働く人


 男だったころはよかったよ……なんて総悟たちの前では絶対に言いたくないけれど。


 見目ばかりが評価されることにも、それ故に見知らぬ男たちに辛くあたられることにも、新しい仕事がうまくいかぬことにも、土方Ⅹ子は少しばかり疲れていた。


 ほんの一瞬でもいい。諸々を忘れるため公園で一服しよう。溜め息の代わりに紫煙を吐き出し、ぼんやりと空でも眺めていたい。


 駆け回る子供たちや犬、それを微笑んで見つめる母親たち。微笑ましい光景が映る視界の隅、不意に入り込んだのは一人の男だった。


「なんだ、あの野郎……」


 怪しい。長年の職務で培った勘だけを頼りに、土方は男の跡をつけ出した。


 そこまでは、よかったのだ。






「……テメェ、離しやがれ!」

「威勢のいい女だなあ……オメェこんな豚に付けられて気づかねェなんて弛んでるじゃねぇのか?」

「すっ、すいやせんでした親分!!」


 真選組副長としての地位も、腰に差した刀も、男児たる者裸一貫でも備えているべき槍すらなく、考えなしに男を付けて行ったことを土方は後悔していた。


 自分を取り囲む男は五人。あっさり捻りあげられた腕は太さの割に力がない。懸命に身を捩らせても男の拘束は振り解けず、土方は歯噛みした。額にも首筋にも汗まで浮かべるその奮闘ぶりを見て、親分と呼ばれた男は鼻を鳴らして嘲笑った。


「オメェも運が良かったのか悪かったのか……器量良しなら命だけは助かったんだろうけどなあ……」

「な……!」


 こんな醜女、売り飛ばす価値もないと。侮蔑に満ちた視線と言葉に、土方は怒りに顔を歪めた。


「こ、のやろ……」

「あ?」

「男だってだけでデケェ面してんじゃねェ!!」

「おひィ!?」


 元は男だ。どこを蹴られたら再起不能になるか、痛いほどに熟知している。僅かな隙をついて男の腕から逃れた土方は、振り向きざまに足先で股間を蹴り上げた。ぐり、と足を捻り、倒れ伏した男の玉袋を躙り潰すことも忘れない。


 聞くも哀れな悲鳴を上げ、泡を吹いて気絶した男に、もう土方は一瞥もくれなかった。残る男たちに向き直ろうとして、何か固いもので頭を殴られた。クソアマ、ぶっ殺してやる、などと聞こえるのが心底不愉快で腹立たしい。


 立ち上がろうとして腹を蹴られ、蹲る。苦悶の表情を浮かべる顔にまで足が振り下ろされようとしたとき、それを止めたのは聞き慣れた声だった。


「貴様ら、ここで何をしている」

「アァ!?黙ってろやテメ、エ……」

「っやめろ、よせ……!」

「何をしていると聞いている」


 示威的な声音ではない。だが弱者を痛めつける者への嫌悪と怒りが籠められた低音は、安いゴロツキ達を怯えさせた。言葉なく静かに歩み寄ってくる男――桂小太郎を見て、彼らは狼狽に満ちた表情を浮かべた。この痩身から繰り出される剣戟がどれほど冴えているか。攘夷戦争時代の武勲を知らぬ江戸っ子はいないだろう。


「オイ、行くぞ……!!」


 伸びた親分とやらを担いだ一人が叫べばあとはあっという間だった。蜘蛛の子を散らすように消えて行く男たちを、しかし桂は追わない。


「女、大丈夫か」

「あ、ああ……」


 傍に屈み込んだ桂に気遣わしげに声をかけられ、土方は内心大いに困惑した。頭からたらたらと血を零し、土埃塗れになって地面に倒れているこんな姿、この男にだけは見られたくなかったのに。だが自分の正体を知らぬ桂は、でっぷりと太った身体を抱き起こし傷を丁寧に検分しているではないか。


「女だてらに無茶をする……こんなことはあのチンピラ警察どもにでも任せておけばよいというのに……」


 誰がチンピラだコラ、とは言えずに土方は曖昧に頷くしかない。男同士だったときは触れなば折れんという風情だった桂の手は、こうして女の身になって見ると存外男らしかった。指の長い節くれだったそれが傷の血を拭い、細く裂いた手拭いを巻きつけてくれる。


 小さく溜め息をついた桂は、不意に土方に背を向けた。


「女、乗れ」

「ハァ!?」

「思ったより深い。病院に行くほどではないが、そのままにすると痕が残るぞ」

「ば、馬鹿言ってんじゃねェ!!」


 オメェみてぇな優男に抱えられる体重じゃねェよ、とか。そもそもこんな傷の一つや二つでギャンギャン騒いでられっか、とか。矢継ぎ早に述べ立てられる抗議になど耳も貸さずに、桂は土方を抱き上げた。


 ぎゃあ、などと反射的に声を上げたのは一瞬で、一度腕の中に収まってしまえば、驚くほどそこは安定していて奇妙に居心地がよかった。


「おんぶが嫌なら抱っこだぞ。女、どうする」

「……おんぶで、オネガイシマス」


 素直でよろしい、なんて笑った桂に背負い直されても、抗う気力は残っていなかった。






 通行人の視線が痛い。


 労せず桂の隠れ家がわかると思えば安いものだ。そう自分に言い聞かせても胸中の靄は晴れなかった。大体今の自分は警察組織の一員でもない。こいつの居どころを突き止めたところで何になるなどと弱気が出てくる。


 背の土方の気も知らず、ひょいひょいと路地を曲がって歩く桂の足取りは軽かった。


 商業施設や高層ビルが立ち並ぶ中心地を抜け、振興住宅街の中を通る。二人が会った場所からたっぷり一時間。今にも崩れ落ちそうなオンボロ橋を越えてすぐの古ぼけた長屋でようやく桂は足を止めた。


 この巨体を負ぶって歩き詰めで、息一つ切らせていない。それを心中で少しばかり賞賛しているうちに、子供たちが飛び出して来た。着ているものこそ擦り切れた襤褸ばかりだが、利発的な瞳はきらきらと喜びに輝いている。


「にーちゃん!」

「にーちゃんじゃない桂だ。トヨ殿はおられるか?」

「お婆? いるよっ!」


 呼んでくる!と駆けていった子供たちを見送って、桂は井戸端に土方を下ろした。


「あ、悪ィ……」


 慣れた手つきで水を汲み上げ、まず土方に差し出した桂に礼を言う。上下水道は江戸全域に走っているのだから、だとすれば料金を支払うことができないのだろうか。衛生面が気になる古い井戸は明らかに常用されているように見えた。


「先ほど渡って来た橋があるだろう」

「は? あ、ああ……」


 自身も喉を潤し、濡らした手拭いで軽く汗を拭い。唐突に始まった桂の話を、土方は黙って聞いていた。


「あの橋を取り壊し、新しいものをかける計画が進んでいる」

「……いいことじゃねーか」

「何がいいものか。大型車両の通行に耐える橋がかかってみろ。間違いなくここは再開発地域になる。この長屋の住民は路頭に迷うことになるかもしれんのだぞ」

「……っ、」


 ぴしゃりと言い切られて、反駁する言葉もない。桂によれば、すでに地上げ屋による苛烈な突き上げが始まっているのだと言う。


「奴らが末端として雇うのは攘夷派を名乗るのも赦せんような浪士崩ればかり」

「……そうすりゃあ万が一とっ捕まったときにも攘夷志士による犯行と報道できるからな」

「そういうことだ」


 小さく頭を振った桂は、土方を置いて立ち上がった。


「そもそも今はそんな奴らの取り締まりすらままならん状況らしいからな」


 いつの間にか脱いでいた羽織を、流れるような仕草で再び身に纏い。軽々と屋根に上がった桂は、土方の目を見据えて確かに笑った。


「……あの狗どもがまともに仕事をすれば、ここの子らやご老人たちももう少し楽な生活ができるのだがなあー」

「……オイ桂、テメェ!!」


 咄嗟に呼び止めようとしたところで、子供たちが呼びつけた老婆が現れてしまった。小さい少年少女に寄ってたかって押さえつけられ、皺くちゃの手で治療を施されては、それを跳ね除けて桂を追うことはできそうにない。


「つくづく食えねェヤローだよ……」


 そうでなくったってとても追いつけそうにないことは棚に上げて、土方は小さく呟いた。






 そのまま夕飯まで馳走になった挙句一晩の宿まで提供されてしまった。翌朝になってようやく、引きとめられつつも土方は長屋を後にした。


 思いがけず、厄介な仕事を押しつけられてしまった。昨晩あれこれと聞いた老婆と子供たちの身の上話を、脳内で反芻しては今後のことを考える。


 この案件を片付けて、もちろん桂も捕縛し鼻を明かしてやる。いつしか昨日までのくさくさした気持ちは跡形もなく消えていた。まずは男の身体を取り戻すべく、土方は――巨体なりに――軽やかに帰路についた。


初出:2015/05/01