モノクローム

 白、は父母の死化粧。

 白、は祖父母の死装束。

 白、は曾祖母の白喪服。

 

 黒、は男衆の紋付袴。

 黒、は農婦たちのお歯黒。

 黒、は俯いた自分の頬にかかる柔らかい髪。

 

 小さな世界を囲う鯨幕の中で、桂の物語は始まった。

 順番破りの不孝を叱る、しわくちゃの目尻がほのかに赤い。

 幼い嫡男と曽祖母を残し、流行り病は四人を奪う。

 それでも嫗の背筋は伸びて、繋がれた掌だけがただ、温かった。

 

 

 

 白、は降り止まぬ雪。

 白、は囲炉裏に残る灰。

 白、曇天に昇る細い細い煙。

 

 黒、は衣服にこびり付いて取れない血。

 黒、は湿気った薪の燃え残り。

 黒、は呻く男たちの、傷口から壊死していく、身体。

 

 天人の返り血を浴びた創痍は、ほぼ例外なく奇病を得た。

 円匙を握る指が、かじかんで罅割れて無残に赤い。

 死に逝く仲間にできることはなく、地中深くに死体を埋める。

 馬を駆って迎えに来た、幼馴染たちの面差しがただ、痛かった。

 

 

 

 白、は若い師の髪に僅かに混じるもの。

 白、は師を包み込んだ四角い木綿。

 白、は高く澄んだ天の雲。

 

 黒、は師の口の端から零れた命の名残。

 黒、は去っていった男たちの僧衣。

 黒、は大空を舞う不吉な烏。

 

 正しい答えなど、求める救いなどなかった。

 噛み締めた唇が、握り締めた拳が、傷つけられて鮮やかに赤い。

 世界は残酷で、それゆえに美しいなどということもなく。

 雲が流れ着き留まるであろう、最果てまでただ、醜かった。

 

 

 

 白、は全てに絶望した友の背中。

 白、は喪失を抱く友の癖っ毛。

 白、は友が去る日の雪景色。

 

 黒、は全てを憎む友の背中。

 黒、は狂気を孕む友の眼窩。

 黒、は友が去る日の朔の夜。

 

 見送るのには慣れているんだ、と。嘯いて不自然な笑みを作った。

 かけがえのない人を失っても、暁は泰然として尚赤い。

 もう“美しさ”なんてわからないのに。

 それでもただ、生きるしかなかった。

 

 

 

 

 個を捨ててしまおう。孤から逃れるために。

 死から逃れるために、志を失うことはできないから。

 死から逃れたがゆえにもう、師を喪ってしまったのだから。

 

 



――きて………………て、

 

 囁き声が耳を擽る。もう、呼ばないでほしい。そんな風に必死な声で、桂小太郎を呼ばないでほしい。

 

――おねが……から、目……まし、て、

 

 繋がれた手が汗で温む。どうか、絆さないでほしい。ここにいたいと思わせないでほしい。

 

「いい加減起きんかいコラ!!」

「ふぎゃっ!」

 

 目覚めを拒みまどろんでいた桂の脳天に、容赦ない一撃が繰り出される。女の力とは言え、寸胴やら食材の詰まった箱やらに慣れた腕から繰り出された一発は桂を文字通り叩き起こした。

 

 尻尾を踏まれた猫のように飛び跳ねて起きると、呆れ顔の幾松がこちらを見つめている。溜息一つ、左手を振ってみせれば、桂の左手もゆらゆら揺れた。

 

 恋人のように指を絡めて。幾松の手を握り締めていたのは桂のほうだった。

 

……あり?」

 

 ぱ、と手を離しまじまじと見る。盛大に勘違いしていたらしい。繋がないでと願っていたくせ、必死で縋っていたのは自分のようだ。解せぬとばかり瞬きを繰り返す桂に目をやり、幾松はもう一度溜息を吐いた。

 

「看病してくれてたみたいだから、それはありがたいけどね」

 

 厠にぐらいは行かせてちょうだい。

 

 さっさと部屋を後にした幾松を見送って、桂は記憶を整理する。看病。寝起きの頭にその言葉が繰り返される。通い慣れたラーメン屋の、かつて身を寄せた二階の和室をぼんやり眺めて、ようやく寝惚け頭は現状を把握しはじめた。

 

 店主都合によりしばらく休みます。素っ気無い張り紙一枚を戸に残したきりもう一週間も店を閉めたままの幾松が心配になって、様子見にこっそり忍び込んだのが昨日の晩のこと。割れた丼やコップの破片が散乱する中で倒れている幾松を見て、桂は度肝を抜かれたのだった。慌てて抱き上げ二階に上がり、馴染みの医者を呼びつけた。

 

 汗だくの身体を拭って――もちろん桂は酷く赤面して拒んだのだけれど、叱り飛ばされ手伝わせられた――切り傷の手当てをしている間も、幾松の意識は朦朧としている。ほっそりした女の身体は燃えるように熱く、老医も思わず眉を顰めた。薬湯を飲ませ注射を打つ。そうして四十を今にも指しそうな体温計を桂に示し、これ以上上がるならば救急車を呼べと告げて彼は去っていった。

 

――幾松殿、なあ……幾松殿……

 

 額の汗を幾度も拭い、握り返すことのない手を両手で包んだ。不規則で苦しげなか細い吐息。ひゅうひゅうと穏やかでないそれが雨戸を叩く夜の風にかき消えては、桂の胸をざわつかせた。

 

 僅かな間も、幾松から目を逸らすことができない。胼胝と傷の消えない手が微かに震えて止まらない。

 

 こわい、だなんて。

 

 安寧の中、忘れかけていた感情だった。

 

 まんじりともせず朝を迎え、少しずつ快方に向かっているとわかったときには心底安堵した。夕方もう一度往診を頼み、表情の和らいだ老医が帰るのを見送ったところまでは桂も覚えている。幾松が目を覚ますまで起きているつもりがいつの間にか寝てしまったらしい。

 

 厠から戻ってきた幾松が再び桂の隣に腰掛ける。まだ顔色はよくないけれど、少しぶっきらぼうな口調はいつものそれ。

 

「悪かったわね……一応これでもかなり待ったのよ、面倒見てもらった身だもの。でもちょーっと限界だったし、あと……アンタ、」

 

 そこで言葉が途切れる。言いあぐねた幾松が、舌で唇を湿らせた。

 

「酷い夢……見てるみたいだったから」

「ひどい……夢、」

 

 柄にもなく手など握りこんで寝こけた上、どうやら魘されていたとは。流石に桂も気恥ずかしくて、手持ち無沙汰に畳を撫でる。一点がどことなく湿っているのはもしかしなくても自分のせいだろうか。慌てて頬に手をやれば案の定、目の痕がくっきり残っている。

 

「その、幾松殿。俺は何か妙なことを口走ったりしたのだろうか」

「うーん……寝言って言うか、それもだけど……むしろ顔?」

「顔」

 

 顔ってなんだ。確かに寝顔が気持ち悪いとはよく言われるが、幾松の言い分はちょっと違う気がする。

 

 ぐるぐると考え込んで言葉を失くした桂を見やり、幾松はなぜか苦く笑った。

 

「う、わ、」

 

 存外強い力で遠慮なく引かれれば、痩せた身体が女の腕に抱きこまれる。柔らかい胸に頬を押し当てさせられているというのに、不思議と狼狽一つしなかった。心音が鼓膜を震わせて、桂のそれと共鳴する。穏やかな震えと人肌の温みとが身体の力をゆるゆると抜かせていく。

 

「アンタが起きたらね、伝えなきゃって思ってた」

……幾、松殿?」

「だいじょうぶ」

 

 大丈夫? 一体、何が? 何もわかってはいないけれど。その一言が桂の中にすとんと落ちた。大丈夫だ、だってこの人はここにいる、生きている。桂小太郎のそばにいる。

 

……だい、じょうぶ……

「そう、だいじょうぶ」

 

 とん、とんと背中を叩かれ、あやされているんだとわかる。年端もいかない子どものように扱われて、それなのに桂は拒む理由を見つけられないし探せない。

 

「置いていきやしないよ」

 

 ……アンタは自分の心配してなさい。人の世界に土足で踏み込んで生活掻き回してくれたくせに、今更勝手に消えるなんて承知しないからね。

 

 拗ねたような言い回し。幾松の身体が熱いのは燻る感冒の熱ゆえか、或いは別の理由からか。ぴたりとついた頬で、首筋で、胸でそれを感じて、桂がもごもごと口を動かす。

 

「いく、松どの……ちゃん、と……やすまない、と。まだ……身体、」

「はいはい、アンタが寝たらね」

 

 それでもまだ、言葉だけは虚勢を張る。腕を背中にしっかり回し、子どものようにしがみ付いているくせに。今更こちらの体調を気遣い始めた桂が幾松にはおもしろい。額に手を滑らせればひんやりと心地よくて、だとすればこの気弱のきっかけは、自惚れでなくきっと自分。

 

 罪悪感が痛くて甘い。

 

「ちょっと寝な、私も休むから」

「ん……

 

 幼けなく頭を振る様が、どうにもおかしくて愛おしかった。抱き込みなおすように腕を引き、今度は二人、寝乱れた布団の中に戻る。触れた足先は珍しく足袋を履いておらず、じいんと冷えて物寂しい。背筋を丸めた桂を、護るように幾松は抱いた。

 

 胸の内。晩秋の夜長に、このときばかりは感謝しながら。



 黒、慈悲深い夜の帳に。

 白、女の首筋がほの明るく浮かぶ。

 

 黒、艶やかな濡れ羽の髪を。

 白、荒れた女の手が撫ぜる。

 

 黒、睫が落とす小さな影。

 白、指先に掬われる濡れた頬。

 

 初出:2014/11/23