これの続きです
※超絶迷走したけど許されたい
※サガとデスマスクは仲がいい
※マックスコーヒーはおいしい
いつかはこの日が来ると知っていた。
だがその確信と同じだけ、いや、それ以上にこんな日が来ないことを祈っていた。
「……それで、シュラは?」
「とにかく落ち着かせて休ませようとして……それでも一度、寝入りばなに酷く暴れた。今は体力の限界が来て眠っているようだが……」
自分の無力をひたすらに噛み締めさせられて疲れの滲む声。親友のこんな話しようを聞いたのは初めてかもしれない。らしくもない乱雑な動きでソファに身を投げ出して、アイオロスが深く息を吐く。続いた言葉の鋭さが、静かにサガの胸を射抜いた。
「まるで、悪夢と現実を混同したかのようだった」
「……アイオロス、」
「お前なら何か知っているのだろう」
確信めいた響きを持った問い掛けだった。責める意図はない。けれどアイオロス自身やり場のない感情を持て余しているようで、言葉は小さく掠れて消えた。
話してしまいたいというのは、詰られて楽になりたいという甘えではないのか?
不意にそんな風に思ってしまって、サガが声を詰まらせる。アイオロスに知られることを、シュラは何よりも望まないだろう。それをべらべらと話す資格が、自分にあるというのだろうか。
金糸の睫毛がすべらかな頬に影を落とす。親友の懊悩が理解できない射手座の青年ではなくて、アイオロスはただ、何も言わずに待っていた。
たとえエゴだとしても、シュラが抱えているものを知りたかった。
それなりに長い付き合いだから、こうなってはアイオロスが一歩も引かないことはわかっている。豪奢な蜜色の髪を一つ揺らして、サガはおもむろに口を開いた。
双子座の告解が終わるころには、長い夜は終わり始めていた。
ソファに深く身を沈め、俯いて黙りこくったアイオロスの表情は窺えない。ただ、親友が荒れ狂う感情を懸命に押し留めているのだけはこれ以上なくはっきりとわかってしまって、サガは胸が苦しくなった。
シュラがその身に呪いを受けたのは、別に双子座の咎ではない。それでもサガがもしも早く手を打てていれば、仮にアイオロスが生きていたとしたら、これほどまでに長きに渡って彼が魂を傷つけられることなどなかっただろう。
噛み締められたアイオロスの唇から、赤い雫が一滴、伝っていくのが目に痛かった。
「……すまなかった」
「何故……お前が詫びる」
お前に胸の内を叫ばせてやるためだ、と。それは口には出さなかった。
強張った友の表情はどこか幼い。自分の半分の時間しか人生を生きていない射手座は、やはりこんな時不意に子供じみた表情を浮かべてしまうのだった。
英雄と呼ばれた少年以上にがむしゃらに、秘密も胸の内も隠して取り繕って生きてきた自分には、あのときは友人の幼さが見えなかったみたいだけれど。
もう一度すまない、と小さく告げれば、立ち上がったアイオロスに胸倉を掴み上げられていた。
「ッ、何故……何故今更お前が詫びる!」
どうしようもない怒りと無力感が綯い交ぜになっていて、言葉が激情に震えている。
「今更、お前が、俺に!!」
「アイオロス……」
腕の中にすっぽりと抱き込めてしまえた小さな子供はもうどこにもいなくて、再びの生を賜るという大いなる奇跡を得てさえも失われた時は戻ってこない。
甦ったシュラの肉体は、傷一つない美しいものだった。血の通った身体に触れて、温もりと鼓動を掌で感じて、アイオロスは確かに幸福だったのだ。
まさかその中に秘められた魂がこうまでずたずたに踏み躙られて罅だらけだなんて、夢にも思わずいられたこの夜までは。
「シュラは……シュラは、泣いて抗って俺に赦しを乞うて、かと思えば俺を紛い物呼ばわりして今すぐ消えろと罵倒して……」
どれほどアイオロスが叫んでも、言葉の一つも届かなくて。暴れる身体を抱き締めようとすれば、錯乱して絶叫して手の施しようもないほどだった。
あの取り乱しようを見て、そしてサガの話を聞けば、“夢”の中の自分がシュラに何をしたのかなど、手に取るようにわかってしまった。
「どうして、あんなっ、」
サガを半ば締め上げていた手から、ずるずると力が抜けていく。頬が熱いのは涙が止まらないからで、それが悔しいのか情けないのかわからなくて、顔が上げられなくなる。
「あんな、悍ましい……!!」
神々の悪意に蹂躙されて。
声にならない声の叫びが、サガには確かに聞こえたのだろう。弟のいる兄であるくせに酷く不器用な手つきで、双子座の青年は親友の頭をぎこちなく撫でた。
二人とも動揺していたのは同じだろう。
竦んだような気配がその様子を見届けて立ち去ったのに、双方気がつくことはなかった。
日に焼けぬ肌は、今や不健康に青白く見える。このまま自宮の顔に並べてもあんまり違和感がなさそうだ、とデスマスクは面やつれしたかつての共犯者を眺め回した。
「お前さ、いい加減うんとかすんとか言えよ。一体何時間居座ってると思ってんだ」
確かに幽鬼の如く蒼褪めて、その癖態度だけは平静を取り繕って歩いているシュラがあまりに薄気味悪くて、とっ捕まえて私室に引き摺りこんだのはデスマスクのほうなのだけれど。
「……確かに俺も、悍ましいと思う」
「はぁ?」
とは言えこの様子は悩んでいる、というのとは少し違う。いつものことだがこいつの中でははっきりと――明後日の方向にすっ飛んだ――結論が既に出ているのだ。だが今回は発端も過程も何もかもがブラックボックスの中に隠されているので、デスマスクからは山羊がわけもわからず跳ね回っているところしか見えない。
呆れの溜息を紫煙に隠す。本当に一から話を引き出して相手をしてやる義理などまったくないのだけれど、何故かこの馬鹿だけは昔から放っておけなくて、我ながら貧乏くじばかり引いている。
「またアイオロスのことか」
お前たちうまくいってたんじゃねーの、とうんざりした口調で吐き捨てる。おおっぴらに言い回ってこそいないが、こそこそと隠していたわけでもない。二人の関係は見る人が見れば容易に気がついたことだろう。少なくともデスマスクとアフロディーテはもう二か月も前に気づいて、二人ささやかな祝宴を上げさえした。
アイオロスという光が強ければ強いほど、シュラに落ちる影は濃くなる。そんな危惧がなかったと言えば嘘になる。しかし旧友たちから見た恋人達はゆっくりと、だが着実に幸福を紡いでいるように見えて、つい先日ようやく肩の力を抜いたというのに。
「あの人には、咎の一つもあるはずがない」
固い口振り。こういうところがシュラは果てしなく面倒で、でも手が掛かる子ほどかわいいというのはあながち嘘でもないらしく、デスマスクはいちいち世話を焼かずにはいられない。
「コーヒー淹れてきてやるから、少し待ってろ」
「……ロクムとハルヴァ」
「……一緒に持ってきてやる」
何か口に出来るならばそう心配することもない、か? 同年代の男に対してとは思えない気の回しようにデスマスクは自分で自分に苦笑して、それから私室を後にした。
牛乳で淹れたターキッシュコーヒーは砂糖を入れなくても仄かに甘い。ちびちびとそれを啜りながら更に甘味に手を伸ばして平らげていくシュラを見るだけで胸やけしそうで、デスマスクは冷め始めてきたブラックコーヒーを一息に呷った。
喉に引っ掛かっていた不快な何かが、苦みと共に胃の中に滑り落ちていく。それでようやくまともに口を利けるようになって、蟹座の青年はかぶりを振って口を開いた。
「……それで、アイオロスのことを滅茶苦茶拒んじまったってわけか」
「俺からは見えないように隠していたが、おそらくは腕や身体にいくつも傷を負っていたはずだ」
また、この手であの人を傷つけてしまった。言葉には出さないけれどシュラがそれを悔いているのが痛いほどに伝わってきて、デスマスクは何も言えなくなる。
だがその悔悛の割には、山羊座の横顔がどこか凪いでいるのが気にかかった。
「シュラ。お前、これからどうするつもりだよ」
「どう、とは?」
「アイオロスとのことに決まってんだろ!」
どうもこうもないとばかりに、シュラはぱちぱちと瞬いて。存外長い睫毛が数瞬白皙に浮かぶ隈に影を落とすのが、妙にデスマスクの視線を引き付けた。
「もう、任務以外で顔を合わせることもないと思うが」
「どうしてお前はそう極端なんだ……!」
額に手を当てた蟹座の旧友が呻いても、シュラにはその内心は何一つとして伝わらない。
「極端も何も、アイオロスは“悍ましい”と確かにそう言ったんだ。これ以上傍にいるべきではないだろう」
思い込みが激しいのは、何度死んで甦っても変わらないらしい。この命と一緒に蟹座の聖衣を賭けたっていい、シュラは間違いなく思い違いをしている。だがデスマスクが何を並べ立てたところで、目の前の馬鹿には絶対に伝わらないだろう。
シュラの頭も不憫だったが、それよりも尚気の毒なのは人馬宮の主だった。露悪的な青年は正義が人の形を取って生まれてきたようなあの14歳がどうにも苦手だったけれど、それはそれとして旧友に対する慈愛の籠った根気強さは評価していた。
アイオロスは聖闘士としての使命も誇りも捨ててしまったわけではない。その上であれだけ誠実に一人の人間を愛せるのだから、自分のような小悪党とは人としての器が違うのだ。とにかく傍から見ていれば彼がシュラに注ぐ愛情が何があろうと揺らぐものではないのはいっそ笑えるほどに明らかなのだが、それを当人だけが理解していないのだから泣けてくる。
皿に山盛りになっていた菓子類を平らげたシュラは、盛大に間違った方に吹っ切れた顔をしていて、デスマスクをどうしようもなくげんなりさせる。
「大丈夫だ、デスマスク。心配には及ばない」
「心配になるようなことしかお前はしてねえんだよ!!」
対向星座であるが故なのだろうか。こんなに近くで向かい合っているはずなのに、デスマスクの叫びは、やっぱりシュラに届かなかった。
そういえば親友はコーヒーが嫌いだった。
差し出したカップを見たアイオロスがう、と眉根を寄せたのを見て、サガはようやく思い出した。見た目はともかく中身にはいまだ14歳の子供っぽさを多分に残す射手座はこの飲み物のよさがまだ理解できないらしく、ジュースとかミルクとか、それでなければただの水の方がいいと言う。
淹れてしまったコーヒーをひとまずテーブルの上に置いて、サガは再びキッチンに戻った。アイオロスが好むような飲み物など双児宮には殆どないので、ミネラルウォーターのボトルを片手に部屋に戻る。客人は寸分変わらぬ悩んだ顔を晒していて、サガは苦笑を浮かべてしまった。
射手座の生まれ持った才能だの、英雄としての名声だの、彼が集める人望だの、そんなものではない。アイオロスの“こう”いうところが、サガは堪らなく妬ましかった。あのときの身を灼くような羨望と嫉妬、そこから生まれる果てしない孤独と自己嫌悪。そんなものに昼も夜もなく苦しめられていた日々は、だが随分と遠くなった。
それをも自分の咎として捉えることもできるのだろうけれど、どうやら自分はほんの少しだけ強かになったらしい。罪悪感に溺れて殉死するくらいならば、戸惑う友の手を取ってやりたい。
「シュラに会えずにいるんだな」
「会いには行っているんだ……!」
「だが、会わずに引き下がるのだろう」
お前らしくもないと言外に含めれば、アイオロスは唇を噛み締めて黙り込んだ。決して短慮な人間ではないが、だが必要な場面で尻ごみするタイプでもありえない。つまるところこの射手座の青年は、自分がシュラに会うことが彼に何を齎すのかと、それを考えて二の足を踏んでしまっているのだった。
「私の顔を見るたび、シュラは思い出すのではないか……?」
夜毎淫獄に繋がれて、高潔な魂を辱められ続けた日々を。
アイオロスという存在そのものがシュラを苛んでしまうのだとしたら、一体どうしたらよいのだろう。
あの晩のシュラの、聞く者の胸を引き裂きそうな絶叫を思う。恐怖と絶望に顔を歪めた青年の叫びは、殆ど狂乱していた彼につけられた幾つもの傷よりもずっと、アイオロスの心を打ちのめした。
「考えすぎだ。お前がそうやって思い悩んでいると、シュラの方まで不安になる」
「だが、」
「お前がもっと踏み込んでいけば、シュラが拒むことはあるまい」
「だからこそ、どうしたらいいのかわからないのだ……!」
握り締めていたボトルをテーブルに置いて、とうとう親友は頭を抱えてしまった。
「自分の欲望でシュラを苦しめて、傷つけてでも傍にありたいというのならば、私のしようとしていることは邪悪な夢神どもと何ら変わらないではないか!!」
そんなものは愛とは呼べない。己の欲を満たすための暴力にすぎない。
大切にしてやりたいと、心からそう思っているからこそ、歩み寄ることすらままならない。アイオロスの誠実にして清廉な魂が、自分自身の不実を赦さない。
そこには確かに愛があった。
だがそれ故に、双子座の青年の目の前で、射手座の翼は雁字搦めになっている。
あーめんどくせェ、と壁に凭れたデスマスクが吐き捨てる。断りもなく双児宮の私室に入り込んできた来客を窘めるようにサガは彼の名前を小さく呼んだ。
「あいつらさ、二人とも普通に頑丈にできてんだよ。少なくとも互いに心配し合ってるほど繊細でもヤワでもねぇ」
シュラは悪夢によって自分はアイオロスの魂を穢したのだと勝手に気に病み、アイオロスはシュラが己を見ることによって汚辱に塗れた淫夢をまざまさと思い出して苦しみはしないかと、そればかりを気にかけている。
「馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろ」
「ならばそれに付き合ってわざわざ気を揉んで私のところにぼやきに来るあたり、お前はお人よしにもほどがあるな、デスマスク?」
「……やめてくれ、怖気が走る」
うげっと顔を歪めて煙草を取り出し、部屋の主が紫煙を好かないことを思い出して握り潰す。手持無沙汰な右手が銀糸を掻き乱して、洒脱に上げてある前髪が乱れて額に落ちるのさえも、サガにはどこか微笑ましく見えた。
見守る双子座の優しい眼差しに気がついたのか、照れを隠すように舌打ち一つ。来客用のソファに勝手に腰かけ、デスマスクはサガに視線を投げかけた。
「で? どう思ってるんだ、アンタは」
どこか皮肉めいた口振りにも、ギリシャ彫刻のごとき美貌は揺らがない。
長きに渡ってサガに落ちていた昏い影は、不思議なほどに薄れていた。
「愛とは難儀なものだな、と」
「あのな、そういうことを聞いてるんじゃねぇんだよ……」
「アイオロスとシュラは今、愛によって弱り果てて道に迷い、彼らの振る舞いは時に愚かしくさえ見える」
愛によって人はいくらでも強くなれる。そう信じる気持ちは変わらないけれど。あの二人の苦しみもまた愛から来るもので。
支えてやれ、とシオンは言った。だがこの試練の前に、サガが口を出す余地があるのか。
自分に出来ることがあるとしたら。
「……どうした、デスマスク? 私の顔に何か付いているか?」
言いながら頬に手をやったサガをまじまじと見て、デスマスクは微妙な表情を浮かべている。
「なんつーか、アンタ妙に溌剌としてるっていうかだな……」
“溌剌”とはあんまりな表現だったかもしれない。だがサガはさめざめと泣くのでも罪悪感で勝手に潰れるのでもなく、今日もバリバリと仕事をこなしまくっている。
問い掛けの視線の意味に気付いたのだろう。苦笑して双子座の青年は窓の外に目を向けた。
双児宮の守護者の私室からは、遥か下方の闘技場が見下ろせる。射手座の親友は確か今日、そこで候補生の指導にあたっている筈だった。
「シュラもだが、アイオロスまでがああも迷走しているのを見るとな」
「あー……」
逆に肝が据わってしまったということらしい。既視感のありすぎる面差しに思わず脱力。
こっちの考えてることなんかおかまいなしで、一人だけ罪を悔いて女神の前で懺悔なんざして自死に至った、あの戦いの前も。仮初の命を与えられて、冥衣で十二宮を駆け上ったときもそうだった。
この人はこの人で一旦腹を括ってしまうと途轍もない打たれ強さと図太さを発揮するタイプで、そういう意味ではシュラと似ている。要するに無意識にデスマスクを振り回す類の人間だった。
とにかく距離を無理やりにでも近付けて外堀を埋める、なんて。作戦だの対策だのとご大層な名前をつけるほどのものでもないそれが、しかし一番単純にして効が期待できると、蟹座の青年にだってわかっている。
わかってはいるが、それでも何とも言えぬ気持ちにはなる。
「そういうことだから、次の任務はあの二人にあたらせる」
「あたらせる……って、アンタが独断で決められる権限なんてどこにも、」
言いかけて、はたと気付いて口を噤む。
サガの文机には書状が二枚。認められた名前は当然見慣れたもの。
「……マジかよ」
げんなりした客人の声など気にも留めず、麗人は平然と頷いた。
現在の聖域において、教皇位は――天界の介入もあり半ば強制的に――廃されている。暫定的に取り入れられたのが黄金聖闘士による合議制で、基本的にカノンを含めた13人の最高位の聖闘士たちが評議で様々な方針を打ち立てていくこととなった。
とは言え全員が一堂に会するほどの緊急事態など、今は殆どないのだけれど。
「ああ。カミュとムウからは既に委任状を預かってある。カノンとアフロディーテには根回し済み」
指折り数えたサガが、そこでデスマスクに向き直った。神の化身と謳われる美しい青年は、だが時折こんな風に隣宮の守護者の前でだけささやかな暴君になるのだった。
当たり前のように自分も勘定に入れられていて、デスマスクが溜息。
「それからお前と、私と……困ったな、これでは過半数に足りない」
6人の組織票の力があればどうにでもなるだろう、と思ったけれど、サガがよくも悪くも完璧主義者なのは知り過ぎなくらいに知っている。
「……老師から委任状、取ってきてやる」
「そうか、ではその件はお前に任せる」
花が綻ぶような頬笑みに後光が差して見えるから、この人はやっぱり、どうしようもなく質――デスマスクとの相性が――悪い。
初めから任せるつもりだっただろ、なんて一言を喉の奥に押し留めて。デスマスクはもう一度、盛大に溜息を吐いて天を仰いだ。
輝かしい黄金聖衣の、心の臓を護る箇所にだけ、幾つもの細かい罅が走っている。自分を呼ぶ声があまりに切羽詰まっているものだからアイオロスはこんな時だというのに笑ってしまって、そのまま激しく咳き込んだ。
「っ、ロス、ロス……アイオロスっ!!」
「だい、じょうぶ……だ……」
「何故俺など庇ったんだ!!」
怒りと困惑で詰りは掠れ、想い人を抱きかかえたシュラの腕はわなわな震えた。必死で小宇宙を送り込み、傷を癒そうとするその手を留め、アイオロスは努めてゆっくりと身を起こした。
死に体の魔物の最期の一撃。駆け抜けた衝撃と痛みはいまやすっかりと消えている。身に受けた自分だからこそはっきりとわかる、これは贄を死に至らしめるような呪いではない。
寧ろ。
「う、くぅッ……!」
「アイオロスっ!?」
鼓動の度、抑え切れない熱が巡っていく。吐息は炎を伴っているのではと思うほどに熱く、己の呼気が肌を嬲るだけでも息が乱れた。
はっきりと兆したものを隠すように膝を立て、固く目を瞑る。漏れそうになる甘い声を堪えるべく、咄嗟に手を口元へ。
「っ、あ……ぁ、」
それでも零れ落ちてしまった甘やかな声に、ようやく“それ”を悟ったのだろう。小さく息を呑んで固まったシュラに、アイオロスが微笑みかけようとする。
「あの……魔物、の、呪い……だろう……」
大したことはない。直に治まる、と。うまく笑えずに強張った、あまりに苦しげな表情から、シュラは目が離せなかった。
それが自分を気遣った嘘であることなど、火を見るよりも明らかだった。首筋を伝う汗にも身を震わせて、とうとう自分で自分を抱くように肩に腕を回してしまった人の欲が生半可なことで引いていってくれるとはとても思えない。
ましてやアイオロスのこれは、人智を超えた理で生きている魔の物が最期に遺した呪いなのだ。
「だか、ら……しゅ、ら、だけ……さきに、帰れ……」
「アイオロス……」
「わたしの、ことは……いい、っ、から、」
それなのにこの人は、こちらを遠ざけようとする。
この任務を受ける前は自分の方こそアイオロスと距離を置いていたことも忘れ、シュラは柳眉を吊り上げた。
「こんな状態の貴方を置いて帰れるわけがないだろう!」
「ッ、ん、ぁ……!」
抵抗にも構わず、強引にアイオロスを背負って歩き出す。悩ましい掠れ声が耳朶に触れて擽ったのに気がつかなかった振りをして、シュラは山間の小屋を目指した。
遠雷が聞こえる。水気を含んだ草木と泥の臭いが微かにする。
まもなく雨が降り始める。
じめついて重くなり始めた空気よりもなお湿気を含んだ熱気が埃っぽい小屋には満ちていて、シュラを居た堪れない気持ちにさせた。
小宇宙をうまく燃やせないのだろう。眩い輝きを放つはずの黄金聖衣はどこかくすんで見え、それは今や纏うものを拘束する枷だった。
「……アイオロス」
「っあ、やめろ……よせっ、」
弱く抗うのを押さえ込んで、無理やり自分の小宇宙を流し込む。普段ならばこんなことは決してあり得ないのだが、シュラの小宇宙に屈した射手座の聖衣は音もなく黄金の射手の姿へと戻った。
「……ッ、」
息を呑んだのはどちらだったか。肌の上から心の臓に巻き付くように、赤黒い呪いが刻まれている。それは呼吸のたびに少しずつ輝きを増して、アイオロスを追い詰めているのがシュラにもはっきりとわかるのだった。
己の聖衣も、山羊を模した姿へ。
喉がからからに乾いていた。自分は呪いなど受けていないのに、鼓動があまりにも高鳴り過ぎて、胸筋を突き破ってしまいそうなほど。
絞り出した声がみっともなく震えているのが、自分でもよくわかった。
「……貴方は、嫌かも、しれないが、」
「な、に……?」
「俺を使ってくれ、アイオロス」
「は……?」
軽蔑されただろうか。だがそれでも構わない。
アイオロスの身に刻まれた呪いは誰かと情を交わすことでしか決して解けず、堪えれば堪えるほどに情欲が燃え上がり後には地獄の苦しみが待っている。
他に選択肢など存在しなかった。
「わかっている、長きに渡って貴方の魂を辱めた人間がこんなことを言うのなどそれこそ悍ましいと。だが、ッ!?」
ぐっと腕を引き寄せられて言葉が途中で切れてしまう。そのまま煤けた床に押し倒され頭を強かに打ち付けて、シュラの視界に星が散る。
「自分が、何を言っているのか……本当に、理解して……いるのだな……?」
「……っ、ぁ!?」
獰猛な吐息が頤を舐る。乱雑な手つきで下衣を引き剥がされ、薄汚れてささくれた木床と素肌が擦れる。不快な痒痛に眉根を寄せて、それでもシュラは努めて身体の力を抜こうとした。
「ああ。……アイオロス、俺は貴方になら、」
現実世界で誰かと褥を共にしたことはない。だが恐ろしくなどなかった。
こんな形であれ、この人を助け、一夜を過ごすことができるのだから。
胸の奥に溶ける昏い喜び――アイオロスは受難の果てに己などと肉体を繋げねばならぬというのに――がシュラの罪悪感を煽って、指先をじわじわと冷やしていく。
瞼を下ろし、想いを唇に乗せて紡いだ。
「貴方になら、何をされても構わない」
「シュラ……!」
アイオロスの声が詰まる。
長い沈黙が狭い小屋を満たしていく。
やがてぽたぽたと頬に落ち始めたものを訝って、シュラはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……アイ、オロス?」
熱い雫が肌を濡らす。それが名を呼んだ人の瞳から止め処もなく零れているのだと気付き、シュラが愕然と目を見開く。
「なんで、泣いて……」
幼ささえ感じさせる呟きに怒りにも似た激情が射手座の中に燃え上がる。何故と問いかけたいのはこちらなのにうまく言葉を見つけられなくて、代わりに涙ばかりが溢れてきて止められない。
頬に伸ばされたシュラの腕が、戸惑ったように宙で止まる。
まるで、この手で触れることなど赦されないとでもいうように。
その手を強引に掴み、強張った身体を引き起こす。腕の中に閉じ込めた人が酷く冷たく感じられて、アイオロスの胸を締め付けた。
「その……すまな、っ!?」
「詫びるな!!」
すまない、とか。俺“など”とか。俺を“使って”くれ、とか。
そう言った言葉を聞くたびに想い人がどんどん遠くへ行ってしまって、いつかふっと掻き消えてしまいそうに感じられて、腹立たしくて怖くて苦しい。
世界で一番近くにいる存在の、熱と重さが頼りなくて。
「……のに、」
「っ、え……?」
「こんなにも……愛して、いるのに……!」
何故お前にだけは伝わらない!
叫びによって心の枷が外れてしまって、想いが奔流になって止まらなくなる。
「わかっている、俺の姿を見る度、お前はかつて受けた苦しみを思い出すのだろうと! それなのにお前の傍にいたいと、そう思ってしまうのは俺のエゴにすぎないのだと、」
「何を、言って……?」
頬を伝う雫が熱い。嵐の如く荒れ狂う感情はアイオロスの肉体の中をぐるぐると凄まじい勢いで渦巻いていて、思いの丈を吐き出すことが叶わねば内側から身体が弾けてしまいそうだった。
「愛しているから、お前を抱きたい。共にいたい、同じ時を過ごしたい」
だがそれがシュラを傷つけるのだとしたら?
「でも俺のせいでお前が苦しむところを見たくない。お前には笑っていてほしい」
アイオロスの持つ幾つもの願いが、互いに矛盾しあってぶつかり合っている今この瞬間、射手座の青年には何ができる?
「……ア、イ……オロス?」
「大切に、したくて……愛しているから、お前を傷つけるのが怖いんだ!!」
言い切って、息が詰まって呼吸ができなくなって、シュラを突き離して激しく噎せる。
これほどの憤怒とやり場のない哀しみに引き裂かれそうだというのに、情欲の炎まで燃え上がりアイオロスの精神に罅を入れる。
だがシュラを“使う”ことでしかこの苦しみから逃れられないと言うのならば、いっそ頓死したほうが遥かにマシだった。
おずおずと背中に伸ばされた手を振り払えない。幾度もそこを上下する掌の温もりは何故だか欲を煽るものではなくて、アイオロスに少しばかり呼吸の仕方を思い出させてくれた。
「……貴方も、怖いと思うことがあるのか」
「あ……っ、りまえ……だろうっ……!」
涙交じりの怒声にシュラの気配が少し怯む。
何か――十中八九詫びの言葉だ――言いかけて口を噤んでしばし黙り込む。
「ッ、ン……ぅあ、う、うくぅっ……!」
いよいよ肉欲と劣情は拷問の域にまで達してアイオロスを追い詰めているのが見てとれて、シュラが何か言おうとする。
「……ア、」
「言うな!」
それでもシュラが、この山羊座だけがアイオロスが想いを寄せている人だから。
決意とは裏腹に、再び贄に身体を投げ出されでもしたら何もかもをかなぐり捨ててその喉笛を噛み切ってしまうかもわからなかった。
「たのむ、から……なに、も……言わないで、くれっ!」
「ちがう、っ……その……俺を、見てくれ……!」
懸命な哀願を包み込むような、そんな囁き。
顔を上げたアイオロスの前に、シュラのほの白い頬がある。
「使ってくれ、などともう言わない」
唇だけが、仄かな赤に染まっていていやに目を引く。
アイオロス。
その名を何かとても大切なもののように大事に紡いで、それからシュラはおもむろにアイオロスに唇を寄せた。
「……抱いてくれ」
罪悪感から来る自己犠牲でも、単なる献身でもない。
随分と遠回りしてしまったけれど、ただこの一言で十分だった。
「俺が、貴方の熱を感じたいんだ」
「っ、シュラ……!」
確かな欲情を孕んだ声が、射手座の腰を重くする。薄く開いた唇の艶めきに誘われて、アイオロスは自身のそれを押し付けていた。
「ンっ、う、ぅ……っ、」
不意打ちに驚いて逃げを打った舌を絡め取り、そのまま強く吸い上げる。舌先で美しい歯列を辿ってから、柔らかい頬の内側を突つく。
敏感な上顎を擽るように撫で上げられると、シュラの身体がびくりと震えた。
「ん、むぅうッ……ふぁ、っん、んぁぅ……!」
恥ずかしい声が上がってしまうのが抑えられない。飲み下せなくなった唾液が口の端から零れ、首筋を伝うのにさえ感じずにはいられない。
射手座の背にシュラの右手が縋る。そこに翼がないことを、彼が自分と変わらぬ存在であることを確かめるように指先が繰り返しそこを擦る。
やがて腕からは力が抜けて、アイオロスの背筋をシュラの掌が撫で下ろしていく。
ようやく口づけから解放されたとき、シュラは殆ど放心状態だった。
「は……っふぁ、ぁ……っ、」
アイオロスが目尻に啄ばむキスを落とすと、ようやくそこに恥じらいの紅が差して白皙を緩やかに染める。
下肢に触れている存在は熱く固く、アイオロスが置かれた状況をこれ以上なく伝えている。まずは少しでもそれが収まるようにと、シュラもまた緩く勃ち上がったものをアイオロスのそれに押し当てた。
「っ、シュラ……」
山羊座の青年が頷きで答える。羞恥のあまり声すら出せなかったシュラだったが、大きな掌に勃起を二本握り込まれた瞬間、甘い吐息が零れ落ちた。
「あっ、ン……うっ、あ、ふぁ……!」
「ん、ぅ……っ、く、」
互いの声が肌に絡み耳朶をからかい、否応なく興奮を高めていく。自涜すらもあまりせずに来た身に好いた相手の愛撫は刺激が強すぎて、見る間にシュラもアイオロス同様に昂ぶってしまう。
いやらしい水音が次第に大きくなっていく。いつのまにか降り出した雨が激しく窓ガラスを叩いているのにも気付かないほどに二人はすっかり感じ入っていて、目も眩むような快感を与える行為に没頭していた。
「ッく……!」
「ひぁ、あ……い、く……!」
淫らの呪いを刻まれたアイオロスが先に限界を迎える。そのまま激しさを増した手の動きに誘われて、シュラ自身も白濁を吐き出していた。
荒い吐息は室内に広がる。一度の逐情では到底収まりそうにないのはシュラもアイオロスも変わらない。射手座は大きくかぶりを振って、濡れた手をそっと持ち上げた。
「ひ、ッあ……!?」
ぬるつく指先に頂に触れられ、シュラの腰が跳ね上がる。反射的にアイオロスの腕を掴んでしまったシュラの右手を下肢に導き、今度はその手に二つの昂ぶりを握らせる。
「あ……ロス……」
「今度は、シュラが気持ちよくしてくれ」
できるな?と熱っぽい表情のまま笑いかけられると、わけがわからないなりにシュラは従わずにはいられない。
爪先が躊躇いがちに雄の先端を辿る。これで合っているのかと不安げなかんばせに口づけて、アイオロスもまた、触れる手を速めていった。
「ッ、あ、ん……ひぁっ……ぁ、ッんぁ!」
まだ柔らかさを残している乳輪をくるくるなぞり、不意打ちで頂を摘まみ上げる。指の腹を擦り合わせながら、そこを持ち上げて繰り返し引っ張る。爪で敢えて強く弾く。
言われたとおりにアイオロスを感じさせようとシュラが奮闘していたのは最初だけで、すぐに手淫は頼りない手つきに変わってしまう。それでも時折思い出したように勃起を擦り上げる動きが再開されて、アイオロスを快感に呻かせた。
「んっ、くぅ……あ、ッ……!」
「ふぁ、あ、んぅう……ひあぁッ!」
二度目の精が聖剣の宿る右手をしとどに濡らす。その手から白濁を掬い取って、アイオロスの指がシュラの後孔に伸びていった。
「あッ……!?」
固く窄まっている場所に、まずは指の先が添えられるだけ。アイオロスはまだ何もしていないというのに、そこは勝手にひくついて目の前の男に番おうとしてしまう。
「ア……イ、オロス……」
己の肉体の浅ましさに首筋まで赤くして、か細い声でシュラが呟く。戸惑いの色が濃い表情には、かつての幼さが残っていた。
「大丈夫だ、シュラ」
促して腰を僅かに上げさせる。はい、と子供のころのような返事を返して、シュラがアイオロスの言葉に従う。未知の感覚から逃れるように腰がふるふると震えてしまって、二人の間で濡れた雄同士が擦れ合った。
「っ、ん……!」
「あ、ぅっ、」
二度も立て続けに射精に至って、流石にシュラは勢いを収めている。だがアイオロスのものはまるで変わらずにそそり立っていて、突き立てる場所を求めていた。
シュラへの気遣いか或いは男としての意地なのか、喉の奥で殺されきれなかった吐息が時折シュラの肌を撫でる。刻まれた呪いの紋の輝きも消えないままで、シュラがそれを睨め付けたとき、指先がほんの僅か後孔に入り込んできた。
「ひぅ、く……!」
痛みはしない。だが異物感だけは凄まじくて、思わず唇を噛み締めてしまう。はしたない声を抑えるべくシュラは濡れた掌に爪を立て、ぞくぞくとした感覚を紛らそうとした。
固く瞑られた目の端で、黒い睫毛が震えている。まさしく生娘の反応がアイオロスは堪らなく愛おしくなって、そっとシュラの手を取った。
腕を背中に回してやって、爪を立てさせる。逞しい肩に口元を押し当てさせれば、舌先がちろりとそこを舐めた。
「……続けるぞ」
「は、い……ッ、あ、ぁ……!」
肉の襞を掻き分けるようにして、指を奥へと進めていく。侵入者を押し返そうとしているのであろう蠢きはけれど却ってアイオロスの指に心地よくて、そこを暴く動きが止められなくなる。
奥まで指先を挿し入れて、ぐるりと大きく指を回す。そのまま内壁を拡げるように下ろしていくと、あるときシュラの身体が跳ねた。
「ひッ!? あ、そこ……っ!」
「ここ、か……?」
ぐりぐりと強く押されると、髪の一筋から足の爪先まで電流が駆け抜ける。
「や、うぁッ、んあぁっ! そこ、まって……ロス……!」
感じ過ぎて息ができない。思わず背が仰け反ってしまって、煤けた天井がぼやけて見える。
現実の肉体を責められたのは初めてだけれど、これほどに感じてしまうものなのだろうか。経験のないシュラにはよくわからなくて、ただ広い背に爪を立てて衝動が少しでも引いていくのを待つしかない。
ようやくシュラの息が落ち着いてきたところで、節くれ立った指がそろそろと抜けていく。
「はっ、ひぁ……!」
次に呑まされた指は二本。それが勘所を優しく避けながら丁寧に中を拡げていく。
やがて四本が纏めて収まるようになるころには、蜜壺は熱を持って蕩け、雄の存在を待ち侘びていた。
二つの屈強な肉体に挟まれ、アイオロス自身と繰り返し擦り合わされたシュラのそれも、腹につきそうなほどに反り返って先端を雫に濡らしている。
「シュラ……」
いいか、と眼差しで問うて。アイオロスに頷きで答えたシュラが、細く長く息を吐いた。
「……っ、は、ああぁッ、」
「く、うっ……!」
アイオロスの声に、快感が滲んでいるのがわかる。
熱く滾るものが、シュラの中をいっぱいに占めていく。
二人が一つになる。
「う、っ、うぅ……!」
痛みも苦しみも恐怖もそこにはないのに。
「……シュラ?」
何故だか涙が溢れて止まらなかった。
大粒の涙を零す山羊座の青年に、アイオロスが困ったように眉根を寄せた。限界なのはこの射手座のほうだろうに、大きな掌が腰を掴み直す。滾りを引き抜こうとする動きに慌てて抗って、シュラは目の前の人にしがみ付いた。
「ち、がっ……! ろす、アイオロスっ!」
「……ッ!」
力いっぱい爪を立てられたせいで、背中には血が滲んでいるに違いない。だがその痛みさえも甘く走って、アイオロスが小さく呻く。
やめないで、ひとりにしないでくれ。
涙声の懇願は稚く、アイオロスの胸を貫く。
「やめるものか……シュラ」
「あ……ろす、」
「私はここにいる、だから」
泣くならばせめて、私の腕の中で、なんて。言葉にはせずに呟いて、もう一度泣き濡れた頬にアイオロスは愛情を込めてキスを落とした。
どれほど互いに絶頂を極めたかわからない。アイオロスの身体にはいまだ僅かなりにも呪いの効果が残っていて、男の欲望を駆り立てる。
埃っぽいクッションを背に仰向けになったシュラは最早どこに触れられても感じてしまうほどで、射手座の手が耳朶から首筋を撫でるだけで、甘ったるく煮詰められた声が唇から零れた。
見下ろして目を眇めたアイオロスの笑みは決して揶揄するものではない。けれどこれほど快感を詳らかに拾い上げてしまう自分自身がシュラには恐ろしくて、そう叫ばずにはいられなかった。
「あ、あなたしか、あなたしかしらない、からっ……っ、あ、ひぅッ……!」
この身体に触れることは、誰にも許したことがない。夢での蹂躙を除けばシュラの肉体はまるで初心で、男も女も知らぬものだった。
それなのにこうも慣れた者のように喘いでしまえる自分がよくわからない。
アイオロスに対してというよりは、寧ろ自分自身に。泣いて弁明するシュラに苦笑を浮かべ、射手座の青年が腕を伸ばす。
昔のように頭を撫でれば、兎の目がこちらをじっと見つめ返した。
「……わかっているさ」
身体だけではない、魂もまた。
シュラは穢されてなどいない、毀されてなどいなかった。
しなやかで美しい肉体の中で輝いていたのは、あまりにも無垢な魂だった
「……シュラ」
「っ、あ……あいお、ろす……」
「愛している」
「……っれ、も……っ、して……ひぁ、あ、ぅ、ひあぁっ――!!」
力なく投げ出されていた腕を懸命に持ち上げて、どうにかアイオロスの首に回す。
身体の奥で何度目かの熱が弾けるのを感じながら、シュラは意識を手放していた。
見慣れた天井。気怠い身体は慣れた寝心地のベッドに吸い付くよう。回らない頭でシュラはぼんやりとここで休んでいた経緯を考える。
「……ぅ、」
何故だかうまく記憶が像を結ばない。喉の渇きにとりあえずシュラは身を起こして、甘く重たい痛みに呻いた。
やっとの思いで寝台から降りて私室の戸口へ。そこに縋って外へと出ようとしたところで、唐突に扉が開かれた。
「う、わっ……!?」
「シュラ! 起きていたのか」
「あ、アイオロス……!?」
水差しの中身一滴零さぬまま、突然倒れ込んで来た身体を難なく抱き留め、射手座の青年が穏やかに笑う。
その瞬間、それまでの諸々が凄まじい勢いで思い出されて、シュラは耳まで赤くなって俯いた。
初心にも程がある反応に釣られて照れてしまって、アイオロスも頬を赤くして苦笑する。
「シュラ、これを」
「え? ああ……ひぁ!?」
差し出された水差しを反射的に受け取る。そのまま不意打ちで抱き上げられて、シュラは素っ頓狂な声を上げてしまう。
あれほど苦労した道のりを瞬く間に戻って寝台に座らされる。色々な問いかけの視線にアイオロスは微笑んで頷いた。
「ほら、シュラ」
「すまな……いや、ありがとう」
まずはシュラに一杯の水を手渡して、それからおもむろに口を開く。
「あの後あそこで一晩を明かすつもりだったのだが、雨足が強くなってきてな……」
不吉な音を立てて軋む小屋とどこからか聞こえてくる地響きに、アイオロスは不安になったらしい。
「だから聖域に帰還することにしたのか」
「そうだな。服は置いてあったものを少し拝借した」
「そうか……」
いくらアイオロスの腕の中とはいえ、服まで着させられて抱きかかえられて聖域まで連れ帰られて、一度も目覚めないというのはどうなんだ?
自分の聖闘士としての能力に突っ込みを入れたくなって、シュラが思わず頭を抱える。
それをどのような意味に解釈したのか、大丈夫だ、と朗らかにアイオロスが続けた。
「ムウと老師は聖域にいないだろう? アルデバランも任務で一昨日からしばらく南米だし、サガとカノンは教皇宮で調べ物をしていた。アイオリアとミロはちょうど女神の護衛で日本にいったところだったし、シャカはもう休んでいた」
あの日の聖域にいた聖闘士を指折り数え、最後の指を一本、シュラの目の前に示してみせる。
「だからデスマスクだけだ、磨羯宮に辿り着くまでに私たちに会ったのは」
「そう、か……」
喜ぶべきか嘆くべきか。だがいずれにせよあの腐れ縁にはみっともないところばかり見せているから、何もかも今更という気がしなくもない。
冷たい水をすっかり干してしまったら、だいぶ頭がすっきりしてきた。
それが見て取れたのだろう。笑みを深めたアイオロスがシュラの黒髪を一つ撫でた。
「討伐任務の後だから、私もお前も10日間の休暇に入る。疲れているだろう。今日はひとまずゆっくり休め……ではな」
また明日以降ゆっくり話そう、と。アイオロスは変わらず優しいし、シュラを急き立てるようなことはしない。
そんな人だからかもしれない。シュラは咄嗟に、アイオロスの腕を掴んで引き留めていた。
「シュラ?」
「あ、アイオロス……」
「ん?」
「……その、貴方は、もう……問題ないのか」
けれど口から出てきたのは、そんな陳腐な質問だけ。
「ああ、心配をかけてすまなかった。もう平気だ、あの痣も消えた」
「そうか……よかった」
だが本当に告げたいことはそれではない。最後に伝えられたかわからなかった、あの一言をちゃんと言わなければ。
「それから……! 俺も貴方のことを、」
「待った、シュラ」
「……え?」
「その続きは、明晩にでも人馬宮で聞かせてくれ」
いたずらっぽく笑ったアイオロスが、大仰に腕を広げて語り始める。
「その言葉を聞くのは、あのベッドにしたいんだ」
シーツは真っ白で糊の効いたもの。私室には気に入りの香を焚き染める。
軽くワインを楽しみ身体を清めた後には、二人心ゆくまで抱き合って。
星々は輝き月が二人を照らす頃に。
語られる夢に吹き出したシュラに、大真面目に宣うその人は更に謳う。
「お前の囁きはアフロディーテの薔薇よりも香しく、ロクムやハルヴァのように舌の上でとろけ、そして、」
「貴方が背伸びしてたまに飲む、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーのように甘いんだろう?」
「ふふ、そうだな」
微笑みの形で、そのまま唇が重ねられる。
愛おしさを声にならない吐息に変えて、シュラはそっと瞼を下ろした。
初出:2017/05/22(pixiv)