――おのれ……! エクスカリバー!!
――ほう……そうか、
目に見えぬ“それ”はうぞりと嗤った。
――お前が次なる山羊座の。
――なんてかわいらしいのかしら……小さな聖剣さん。
――おもしれェ……! 最初の生贄が山羊だなんて、なかなか気が利いてやがるじゃねえか。
――なに、殺しはせぬ。壊してやろう……昏い安寧のうちに溺れさせて……。
――え、な……にを……。
濃い闇は音もなく山羊座を覆い、蠢き、静かに内腑を犯していった。
イタリアの山深い洞窟にて感知された邪悪な小宇宙。
まさかそれが夢神のものであるとは知らず、調査にシュラを一人向かわせてしまった。
己が勅命を受け、真っ直ぐな瞳で小さく頷いた山羊座の聖闘士は、つい先日初陣を飾ったばかり。
いくら実体を持たぬとはいえ神の悪意と戦うには幼すぎる。
まして夢を司る神々と山羊座には浅からぬ因縁があるのだ。
「無事であってくれ……!」
感じるシュラの小宇宙は、じわじわと闇に蝕まれ弱まっていく。
今の身の上では、救出令を与えたサガとアイオロスの報を待つことしかできないのがもどかしい。
人払いを済ませた孤独な玉座で、シオンは一人臍を噛んだ。
「気を付けろ、アイオロス」
「ああ、わかっている……」
洞窟に満ちた禍々しい小宇宙は、黄金聖衣に護られた肌にさえびしりと痛い。
それに絡め取られた仲間のそれはもう酷く弱く、儚くなっているというのに。
洞穴から漏れ出した不穏な小宇宙は、長い年月をかけて魂を修復した夢神のものであるとわかった。
前聖戦の際の傷は深く、ぼろぼろの魂はいまだ夢界から出すことはおろか、容れ物となる肉体を作ることもままならない。
それでもなお、この四柱の神は、邪教徒の呪術を媒介に地上に邪悪なる小宇宙を放ち始めたのだった。
それがようやく判明したのは既にシュラがこの悪神に囚われてからのこと。
山羊座の救出及び夢神の撃破を命じられた射手座と双子座の両名は、暗くじめついた岩の道を、細心の注意を払いながら進んでいく。
冷えた岩穴の中にか細い声が僅かに響いたのは、地上からの光が見えなくなり、互いの小宇宙の輝きと小さなランプだけが光源となった頃だった。
「……て、たすけ……ス、」
「シュラの、声だな……?」
サガの訝しげな呟きも無理はない。
シュラは多くの黄金聖闘士同様、年齢にそぐわぬ大人びた話し方をする子供であった。
それが今微かに聞こえる声はどうだ。
酷く舌ったらずで甘ったるく、涙交じりであまりに幼い。
「ああ、確かにシュラの声だ……!」
それはまだシュラが隣の宮の守護者になるよりも前、時折聞かせてくれた屈託のない声にどこか似ていた。
だがそれにしては、何かがおかしい。
拭えない違和感と不安を振り払うように、アイオロスは声の方へと駆け出した。
入り組んだ分かれ道を、小宇宙の導くままに進んでいく。
洞穴の中心、恐らくはシュラが囚われている場所に近づくにつれて、聞こえる声が大きくなる。
次に耳に飛び込んできたのは、救いを求める叫びだった。
「た、すけ……て、ア……ロスっ……!!」
「シュラ……!」
焦燥に灼かれたアイオロスが、もどかしげに顔を歪める。
罠の存在を警戒しつつもさらに足を早めようとして、けれどそこで、二人の聖闘士は縫い止められたかのように立ち止まってしまった。
「だめッ、そこ、だめえぇっ!! アイオロス、や……やらぁっ……!!」
「シュラ……?」
「ひあぁぁッ! らめ、らめっ……も……おしり、ぐちゅぐちゅっ、ひィっ、んぁッ……! しな、しないれぇっ!!」
「な、にを……」
俗世から隔絶された聖域にあっても、思春期に差し掛かる年齢の少年たちには、少しばかりの性行為の知識がある。
アイオロスはここに来て、ようやく先ほどの違和感の正体に行き当たって怒りに震えた。
助けを請うシュラの声が孕むのは、
「やッ、おっぱい……いっしょは、いや、やぁッ、んぅうう……!」
あまりに残酷で、そして淫靡な性の悦びだった。
「アイオロス、冷静になれ! みすみす敵の罠に落ちるつもりか!!」
まるで泥濘に頭まで沈められたようだった。
サガの諌めの声が遠い。
いくら走っても、前に進めている気がしない。
「またッ! また、くるぅ……お、おちんちんっ、きもちい、の……きちゃっ、あっあ、あんッ、ひぅぁ、あぁああぁッ!!」
それなのに、幼いシュラの嬌声だけがぐわんぐわんと脳裏に残響して消えなくて、アイオロスは血が溢れるほどに唇を噛み締めた。
引き寄せられるように、或いは招かれるように駆けて、駆けて。
ようやく辿り着いた開けた場所。
正視に耐えぬ肉塊や骨、木乃伊が捧げられた祭壇の中心に禍々しい力に満たされた壺が置かれている。
果たしてその前に、山羊座の少年は確かにいた。
酷く負傷している様子はない。
黄金の輝きを覆い隠す闇に包まれたシュラはただ、その邪悪な小宇宙によって磔にされていた。
「シュラっ!!」
「すきっ、すきぃ……アイオロスぅっ! ちょうらい、もっと……もっとぉ……!!」
蕩けた表情。
熱い……とうっとり呟いたその声音で、夢の中の己が何をしたのか察したのだろう、憤怒に顔を歪めたアイオロスが駆け出そうとする。
咄嗟にサガが肩を掴んで制さねば、間違いなくシュラに飛び付いて肩を揺さぶっていたことだろう。
「止めるなサガ!」
「落ち着け! 今行けばお前まで夢に絡め取られる!!」
「だが、」
反駁を叩き落としたサガが、強引にアイオロスを向き直させる。
「わかっているだろう! シュラの夢のもう一人の登場人物。それは“お前”だ!!」
「……ッ!!」
凄まじい形相だった。
常のアイオロスをよく知っているサガさえも、知らず背筋を震わせるほどに。
仁智勇を兼ね備え人望厚く、自分でなければアイオロスこそ、次期教皇に相応しいと誰もが囁く。
そんな射手座の聖闘士が、十四の己よりもなお年下なのだと、サガは改めて思い知らされた。
“俺”じゃない!と。そう今にも叫びサガに食ってかかりそうだったわななく唇が、しかし意思強く引き結ばれる。
一つ頭を振った後には、憎悪さえ滲んでいた瞳が冷静な戦士のそれに戻っている。
「すまん……サガ」
それこそがこの幼い少年を黄金聖闘士、そして聖域の教皇候補にまでならしめた才能だった。
「考えはあるのか?」
「ああ、まずは夢神を依り代から引き摺り出す。アイオロス、お前は……」
そのためには、射手座の力が必要不可欠だ。
サガの言葉に頷いて、アイオロスは小宇宙を高める。
それに応じ、空に一つがいの弓と矢が現れた。
流麗な仕草でそれを両の手に収めた少年は、だがまさしく魔を射抜く黄金の射手だった。
――人間風情の小宇宙で神を貫こうとでも言うつもりか……いっそ哀れになるな。
弓を引き絞る彼は何も言わない。
己の小宇宙を黄金の矢に乗せて、ただ静かにそれを放つ。
夢神たちが余裕を失わずにいられたのはそこまでだった。
――馬鹿な! こ、れは……!!
矢尻にぐるりと巻きつくのは、血で書かれた一枚の護符。
二百余年の時が流れ効力こそ減じたとはいえ、一度は神の魂をも滅した小宇宙を忘れるべくもない。
――う、ぐぅ……!!
一条の光の軌跡を残し、それは古びた壺を勢いよく射抜いた。
「シュラ!」
依り代を壊されたことで山羊座への呪縛が緩む。
地に叩きつけられた小さな身体に、アイオロスは今度こそ駆け寄った。
抱き起こしたシュラからは、鋭い彼の小宇宙が殆ど感じられなかった。
「大丈夫か、しっかりしろ!!」
「やぁ、あ……こわい、きもち、い……やらぁ、」
「シュラ!!」
夢神の干渉は確かに弱まっているはずなのに、シュラを呼び戻すことが叶わない。
「ア、イオ、ロス……たひゅけて、ア、んっ……!」
夢に囚われたシュラには、いかな言葉も届かぬと言うのなら。
唾液に濡れた唇に、アイオロスは己のそれを重ねた。
反射的に縮こまって逃げを打つ舌を撫で上げて優しく吸い上げる。
闇に絡め取られた身体がびくりと跳ね、侵入者から逃れようと儚くもがいた。
「ん、んッ……う、むぅ……!」
その抵抗を、あくまで優しく抑え込んで。
温かい小宇宙を送り込まれているうちに、シュラの身の強張りはゆるゆる溶けていった。
聖剣を振るうことも忘れ、虚しくアイオロスの胸板を叩いていたシュラの右手がぱたんと落ちる。
「……シュラ?」
「っう、あぁ、“アイオロス”……?」
二人を繋いでいた銀糸が音もなく切れる。
涙に濡れた目は、まだ目の前の少年を映してはいない。
けれどシュラの唇が紡いだのは、紛れもない、彼の敬愛する射手座の聖闘士の名であった。
――小賢しい真似を……だが壺を破壊したのは悪手だったな……!
一度は散らされたように見えた闇は、完全に滅されたわけではなかった。
それはぬるりと蠢いて寄り合わさり、やがて一つの塊になる。
依り代を失くしたとて、魂の欠片が消滅するわけではない。
むしろ縛り付けるものが壊されたのは好機。
地上に出れば、聖戦を控え魔星が動き始めている今、この傷ついた魂を癒すこととてそれほど難しくはないだろう。
一塊の闇が洞穴の出口へと向かうのを、しかし遮る少年がいた。
「それはどうだろうな……」
先だってこの双子座の聖闘士は、親友アイオロスほど激昂したわけではない。
だが思慮深く冷静な瞳の奥は確かに激情に燃え、眼前の敵を睨み据えていた。
「残念だが、貴様らが向かうのは地上ではない」
――何……?
「だが夢界へ帰れるなどと思うなよ」
たかが十四の子供の言葉。
だがそこには、並の大人であれば竦み上がって跪くだけの強さと威厳が備わっていた。
無論それは神たる身からすれば、あまりに弱く儚いものであるのかもしれないけれど。
――人間ごとき、それも貴様のような小僧に何ができる?
お前もまた、苔むした護符にでも頼るのか?と。
嘲笑う声がサガの耳朶をねっとりと擽って臓腑を犯す。
その問いかけに、双子座の聖闘士は僅かに口の端を持ち上げて答えたのだった。
「まだ気づいていないようだな……」
――何……?
「それとも取るに足らぬものと軽視したか? 一度は人に滅ぼされた身で人の無限の可能性を軽視したのか?」
闇にほんの小さな亀裂が走ったのはそのときだった。
――これはッ!?
微かにそこには、碧く鋭い小宇宙が残されていた。
「お前の魂に残された疵は確かに薄く小さいものだったろう……だが、」
それが双子座の小宇宙に共鳴し、夢神に刻まれた疵が広がる。
――ば、馬鹿なっ!! まさかあの時の一閃が……!?
今度こそはっきりと狼狽し揺らいだ眼前の闇にサガは高らかに告げるのだった。
「私たちは決して一人で戦っているのではない!」
シュラの聖剣が、アイオロスの一矢が、先代のアテナの愛と想いが、今は亡き過去の聖闘士たちの力が。
そして平和を尊ぶ人々の祈りこそが、サガの勝利を確かなものにしてくれる。
幼さの残る両の掌に、測り知れぬほどの小宇宙が集約され、そして弾けた。
――お、のれ……おのれぇッ!
「アナザーディメンション!!」
――神を畏れぬか、傲慢なる人間よ……!!
怨嗟の声がサガの滑らかな肌を灼き、絹のごとき金糸を嬲る。
異次元に堕ちるは神。単なる異形とはわけが違う。
異空間を生む掌は深く裂かれ、あまりの衝撃に骨が嫌な音を立てて軋んだ。
負けじとさらなる小宇宙で抵抗を捩じ込めば、数本が砕けて折れたのがわかる。
「人心を惑わす邪神どもめ……次元の狭間へ消えるがいい!」
――お……か、な……!!
最期に悍ましい怨嗟の言葉を吐き捨てて、邪悪なる小宇宙は跡形もなく消え去った。
底冷えする洞穴の中に、三人だけが残される。
「終わった、か……」
おそらくわかってはいるだろうが、シュラの身を案じていた教皇シオンに小宇宙を飛ばす。
労いの温かい小宇宙が返ってきてようやく、サガは肩の力を抜いた。
「シュラ、シュラ!」
小さな身体は、瘧にでもかかったかのように震えていた。
いまだ焦点がはっきりと合わぬ目の代わりに、シュラは聖剣の宿った手を伸ばす。
自分を抱くアイオロスの頬、その肌の温みに触れて。
「アイ、オロ……ス、」
「ああ」
「ア……ロス……ア、イ、オロス……?」
「……ああ、ここにいるぞ」
「あ、あ……いおろす……あい、おろしゅっ、ん……」
壊れたように、何か確かめるように。
たどたどしく己が慕う者の名を紡ぎ続けるシュラの唇を、アイオロスのそれがそっと塞ぐ。
ほんの数回、柔く唇を食んでやれば、あっさりとシュラの全身から力が抜けた。
完全に弛緩した身体を改めて抱え直して。
「……行こう、サガ」
「そう、だな……」
アイオロスは暗い洞穴から出るべく歩を進めた。
黄金の翼を持つその背を眺めながら、サガは夢神の呪詛を思い出していた。
――愚かな……人間などという矮小な存在が分を弁えず神に歯向かいおって……!!
それはきっと、シュラはもちろんアイオロスにも聞こえなかったろう。
――呪いを! 神に弓引く忌まわしき者よ、永劫救われぬままに苦しむがいい……さぁ、くれてやろう!!
――哀れなる贄には、夜毎その身を狂わす淫夢を。
――英雄には、正義を貫く拳を緩めさせる妄執を。
――そして神の化身たるお前には、“英雄”を殺す一振りの“凶刃”を……!!
「馬鹿馬鹿しい……」
この俺がアイオロスを殺すだと?
くだらん!と胸中で吐き捨てサガもまた歩き始める。
少しばかり先を、シュラを抱いて進むアイオロスの姿を探す。
出口から差し込む光に目を焼かれ、友の姿は見えなかった。
初出:2016/01/12(pixiv)