとかなわぬから今日は帰ろう」

 

 一瞬虚をつかれたように黙り込んだ桂だが、次の瞬間には立ち上がる。振り返らずに万事屋を後にする背中にはほとんど目もくれず、神楽は最後の一つを食べ始めた。

 

 

◇■◇

 

 

 それももう、随分と昔のことのようだ。

 

「銀ちゃん。ワタシ地雷踏み抜いちゃったアル?」

「はぁ?」

 

 つい先日の妖刀騒ぎではエライ目に遭った。その後の療養生活で更に痛めつけられた銀時だったが、ようやく怪我も大部分が治り万事屋での生活を取り戻しつつあった。運動量の多い依頼は禁止、夜遊び?飲み歩き?持っての外!という制限の多いものではあったけれど。

 

 夕食を終えた新八が帰宅した後、二人は話題のテレビドラマを見ている。普段はゴールデンタイムのコテコテの恋愛ものなど鼻で笑う銀時だけれど、近頃は週一のジャンプだけでは物足りず暇を持て余し気味なのだ。

 

 離婚暦のある年上女性に、若さと情熱だけで迫る青年。愛が空回りして、もどかしさのあまり口論の中で彼は彼女を詰っていた。“結局貴女がそういうヒトだから、前のダンナさんも浮気なんかしたんじゃないんですか”そんな台詞を吐き捨てた男の前から女が姿を消すところで、前半が終わりCMに入る。

 

――馬鹿だなーこの男も。盛大に地雷踏んで爆発してんじゃねェか。

――地雷で爆発? いつからこのメロドラマはそんなに殺伐とし始めたアルか!?

 

 そーじゃねェよ、心の問題。そう言って軽く神楽の頭に手を乗せた銀時が続ける。

 

――ようやく癒されようって思った矢先こいつにも浮気されて捨てられるかもしれないなんて思ったらもう恋愛する気もおきねーだろ。ただでさえこの女にとって昔の離婚はトラウマなんだよ。

――ウマシカ?

――ト、ラ、ウ、マ。思い出したくもねェ心の傷みてーなもん。

――じらい。とら、うま。じらい……。

――こればっかりは時間をかけるしかねェな。行動で、自分が信頼に値する人間だって示せねーと女の気持ちは本当の意味では戻ってこねェよ。

 

 もしかしてあのとき。食後のデザートを堪能する手を止めて、神楽はしばし考え込んだ。そう言えばこれも、あの夏の日に食べたアイスクリームと同じ。新八が自宅に届けられたのをいくつか銀時と神楽のために持って来てくれたものだった。

 

 甘酸っぱい苺の香りに引き摺られるように記憶が蘇ってきた。黙りこくった神楽を揺さぶって銀時が問いかける。

 

「神楽ちゃーん? 何ソレ銀さん聞いてないんだけど。いつの間にお前そんな修羅場経験してんだよオイ!?」

「別にワタシの修羅場じゃないネ」

 

 だって神楽は、女の立場でも青年の立場でもない。銀時だってもう一人だって、物語の登場人物のような立ち位置にいるわけじゃない。

 

 でも。自分自身も一度は銀時を失いかけて、置いていかれそうになって。

 

 あの日の言葉の残酷さが、今になって酷く痛かった。

 

 

◆□◆

 

 

 激しい運動とか労働は禁止じゃなかったのかよ、というボヤキは聞き入れてもらえなかった。無理やり家からたたき出されスクーターに乗せられた銀時は、一路桂の仮住まいへと向かっている。

 

――銀ちゃん、ヅラのトラウマシカさっさと退治してくるネ。

――トラウマな。ウマシカのほうはもうどうにもできねーから。

 

 神楽は多くを話そうとはしなかった。ただ、乱暴に銀時の背を押す子どもの手の温みが雄弁に心中を告げていたから、銀時も何も聞かなかった。

 

 いきなり別れの言葉一つなしに姿を消して、生きているのか死んでいるのかすらわからない。先に桂に対してそんな仕打ちをしたのは自分のほうなのに、正直過日の一件は銀時にも堪えた。

 

 暇に飽かしてとは言え、あんな風に好き勝手語ってしまった言葉を反芻して溜息。当人に聞かれたわけでこそないけれど、気恥ずかしさが募って銀時はやりきれなくなる。

 

「どの口がって自分でも思うわマジで……」

 

 単車を転がしながら独り言ちているうちに、桂の住む長屋の目の前まで来てしまった。腹を括って戸を叩こうとしたところで、不意打ちでガラスの引き戸が開かれる。

 

 羽織を肩にかけた桂が、いつもと変わらぬ姿で立っていた。

 

「うわっ! いきなり何だよお前!」

「いきなり何だはこちらの台詞だ! 覚えのあるエンジン音だったから貴様が来たと思って出迎えてやったのだろうが」

 

 それだけ言って踵を返した桂の後に続いて、銀時も室内に足を踏み入れる。ずかずかと狭い居間に入って腰を下ろせば、ちゃぶ台に熱い茶が置かれた。酒は?と問えば飲酒運転は御法度だと返される。

 

「泊めてくんねェの?」

「俺は忙しいんだ。明日も早い」

 

 素気無い返事。こちらを見向きもせずに机に向かう桂は、相も変わらず面倒な案件を抱え込んでいるのだろう。

 

 そういったあれこれとか、ぴんと美しく伸ばされた背中を覆う髪が今はないこととか、服の下に残っているであろう大きな刀傷とか、文机やその脇に山と詰まれた資料や書簡や書物の数々とか、そんな諸々が容易く銀時の胸中を掻き乱す。

 

 それを素直に言える性格じゃないから面倒くさい。手持ち無沙汰な右手が柔らかな銀糸を掻き乱し、ぐるりと室内を見渡した目が消音になっていたテレビでぴたりと止まった。

 

 後半を見損ねたあのドラマの続き。青年の元を去った女が、古馴染みの悪い男に迫られている。

 

 紫煙が燻る薄暗い部屋。男の唇が妖しく動き、女に何事か囁きかける。長い髪を弄んでいた手がするりと滑り、慄く唇をそっと辿った。

 

「あー! やめだやめ!!」

「……なんだ、いきなり」

「うるせーしゃべんな。黙って朝までこうさせてろ」

 

 胸糞悪いテレビを消してリモコンを放り投げ、痩身を後ろから抱え込む。首筋に顔を埋めれば柔らかい髪が頬や鼻先を擽って、馴染みのないその感覚に銀時は戸惑った。

 

「こいつを書き上げたら俺は寝るんだが」

「じゃあ布団に一緒に入れて」

 

 そこまで言われて、付き合いの長い桂も戸惑ったようだった。

 

「甘えたか? 人恋しい季節でもあるまいに」

 

 苦笑して首を傾げればまた、短くなった黒髪が銀時をからかうように揺れる。

 

「甘えたっつーかなんつーか」

 

 俺が今、猛烈にお前を甘やかしたいんだよ。

 

 そんな本音を飲み込んで、銀時は青白くすべらかな頬に唇を落とした。

 

初出:2015/03/15