手折られた薔薇 前編

 

 初めて会ったとき、すでに少年は恋に落ちていたのだ。急な雨に降られて校舎に駆け込んだ自分に、そっとハンカチを差し出した美しい少女に。

 

 だから。

 

 自分からイヴを奪おうとするあの男の、何もかもが憎かった。

 

 

 

 壁中を覆い尽くすほどに貼られたイヴの写真を眺め、少年は微笑んだ。写真を一枚一枚眺めてはさすり、語りかけては舌先で舐る。十年前から続けられてきた日課、愛する彼女を愛でる至福の瞬間に、しかし彼は一番見たくないものを見つけてしまった。

 

 先週の日曜日のイヴの写真、彼女の横で“あの男”が陽気に笑っていた。

 

 怒りに視界が赤く染まる。気が付けば写真に手を伸ばし、男の部分だけを破り取っていた。切れ端の先にライターを近づけることにも全く躊躇いはない。

 

 見たくもない男の写真を処分してしまうと、溜め息が口をついて出た。このところ二人の会う頻度が上がっている。厳しいチェックの上で写真に写り込む余計なものは排除しているつもりだが、どうやら見落としがあったようだ。

 

 少年が十年前から愛する少女に纏わり付く黒い影。七年前に現れたそれは、じわじわと大きくなりイヴを飲み込もうとしている。幼い自分ではイヴを守ってやれない。そんな不安や罪悪感に苛まれる夜もあった。しかしそれも今日で終わりだ。準備は整っている。あとは実行に移すだけだ。やっと、イヴを救うことができる。

 

 

 

 遅くなってごめん、いま君の目を覚ましてあげる。あの頃のイヴに笑いかけ、現在のイヴに唇を落とす。そうして少年は手早くジャケットを羽織り、その部屋を後にした。

 

 

 

***

 

 

 

 なんでかしら……頭が痛いわ……こんなに痛い思いしたのゲルテナ展以来かしら……。

 

 でもあのときと違って外側が、頭の外側が割れちゃいそうに痛い……。

 

 

 

 後頭部を走る痛みに引き摺られるようにしてギャリーは目覚めた。真っ暗で何も見えないが、見知らぬ場所なのだろうとぼんやり思う。目覚め切らないままに身体を動かそうとして一気に覚醒する。椅子かなにかに座らされたまま、後ろ手に縛られていた。両足は椅子の足に括り付けられている。

 

「ちょっと、なによこれ……! 誰か、誰かいないの!?」

 

 どうにもあの美術館のことが思い出されて、恐怖で声が上擦った。拘束を解くためにもがきたいが、椅子ごと倒れそうでそれすらままならない。

 

 もう一度声を張り上げようとしたとき、唐突に扉が開いた。

 

「ああ、お目ざめですか」

 

 変声期を迎えつつある少年のハスキーな声が聞こえた。同時に部屋に明かりが点けられる。眩しさに何度も瞬きをして、ギャリーはまじまじと目の前の少年を見つめた。ギャリーにも見覚えのある、くすんだ茜色のジャケットにタータンチェックのズボン。イヴの学校の制服だ。けれどギャリーは彼を知らない。

 

「アンタ、誰? その制服、イヴと同じ……」

 

 少年の視線に圧倒されてギャリーは口を閉ざした。目が慣れてくるとわかる。目の前の少年が、いかに昏い瞳で自分を睨み付けているのかが。イヴ、という言葉を聞いて、少年の表情が目に見えて険しくなった。

 

 大股でギャリーに歩み寄った少年が、左目を隠す前髪を掴み上げた。ぶちぶちと髪が抜けていく。痛みにギャリーが小さく呻くのにも構わず、耳元に顔を寄せて少年は話し出した。

 

「あなた、僕のイヴのなんなんですか。彼女に付き纏って、惑わせて……。目ざわりなんですよ」

 

「なに言って……」

 

 痛みを堪え少年に目をやったギャリーは、目に飛び込んできたものに身体を強張らせた。少年の後ろ、壁一面にイヴの写真が広がっている。

 

 イヴ、と。ギャリーの唇から彼女の名前が零れたことに苛立って、少年は乱暴にギャリーの頭を小突く。そのまま壁際に近づくと、いきなり豹変しうっとりとした表情で無数の彼女たちに呼びかけた。

 

「もう大丈夫だからね、イヴ。君を誑かす悪い男は、僕がちゃあんと始末しておくから。君はおうちで待っていておくれ」

 

 あとで迎えにいくよ。狂気すら含むその言葉に、一瞬ギャリーの背筋が粟立つ。けれど相手はイヴと同じ子供だ。刺激を与えないように、だがきっぱりと言い放つ。

 

「何か勘違いしてるみたいだけどね、アタシとイヴはただの友達よ。この縄を解いてちょうだい」

 

「友達!? イヴを騙してこんな目をさせて! ふざけたことを!!」

 

 激昂した少年が示すひと際大きく引き延ばされた写真には、頬を染めて笑うイヴが写っている。不自然に切り取られた左側には、おそらく自分がいたのだろうとギャリーは推測した。確かにそれは、恋する乙女の瞳だ。自分を見上げる彼女は、いつもこんな表情をしていたのだろうか。

 

 黙り込んだギャリーのもとに、再び少年が近付いてきた。口元には気味の悪い頬笑みを浮かべている。

 

「だからね、ギャリーさん。僕があなたに教えてあげるんです。あなたみたいな汚い人間、イヴには不釣り合いですよって」

 

 猫撫で声で話しながらこちらを見下ろす彼を、ただ睨み上げることしかギャリーにはできなかった。

 

 ズボンのベルトが抜き取られ、ホックが外される。中に潜り込んできた冷たい手に、ギャリーは息を詰まらせた。萎えた性器を掴まれ、遠慮なく扱き立てられる。けれどそれは、若い時分覚えた拙い自慰程の刺激すらギャリーに齎しはしない。まして一方的に縛り上げられて擦られたところで、不快感以外あるはずもなかった。

 

 一向に反応を示さないギャリーに対し少年は焦りを露わにしていく。冷え切った声でギャリーは吐き捨てた。

 

「おあいにく様。こんな状況で興奮できる変態じゃないっての。気持ち悪いだけよ」

 

 少年の顔に朱が走る。その殺気走った瞳も意に介さず、ギャリーは続ける。

 

「大嫌いな男の股間に手ぇ突っ込んで、反応もされない。アンタの方がよっぽど汚くて気色悪いわね」

 

 時間の無駄よ、さっさと縄を解きなさい。軽蔑すら含むその声に、少年はあっさりと我を忘れた。そうして力一杯殴られた頬に痛みがないわけではないが、相手にはない余裕がギャリーにはあった。とにかく縄さえ解かせてしまえば、小柄な少年にギャリーが力負けするとは思えない。けれど。

 

「こんなもの使いたくなかったけど、仕方ないですよね。イヴのことを守れるのは僕だけなんだ……」

 

 握り締めた拳を解いてポケットを探る少年に冷や汗が背を伝った。パレットナイフの鈍い光が脳裏で点灯する。

 

 しかし少年が取り出したものはギャリーの予想を裏切った。とろみがかった液体が入れられた茶色い小瓶。今されていることを思えば、中身の予想など容易かった。

 

「さいっていの下衆ね。アンタなんか、イヴを愛する資格すらないわ」

 

 唾を吐きかけ思い切り睨み付けても、少年の表情は変わらなかった。再び髪を鷲掴みにされ、無理やり上を向かされる。何か言ってやろうとギャリーが口を開いた瞬間、小瓶の中身の殆どが流し込まれた。髪を掴んでいた手が口元を抑え付け、吐き出すことはおろか呼吸すらままならない。ギャリーの喉が動くのを確認して、ようやく少年は手を離した。

 

 唇を濡らし肩で息をするギャリーに少年は再び笑みを取り戻した。

 

「ちょっと余っちゃいましたね。こっちに塗ってあげましょうか」

 

 少年は瓶の残りを惜しみなく掌に広げ、萎えた性器に塗りたくった。飲まされた液体の効果はまだ出ていない。それなのにたったそれだけのことに息が上がる気がして、ギャリーは唇を噛み締めた。

 

「じゃあ、長針が真下に来るころには戻ってきますから。そのころには殊勝な態度を見せてくれるよう祈ってますよ」

 

 ギャリーの服を元に戻し、写真に埋もれかけた掛け時計を指差して少年は薄く笑った。

 

 腹立たしいほどに軽い足取りで少年が去った後、ギャリーは記憶を辿り始めた。午後一のスポンサーとの打ち合わせを済ませ、夕方イヴと会うまでの間カフェで本を読んでいたところまでは確かに覚えている。日が傾き始め約束の時間が近付いたためにカフェを出て、駅へと向かおうとしたところで記憶がぷつりと途絶えていた。

 

「あの路地裏でしょうね……」

 

 行きつけのカフェと駅を繋ぐ人通りもなく薄暗い道。執念深くイヴの写真を集め、自分の名前まで調べ上げていた少年のことだ。拉致を実行に移すためにあらかじめ目を付けていたに違いない、とギャリーは推理した。

 

 壁に掛かる時計は十一時近い。おそらく夜の十一時だろうと想像するが、それも定かではない。少年が示した時計が正確かもわからないし、そもそもこの部屋には窓が無いのだから。

 

「イヴは、無事なのよね?」

 

 少年を刺激しそうで聞けなかった、けれどずっと頭の中で燻っていたことが口をついて出た。彼の発言を考えれば、イヴはここにはいないだろうと思えた。しかし確証はない。自分のせいでイヴが危険な目に遭ってはいないだろうか。ギャリーは焦燥感に臍を噛む。

 

「グダグダ考えても仕方ないわ。とにかくここを出る方法を考えなくちゃ」

 

 目覚めてすぐに少年が現れたため、縄が解けないかの確認すらできていない。倒れない程度に椅子を揺すりながら、腕を強く引いてみるが、ぎっちりと巻き付けられたそれは解けそうもない。それならば、と腕を無理やりに捩り隙間を作ろうとするが、やはりうまくいかない。指先が痺れるほどに強く手首に絡み付くそれが、次々と新しい傷を作っていくのをギャリーは感じた。

 

「イタタタ……なんだってこんなに強く結んだのよ」

 

 椅子に縛り付けられてさえいなければ、どうにかしてライターを取り出すのに。一旦縄を解くのは諦め、ギャリーは椅子に背を預けた。いつの間にか額に浮かんでいた汗が顎を伝い、タンクトップの中に流れ込んでいった。

 

 気付かぬうちに声が出ていた。

 

「あっ……!」

 

 全身を駆け抜けたのは、確かに快感だった。そのことに気付いた瞬間、ギャリーは絶望に青ざめた。

 

 気付いてしまえばあっという間で。ぞくぞくと走るそれにあられもない声が溢れ出した。

 

「な、によ……これっ……。あぅっ!!」

 

 慌ててもう一度縄を解こうとしてももう遅かった。いつの間にか汗で肌に貼り付いていたタンクトップがぺたぺたと胸に触れる。それだけで気持ちが良くて力が抜けていく。青ざめていたはずの顔はすぐさま色づき、乱れた前髪が汗で濡れた。

 

「いや……こ、んなの……は、あぁ……」

 

 無意識に足を擦り合わせていた。液体が塗られたところから猛烈な痒みが這い上ってくる。

 

 経験したこともない快感と敏感な場所を襲う痒みに翻弄され、椅子をがたがたと揺さぶる。その振動すらも新たな快感を生んでギャリーを追い詰めるが、じっと堪えることなどできなかった。

 

 快楽に追い詰められ、苦しさに頭を振る。どこを向いても見えてしまうイヴの笑顔に心臓を握り潰される。どうにかもう一度声を殺そうと下唇を噛みしめた。

 

「んっ……ッく……んぅ……」

 

 鼻に抜ける甘ったるい声が気持ち悪い。掛け時計を見上げる自分は、縋るような目をしていることだろうと残された理性でギャリーは笑う。時計は十一時十五分を指していた。

 

 射殺さんばかりに時計を睨み上げ、歯や爪で血が出るほどに自分を傷つけようと、声を堪えることも、無意識にくねる身体や擦り合わさる足を止めようとすることもすぐにできなくなった。

 

 今すぐ熱を吐き出して楽になりたい。そう願う反面、それが何を意味しているかギャリーは十分理解していた。それでも期待すら込めて時計を見てしまう。長針が数字の六に重なった。せめてもの抵抗に視線を鋭くする。睨みつけた扉は、いくら待てども開かれなかった。

 

「えっ……ああ、あ、ぁ……な、んでぇ……!」

 

 その声が落胆に塗れていたことに、もうギャリーは気付けない。身体中を廻る快感が凄まじい熱となってギャリーを焼き尽くしていた。いつからか溢れ出した熱い涙が頬を濡らし、首筋を這うことすら気持ちいい。けれど、どこにも徹底的な刺激は与えられない。

 

「も、いや……か、ゆい、さわ…っ……!!」

 

 必死でもがくうちに、ギャリーはついには椅子ごと倒れた。床に叩き付けられた痛みすら快感に変換されていく。それでも椅子に縛られたままだから、熱を持つ部分を床に擦り付けることもできない。喘ぎに交じって、嗚咽が漏れた。

 

 少年が戻ってきたのは二回目に長針が六の下を過ぎた十分程後のことだった。くたりと力なく倒れ伏すギャリーは、荒い息を吐くばかりでやけに静かだ。虚ろな目をしたギャリーの下腹を、少年は軽く蹴った。

 

「ふ、あ、あ? はっ……んうぅ、うぅ……あぁ……!」

 

 せっかく意識を飛ばしていられたのに、強制的に覚醒させられてギャリーの目が再び潤み出す。ちっとも弱まってはいない快感が今一度全身を灼く。

 

「遅くなってごめんなさい、ギャリーさん。十一時三十分には間に合わなかったから、切りよく一時間後に来ようと思ったんけど。それも間に合いませんでしたね」

 

 自分を見下ろす少年がどうしようもなく憎いのに、涙が止めどもなく溢れて睨み付けることすらできない。少年が現れたらぶつけてやろうと思った罵倒の言葉も、どれ一つ思い出せなかった。

 

 喘ぐばかりで何も言わないギャリーに、少年は白々しく眉を下げた。

 

「僕が時間に遅れたから、怒ってるんですよね? すみません。じゃあ、帰ります」

 

 くるりと踵を返す少年に、咄嗟に言葉が出なかった。

 

 

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初出:2012/05/17(pixiv)