王者の風格

 前将軍の暗殺、警察庁長官の更迭。そして真選組の解体。

 今や江戸は――無法地帯といわれるここかぶき町でさえ――変わってしまった。

 めっきり人通りが少なくなった表通りを野良猫ばかりが我が物顔で歩いているのを見て、幾松はそっとガラス戸を閉じた。

 見慣れた店内がひどくがらんと見えて物寂しい。

 北斗心軒だけではあるまい。閑古鳥が鳴いている店がなんと増えたことだろう。

 国が変わろうが、たとえ明日世界が終わると告げられようが、幾松のやることは変わらない。

 亡き夫との志を胸に、厨房に立ち続ける。

 その決意は固けれど、時折不安が過るのだ。

 この国は大丈夫なのだろうか、いつまでこの店でラーメンを作ることができるのだろうか……と。

「あっ……!」

 思考の海に沈み、不注意になった手からどんぶりがするりと落ちていった。慌てて掴もうとして、小脇においてあった皿まで三枚ほど床に落とす。

 陶器が割れるけたたましい物音に、堪えていた溜息が零れ落ちた。

 そのときだった。

「大丈夫か、幾松殿!?」

 戸がいきなり開いて、見知った男が大荷物を抱えて飛び込んできた。

 見慣れた常連の見慣れぬ姿に幾松は目を丸くする。そのリアクションを見て、思わず飛び込んでしまったらしい彼は少しばかり冷静さを取り戻したらしい。

「あ、通りかかったら物音が聞こえたものでな……」

 慌てて目を逸らした桂の、空々しい言い訳が客のいない店に響く。

 うそつき。心の中で呟いて幾松は小さく笑った。

 鼻先も頬も赤くして、髪も木枯らしに弄られて乱れ放題。髪の一筋から足先まで冷え切っているだろう。

 ごにょごにょ言いながらも店を辞そうとしたのを逃すわけがない。

「せっかく通りかかって、扉まで開けたんだ。売り上げに貢献してくれたっていいだろ?」

 僅かな逡巡はあったものの、結局その常連――桂小太郎はいつもの席に腰掛けたのだった。

「……月見を頼む」

 

「いただきます」

 行儀よく手を合わせて、早速割り箸を割る。箸使い一つ取っても育ちの良いのが一目で分かる。

 つぷりと割られた黄身がとろけて麺に絡んでいるのを、桂は実に上手そうに啜った。客が他にいないので手持ち無沙汰で、幾松はそれをなんとなしに眺めている。

「ねぇ、アンタさ……」

 サービスでのせてやった若布を咀嚼している桂が首を傾げた。長髪が肩口に乗った髪がさらりと揺れて滑り落ちる。

「何で今日は女装なの?」

 綸子の小紋でラーメン屋もなかろう。そんなよそいきを着こなしておきながらすっぴんなのもいただけない。

 これまでにもバイトの行きかえりだという桂と何度か顔を合わせたことはあるが、“いかにも”な化粧がやけに似合っていたの幾松は覚えている。それなのに今日は白粉すらはたいていない。

 そもそもこんな国難のときにバイトに精を出す男でもないはずなのだが、なぜ今女装なんてしているのだろう。

 律儀に汁を飲み干した桂が、重々しく頷いて口を開いた。

「うむ、ちと仕事でな」

「……それが仕事着だってのかい」

「いや、そういうわけではないのだが……」

 言葉を濁した桂が、ちらりと荷に目を遣った。

「先方にあるもので済ませようと思っていたのだがな、身頃はともかく丈が足りなんだ。お陰で前のバイト先から借りてくる羽目になってしまった」

 なんとなく頭に来る台詞を吐かれた気がする。改めて桂の顔を見つめなおして、けれど出てきたのは全く意図していない言葉だった。

「どうせその中も女物なんだろ?」

「え? まあ、そうだな……」

「ちょっとは化粧したほうがいいんじゃない?」

 予想外のことを言われた桂が数回瞬く。長い睫毛がふるふると震え、白い頬に影を落とした。

 腹立たしいことに、これはこれでまあ、アリかもしれないけれど。

「やっぱり変よ。そんなにいい服なのに何にもしないの」

 腕を組んで黙り込んだ桂を覗き込んで見つめれば、やだなぁ……なんて小さく呟くのが聞こえた。

「やはりだな、ここぞと言う場面でばっちり“ふるめいく”なのは如何なものかと。俺は侍だぞ」

「普通侍は女装しないの」

 だが、しかし、俺のイメージが、とごねているのを無理やり立たせる。どうせ今日はもう客は来ないだろう。暖簾をしまって幾松は桂を二階へ促した。

「いつもみたいにごてごてしなきゃいいのよ。顔色悪いし、白粉だけでも」

 ここしばらくの塞いだ気持ちが嘘のように、なんだか愉快になっていた。誰かの顔に化粧を施すのなんて長屋住まいだった幼い頃に、こっそり母のものを持ち出して大目玉を頂戴して以来のことだ。

 とりあえず顔を洗わせて、鏡台の前に呼び寄せる。自分でできる、なんてささやかな抵抗を幾松はあっさり黙殺した。

 少し疲れの滲んだ肌に化粧水をつけ、乳液を伸ばす。目を閉じてされるがままの桂がおもしろい。緊張で強張った唇の下を幾松の指が通れば、男にしては細い肩がひくりと震えた。

 化粧台の上に並べたものをざっと眺めて、必要なものを手に取る。化粧下地にクリームファンデーション、それから粉白粉。

「い、くまつ……どのっ、」

「ホラ、動かないで」

 細い指に顔中触れられていたときはどうにか我慢していたくせに、白粉をたっぷりのせた柔らかいブラシに擽られることは耐えがたかったらしい。

 粉が落ちてもいいようにと、巻きつけた古いシーツの下で身を捩じらせて桂は笑った。それを嗜める幾松の口元にも微笑が浮かんでいる。

「ハイ、おしまい」

 余分についたものを落とし、そっと眉を指で辿る。おずおずと瞼を持ち上げた桂が安堵の混じった息を漏らした。

 意地の悪い気持ちと離れがたい気持ちがない交ぜになって、気付けば声をかけていた。

「次は髪ね」

 そそくさとシーツを片付けて退散しようとしていた桂を鏡台に向かわせる形で座らせた。本気で困惑しているのが背中越しに伝わってきて、けれど幾松にも引く気はない。

 艶やかな長髪に櫛を入れる。

 そう言えば、この髪を随分と短くしていたことがあった。常日頃男はスポーツ刈りが一番なんて言っているくせに、桂の短髪を見るとなぜだか胸がざわついて幾松は戸惑った。

 あのときと同じ不穏な感傷が、胸の中をぐるぐると渦巻いている。

 鏡の中の桂はもう目を伏せても、逸らしてもいなかった。虚像のそれに真っ直ぐに射抜かれると、櫛を持つ手が震えそうになる。

 指の先から零れそうになる黒髪に、いかな心象も被せないようにして。

「左は少し流して……こっちは寂しいから何かつけようか」

 鏡台の引き出しから出した髪飾りをざっと見て考える。ぱっと目を引いた椿を手にしかけて――やめた。

 選んだのは、鮮やかな牡丹。

 濡れ羽の黒を唐紅の華が彩る。

「……幾松殿?」

「あ、ああ……いい塩梅じゃない」

 うっかり見とれてしまったことが気恥ずかしくて、幾松は慌てて立ち上がった。今更のように時計が目に入ってくる。

「引き止めて悪かったね。アンタ時間は大丈夫?」

 同じく時計を見た桂が、いつも声音で答えた。

「そろそろ行かねばな」

――行くって、どこに?

――アンタはどこに行っちゃうの?

 本当はそうやって問いたい。けれど問うたところで何になる。口を閉ざすしかなかった幾松を見つめて、桂は穏やかに続けた。

「なに、俺だけではない。みな夜明けへと向かっているのだ」

 月は既に沈んだのだからな。だとすればもう、夜を終えるしかなかろうて。白皙に浮かぶ笑みを見れば、身体の強張りが解けていく

 ではな、幾松殿。そう軽く手を上げて去ろうとした背中に一言。

「食べ納めなんて承知しないからね」

「え? あ……」

 確かにちらと思ったことを言い当てられて立ち止まった桂に、幾松はさらに畳み掛けた。

「ウチはアンタのせいで蕎麦仕入れる羽目になってんの! 責任とって食べに来たっていいんじゃないかい?」

「そう、だな……」

 幾松に向き直った桂が、微笑みながらはっきりと告げる。

「また来る。今度は古馴染みと四人で……ではな」

 もう一度大荷物を抱えなおして。今度こそ去っていった桂を、幾松はいつまでも見送っていた。


初出:2015/02/11