八十八夜


――晋介、眠れんのだろう?


 そう、小さな声で桂が囁きかけてきたのは、あれは五月二日の晩だった。松陽が教え子の親から新茶を贈られたのがきっかけ。八十八夜の講釈を興味深く聞き、常のものとは違う上等な茶をしこたま飲んだ二人は、すっかり目が冴えてしまっていた。


 よく晴れた空に、星々と丸い月が美しい夜だった。茶よりも添えられた茶菓子ばかりがっついていた銀時は腹を出してぐっすり寝入っていて、呆れた高杉が毛布をかけてやった。


 振り返った幼馴染は、人差し指をそっと立て、うっすらと微笑んだのだった。




――いいのかよ。


 常日頃は優等生然としているくせに、こっそり抜け出して外を歩こうだなんて。揶揄するような高杉の声に、桂はますます楽しげに笑う。いいから、と無理やり引き起こされて夜の庭に出れば、早くも夏草の香りが僅かに鼻腔を擽った。


――おもしろいところがあるんだ。


 そのまま手を引かれ、庭からも飛び出して。高杉を引き摺るように歩く桂の目は爛々と輝き、美しいと言うよりはむしろ恐ろしかった。村はずれの小山まで辿り着いた桂は、躊躇わずその中にまで足を踏み入れようとした。


――オイ、桂……。

――なんだ晋介、怖いのか? 俺が、こわいのか……。

――は? 怖いわけねェだろ。お前……。

――怖くないなら、いい。


 呟いた途端、高杉の手を振り解いた桂は駆け出した。怖くないなら、ここまで来られるだろう! 笑いながら叫んだ声が夜の闇にくわんと響く。奇妙なことに、村民たちは誰一人として起きて来なかった。


――待て! 桂、止まれ!!


 月明かりの入り込まぬ木々の下を右へ、左へ。こけつまろびつ駆ける高杉はもう傷だらけだというのに、桂は木の根に足を取られることさえない。かと言って完全にどこかへ消えてしまうのでもない。視界の隅には、辛うじて白く薄い夜着が見えた。


 どのくらい走り続けたのだろう。いよいよ息が切れてその場にへたり込みそうになったとき、いきなり目の前が大きく開けた。美しい青。水を一杯に湛えた泉を前にして高杉は瞬いた。こんな場所、この山の中にあっただろうか。


 心の声が聞こえたかのように、桂が軽やかな笑い声を上げる。小さな湖の畔に立っている細っこい身体は、今にも何者かの手によって水の中に引きずり込まれそうだった。


――桂を、返せ。

――かえせ?

――わかんなかったのか。そいつから出てけって言ってるんだ。


 桂なら決して浮かべないだろう、背筋が凍るような薄ら笑い。それが、高杉の言葉を受けて消えていった。感情のこそげ落ちた顔。表情のない桂のかんばせから、桂の声でない声が聞こえてきた。


――だって、この子がかわいそうに……って言ったのよ。俺にできることなら何でもしてやりたいって。それがこの子の“想い”なら、いいじゃない。

――詭弁だな。


 歩み寄れば、桂は同じだけ水の中へ下がっていく。いまや高杉の幼馴染は、胸の辺りまで水に浸かってしまった。


――“想い”がなんだ。


 この超弩級のお人よし馬鹿につけこみやがって。そう内心で吐き捨てる。


――そんなもんより強ぇ“約束”を、こっちは持ってんだよ。


 一つ一つはとても小さなものだけれど。たとえば昨日、稽古で負けた桂が再戦をねだってきたことや、次の休みに銀時も交え三人で隣村へ遊びに行く予定を立てたこと。或いは次の冬はもっと大きいカマクラを作ろう、来年も桜を見ようなんていう誰かの一言。


 これからもずっと八十八夜に長寿を祈り茶を飲もう、などと。無理やりに桂が取り付けて誓わせた、高杉たちの未来。


 じり、とにじるように歩を進めても、もう桂は立ち尽くしたまま動かなかった。


――た、かすぎ……。

――桂!


 後ろに倒れそうになるのを、慌てて駆け寄って抱きとめる。か細く高杉の名を紡いだ桂は、高杉の腕の中ぐったりと目を閉じた。




 弛緩した体をどうにか背負って、家へ帰り着くころにはもう日が昇り始めていた。門扉に立っている松陽を見たときには大目玉を覚悟したのに、不思議と師は何も言わなかった。


 あの晩の騒動を桂は何一つ覚えていない。話す気もなかったし、今更気が変わったとしてももう何もかもが遅い。



 それでも高杉は今もこうして、八十八夜には一人茶を飲むのだ。


初出:2015/05/02