「カギャクカンボー?」
イマイチ字面が思い浮かばない言葉に幾松が首を傾げる。直しても直してもずり下がる眼鏡を、いよいよ諦めて頭に乗せている幼児を背負い、ぬぼーっとこちらを見上げてくるふてぶてしい赤子を右手に抱いて。左手で艶やかな黒髪を結い上げた子どもの手を引いた神楽には、常の元気印の影もない。
「地球にも最近入ってきた新しいビョーキアル。男どもが次々もらってきて困ってるネ。銀ちゃんとぱっつぁんの世話だけで私は手一杯ヨー」
「え、じゃあその子どもたちってもしかして……」
盛大に溜息を吐いた神楽が頷く。言われてみれば面影がなくもなかった。神楽が背負い、抱いている子どもたちは確かに。
「じゃあ銀さんと新八君なの!?」
「これだから予防接種ちゃんと打ってない奴はダメネ。新八はいつまでたっても新一にはなれないし銀ちゃんもどこまでもマダオアル」
もう私疲れたヨ。いきなりこんなダメ男三人のマミーになんてなれないアル。そんな風に幼い少女に助けを乞われてしまうと、なんだか断るのに罪悪感が湧いてくる。結局、病気が治るまで幾松がもう一人を引き受けることになってしまった。
赤子や幼児に比べたらやりやすいとも思ったのだが。
「かたじけない、よろしく頼む」
「……ああ、私は幾松。よろしく」
なんだかとてつもなく嫌な予感がする。それは裏切られることもなく、おもむろに頷いた少年は己の名を紡ぐのだった。
「俺は桂小太郎。好物は蕎麦だ」
「作れってか? 蕎麦作れってか?」
可逆感冒。その名称の通り罹患した者は風邪のような症状のあと、熱が引くと同時にいくらか年齢を遡る。そして一週間から十日程度をその姿のまま過ごしたのちに、再び発熱し快癒に向かう。高熱を出して寝込むほど、より若返ると考えられている。飛沫感染が主だが、発症前後の発熱している期間しか人には移らない。
テレビのニュースを喰い入るように見て当座の必要な知識を仕入れる。普段とさほど変わらないように見えても、やはり身体は子どもらしい。遅めの昼食を終えた桂は、うつらうつらと船を漕いでいる。無理に起こすのも忍ばれて、幾松はそっと子どもを抱き上げた。小さな身体は柔らかい熱を持っていて、腕の中でずっしりと重い。
「変なの……」
あの奇妙な共同生活で見た、だいぶ薄気味悪い寝顔ではない。面差しは確かに幾松のよく知る桂を思わせるものなのに、穏やかに瞼を下ろし眠るさまには見覚えがない。
「しばらくよーく寝るんだよ」
髪を解いて毛布をかけて、幾松は静かに部屋を後にした。
「幾松どのー! とんこつ二つ」
「はいよ!!」
威勢よく返事をしながらも心の奥で苦笑する。黙って世話になるだけではこちらの気がすまん、なんて強く主張した桂の押しに負けて、結局店を手伝わせることになってしまった。幸い寺子屋が冬休みの期間なので昼間から子どもが働いているのを咎められることはなかったが、幾松は常連客たちの詮索に辟易しはじめていた。
「何よぉ、幾松ちゃん。もしかしてあの時のイケメンとの子?」
「隅に置けないわねー」
「んな訳ないでしょ、あの子が何歳だと思ってんのよ」
笑って混ぜっ返してそして気付く。
幾松だってそれを知らない。あの”桂小太郎”は幾つなんだろうか。
***
よくよく働き、幾松を慕ってくれていた幼い桂がこてんと倒れたのは、ある昼下がりのことだった。感染拡大を防ぐため、発熱したらすぐに医療機関に連れて行くよう各種マスコミで盛んに報じられていたことはもちろん幾松だって知っている。
知っている、わかっているのだけれど。
「いく、ま、つ……どの、」
弱く己にしがみつく手を、どうしても離すことができなかった。
幸い昼食時を過ぎて客がはけたところ。慌てて店を閉め、桂を抱えて二階に駆け上がる。上がり続ける熱に、快方に向かっているとわかっていても不安になる。うわ言を繰り返し口走る身体がずしりと重くなったのは、幾松の気のせいだろうか。
「ほら、お水飲んで! しっかりしなさい」
「いくまつどの……俺、は、」
どんな大人に、なっているのか。志を曲げず、大切な人を護ることができる、強き侍になれているのか。
「あなたの、しって、いる……かつら、こた……ろ、は、」
幾松の手に縋る幼い掌が微かに震えている。馬鹿だね、と叱り飛ばしたい気持ちを抑えて、その掌を強く握り返した。
「すぐにわかった。アンタが桂小太郎だってこと。笑っちゃったよ、よくもまあこんなちびの頃から変わらない奴がいたもんだ」
「いく、ま、」
「大丈夫。未来においで。アンタが大切にしてるみんながいる、みんながアンタを大切にしてる、この町に。大きくなってまた来なさい」
もう桂からの答えはなかった。ゆるゆる弛緩していく手は、少しずつ幾松が知る男のそれに近づいていく。
***
「何、それで今度はお前が幾松の世話してるわけ」
「ああ。恩を返さんなど侍以前に人として失格だ」
人懐っこい少女に纏わりつかれて、桂は少々手を焼いている。どう扱ったらいいか図りかねているところが余計に面白いのだろう。背中に無理やりよじ登りながら、幼い幾松は朗らかに尋ねた。
「ねぇ。私、あなたのことなんて呼んだらいいの?」
「なんて、か……」
まさか普段はアンタ呼びが普通でした、なんていたいけな少女にとても言えまい。口ごもって考える古馴染みを見て、銀時の悪戯心がうずうず疼いた。
「こたろうお兄ちゃん、って読んでやれぇ幾松」
「銀時ィィィィィィ貴様そこに直れ!!」
鈴を振るような少女の笑い声。桂の――怒気よりも懸命さのほうが目立つ――怒号。そして腹を抱える銀時の大笑が、かぶき町の高い空に抜けていった。
初出:2015/01/06