「それは夢という名の、」及び「夢神にご無体されるシュラ」の続きです
※めっちゃ喧嘩しそうなお題二つ混ぜちゃってすみません
※ほんのりサガシュラかつサガとシオンが仲良し
※まだ特にエロくはないけどゲロ吐いたりしてる
秀麗なかんばせには悔悛が色濃く滲み、それでもなお美しかった。深く頭を垂れる双子座の青年を窘めて、かつての老教皇は彼をソファにかけさせてやった。
サガの思い詰めた横顔は昏い。あれこれと自分の内側に抱え込む性格は数度の甦りを経てさえ変わらずにいて、シオンを何とも言えぬ気持ちにさせる。だがこうやって自分の元に相談に来ただけ幾らかマシになったのだろう。麓で採れる茶をヤクの乳で煮出したものを出してやれば、サガは小さく目礼してそれに口をつけた。
「サガ。この私に何用があってこんな辺鄙なところへ来たのだ?」
それも、ムウが任務のためにここジャミールを離れたときを見計らうようにして。柔らかい甘みを飲み下し細く長く息を吐いて、そうしてようやく、サガはおもむろに口を開いた。
「……シュラの、ことで……シオン様にお伺いしたいことがございまして」
「シュラ?」
全く予想外というわけでもないが、だが得心の行く答えでもない。この13年間はわからないものの、再びの命を受けてから確かに山羊座の青年はしばしば一人塞ぎ込んでいたように思う。とは言え周囲の人間、殊アイオロスが気にかけているのが見て取れたから、シオンは格別心配などしていなかった。
後悔も苦しみもあるはず。だがそれはシュラ自身が乗り越えるべきこと。そこにアイオロスが寄り添うというならば彼自身の意志に任せるべきだと思うが、シオンが介入する必要があるだろうか。
僅かに眉根を寄せて疑問を表したシオンに、サガは小さく頷いた。
「かつてシュラは、夢を司る四柱の悪神と闘ったことがありました」
「ああ、よく覚えている。初陣から間もないころのことだな」
唐突だが、サガは要領を得ない話はしない。おそらく言いにくいことなのだ、一度だけ小さく金糸を揺らしてから、この双子座の青年は再びシオンを真っ向から見詰めた。
「神託……と言うべきか呪いと言うべきかはわかりませんが。邪神たちはあのとき、討伐に向かっていた私達それぞれに言葉を遺してから消滅しました」
「神託か、或いは呪いか……」
はい、と小さく頷いたサガが、再び茶を口に含む。まるで今何の役にも立たぬ悔恨と懺悔の言葉諸共、それを飲み干してしまいたいとでも言うように。
「英雄には、正義を貫く拳を緩めさせる妄執を。神の化身たるお前には、“英雄”を殺す一振りの“凶刃”を」
「……なるほど」
確かに残虐なる神々の予言通り、シュラ相手に非情に徹し切れなかったアイオロスは13年前命を落とした。黄金の射手の弱点を知ってサガはシュラを刺客にやり、そして簒奪に始まる己の治世を阻むであろう最後の一人の命を奪うことに成功した――尤も、それが彼の魂にとって善きことだったのかはわからないけれど。
そしてシュラには。
「哀れなる贄には、夜毎その身を狂わす淫夢を」
「……そう、か」
「討伐任務後しばらくは、当人も毎晩魘されていることに気付いていなかったようですが」
その後しばらくして幼い黄金聖闘士たちの幼年期は終わり、シュラは全てを知ってなおサガに跪くことを選んだ。平和に偽りも真実もない、と。
「私がシュラの異変に気がついたのは、討伐任務からおよそ十か月、彼にアイオロスを討たせてからも半年以上の時が流れてからでした」
温もりを求めてというわけでもない。ましてや性的な交わりなど。だが何故だかあの日のサガは酷く弱っていて、それはシュラも同じだった。
独りになりたくない、なんて。そんな子供じみていておこがましい願いは二人とも口に出せなかったけれど、縋るような視線が絡み合ってしまえば、そこに言葉など必要なかった。
子供らしい柔らかさと熱が残る身体を、ぎゅっと強く抱き竦めて。夜明けまで泥のように眠るはずだったサガはしかし、夜半に眠りから引き摺り上げられた。
――ッ、う……ううぅっ……!
――シュラ……?
――い、や……だぁ……やだ、いやああぁっ……!
――……シュラ、どうした……シュラっ!!
腕の中に抱き込んだ小さな存在が、身悶えて涙を零している。嫌がって苦しんではらはら泣いているというのに、熱い雫に濡れた頬には赤味が差していて、吐息交じりの声には快感が溶けているのが詳らかなのだった。
強引に揺さぶり起こして、潤んだ瞳を覗き込む。荒い息を吐いた小さな山羊座の少年は、やがてぼんやりとサガを見上げた。
震える唇に縋るように名を呼ばれて、双子座の少年が腕の力を強くする。コップを傾けてやってもシュラは水の殆どを口の端から零してしまって、結局サガは水差しの中身を直接呷った。
そっと口づけて熱い口内に水を流し込む。幾度か喉を鳴らして注がれたものを飲み下したのを把握して顔を離せば、シュラのかんばせには少しばかり理性が戻っているのがわかった。
――……酷く、魘されていた。
――サ……ガ、
――いつもこうなのか。
問い掛けが少しきつくなってしまって、すぐに後悔。だがシュラは戸惑うように短い黒髪を揺らし、わからないと小さく呟いただけだった。
「薄情なこととお思いでしょうが、私はまさしくその瞬間まで、彼に投げ掛けられた呪いのことを忘れていたのです」
それをシオンには責められない。何せ当時の聖域の人手不足は深刻で、あの直後サガは聖域に帰還することさえなく次の任務を言い渡されたのだから。ただ力があるというだけで年に見合わぬ過大な責任と期待を背負わされ、最年長であり秘密を抱える身であるが故にその重みを誰とも分かち合えない。
シオン個人としてはサガに怨みの一つもない。双子座の反乱に射手座の死、そして若き聖闘士たちと女神の帰還。それら全てが城戸沙織のアテナとしての目覚め及び神殺しの天馬星座の覚醒に必要なことだったからだ。
それでも、他の道があるならば、そちらを選んでやりたかった。
「すまなかったな」
「……は?」
「私とて全てが視えていたわけではない。だが、お前に辛い道を歩ませた」
「っ、何故、シオン様がそのようなことを!」
憎まれるよりも、赦されるよりもなお、詫びられることは辛いだろう。柳眉を寄せたサガの表情は哀しげで、困惑がはっきりと浮かんでいて、それでいて怒っているようにも見えた。
いますぐに、とは言わない。だが少しずつでもこの青年に積もった哀しみと苦しみ、自責の念が溶けていくことを願う。
だがそれにはきっと、まだまだ時間がかかるだろう。若草色の髪を軽く払い、シオンは彼がここへ来た目的へと話を戻した。
「……さて、シュラの件だが。お前がここへ来たのは、復活を果たした今シュラの身体は夢神の呪いの影響下にあるのか、それを私に尋ねるためだな?」
「え、ええ……仰せの通りです」
唐突に本来の話題を突き返されて、サガが一瞬だけ戸惑って瞬く。だが流石に上に立つ者の切り替えの良さがある。先ほどまでの悔恨をすぐさま身の奥にしまいこんで、この双子座の青年はシオンの問いに頷いて答えた。
「当人にも確認しましたところ、此度の甦り以降は悪夢を見なくなったと言っておりました。かつて見ていた夢の内容が思い出せないのは相変わらずのようですが、以前よりもよく眠れているように思います」
「ふむ……」
サガは楽観の対極を生きる男だ。ましてやシュラの苦しみようを間近で見ていたからこそ、ここで気を緩めることはできないのだろう。
生真面目にこちらを見つめている青年の、秘めた深海の如き青に向かいあって、シオンは少し頬を緩めた。
「サガ。お前が危惧していることにはなるまい」
「しかし、」
「理由は大きく分けて三つある」
鍛練と聖衣の修理に明け暮れた手は、18の青年の肉体に戻った今でも節くれ立って傷だらけ。三本の指を立ててサガに示し、シオンは静かに語り始めた。
「一つに、我々と冥界の間には現在いかなる争いも存在しないとされている」
正確に言えば“現在に至るまでいかなる争いも存在しなかった”となるのかもしれない。生きとし生ける存在から死と言う終わりを奪うことなど不可能で、また死者の裁きという役割を失くせば冥界はその存在意義を見失う。
結局聖戦は女神と冥王の力、何より天界の介入により終結へと導かれ、散った数多の命までもが各々の居場所へと帰ることとなった。
「これを乱すことはたとえ神であろうと、いや神であるからこそできまいよ」
永久の平穏を約束された天上の神々にとって冥府と地上の争いなどは一つの娯楽にすぎない。とは言えそこでの勢力図が大きく変わってしまうことを危惧する声が上がらない訳でもないのだ。
地上の愚かな人間に肩入れする戦女神が、全知全能の父神ゼウスのお気に入りであれば尚更。
「第二に、我らが地上の再建に東奔西走しているのと同様……いや、それ以上に冥界は現在混乱を極めている。神であるヒュプノスがあの程度で消えることはないが、かと言って神殺しの天馬星座を本当の意味で目覚めさせたのはあの双子神であり、その拳を受けた身はそう容易くは回復しないだろう」
「夢を司る四神は、ヒュプノスという後ろ盾を完全に失っていると?」
「そういうことだ」
窓の側へと歩を進める。麓の花畑はもうじき見ごろを迎える。吹き上げられた花弁のいくつかがともすれば殺風景になりがちな岩の合間を縫って舞い、シオンの心に慰みを与えた。
「そして第三に――これが最も大きな理由となりえるのだが――此度の我らの復活において、この肉体は冥王の力によって再生し、そして女神のご加護を受けているからだ」
「女神の……ご加護」
「そうだ」
失われた肉体を生前と全く変わらぬ状態にまで復元し、魂の器とする。生来の身体ではない場所に違和感なく魂を収め完全に定着させる。それらを可能としているのはオリンポス12神に名を連ねる二柱の神の力であり、そのどちらが欠けていても聖戦で失われた命の復活など叶わなかった。
「つまり、自分より遥かに強大な神々の加護を受けた肉体には、いかに神であろうと手出しはできないと?」
「ああ。加えて現在の聖域には女神がお戻りになっている。アテナの小宇宙が満ちた十二宮に夢神の悪意が入り込む余地が存在するとお前は思うか」
ここまで言って聞かせてようやく、サガが安堵に息を吐く。シュラ当人と異なり夢の内容を漠然と知っていたからこそ、この双子座はここまで思い悩んでいたのだろう。微苦笑を浮かべシオンはサガに向き直った。
「大丈夫だ。お前が気にすることは何もない」
「シオン様……」
自分より長身の青年の頭を軽く撫でて。何事もなかったかのようにかつての老教皇は彼に尋ねた。
「もう遅い。今日は泊まっていくのだろう?」
「い、いえ、そこまでご厄介になるわけには、」
「孫弟子は客人に飢えているのだ、話し相手になってくれ」
「はあ……」
たまには私の愚痴に付き合え、ムウは説教臭くてかなわん、なんて。どうにも断るのも否定するのも難しいことを、シオンは小さく笑って言った。
明くる朝は早かった。
聖域へ帰るというサガを見送りがてら、シオンは麓の朝市へと向かっている。
思いがけない客人に喜んだのは貴鬼だけではなかったようだ。いまだに13年間僭皇であった青年との距離をどこか測りかねている愛弟子が戸惑いながらもサガに近付いているのを見て、シオンは内心安堵していた。
朝方まで酒宴に付き合わされて殆ど寝ていないはずのサガだが、それでも疲労を顔に滲ませるようなことはしない。清々しい空気の中を進む凛と伸ばされた背に、シオンはそっと囁きかけた。
「サガ」
振り向こうとした彼を続く声音だけで留めて、そのまま語り続ける。
「夢神とのことは心配いらぬと昨日言ったな」
「……はい」
「シュラに今後地獄が待っているとしたら、全てを思い出したときだぞ」
「……ッ!!」
止まりかけた足をどうにか動かして歩きながら、サガは真っ直ぐに前を見ている。
「“凶刃”とした子に対する罪悪感が消えぬというのなら、そのとき支えてやれ。山羊座のことも、射手座のことも」
責め詰られるかもしれんがな。そう続ける声は淡々としていて感情を悟らせないもの。
「承知しております」
「なに、そう固くなるな、いずれにせよそれに向き合うのはシュラ自身だ……サガ!」
「はい……っ?」
振り返れば、いつの間に買ったというのだろう。露天商から受け取ったと見られる果実の一つをサガに投げて、シオンは軽く手を振って笑った。
日中はそれぞれ与えられた役割を果たしていて顔を合わせることも稀なのだが、夜になるといつも、隣人と顔を突き合わして夕食を共にしている。
自分がかつて手にかけた人と真正面から向き合うのは、それが必要だと理解していても初めはひたすらに苦しかった。そんなシュラの心情を理解していたのかいないのか、困ったように頭を掻いて苦笑したアイオロスは、過去のことは決して口には出さなかった。
今日の任務の話だとか、これからの季節においしい食べ物の話だとか、新しい有望な候補生の話だとか。黙り込むことを恐れるわけではなかったけれど、そんなささやかで楽しい話題はシュラにとっては意外なことに尽きることを知らなかった。ただ二人で食卓を囲み、束の間の時間を共にする。ぎこちなさは時と共に少しずつ溶け、気付けば夜半過ぎまで自宮に帰らずに語らう晩まで出るほどで。
――もうこんな時間か。すまないアイオロス、長居をした。
ふ、と。頭上を天使が通り抜けたような沈黙。久しく感じていなかった気まずさに似た、けれどそれよりもずっと甘やかな何かに胸が震える。それを胸の奥に押し込めて立ち上がったシュラの腕を、けれどアイオロスが掴んでいた。
――シュラ。
――アイオロス?
――好きだ。
――……アイオロス?
黄金の射手の蒼の眼が、山羊座の青年を射抜いている。あまりに唐突な愛の告白にシュラの頭は真っ白になってしまって、呆けたように目の前の人の名前を繰り返すだけだった。
アイオロスの右手に込められた力が強くなる。次の瞬間には逞しい腕の中に閉じ込められてしまって、シュラは繰り返し瞬いた。
――もう、お前を離したくない。
熱っぽい吐息が耳朶を擽る。思えばアイオロスが昔に言及するようなことを言うのは、これが初めてのことだった。小さな子供の手を振り払って崖下に落ちていく瀕死の少年。双方の脳裏に浮かんだのは、あの日の互いの表情だった。
また、青年が想い人を抱きすくめる力が強くなる。
――もしも今度はお前を、諸共に谷底に堕としてしまうとしても。
――……しれ……い、
――……え?
息が苦しいのは、思い切り抱き込まれているからだけではない。額から耳から首筋まで、白い肌がどこもかしこも赤く染まっているのをアイオロスの視線からは隠せなくて、シュラは小さく囁いた。
自分の声が、それと認識できないほどに甘く掠れて消えていく。
――貴方を、掴んで……地獄に引き摺り堕としてしまうのは……俺の、ほうかもしれない……。
――ふふ、望むところだ……シュラ、
――っ、あ……ンっ……!
優しい口づけが一つ、山羊座の青年に捧げられる。軽く角度を変えて唇を合わせただけで、アイオロスはすぐさまそこを解放してしまった。
無理はさせまい。年下で年上の同胞にして想い人は、抱擁と挨拶程度のキスだけでもいっぱいいっぱいで今にも熱を出して倒れそうなほど。
青い蕾が掌中で綻んでいくのを見守る思いで、アイオロスは硬質な黒髪を軽く撫でた。
双子座の青年が単身ふらりとジャミールへ発った、その晩のことだった。
人馬宮の寝台が、二人分の体重を受けて僅かに軋む。
あれから二か月。不思議と昔からそういった欲の薄い自分はともかく、アイオロスの方はかなり辛かったのではなかろうか。それでもこの人は決して欲望を露わにすることなく、人肌の温みと想い合う恋人同士の番い方を一つ一つ教えてくれた。
手を繋ぎ合って、或いは抱き合って寝る夜は、シュラが殆ど完全に忘れていた穏やかな眠りを思い出させてくれた。親愛の口づけはやがて恋慕に劣情が混ざった熱いそれに取って替わり、初めは息も絶え絶えで涙さえ浮かべていた青年もいつしか駆け引きを楽しみ始めるまでになった。
そうして今、シュラとアイオロスは、薄明かりの下で見つめ合っている。
「……シュラ、」
抱くぞ、と言葉にはならなかった。だが恋人の真剣な面差しに、シュラは薄く微笑んで頷きで答えた。
性的なことだけではない。人と触れ合うことのほとんど全てを、意識的にか無意識にかこの13年間避けてきていた。サガだけはそんな自分を心配してか時折人目を忍んで会いに来てくれたものだけれど、あれは触れ合いというよりは限りなく治療に近いものだった。
何かと秘密を抱えた立場だったから、年若い黄金聖闘士とは出来る限り接触を断っていたし、彼らと近しく語らった記憶も今や遥か遠くにある。
熱い手がゆっくりと夜着のボタンを外し、素肌に触れて鼓動の高鳴りを確かめる。張り詰めた胸筋さえ突き破りそうなほどに心臓が脈打っているのがアイオロスに伝わっていると思うと堪らない気持ちになって、シュラは息を詰まらせた。
「……っ、」
咄嗟に目を閉じて顔を逸らしてしまう。子供じみた反応だと自分でもわかっていて、ますます顔が赤くなる。
「怖いか?」
「……まさか」
恐ろしくなどない、と思う。ただ途方もない幸福というものを受け入れるにはシュラの器は小さすぎて、何故か背筋がぞくぞくと震えて涙さえ零れそうになってしまう。
「シュラ……」
――シュラ……。
穏やかな、それでいて一杯に愛と熱を孕んだ己の名に得体の知れない“何か”が重なったのはそのときだった。
「……っ、ぁ?」
慈愛の籠った苦笑が滲む声が、シュラの閉ざされた視界に広がる。
「目を開けて私を見なさい」
――目を開けて私を見なさい。
少しかさついた唇が目尻を撫で、そのまま頬にキスをする。耳朶に触れていた指の腹が首筋にそっと滑っていく。
多幸感の奥に潜んでいる闇がうぞりと蠢いて、足元に絡みつくような感覚。知らず知らずのうちに身を捩らせて、シュラは何かに抗おうとした。それをこれから始まる行為への困惑だと錯覚したアイオロスが、笑みを深くして囁きかける。
「大丈夫だ、何を恐れることがある?」
――大丈夫だ、何を恐れることがある?
「っ、う……ぁ、ロス……!」
がちがちに閉ざされていたものが力ずくで抉じ開けられるというよりは、何かが自然な流れに従って浮かび上がってくるような感覚。
それは喩えるならば、水底に隠されていた腐乱死体が、いくつもの重石を纏わりつかせながらも水面に浮上してくる様に似ていた。
「……愛している、シュラ」
――愛している、シュラ。
「っ、ひ……!?」
夜毎受け続けていた神の悪意。痛みも憎しみも苦しみも。
望まぬ快楽を練り込まれて幾度も絶頂を繰り返す恐怖も。
泣いて喚いて赦しを乞うしかない、それなのに惨めきわまる屈服からさえ快感を拾ってしまう絶望も。
この人を、初めて出会ったときから焦がれ続けてきた人の魂を、淫獄の底で辱めた己の弱さも。
その瞬間、忘れていた、忘れていられた何もかもが奔流になって溢れ出してきた。
「あ……っ、ぁ……!」
ぐ、と喉を思い切り締め上げられたときのように急速に視野が狭窄して、息がうまく吸えなくなる。見る間に蒼褪め、胸元を掻きむしって震える恋人の様子に只ならぬものを覚え、アイオロスが強く肩を掴む。
「シュラ、どうした? シュラ!!」
無理矢理抱き起すように腕を回され、殆ど反射的にシュラの身体は動いていた。
「いや……い、やだッ……!!」
厚い胸板を突き返し、寝台から転び落ちる。臓物が酷く熱を持って痙攣し、胃は今にも捩じ切れそうだった。
咄嗟に口元を抑えた手の隙間から、饐えた臭いの液体が溢れてべしゃべしゃと汚らしく広がっていった。夕食を摂ってからはそれなりに時間が経っていたけれど、ところどころに固形物の面影を残す何かがあって、原型を留めない食物だった軟らかい液状の吐物に点々と浮いている。苦しくて堪らなくて、けれど息を吸おうとして己の嘔吐物に噎せてしまって、シュラは激しく咳き込んだ。
「シュラ、焦らなくていい、大丈夫だから……」
「う……ぐ、うぇっ、ぅ……!」
「まずは落ち着いて息を吐いて……ああ、上手だ」
自分も汚れることなどまるで厭わずに、アイオロスが背を撫で摩ってくれる。大きな掌の温もりは紛うことなき本物だとわかっているのに、何故だか震えが止まらなかった。
「……ロ、ス……ぁ、ろす……っ、」
すまない、と言おうとした矢先に詫びの言葉を封じられる。
「いいから、まずは自分のことだけ考えなさい」
そんな風に言われたって罪悪感と自己嫌悪が胸を灼き、シュラをますます苦しくする。
「っ、くぅ……っ、ぅ……!」
いよいよ胃液さえも出なくなった代わりに涙が止め処もなく溢れ出して。その雫がぽたぽたと、床を汚したものに落ちて消えた。
初出:2017/04/26