暮れる

 最初は、自分。

 

 それからすぐに同志たちとその家族、そして攘夷党の支援者と彼の孫娘。その後には商いの合間を縫って地球に下りてきた坂本と陸奥、年の瀬を慌しく過ごしていた幾松と彼女の父親。その次が公園のベンチに突っ伏していた長谷川さんで、そのまた次がてる彦、そして恒道館の仲良し姉弟。最後はスナックお登勢の女二人に、万事屋に暮らす銀時と神楽。

 

 性質の悪い風邪が蔓延した江戸の町を駆けずり回ってバイトに攘夷活動、病人たちの看病に明け暮れていた桂だったが、いよいよ一年が終わる今日になって無理が祟ったらしい。朝方かまっ娘のヘルプから帰ってきたかと思ったら、何も言わず戸口に倒れ伏した。慌てて抱き寄せた身体は、最も冷え込む時間帯の町を歩いたにしては熱すぎた。

 

『桂さん! 桂さん!!』

 

 辛うじて薄っすらと開いた目が、プラカードの文字を捉えようと何度も瞬く。そこに書かれた自分の名前を認めたのか、桂はなんとかそれに答えようとして――激しく咳き込んだ。今年の感冒はこの聞くも痛々しい咳と酷い高熱が特徴だった。ぜえぜえと嫌な音をさせながら何とか息を吸っては吐く桂を、エリザベスは急いで抱え上げる。襦袢一枚にして布団に横たえてやっても、柳眉はきつく顰められたまま。苦しげな呼吸音と激しい咳に胸が痛む。

 

 火を入れただるまストーブの上に薬缶を乗せる。盥に氷水を張って枕元に置き、濡らした手ぬぐいでそっと桂の頬を拭う。汗に濡れた美しい肌は、けれど疲労のあまり重ったるくくすんでいた。もう一度冷やしなおした手ぬぐいを額に乗せると、桂は少し息を吐いた。

 

 掛け時計は今、五時を指そうとしている。卓上の目覚まし時計が鳴り始める寸前に飛びついて、エリザベスはそれを止めた。

 

 溜息が二つ零れ落ちる。一つは安堵、もう一つは懊悩。

 

 今日の午後、遠方から客人がやって来る。自身は老齢ゆえ大きな活動から身を引いたものの、常日頃何くれとなく桂たちを助けてきてくれた御仁だという。再会を有意義なものにするために、桂はひと月以上まえから準備を続けていた。ただ一人エリザベスだけを供に、数多ある攘夷派の現状と現状を改めて洗い上げ、幕府の動向を注視し今後の展望についてまとめてある。

 

 間違いなく、行けというだろう。それを拒み桂の傍にいることが自分の役目ではないことを、エリザベスはよくよく理解していた。いっそ歯噛みしたくなるほどに。

 

 

 頼みの綱はあっさり切れた。

 

「依頼だぁ? こちとら掻き入れ時なんだよ」

 

 ただでさえ昨日一昨日と実入りがなかったのに、これ以上金にならねぇことなんかやってられっか。

 

 臥す桂を部屋に残し息せき切って万事屋まで駆けたというのに、銀時の答えはあまりにすげない。確かに碌に依頼料も払わず主人と二人あれやこれや押し付けてきた自覚はあるが、それにしたって冷たすぎる。そこをなんとか、とプラカードを繰り出そうとしたところで、無理やり身体を押しのけられた。掻き入れ時というのは本当らしい。こんな朝っぱらから仕事に出るとは。

 

 スクーターに乗った背中が見る間に遠ざかっていく。

 

「党首様が大好きなお仲間が山ほどいんだろ? 頼みごとはそっちにしな」

『薄情者! 恩知らず!!』

 

 見えるわけもないと知りつつ掲げたプラカードを、エリザベスは万事屋の前に投げ捨てた。

 

 

 電器屋を叩き起こして飛び込んで買ってきたハロゲンヒーターと加湿器を付けて、だるまストーブを消火する――本当はこちらのほうがずっと暖かいのだけれど、こうもぐったりと臥している病人の傍で使うのは怖い。布団から手の届く範囲に必要なものを全て並べる。電話、ペットボトルのポカリと緑茶とミネラルウォーター、総合感冒薬、みかんの入った籠、ラップをかけた椀と匙、氷水を張った盥、箱ティッシュ、洗い立てのタオルや手ぬぐい数枚、換えの襦袢、ついでにテレビのリモコン。

 

 空の冷蔵庫にはフルーツポンチ、予備の冷えピタにポカリを入れて。調理台には粥の残りが入った土鍋と、蕎麦つゆを作っておいた雪平鍋。食卓の上には乾麺とレトルト食品を置いておいた。

 

 うるさくすまいと気をつけてはいたが、どうしても慌しく動かざるを得ない。それなのに、がたんばたんと物音を立てても抗議一つ得られなかった。きつく寄せた眉根もそのままに、ただ苦しげに呻いているばかりの主人に、エリザベスの覚悟が何度も揺らぐ。それでも桂の認めたあれこれを抱えなおせば、腹を括るしかなくなる。

 

 後ろ髪――なんてものはないが――を引かれる思いだけれど、行かねばなるまい。もう一度、燃えるように熱い額の冷えピタを張り替えて、今度こそエリザベスは忙しなく隠れ家を後にした。

 

 

 

 

 

 ぺちぺちとててっ、とやたらにかわいい足音が路地裏に小さく響いて消える。大通りに出たエリザベスが素早く籠に乗り込んだのを見届けるや否や、すぐさま長屋に入っていく影があった。

 

 彼をよく見知った人がいたならば思わず吹き出したことだろう。必死に平静を装っているようにしか見えない、違和感だらけの無表情。警察関係の人間にはもちろん、ただの知人にだって決して見られたくないがゆえに周囲に走らせる視線は真剣そのもの。隙のない早足からはいつものだらけ切った余裕は見受けられない。

 

 合鍵で勝手に上がりこみ、桂の私室に足を踏み入れてようやく銀時は深く息を吐いた。安普請の家はどんなに目張りをしてもどこかしらから風が入る。消されたばかりのストーブを付け直した銀時は、どっかりと枕元に胡坐をかいた。そうしてようやく、深く眠る人間にぶつぶつ文句を垂れる。

 

……あのさ、黙って来て黙って帰ってくのやめてくんねぇ?」

 

 こんな風に髪を一撫でして、それから額に唇を落とし。朦朧としている銀時と神楽の周り、散乱した紙くずに汚れ物、かぴかぴの雑炊がこびり付いた食器類をそっと片付けて、レトルトの粥とポカリだけ置いて帰っていった。

 

 気付かれないと思ったのだろうか。或いは気付かれたところでどうでもいいとでも。桂のそういう押し付けがましいところが心底嫌いで、銀時はいつもイライラさせられる。こちらの意志なんてどうだっていいと、突き放されたような気持ちになる。決して強く無理やりにではなく、けれど決然と身を離されて、取り残されたような思いがする。

 

「心臓に悪ぃんだよ……いる、って思ってて起きたらいねぇの」

 

 勝手な話だ。かつてそうやって桂を置き去りにしていったのは自分で、それなのに今、銀時は不実を責める情人の口調でぐちぐち不平を呟いている。高熱に浮かされているとわかっていなければ決して言えるはずもない言葉だった。

 

 盥にタオルを泳がせて固く絞る。今が発熱のピークなのか、浮かぶ汗は玉となり、疲れの滲む肌を次々滑り落ちる。そうっと額や頬を押さえそれを拭うと、苦悶の表情が少し緩んだ気がした。

 

「なーにが神童だっての」

 

 お前さぁ、知らねぇのか。風邪っつうのはホントは誰でも引くもんなんだよ。免疫力が落ちてりゃ身体がウィルスやら細菌やらに負けんの。お前は今負けてんの。ぼこぼこに。見る影もなく。

 

 ここまで言われて反論一つしない、できない桂というのも久しかった。むしろ初めて見るかもしれない。戦時すら、死を覚悟した撤退戦の後でさえ、訳の分からない電波は健在で銀時や仲間を呆れさせたというのに。寝具に力なく広がる黒髪も、常の艶やかさを失くしぐんにゃりと萎れていた。

 

「マジで救えねぇ馬鹿」

 

 なんとか言えやコノヤロー、なんて毒づいて、それを一房掴んで軽く引く。ん、と小さく唸った桂は、それでも目を覚まさない。再びの汗が滲み、頬や首筋を濡らしている。

 

 部屋を冷やす隙間風。荒く、軋むような呼吸。ストーブの上の薬缶が懸命に蒸気を吐き出す音。いつしか雪が降り始めた町はしいんと静まり返って穏やかで、ゆるやかに一年の終わりに向かっていた。

 

 軽く寝返りを打った桂の手が布団の外に出てしまったのを、銀時はそっと上掛けの中に戻してやった。手を握るなんて柄じゃないけれど、一仕事終えた手がなんだか手持ち無沙汰で、みかんが山盛り詰まれた籠に腕を伸ばす。乱雑に皮を剥いで、半分に割って口に放り込んだ。

 

 薄皮を歯が食い破れば、中の粒からはどこまでも甘い果汁が飛び出して口いっぱいに広がっていく。そういえば生まれて初めてみかんを食べたのは、桂や高杉と出会った年の冬だった。熱を出して寝込んだ銀時と松陽のために、二人がばら銭を握り締め買いに行ったそれも、やはりこんな風に熟しきって甘く、僅かな酸味もないものだった。

 

「あー、ちくしょう……!」

 

 引きずり出された記憶に思わず舌打ちしていた。なけなしの意地をかき集め、弱気とそれの折衷案として布団越しに手を握りこむ。

 

 こんな感情、認めたくなんてないのに。

 

 実のところ、きっと怖いのだ。風邪菌から死者の無念、師の教えから人々の期待まで、何から何まで一身に引き受けて飲み込んでしまう桂のことが。再会時お前がわからんと言ったのは桂だけれど、銀時だって幼馴染の馬鹿正直さも生真面目さも理解できた例がない。幽霊――じゃなくて、スタンド――だってこの腐れ縁だって、解せないものは不気味で怖い。

 

 けれど本当に恐ろしいのは、何もかも目一杯に抱え込んだ桂が、いつかぱちんと弾けてしまうこと。こんな風にこてんと倒れて、二度と帰っては来ないこと。

 

 底知れぬと思った人が、存外あっさりと死ねてしまう、死を選べてしまうことを銀時はよく知っていた。

 

 いや、別にただの流行りの風邪でこの馬鹿が死ぬなんて思っちゃいない。けれどこれは氷山の一角で、結局一事が万事こいつはそうで、これはもう死ぬまで治らない。それをまざまざと突きつけられて、けれど詰る資格もない。というか何言ったって改善させるような殊勝なタマじゃない。

 

「ん……っき、」

「ヅラ?」

「ん、と……き、」

「おい馬鹿無理すんな」

「む、り……じゃ、な、」

 

 ないないづくしに気付けば手に力が込められていたらしい。手首を締め上げられる痛みに、桂がおもむろに瞼を持ち上げた。銀時。そのたった四文字を紡げずに激しく咳き込んだ痩身を抱き起こし、繰り返し背中を摩ってやる。ぐしょ濡れの襦袢が骨の浮きそうな背に張り付いて銀時の掌に引っ掛かる。ようやく咳の衝動が収まった桂は、ぼんやりとした目に涙さえ浮かべていた。

 

 腐っても古馴染み。疑問も要望も聞くまでもない。

 

「大晦日にぶっ倒れた馬鹿のツラ拝みに来てやっただけだよ」

 

 ポカリ飲め。うるせぇ水分どころか塩分も糖分も足りねぇクセにわがまま抜かすな。薬? 腹ん中空っぽの奴に飲ませられっか。

 

 いつもより無駄口の多い銀時に対し、桂は何も言わずされるがままになっている。こうやって大人しく傍にいればいいのに、なんて考えが一瞬だけ頭を過って、でもそれはもう桂小太郎じゃないなと思い直した。

 

「ほら、薬も飲め。飲んでもう一回寝ちまえ」

 

 冷めた粥を少しばかり流し込んだ小さな口に、苦い粉薬を押し付ける。朦朧としつつもどうにかそれを嚥下した桂は、すぐさま瞼を下ろしてしまった。ぐでんと弛緩した身体を蒸しタオルで拭いて着替えさせ、新たに延べた布団に移すのは骨が折れる。

 

 脱がせた襦袢を洗濯場へ持っていこうとして、足元の違和感に歩みを止めた。

 

「なんだよ……

 

 難儀なヤツ。見下ろせば、確かに布団に入れたはずの手が着流しの裾を握り締めていた。縋るように。ここにいて、と乞うように、強く。

 

 本日何回目かの溜息も、やっぱり桂には聞こえなかった。ぐるぐる考え込んでいたことも今後の予定も汚れ物に対する気遣いも何もかもどうでもよくなって、再び銀時は腰を下ろした。座り込んだだけでなく、着流しだけ脱いで布団に潜り込む。発熱する身体を抱き込めばそこはものすごく暑いけれど、不思議と不快ではない。

 

 病み上がりに超特急で働きまわった身体が、睡眠を欲して休もうとしている。狭い布団で無理やり抱きすくめられているというのに、桂の表情が和らいでいるように見えるのは銀時の気のせいだろうか。

 

 このまま寝こけて、起きたらおそらく年明けは目前。リクエストと慣習に則って蕎麦でも食べて、ぼけっと除夜の鐘を聞いて終わり。

 

 けれど何も変わらない、変えられない一年の終わりと始まりの間も、ただこの手だけは繋いでいよう。

 

 そう決めてしまったところで、銀時の意識もゆるゆると溶けていった。

 

初出:2014/12/31