ギヤマンの家紋

 この話は、twitterやpixivでお世話になっているにわさんの素敵なイラストを拝見して書いたものです。

 にわさんありがとうございました!





 東の京、だなんて。


 小洒落てんだかひねてんだか謙遜してんだかわからないような名にこの地のそれが変えられてから、もう随分と経った気がする。


 けれど実際には銀時の創痍は癒えておらず、病室の窓から見える街並みは酷い有様だったのだから、そう時が流れたわけでもないのだろう。


 長かったような短かったような――ほとんどずっと意識不明だったからよくわからない――入院生活を終え、ようやく万事屋に帰ってくることができた銀時は、変わらぬ我が家を眺め回してそっと息を吐いた。


 何もかもが、この空間に漂う日常全てが、酷く愛おしくて懐かしい。


「ほら、銀さん。突っ立ってないで早く入ってください!」

「銀ちゃん、おかえり!」

「あ、ズルイよ神楽ちゃん!!」


 一緒に言おうって約束したじゃんか、と怒ってみせる新八の口ぶりはまだまだ子どもらしいものだったけれど、銀時を支える身体は少しずつ大人へと近づいている。


「おかえりなさい、銀さん」

「……おぅ」


 ただいま。こそばゆくて、呟いた答えは自然小さくなった。


 そうだ、帰るべきところに帰ってきたのだ。



 

 その、晩のこと。


 快気祝いより前に、まずは“家族”水入らずの時を。そう言い出したのはお登勢だったと聞いている。


 あれやこれやと話は尽きないのだから、別にテレビなんてつけなくてもよかった。


 だからソファに勢いよく腰掛けた神楽が弾みでそこにあるリモコンに手をついてしまうなんていう、そんな小さな事故がなければその存在を意識すらしなかったろう。


 ささやかなアクシデントで映像を映し出したブラウン管の中に見慣れた幼馴染の姿があった。


「あれ、ヅラじゃん」

「ヅラだけどヅラじゃないアル」

「はぁ?」


 見慣れた単も羽織も、更には風に靡くあの美しい長髪もなく。おまけに眼鏡なんかかけている。それでも倦むほどに顔を突き合わせてきた腐れ縁を見紛うことがあろうか。


 なんだその、ジブリヒロインのような言い回し。そうはっきりと顔に書いてある銀時に苦笑して、口を開いたのは新八だった。


「桂さん、改名したんですよ。天人を殺しに殺した自分が、このまま新政府に名を連ねるのはまずいって」

「だからヅラも被り換えたネ」

「なんだよそれ……」


 名前が変わろうと断髪しようと洋装にしようと桂は桂だ。


 けれどいつものように生真面目に話す古い友がどうしてか少しばかり遠く見えて、銀時はつい憎まれ口を叩いていた。


「どーせアレだろ、ヅラはあんときの火事で焦げたからーとかそんな理由でチェンジしたんだろ……ってオイ、何笑ってんだ」


――うむ。火がすごかったであろう? 不覚をとってな。


 ぴたりと図星を突いた発言に、過日の桂の言葉を思い出した子どもたちがけらけら笑う。


 本当のところ眼鏡も火災にともなう爆発の衝撃や粉塵にやられて視力が極端に落ちたからなのだが、それは銀時には告げずにおく。


「マジですっかりイメチェンしたアルな」


 ようやく笑いを引っ込めた神楽が再び桂に目をやった。


 痩せた身体にダブルのスーツ。いつぞやの妖刀騒ぎのときのように切り揃えられた髪。証明写真を撮るときにかけていたものに似ている黒縁の眼鏡。


 クソ真面目に外交問題なんぞ論じているのも相まって、どうにも違和感が拭えない。


 ふと新八が胸元の装飾品に気付いて視線を和らげた。


「それでもネクタイじゃなくてああいうの選んじゃうあたりが“らしい”よねぇ」


 流行遅れ、とかダサい、とはっきり言わないのに新八の優しさを感じつつ、銀時も改めて桂を見た。


 吊るしのものとは明らかに違う、上質なスーツとシャツに酷く不釣合いなループタイ。


「あ……」

 


 それはとても懐かしいものだった。

 


 

◇◆◇

 


 

「銀時、高杉! いい加減にせんか!!」


 少しは周りを見ろ、子どもたちが怯えておるではないか。自分も年端も行かぬ少年とは思えぬ口ぶりにも、二人が突っ込みを入れる余裕はなかった。


 諍いの原因なんて思い出せない。そんなものなくったって、銀時と高杉は喧嘩ばかりしていた。


 喧嘩というよりは“勝負”と言ったほうがいいだろうか。


 とにかくきっかけさえあれば優劣をはっきりつけるために拳なり竹刀なり振り回す、銀時も高杉も、殊互いに関してはそんな乱暴な小童だった――最も、成長してからもそれは変わらなかったのだけれど。


「長吉、先生を呼んで来い」


 庭の隅に固まる泣きべそのちびたちを宥めてやりながら、桂は比較的年長の一人に指示を出した。一つ頷き返してかけていった子の背中を見送って、改めて友人二人に向き直る。


 取っ組み合いも殴り合いも結構。力を持て余し倦むよりも、いっそ気の済むまでやればいい。


 だが周囲の様子も省みず、すぐ二人して派手に暴れるのに桂はほとほとうんざりしていた。


 障子や掛け軸を破き、或いは瓶や壷の類を割って松陽の逆鱗に触れることも珍しくない。


 最近はようやく開けた場所でやりあうようになった分いくらかマシだが、それでも柿の木を折って三人仲良く拳骨をもらったのはつい先月のこと。


 ましてや今日など、手習いを始めたばかりの幼子の前でのこの大立ち回りときたのだから、桂だって腹に据えかねるものがあった。


 銀時の拳が高杉の腹に捻じ込まれる。ぐぅっと低く唸った高杉が目を剥いた、その表情を見た子どもたちが小さく悲鳴をあげた。


 思わず背を丸めた高杉だが、ここで蹲るほどやわじゃない。追撃をかけようとした銀時は思い切り頭突きをかまされて、その柔らかい銀糸にまで鼻血が飛び散った。


 いよいよ怯えきった子どもたちの中には、粗相をする者まである。


「やめんか貴様ら!」

「すっこんでろ桂!」


 どちらかを羽交い絞めにするのも至難の業。かと言ってがっぷり組み合うのに割って入ろうにも、二人と同年代の桂にそんな力があるはずもなく。竹刀で打ち据えて止めることさえあるのだが、生憎今は手元にない。


 一度は吹っ飛ばされて地面に転がった桂だが、背後で上がる泣き声に急かされるようにして立ち上がった。


「他所でやれと言っているんだ! 少しは場所を弁えろ!!」


 それでもどうにか強引に二人の間に身体を捻じ込めば、銀時も高杉も流石に面食らって手を止めた。


 けれどそれも一瞬のこと。


「オメーには関係ねェだろっ!」


 こんなときだけ二人の息はぴったりで。肩を押しやってのけた高杉と、首根っこを掴んで引き剥がそうとした銀時の力に負けて桂の身体は大きく後ろへ傾いた。


 小さく叫んだのは誰だったのだろう。


 銀時の右手に引っ掛かっていたのはなめし革でできた細い紐だった。羽織や小振袖と一緒に掴んでしまったそれが強く引かれ、服の下から顔を出したのは小さな装飾品だ。


 薄曇の昼下がりに、ギヤマンがきらきら輝いて宙に舞う。


 ふつん、と紐が切れたとき、今度は誰も何も言えず、陽光を弾く軌跡を目で追うしかなかった。


 たたらを踏んだ桂が尻餅をついたのと、古井戸に落ちたものが微かに音を立てたのは殆ど同時。呆けた顔をした桂はまず胸元に手をやって、無為にそこを数度叩いた。


 それから銀時の右手に残されている千切れた革紐を奪い取って、何か確かめるように繰り返し撫で摩る。


 へたり込んだ桂の震える背から、慄く指先から、言葉にもできない混乱が痛いほどに伝わってきた。


「あ……わ、悪かった」


 誰より先に口を開いたのは銀時で、次いで高杉も詫びを告げようとしたそのときだった。


 飛び掛った桂に殴り倒されて、銀時が地に叩き付けられていた。


「桂、よせ!!」


 咄嗟のことで抵抗もままならず顔を腫れ上がらせていく銀時を見て、慌てて桂を引き剥がそうとする。それを馬鹿力で振り払われて、いよいよ高杉も蒼ざめた。銀時はいまや見るも恐ろしい顔になってしまった。


「オイ誰か、手ェ貸、せ……」


 振り返った視線の先では、身を寄せ合ってぶるぶる震えた子どもたちが泣いているだけだった。あれほど彼らを気遣っていた桂を、怯えきったいくつもの眼が見つめている。


 ああいった顔を、自分たちもさせていたのか。


 舌打ち一つ、高杉は助走をつけて桂を突き飛ばした。流石に馬乗りの姿勢を保つことができなかった桂もろとも転がって、銀時を解放する。


「腹ァ立ててんのはわかる、俺たちが悪かった。けどテメェ、銀時殺す気っ、」


 全てを言い切る前に殴り飛ばされて。どうにか身を起こしかけた銀時に飛びついた桂が、その首をぎりぎりと締め上げるのを高杉は最早愕然と見ているしかなかった。


 憤怒に顔を赤く染めるでも、唇を歪め悪口雑言を並べ立てるでもない。


 ただ、見開かれた鳶色の瞳も、いつもと変わらぬ白い頬も、後から後から零れ落ちる雫で濡れていた。


 銀時の苦しげな細い息と、桂の押し殺した嗚咽が耳に痛い。動かねばと己を叱咤しても、高杉の足は縫いとめられたかのように動かなかった。


「半端者が、何をやっているんですか?」


 凍りついた空気を溶かしたのは、松陽の鉄拳だった。いつもと同じように瞬く間に三人を伸した松陽は、銀時にも桂にも目もくれず子どもたちのところへ向かっていった。


 緊張の糸が切れて号泣する幼子を抱き寄せて宥め、母屋に上げてやってから、ゆっくりとこちらへ戻ってくる。


「それで? 今回の喧嘩の原因は?」


 問いかけに答える者はない。表情を崩さぬままに松陽は桂に水を向けた。


「小太郎。君が銀時を一方的に痛めつけているように見えましたが?」


 名を呼ばれ僅かに肩を震わせた桂は、けれどそっと目を伏せた。三人の中では一番雄弁だからこそ、こうなっては決して口を開かないだろう。


「……よろしい。ならば明日からしばらく……そうですね、十日間は登塾してこなくて結構。北の離れで反省しなさい」

「しょうよ、」

「銀時、君の意見は聞いていない」


 ぴしゃりと斬り捨てられた銀時だが、それで怯むわけもない。


「けどよ!」

「……失礼します」


 食い下がる声を遮った桂が踵を返した。いつもの歯切れの良い挨拶とは違う、辛うじて搾り出されたそれに銀時は思わず言葉に詰まった。


 その声も、ぐしゃぐしゃに乱れた髪も、よれて汚れた羽織や袴もちっとも桂らしくない。ましてや、泣き濡れたそのかんばせなど。


 いつもふてぶてしい弟子二人にもその姿は堪えたらしい。言葉を失くし意気消沈してしまった銀時と高杉を見下ろして、松陽は嘆息を漏らした。


「とりあえず風呂を沸かして。その見るに耐えない格好をなんとかしなさい。傷の手当ても」


 ああともうんともつかない呻き声を漏らした二人が、のろのろと母屋の風呂場へ向かっていく。その後ろ姿に一応声をかける。


「子どもたちもいますから、喧嘩するんじゃありませんよ」

「……そんな気力ねェ」

「当分無理かも」


 いつになく素直なその返事も、酷く萎れたものだった。

 



 

 その美しい簪は、曽祖父から曾祖母に贈られたものだった。長崎に留学していた彼が最愛の伴侶のために選んだ土産。


 当時の最新の技術で持って作られた美しい細工は、そういったものの拵えに疎い朴念仁の目にも大層魅力的に映ったから。


 桂家の家紋をあしらったものを一つ、己の根付と揃いで注文してしまったのであった。


 思いがけない土産を受け取った彼の妻の喜びようと言ったら! ようやく寝付いたばかりの嬰児は泣き、隣近所の者が何事かと駆けつけてくるほどだった。


 夫亡き後、長子のもとに嫁いできた娘が身ごもったとき、曾祖母は簪を桂家の新しい“母”に託した。


 託された祖母もまた、同じように。


 曾祖母から祖母へ、祖母から母へ。


 不幸だったのは、簪を受け取った彼女があまりにも早く逝ってしまったこと。


 妻の後を追うように孫息子が、その後更に息子夫婦がこの世を去り、結局老女のもとに残されたのは簪と稚い乳飲み子ばかり。


 小太郎と名づけられたその子が立派に成長するまで、傍に居られないことが心残りだった。


 いよいよお迎えが来たとわかったとき、桂家の嫡男たる小太郎は数えで七つ。気丈にも涙を堪えた子どもの、震える握り拳を老婆の掌がそっと叩いた。


 開かれた掌、まだ柔らかいそこに、あの簪の家紋を握らせた。


 臥せってからこちら、とんと見かけることがなかったものを見て、幼子はぱちぱちと瞬いた。その拍子、押さえ込もうとしていたものが皺くちゃの手を濡らしていく。


 男子に簪のままでは拙かろう。綺麗に取り外された美しい細工には、なめし革の細い紐が通されていた。


 次の“母”に託すことは叶わなかったけれど、ギヤマンの家紋はこうして、桂家の最後の一人に譲り渡されたのだった。

 


 そんな事情全てを高杉が知っているわけではなかったが、ある程度は耳にしていた。


 まだ矍鑠としていたころの小太郎の曾祖母が、白くなった髪をあの簪で結い上げていた姿を、高杉自身もよく覚えている。


「そんな大切なものを、君はよりにもよって古井戸に落っことしちゃったんですか」


 俺じゃねぇ、銀時だ。自分も原因となった自覚がありすぎて、そんな反駁も出てこない。


 うな垂れる高杉はもう十分すぎるほど後悔も反省もしている。追い討ちをかけるように説教をしたところで耳には入らないだろう。


「君もしばらく謹慎ですよ、晋助」


 はいこれ、珠算の問題と第二十段までの書き取り。押し付けられた課題にも不平を述べることなく、高杉は部屋を辞した。その足音が小さくなってから、松陽は押入れに声をかけた。


「銀時はどうしましょうか」


「……なんでこんなところで話聞かせたんだよ」


 押入れから這い出てきた銀時がぼそぼそと呟く。白銀の髪に包帯が巻きつけられた顔。木乃伊かのっぺらぼうのようにすら見える弟子を横目で見て、松陽は薄く笑った。


「あれで晋助は君のことを気にかけていますからね」


 君がいては聞けなかった話でしょうから。そう続けられ、銀時は己の癖っ毛をかき回した。チビのクセに、余計な気回しやがって、なんて毒づくのにも力がない。


「さて銀時。君はどうします」


 もう一度松陽に問われ、銀時はしばし考え込んだ。


「じゃ、俺もキンシンってことで」

「では平蔵さんのところの畑を手伝いに行きなさい。手入れに人が必要だとぼやいていましたから」


 予めそう決めていたかのように答えられて、思わず突っ込みを入れていた。


「なんで俺は肉体労働なんだよ!」

「君が真面目に課題をこなしたことがありましたか」

「な、かった……かも、」


 じゃあ決まりですね、と微笑まれてはこれ以上反駁できるはずもなかった。


 

 


 あれから一週間。銀時は桂とも高杉とも顔を合わせてはいなかった。本当は何度か接触を試みたのだが、その都度松陽に阻止されている。


 冬の畑でなど、たいしてやることもあるまい。そう思っていたのは初日で覆された。


 土作りに萱集め、炭焼きの手伝い。剪定した枝々やら籾殻を細かく堆肥に仕込む作業などもあるのだからたまらない。


 早朝うちを出て、夕方に泥だらけになって帰ってきて。湯を浴びて夕食を掻き込むころには流石の銀時も半分舟を漕でいる有様だった。


 一段と冷え込む今日もまた、外で農作業に明け暮れている。天地返しに励む身体は最早寒さなんて微塵も感じていないけれど。


「銀。今日はもう帰ってええぞ」

「まだ昼飯食ったばかりだけど?」


 人のいい老人にそう声をかけられて、銀時は首を傾げた。その視線の先で、平蔵は顔を顰め空を見ている。


「今晩は持ちこたえるじゃろうけど、明日は雪になるかもしれんからなぁ……」


 釣られて見上げた曇天はいつもより低い。いよいよ重く垂れ込めた雲からは今にも最初の一粒が零れてきそうなほどだった。


「うちも婆さんと備えんといかん。銀もうちへ帰って先生の手伝いをせい」

「……なぁ爺さん」


 さっさと銀時の手から鍬を取り、納屋へと向かう背中を小走りに追いかける。


 欲しいもんがあんだけど、などと珍しく遠慮がちに切り出してくる子どもを見下ろして農夫は笑った。


「甘味なんぞ、婆さんの作る甘露煮ぐらいしかありゃせんぞ」

「栗?さつまいも?それとも金柑……じゃねーよ!! 俺が欲しいっつってんのはなあ……」

 



 

 夜明けにはまだ遠い、暗い冬の庭を銀時は忍び足で歩いていた。実を言えば蝋燭一本の頼りない明かりで暗闇を進むのは少し――かなり――怖かったのだが仕方がない。


 松陽に気付かれて計画が露見しても困るし、何よりちらつきはじめた雪が銀時を急かした。


 平蔵の家から譲り受けた荒縄を幾重にも胴に巻き、反対の端を手近な木の幹に括りつける。樹木の名や種類など良く知りはしない銀時だったが、この木は地にしっかりと根を下ろしており、多少のことでは折れそうもないと判断できた。


 そうでなければ困る。何しろこの木は、荒縄とともに銀時の命綱となるのだから。


 見下ろした先はどこまでも闇。嫌な想像ばかりが掻き立てられる。


 短刀を右手に一つ頭を振る。意を決して井戸に足先から入ろうとしたとき、後ろから声がかけられた。


「せいぜい気をつけろ。ガキの頃、枯れ井戸に落っこって死んだ奴がいたからな」

「ひッ……!?」

「馬鹿、大声出すな……! 離れにはヅラがいるんだぞ……!!」


 思わず叫び出しそうになった銀時の口を右手で塞ぎ、押し殺した声で捲くし立てたのは高杉だった。一気に全身の力が抜けて、やつあたり気味に柔らかい黒髪を小突く。


「ッテメー、おどろかせんじゃねぇよ……! つーか何しに来やがった」

「向こう見ずの馬鹿拝みにきただけだ」


 言いながら差し出されたものを反射的に受け取って、銀時はまじまじと高杉の顔を見た。手渡されたガスランプは、今にも消えそうな蝋燭の炎と比べたら太陽にさえ見える。


 一応礼を述べようとしたら、ついと顔を逸らされてしまったけれど。


「井戸の中なんざ風はねェ。それなのに火が消えたときは諦めて戻ってこい」


 明後日の方向を向いたまま吐き捨てる高杉の耳が赤く染まっているのは、寒さゆえだけではないだろう。


「へぇへぇ、ありがとさん」

「とっとと行け」


 ぞんざいな応酬にも、お互い不思議と腹は立たなかった。

 



「さみぃ……」


 石で組まれた簡素な井戸の中は酷く冷えている。僅かなとっかかりに手をかけ足をかけ、石の隙間に合口を捻じ込ませながら下りていくのは骨の折れる作業だった。


 体に巻きつけた縄を解いて進むたび、冷気が身体を突き刺す。高杉が持ってきたランプは、同じく彼持参の細い麻縄に括りつけて下ろしている。


 ガラス越しに揺れる炎に指先を翳して、それから銀時は再び短刀を手に取った。


 じりじり、じりじりと。銀時の蝋燭を持って井戸端に立つ高杉の姿が遠く、見えなくなっていく。


 最後の数尺は縄が足りず、後先考えずに手を放して飛び降りた。


「家紋、家紋……」


 落ち葉を掻き分け、虫の死骸を隅に寄せて。狭い井戸の底に落ちたはずのものが、なかなかどうして見つからない。


 砕けたか、もしかしたら途中のどこかに引っ掛かっているのかもしれない。


「うそだろ……?」


 だとしたら、必死の思いで下りてきたのはなんだったのか。


 一気に脱力して座り込んでしまったところで、尻の下に違和感に飛び起きた。何か硬い、小さなものを踏んだような感覚。


 小石かもしれない、でももしかしたら……。一分の希望に縋るように目星をつけた場所を探ってみれば。


「あ、った……!」


 果たしてそこには、あの日目の端で捉えたきりだった、ギヤマン細工が転がっていた。薄明かりの下で矯めつ眇めつ眺めたけれど、幸いなことに欠けや大きな疵は見られない。


 銀時はそれを、手ぬぐいに包んで袂に入れた。これさえ見つかればもうこんなところに用はない。


 麻縄を三回引いて高杉に合図する。返事代わりの細い指笛を耳に、頭上の荒縄に飛びついた。達成感は疲労を忘れさせ、銀時はぐいぐいと縄を引き、壁を蹴っては地上へと上っていった。


 ランプを引けば心得たとばかりに高杉がそれを少しずつ引き上げてくれる。


 もう半分は上っただろうか。頭上を見上げれば丸く切り取られた空は幾分か明るくなっていた。ちらつく雪も先ほどより多い。


 焦るほどではない。だが松陽や桂が起き出すより早くことを済ませてしまわねば。


 改めて荒縄を強く握りなおしたところで、真上から慌てた声が降ってきた。


「銀時、まずい! 縄が!!」


 井戸の淵。手ぬぐいを噛ませてあるとはいえ、硬い石で繰り返し擦られ続けた場所の縄がいよいよ擦り切れて切れそうになっているのを高杉が認め、井戸の中へ叫んだのだった。


 くわん、と響いたそれに顔を顰めたのは一瞬で、思わず来し方を振り返った銀時は蒼ざめた。


 先程までいた場所はもう全く見えやしない。こんなところから落ちたらひとたまりもないだろう。


 冷静さを欠いて身体を上に引き上げようとしたのが良くなかった。


 狭い井戸の中で銀時の身体が大きく揺れる。ぶちぶちと荒縄が千切れていく音が確かに聞こえて、不穏な浮遊感に銀時は固く目を閉じた。


「あ、れ……?」


 だがその後に続くはずの、落ちていく感覚はいつまでも訪れなかった。


「馬鹿、やろ……さっさと、上ってこい……!」


 恐る恐る見上げた先で、細い二本の腕が縄を必死に掴んでいるのが見える。


 掌を痛めつけながら荒縄がじりじりと落ちていくのを押し留めようと、そこに爪を立てて堪えている高杉が呻いた。


「ぎん……とき、急げ、」

「高杉……」


 その震えた声に応えるように頷いて。銀時は再び井戸を上に上りはじめた。出来るだけ速く。さりとて縄を揺らさないように。


 地上まであと十尺もないところで、血と汗に濡れた高杉の手が滑った。闇に引き寄せられるように身体が落ちるのを、今度はどこか人事のように知覚していた。


「銀時!」


 手からすり抜けていったものに追い縋り、思い切り身を乗り出した高杉が辛うじて縄の端を掴み取った。


 半身を井戸にすっかり入れて。もう一度捕らえたものを握り締める小さな掌は少なくない量の血で汚れている。


 その一滴がぽたりと銀時の頬に触れた。


「はやく……ぎんと、き」


 ずる、ずると縄が逃げていくのに従って、高杉の身体が井戸に引き込まれていく。銀時は知らず大声で叫んでいた。


「馬鹿野郎! オメーこそ早く手ェ離せ!」


 二人して仲良くおっ死ぬつもりか。そう詰れば、逆行で見えないはずの高杉の顔が、確かに皮肉に歪むのがわかった。


「ぜっ……てぇ、ゴメンだ」

「頭の容量まで小せェのかオメーは……!」


 コイツには何を言っても無駄だ。となれば最早一刻の猶予もない。再び残り僅かな道のりを銀時は進みはじめた。


 ゆらゆらと揺れる命綱は不安定なことこの上ない。それを着実に上っていく間も雪が、高杉の血と汗が、銀時の額や頬に降る。


 あともう七尺。


 あと五尺。


 三尺。


 もうすぐ、銀時の手が高杉に届く。


 持ちこたえられたのはそこまでだった。


 ついに限界を超えた掌から、荒縄が取り落とされる。


 目の前まで来ていた銀時の手を引っ掴もうと、更に身を乗り出したはずの高杉は、何故だか湿った地面に尻餅をついていた。


 混乱して瞬いたのは数瞬。先ほどまで自分が立っていた場所で、井戸の中の銀時の手を取っているのは。


「か、つら……?」


 薄い夜着に襤褸の半纏。結っていない黒髪がすとんと落ちている。


 桂は振り返らなかった。


「銀時。引き上げるぞ、いいか」

「お、おう……」


 縁に手が届くところまで持ち上げてもらえれば後は簡単だった。あっさりと井戸の外に出て地に足をつけた銀時だったが、それからどっと疲れが出て高杉の隣に倒れこんだ。


 その二人の頭に、容赦ない拳が振り下ろされる。


 俯いた桂の表情は長い黒髪に隠されて見えない。


「なぜ……こんな、」


 弱々しい声。右手は握り締められたまま震えていた。


「こんな、あぶないまねをした……!」


 高杉の、皮がずるずるに剥け爪まで何枚か失った血塗れの手。


 銀時の、泥と汗に汚れあちこち擦り傷だらけの身体。


 そっと袂から出され、銀時の手の中で輝いている、桂の宝物。


「……こんなものの、ために……貴様ら死ぬつもりだったのか!」


 色々な感情がごちゃまぜになった桂の目から,ぽろぽろと涙が零れ落ちた。止め処もなく溢れるそれを拭うことも忘れて、桂は二人を睨み据えた。


「“こんなもん”なんかのために誰が辛気臭ェ枯れ井戸に下りるか、バカヅラ」

「オメーの、いっとう大事なモンだろーが」


 桂の胸につき返された美しい細工が、その涙と朝の光を浴びて、きらきらきらきらと輝いていた。

 


 

◇◆◇

 


 

「銀ちゃん、何笑ってるアルか」

「相変わらず物持ちのいい馬鹿だなと思ってよ」


 教本然り、この家紋然り。攘夷を成し遂げ国に夜明けをもたらすという信念然り。ずうっと胸懐にしまい、抱え込んで今日まで生きてきたのだろう。


 生真面目に話を聞いていたアナウンサーが、不意にそのギヤマン細工に目を止めた。木戸さん――それが今の桂の名らしい――今日お召しになっているそれは?


 そう問いかけられ、瞳を輝かせた桂はやっぱり桂だった。


――おお、花野アナよくぞ聞いてくれた! これにはだな、聞くも涙語るも涙の秘話があるのだ!!


 こうなってしまってはもう独壇場に口を挟める者はいない。つい先程まで頭の中で思い描いていた幼き日々を当事者に具に語られて銀時は頭を抱えて叫びたくなる。


「オィィィィィアラサーの思い出話とか誰も聞きたくねェんだよ神楽テレビ消せテレビ!」

「ワタシはオッサンの思い出話が聞きたいアル!」

「今の“天パの悪たれ”って銀さんのことでしょう?」


 その必死さにこそ興味を掻き立てられて、子どもたちはテレビに噛り付いて離れない。チクショー馬鹿ヅラのヤロー、なんて吐き捨てても気恥ずかしさは消えてくれなくて、銀時は諦めて立ち上がった。


 松葉杖に縋って、我が家の出口へと歩き出す。


「ちょっと銀さん、どこ行くんですか?」

「ババアのとこで電話借りるだけだよ、オメーらうるせーし話もできねェよ」


 階下の女主人のところから、まずは誰に繋ごうか。


 恥ずかしげもなく古い話をべらべら喋る、似合わぬイメチェンをした馬鹿はまだ生放送の真っ最中だ。


 最後の最後に主人公を庇うなんて、そんなお決まりのパターンで皆を――腹立たしいことに銀時のことも――泣かせた挙句、ちゃっかりしっかり生き延びてくれた厨二病は入院中。ついでに消灯時間はとっくに過ぎた。


 だとすれば、ダイヤルを回す先は一人。こんな難儀な三人組と、付かず離れず付き合ってきた酔狂なアホのところに限る。


「あーもしもし? 金じゃねェよ銀だアホ……」


 近いうち、四人で集まるのも悪くない。


 胸の奥、輝いているものも沈んだ澱も何もかもを曝け出して。


 昔の話でもしようじゃないか。

 

 初出:2015/03/09