春の匂い

 

 官邸の庭には梅の花が一杯に咲いている。川沿いの桜並木の蕾たちはふっくらと膨らんで、色づいて、花開くときを待っている。

 風のない穏やかな昼下がりを過ごすのにはこの豪奢な執務室さえ手狭なくらいで、土方はこっそり息を吐いた。

 

 視線の先。痩せた身体を書類に埋もれさせて働く桂には、休むつもりはこれっぽっちもないらしい。

 

 先の戦いにおける被害の補償。

 法度に替わる憲法の制定。

 星間外交と不平等条約の改定。

 

 そして、十余年前の戦争で散っていった志士たちや、国賊として処刑された思想家たちの名誉回復。

 

 あれやこれやと案件を抱え込んで、ここに缶詰になった桂に付き合わされて早二ヶ月。

 

 入れ代わり立ち代わり休むことにしている旧攘夷党及び真選組の面々とは違い、この男だけは碌に休みも取っていない。

 

 寝室にまで資料を持ち込み、無理やり書類と引き剥がして監禁すれば脱走し、挙句の果てには納得がいくまで行方を眩ましてまで仕事を片付ける。

 

 土方や近藤の諌めはおろか、エリザベスや部下たちの声も、万事屋三人の言葉すら届いていないようだった。

 

 過日の銀時と桂の諍いを思い出してまた溜息。

 

「おい、土方」

「あ? なんだよ」

 

 ぞんざいな口の利き方にも気分を害した様子はない。疲れの色濃く出た桂の顔はそれでも感情一つ表さず、ただ、視線だけで扉を指し示した。

 

「なんだはこちらの台詞だ。溜息ばかり、うっとうしい。煙草が吸いたいなら外へ行け」

 

 それだけ言い切って、今度はコンピューターに目を向ける。液晶疲れしないように眼鏡をかけている桂の顔に土方はいまだ慣れない。

 

 また嘆息が漏れそうになるのを慌てて飲み込んだ。

 

 足早に部屋を後にしても、桂は何も言わなかった。

 

 

 

 喫煙者のほうが少ないから、と桂は官邸のほぼ全室を禁煙にしてしまった。

 

 煙草がふかせるのは貴賓室くらい。いくらするか想像すらできないような調度品に囲まれて紫煙を燻らすくらいなら青空の下のびのび一服したいが、それでもその都度庭まで出るのは面倒くさい。

 

 見咎める者もなかろうと、屋内にいるうちから一本を咥える。

 

 愛用のマヨライターを右手に、脱いだジャケットを左肩に。通用口を開けたところで目に飛び込んできたのは、暑苦しいオレンジのモフモフだった。

 

 呼び止めるよりも先に、軽く頭を下げられる。

 

 スケッチブックを持っていない斉藤は相変わらず何を考えているか読めない無口な男で、その気安さに負けて土方はついつい漏らしていた。

 

「オイ終、お前桂のことなんとかしてくんねェか。あのままじゃアイツ過労で死ぬぞ」

 攘夷戦争を生き延びて武勲を立て、先の大きな戦いでも、その知略や剣戟の冴えで勝利に大きく貢献した男。

 

 そんな人間が死に急ぐように机に噛り付いているのが、土方にはどうにももどかしくてならなかった。

 

 苛立ちを隠すように、咥えたものに火をつける。

 

 別段返答を求めて言った言葉ではなかったから、聞き終えた斉藤がどこへ行こうが構わない。

 

 その判断が間違っていたと知ったのは、一本目を吸い終わった直後、ガラスが割れるやかましい音にライターを取り落としたときだった。

 

 

***

 

 

「斉藤、貴様何のつもりだ!」

 

 ノックもせずに飛び込んできたかと思えばいきなり抜刀。咄嗟に鞘で防いで応戦すれば、机上のあれやこれやがバラバラと舞った。

 

 舌打ち一つ、窓を叩き割って外へ飛び出す。隣室の張り出し窓に飛びついて屋根へと上がれば、軽々と斉藤も後を追ってきた。

 

 実力は互角。なれば先に心を乱した者が負ける。春のやわらかく暖かい空気で肺を満たし、桂は愛刀を正眼に構える。

 

 初手は右肩へ来た。真っ先に利き手を狙うそれをいなして、左わき腹を削ごうとする二撃を強く払う。再びの左手が下から頸を掻き切ろうとするのを、無駄のない動きで桂は避けた。

 

 命を奪う刃を恐れ、必要以上に腰を引き、身体を逃がすことはない。

 

 まさに紙一重のところで凶刃をかわし、攻撃をよける桂の姿は、傍から見ていれば舞の名手にでも見えるかもしれない。

 

 そんな、ほんの一瞬の夢想のせいで、斉藤は刀の一振りを吹き飛ばされることとなった。

 

「どうした。貴様が仕掛けてきたんだ。集中せんか」

 

 不敵に笑っていても、全身を蝕む疲れは隠せない。それでも刀を拾うほどの余裕は与えてもらえなさそうで、斉藤は屋根の上から飛び降りた。

 

 僅かに目を見開いた桂は、だが当たり前のように着いて来る。勝負を放棄して帰るという選択肢がとうに消えているという事実が、斉藤をどうしようもなく昂ぶらせた。

 

 駆けて、打ち込んで、また走って、それから切り結んで。

 

 気付けば桜の並ぶ土手へと出ていた。

 

 構えた刀の切っ先がぶれている。それを指摘してやる術を斉藤は持たないけれど、桂自身だって気付いているだろう。

 

 それに、自分だって似たようなものだ。

 

 次が、最後の一振りになる。

 

 春一番が桂の艶やかな髪を揺らしたそのとき、斉藤は一気に切り込んだ。

 

 風が黒髪を弄って揺れて、その向こうに、凪いだ琥珀色の瞳が見える。

 

 視線が熱く絡み合った瞬間、なぜか足まで縺れていた。

 

「……あ、」

 

 狼狽して声が出たのはどちらだったろう。小太刀を取り落として飛びついてきた斉藤に度肝を抜かれて、その首筋を狙うはずだった桂の愛刀もまた役割を果たすことはなかった。

 

 雪解けの地面に二人して倒れこんで。咄嗟に斉藤が桂の頭を庇ったから、強く抱きこむような姿勢になってしまった。

 

 雪と氷と土が混じりあった泥濘がしゃり……と小気味良い音を立てる。景気がいいのは音だけで、服がぐしょぐしょになる感覚は不快極まりなくて、斉藤は思わず眉根を寄せた。

 

 それなのに、起き上がろうとすれば桂が背中に腕を回してくる。跳ねた泥で白皙まで汚れているのは気にもならないようだった。

 

「……お前と“話して”わかったよ」

 

 頑なだったのは、俺のほうだな。そんな囁きが斉藤の耳を擽る。泥に塗れ、勝負の決着すらついていないというのに、それはとても優しい声だった。

 

 土の匂いを、冬の終わりを思い切り吸い込んで、少し笑って。

 

 小さな子どものような稚い声で桂は続けた。

 

「すこし……やすむ、」

 

 辛うじてそこまで言って、泥だらけのまま寝息を立て始めた桂を抱き寄せて、斉藤は泥の上に仰向けになった。

 

 このまま帰ったら絶対副長にどやされるだろうなー、とか。この人どうやって連れて帰ろう、とか。

 

 そんなことをほんの少しだけ考えているうちに、春の陽気に誘われ斉藤もいつしかまどろんでいた。

 

初出:2015/03/01