全身の鈍痛に引き摺られるようにして桂は目覚めた。見渡した部屋に覚えはない。趣味のよい調度品や寝心地の良い寝具、さらりと上質な夜着は決して不快なものでなかったけれど、脳裏にこびりついた直前の記憶は最悪なものだった。一刻も早くこの場所を離れたくて、無理やりに布団から身体を引き剥がす。軋む身体の訴えには耳を貸さないことにした。
「うわっ、桂さん!? まだ起きては……」
「っう……お前、こうして見ると老けたな……」
半ば這いずってに畳に這い出たところで、部屋に入ってきた部下が慌てて駆け寄る。特にずきずきと痛む頭を押さえた桂が呻くように呟いた。言葉ほど辛辣ではない、むしろ労わりすら込められた哀しげな視線に年下の彼はむすっと答えた。
「どこかの誰かさんが心配ばかりかけてくださるものでね!」
大体あなたが変わらなすぎるんです、とぼやいた彼に強引に布団に戻されて、桂は深く息を吐いた。黒髪を緩く散らした桂の、ぞっとするほど憂いに満ちた面差しを目の当たりにして、青年は気まずさに視線を彷徨わせた。なんだろう、こういった党首は久しく見ていない。あのときを思い出させるような……。
「お前は無事だったのだな」
「え? ええ……お陰さまで家族も皆息災で。桂さんのほうこそご無理をなさって……心配いたしました」
青年は普段、商家の跡目として家を切り盛りしているから、滅多に活動に顔を出さない。資金や物資と書簡のやり取りが主で、桂に直接会うのもおよそ半年ぶりだった。
そのことを差し引いても違和感が拭えない。
「……俺は、どのくらい眠っていたのだ」
「三日ほど」
「ここは?」
「同志の家です。桂さんの容態が安定したのでこちらに」
「そうか……手間をかけた」
「そんなことお気になさらず。皆心配していますよ。あちらの二人も気にかけているようでした」
その言葉を聞いた途端、桂は何とも言えぬ表情で口を噤んだ。白皙に浮かんだのは相手方への憎悪や自分自身への嫌悪感のように見えて、男の胸が騒ぐ。
とりあえず、医者を。そう思って立ち上がった彼の横で、満身創痍の桂もまた身を起こしていた。全身に纏わりつく研ぎ澄まされた敵意は戦地で見たものと何ら変わらない。ただならぬ様子に声をかけるより早く、荒々しい足音が耳に飛び込んでくる。先ほど後ろ手に適当に閉めていた襖を開けに走ったが時既に遅し。襖もろとも反対の壁際に吹っ飛ばされた。
「ヅラァ! お前また怪我したア、ル……か?」
乱暴な入室の仕方。案の定闖入者は桂がリーダーと呼び可愛がっていた万事屋の娘で、けれど彼女を迎え入れる側の対応だけが平時とはかけ離れていた。
「貴様何者だ」
襖に刺さって朦朧とする青年も。後から追いついてきた万事屋の少年も、桂が溺愛するペットのエリザベスも。息を呑んで固まるしかない。
視線の先では、桂の愛刀の切っ先が神楽の頸を狙っていた。白いかんばせは研ぎ澄まされた剣先よりなお冷酷に冴えている。
「ヅラ……?」
「夜兎の小娘がこの桂小太郎に何の用だと聞いている」
「何、言って、」
「正面から来るとは舐めた真似を。誰の差し金か言ってみろ」
『桂さん!』
見かねたエリザベスの呼びかけも、今の桂には届かなかった。侮蔑の声が豪奢な室内に響いて消える。
「……今度は宇宙生物か。この星を喰い物にする畜生に気安く呼ばれる名など持たぬわ」
「そんな、桂さん!? エリザベスはッ、」
「童、お前は地球人か。だが害虫どもに肩入れするなら同じこと。貴様ら全員俺の前から去ね」
たとえば桂が激昂して声を荒げたり、憤怒に顔を歪めたりしていたならば、これほど背筋が冷えたりはしなかっただろう。僅かにも妙な動きをしたら躊躇いなく斬り捨てられそうなほどに。“それ”が当たり前の世界で生きているのだとはっきりわかるくらい、桂は淡々とそこに立っていた。
***
「……ってことがあって、神楽ちゃん落ち込んじゃって落ち込んじゃって」
「いや全ッ然わかんねぇよ」
こんなときに限ってフラフラと遊び歩く万事屋の主人が帰ってきたのは何と翌日も昼が近くなってのことだった。ショックで碌に口もきかない神楽をどうにか万事屋に連れて帰って、恒道館から姉――と遊びに来ていた九兵衛――を呼び助けを求めた新八は疲れ果てている。気遣いを厭ってついに神楽は押入れに籠城したらしく、ソファーに腰かけたお妙と九兵衛も困り顔だ。
「っつうかヅラになんかあったの。怪我?」
「そっから説明しないとダメでしたっけ!? そうか……エリザベスさんと会ったのが昨日の夕方ごろだから……」
ぶつぶつと記憶を整理している新八をお妙がソファーに座らせる。九兵衛たち二人も呼びつけられた理由を把握しきってはいないようで、ただ、いつもと違いすぎる万事屋を見て途方に暮れているようだった。
「そうだ新八君。僕たちもイマイチ話が読めないんだが……そもそも彼は何故怪我なんかしたんだ? それを君たちはいつ知ったんだ」
「ええと……。昨日の夕方、買い物がてら神楽ちゃんと一緒に定春の散歩に出かけて、エリザベスさんに会ったんです」
「それで桂さんのことについて知ったの、新ちゃん?」
「はい。僕たちを見たとき、エリザベスさん、なんかこう……“やべっ”って雰囲気で踵を返して。それを追いかけて捕まえた神楽ちゃんに、渋々でしたけど怪我して療養中って教えてくれたんです。そしたら神楽ちゃん、見舞いに行くって聞かなくて……」
そのとき、呼び鈴を押すでもなく万事屋の扉が開かれた。
***
「それをお前らに言う必要があるか?」
いつごろの記憶まであるのですか、と尋ねたらこれだ。
大騒動の末、党首の記憶がいくらか失われたことは当人以下十名ほどの幹部に認知されたのだが。桂のあまりの非協力的な態度に、部下たちは手を焼いている。理解不能な怪電波を受信して暴走することも、周囲の忠告を聞き流して危険な潜入等をすることもあるが、基本的に彼らの党首はそこまで頑なな人間ではない。こんなに荒んだ目で、突き放したように話す桂など、戦時からの付き合いの中でもほとんど見たことはなかった。
――どう考えてもあの時だよな、ほら、お師匠さんの……。
――うーん……俺は坂田さんがいなくなった直後だと思う。
――いや、あれじゃないか? 流行病でばったばた死んで……。
どうしたものか。頭を抱えた男たちが目と目でやりとりしているのを知ってか知らずか、桂はどこか硬い声で言った。
「そんなことより」
全然そんなことじゃねーよ。本質的に異常事態に慣れすぎなんだよ。そう誰もが思って、でも口にはしない。
「この服は着たくないから違うものを寄越してくれ。あと、結い紐も」
テレビ取材から雪山まで。コスプレ好きなくせに単衣と羽織というスタイルにこだわりのある桂の、思いがけない発言に皆が目を丸くする。飛び交う意味深な目配せを疎むように、桂は深く溜息を吐いた。
ああでもないこうでもないと、やかましい男たちがやっと去ったのはそれから更に半刻が経過してからだった。あれこれと世話を焼きたがる党員を部屋からたたき出し、ようやく一人落ち着けるようになった。覗き込んだ姿見の奥。仏頂面でこちらを見返す桂小太郎は、確かに記憶の中の自分自身よりいくらか年を取って見える。
「こ、れが……俺なのか……」
先ほど部下には変わらないと言われたが、桂には自身の変貌が信じられなかった。だが何度瞬いても鏡の中の虚像は消えず、嘲笑うように実像の動きを真似て見せた。
知らない誰かのようだった。げっそりとこけていた蒼白い頬はいくらかふっくらして血色がよくなっているし、痛みきってばさばさだった黒髪は艶やかに背中に流れている。繰り返し噛み千切りすぎたせいで瘡蓋だらけになっていた痛々しい唇も、少しばかり乾燥してはいるもののそれだけだ。赤く血走っては辺りを睨み据えていた琥珀の瞳は、ただ驚愕の色だけを載せてこちらをまじまじと見つめていた。
つまりは、幸せそうだった。この“桂小太郎”は。
きちりと襦袢を着こんで、あの人のような――上等なものではない、けれど繕っては布を当てながら大切に使っていることがわかる――単衣に羽織。長く伸ばした髪は結いもせず背中に垂らしている。夜着のままでは、と部下たちが差し出した“桂の”普段着をとりあえず身に着けていたが、今となってはそれすらも腹立たしくてならなかった。
衝動のままに衣服を剥いで放り投げる。襦袢を脱ぎ捨てれば一応打ち身や擦り傷に包帯が巻かれた――そう言えば爆発事故だかなんだかに巻き込まれたと部下の一人が言っていた――身体には真新しい刀疵の一つもない。往時に比べれば肉がついてだらしなく太っている気さえした。
用意させた袴を穿きながら、桂は腹立たしげに舌打ちした。
***
「記憶喪失って……またですか」
「彼はあの“ごうこん”とやらのときもそうじゃなかったか」
「銀ちゃんといいゴリラといいヅラといいなんでポンポン記憶落っことせるネ」
「フフ、神楽ちゃん、男は都合の悪いことは忘れられる生き物なのよ?」
突然万事屋にあらわれたのはエリザベスで、彼からあらかた事情を聞いた面々はにわかに騒がしくなった。事情が知りたいとようやく岩戸を開けた神楽が、九兵衛の手土産のバームクーヘンを齧る。幸か不幸か記憶喪失にはやたらと耐性がある万事屋とその周辺の人々は、異変の原因を聞いてむしろ安心さえしたようだった。
『そういうことだからしばらくは来ない』
「エリー、ヅラがもとに戻ったらしばいとけヨ、リーダーに刀向けるとは何事アル」
茶もコーヒーももちろんいちご牛乳も辞して立ち上がったエリザベスの背中に、新八が気遣わしげに問いかけた。
「でも、桂さんがあの調子じゃ帰れないんじゃ、」
『しばらくウッチーのところでイチャラブするから無問題』
「……心配して損しました」
『悪く思うな、天パ』
そんな風に書かれたプラカードを最後に繰り出し、桂が溺愛していたペットは万事屋を後にした。
「悪く思うな……って」
「どういう意味アルか」
「知らねェよ。あんなフジテレビみたいな目ン玉した奴の考えなんざ。銀さんはテレ東派なんですー」
そう言って銀時は読みふるしたジャンプを手に取るけれど。冷めた声の不機嫌さに気付かない二人ではないのだった。
『桂さんの様子は』
「残念ですがまだ……今は“あそこ”に……」
『そのほうがいい。記憶が戻ればきっとわかってくれるはずだ』
世間を騒がせた爆発事故の前日まで桂が過ごしていた隠れ家。一人の党員がエリザベスと話している。事故として処理された周到な爆殺計画が実行に移される前から、桂を筆頭に攘夷党員は奔走しきりだった。
『あの二人はどうしている』
「予定通り家内の実家に匿ってもらってますが、かわいそうに……今は碌に食事も取れないくらい憔悴してますよ。桂さんのご指示で、腕の立つ奴らを周りに置いています」
『まあ、そうだろうな』
これまでにも何回か危険な目に遭っていたとはいう。けれどあれほどの身の毛もよだつ恐怖を感じたことはなかっただろう。桂が庇っていなければ間違いなく死んでいた。安全だと思われた場所にまさか爆弾が仕掛けられているとは、その桂でさえ予想していなかった。
「彼らの身辺についてはご心配なく。命に代えても守ってみせます」
『……頼む』
“命に代えても”なんて、否定したほうがいいのかもしれない。それでもエリザベスには同志の言葉の重みがわかる。二人の命が奪われることは最早それだけを意味しない。ここで彼らを死なせてしまえば、後により多くの血が流れるのだ。
「はい。エリザベスさんのほうは……」
『順調だ』
思考を切り替え、済んでいることとこれからすべきことを整理しなおす。今回の計画に必要不可欠な相手に連絡するのがエリザベスの役割だった。桂よりは自分のほうが角が立たないと思ったがやはりそうだったらしい。こちらの話に聞き入っていた様を思い出す。仕込みはバッチリ、あとはことを起こすタイミングだけ。抜かりはないはず。
それでもこういうとき、党首がいないのが少し不安でもどかしい。
***
戦後の記憶がほぼ全てすっぽりと抜け落ちているらしい。暦を見てそれを知っても、さしたる感慨も湧かなかった。この星に蔓延る害虫を駆除し、忌々しいターミナルを破壊する。そして夷荻に服従した幕府に天誅を。やるべきことは何一つ変わっていない。
野辺に散った戦友。戦場で託された幾つもの遺言。朽ちかけたあばら家に充満した、生きた人間がぐずぐずに腐り死んでいく末期の呻き。血と膿と垢と、排泄物の混じった壮絶な死臭。
「俺が何を忘れたものか……」
刀を手にした銀時の顔。震えていた腕。ありがとう、と最期に囁いた師の、首と身体が離れる瞬間。狂気に蝕まれていった高杉の右目と、永遠に前を見ることのない左目。生きるため、仲間を生かすために甘受した屈辱の日々。
たかが数年の記憶がなんだ。そんなもの必要ないと桂は嗤う。戦う理由は何もかも、全て覚えている。耳にこびり付き眼窩に焼き付き脳裏に刻み付けられている。
だからこの現状を、停滞を受け入れる訳にはいかなかった。
「ここから出せと言っているんだ……!」
「なりません、桂さん!」
一体何を盛られたのか、食後にうっかり眠りこけ目覚めたときには座敷牢の中。歯噛みしてこちらを睨み据える桂の気迫に冷や汗をかきながらも、党員たちは一歩も引かなかった。今のあなたに攘夷活動を行わせるわけにはいかない。“桂小太郎”の築いてきたものを壊させるわけにはいかない。懸命な男たちの説得こそが桂を無性に苛立たせる。
「堪えてください桂さん……我々を取り巻く状況も、攘夷党のあり方もこの数年で大きく変わったのです」
「……状況が変わった? 一体何が変わったのだ言ってみろ!!」
これ以上何を堪えればいい。激情のままに立ち上がった桂は思わず声を荒げていた。
「この星を食い物にする横暴な天人は駆逐されたのか、国士を裏切り国の矜持をめちゃくちゃに踏み躙った幕府に天誅は下ったのか!」
「そ、れは……」
「躯を晒された者は、川原に首を並べられた者は? 死してなお国賊として辱められている者たちの名誉は取り戻されたというのか!」
口惜しげに黙りこくった男たちを睨み吐き捨てる。
「何も変わってなどおらんではないか……!」
腑抜けた同志の顔が憎かった。彼らと歩んできたのであろう“桂小太郎”が憎かった。
「開けろ」
「桂、さん……」
傅き屈したくなる声だった。琥珀に射抜かれた同志が一人、壁時計に目をやった。殆ど無意識のその行動で鍵の在り処を知る。
「聞こえなかったのか。開けろ」
戸惑いに男たちの顔が曇る。もう一度、穏やかな声で促せば堕ちる。同志たちの心境が手に取るように桂にはわかった。人身掌握には長けると自負していた。
口を開こうとして、沈黙を破ったのはしかし桂ではない。
「いいえ、桂さん。あなたにはここにいていただきます」
「貴様……」
記憶を失ってすぐ、最初に会った同志だった。エリザベスとの話を終えて戻ってきたことを桂は知らないが、決然とした声に瞳を眇める。常ならば泰然と落ち着いたそこにはっきりと憤怒が見て取れて、男たちは蒼ざめる。それでも彼は揺らがなかった。
「後でなら如何な責めでもお受けします……申し訳ありません」
「……一人にしてくれ」
彼らに背を向けて桂は腰を下ろした。折れないとわかっている相手と今、向かい合う気になれなかった。
背後の足音が遠ざかっても、胸中の苛立ちは消えてくれない。
***
「桂さん?」
翌日の夕方のことだ。膳を持って座敷牢を訪れた男は、ぐっすりと寝入る党首を見た。いつもならバイトやら会合やら書き物やら、何かしらしている時間なのだからやはり疲れているのだろう。そもそも記憶喪失になる前から党は休日返上、不眠不休状態で動いていた。
一度だけ呼びかけて。目覚めないようならばこれは下げよう。桂が起きてから暖めせばいいのだから。
「桂さん、食事をお持ちしましたが……」
「う、んぅ……」
もごもごと唸っていた党首は起きることにしたらしい。こちらを真っ直ぐ見あげた目の、憑き物の落ちたかのような穏やかさは見慣れたものだ。
「桂さん?」
「ん……呉作か? なんでお前がこんなところに。エリザベスはどうした。っていうかここはどこだ」
「記憶が戻ったんですね!?」
感激で食事を取り落として駆け寄って来た同志を尻目に、桂は鷹揚に伸びをしてみせた。
「うぅん……久方ぶりによく寝られた気がする。今日からまた動かねばな」
「ええ、ええ桂さん! 全く心配しました、よ、」
「そうか。すまんな呉作とやら」
大喜びで鍵を開けたところで、男はそのまま昏倒させられた。躊躇なく首筋に手刀を叩き込んだ桂が、入れ違いに牢を出る。念の為施錠はするがしばらくは目覚めないはずだ。ひとまず行方を晦ますべく、桂はその場を後にした。
「警戒心の薄い奴だ」
今回の件について知っているのだからそれなりに上の立場のようだが、今しがた気絶させた同志を桂は忘れている。それをあちらも察していたからこそ名前を呼ばれあっさりと騙された。そんなもの幽閉される前にいくらでも聞く機会があったというのに。どうやら今の桂に近しい存在の、エリザベスとやらも同様だ。あの日地球人の少年がその名を呼んでいたのを覚えている。
宇宙生物まで自分は傍に置いたというのか。
舌打ちを堪え気配を殺す。幾度か党員たちをやり過ごして進むと、やがて勝手口に辿り着いた。後は容易い。音を立てぬよう木戸を開けて、そのまま外に出ればいい。
そっと戸に手をかけたところで、背筋を駆け抜けた感覚に桂は息を呑んだ。この気配。忘れようもない、間違えるべくもない、たった一人の男のそれ。
咄嗟に振り返った視線の先には、やはり坂田銀時が立っていた。
「ぎ、ん、とき……おまえ」
驚愕のあまり言葉が出ない。目を見開いて固まった桂を前にしても、銀時は何一つ変わらなかった。昔と変わらぬ仕草で癖っ毛を乱して溜息を吐く。
「あーやっぱり気付いちゃう? 気付いちゃうよなあ俺だってお前がここってわかったし」
おーいオッサン共、ヅラならここだぞー、と。やる気のない声も久しく聞いていなかった。直ぐに集まり始めた党員を見て、行かねばと思うのに身体が思うように動いてくれない。心の声が一つ、唇から落ちて皆の耳に届いた。
「……生きて、いたのだな」
***
「うまいこと逃げおおせようなんて思うんじゃねぇぞ」
「それができるならもうやっておるわ」
党員たちの計らいで離れに場所を移しても、桂の態度は頑なだった。注意深く感情が殺された面はこちらを見ようともしない。その横顔を眺めながら、銀時は文句の一つも言いたくなった。
――お前らのとこの白ペンギンが、ツラ見せんなって言ってきたんだけど。
過日のアレはそういうことだ。桂の記憶の状況によっては、銀時は戦後出奔した裏切り者ということになる。エリザベスのプラカードは、不安定な現状で会ってくれるなと、そういう意味だと解釈していた。
――はい、ですが我々ではもう……。
――記憶後退したら将軍暗殺してターミナルぶっ壊すって? …………オイそこで黙んじゃねぇよ洒落になんねェだろうが!
懇願に引き摺られて様子を見に来ればこれだ。髪を結って袴を穿いて、若侍のような格好をした桂は屋敷からまさに逃げようとしていたところで、辛うじて今はここにいる。他所を見たきり向き直ろうとしないけれど。
「おい、ヅラ」
「ヅラじゃない桂だ」
硬く強張った声でも聞き慣れた言葉は銀時をいくらか安堵させる。桂は台風の目のような男で、どれだけ周囲を引っ掻き回そうと自分だけは常に凪いでいる。けれど今のつんと澄ました無表情は作り物だ。いくら取り繕って見せても銀時にわからないわけがない。
胸の奥、ぐちゃぐちゃに溜め込んでいるであろうものを吐き出させる方法が思いつかない。
こんな質問を投げかけて動揺を誘うくらいしか。
「……俺のこと、恨んでるか」
「何を馬鹿な」
激昂されたほうが大分マシだ。笑い飛ばそうとしてどうしてもできない、そんな力ない苦笑が苦しい。一つ頭を振った桂は、笑いに嘲りを込めて続けた。
「くだらん、俺がお前を恨むなど。その逆ならば納得がいくものを」
「……勝手に人様の感情を決め付けないでくんねぇ」
「何故だ? 恨んでも、憎んでもよいのだぞ? お前には十分すぎるほど理由がある。権利といってもいいかもしれん」
「……ヅラ、」
「それとも責められたかったか? ならばこう言えば満足するか、殺した貴様に殺させた俺と高杉……俺たちは共犯者、」
「いい加減にしろ……!」
思わず手が出ていた。力の限りに頬を張られた桂はそれでもなお低く笑う。冗談だよ、銀時。顎をついと持ち上げた仕草。心の隙間に滑り込む蛇のような、甘くて賢しらな声音。冷静さを欠かせる演技とは思えないくらいに、何もかもがもう一人のそれそのものだった。
喉を震わせ鳴らすさまが、どこか啜り泣いているように見えるところさえも。
動揺させられて、激昂したのは銀時のほうだった。一頻り笑ってみせた桂は、あっさりと無表情の仮面を被る。だがその仮面は、今しがた桂自身に傷つけられて罅割れている。
「帰れ、銀時」
「……は?」
だから、これほど突き放した声と言葉が、こんなにも哀しく響いてしまった。
「顔を見ればわかるさ。お前はお前の……そうだな、幸福を見つけ始めたんだろう」
「何を、」
「皆まで言わせるな。お前とはもう道を違った。これきり二度と会ってくれるな」
「つくづく勝手なヤローだなテメェは……!」
記憶がないのに――ないからこそ、桂の瞳は真っ直ぐだった。その“幸福”とやらの中に自分がいるなどと思いもしない態度が、どうしようもなく銀時を不愉快にする。そんなもの似合わない破天荒のくせに、贖罪じみた気後れが奇妙なほどに馴染んでいた。
銀時に言い捨てた言葉はまるで、倦むほどに反芻し手垢に塗れた台詞のようだ。
「今消えろっつった男の前にのこのこやってきては会う度爛れたセックスしてるのはどこのどいつだよ、桂」
「なにっ、ん、っう……!」
気に入らない。何もかもが。
押し倒して乱暴に唇を奪っても、驚きに硬直した身体は殆ど動かなかった。強引にのたくり込んできた舌に口内を蹂躙されてやっと、思い出したように桂は暴れた。それは銀時にとって抑え込めないものではなかったけれど、それでもこのままことに及ぶのは少しばかり骨が折れる。解いた帯で縛るかとまで考え、そこで桂の言葉を思い起こした。
――やめろ、気色が悪い。俺は女ではない。
――閨に付き合ってやるのもやぶさかではない。だが女のように扱ってみろ。その手を切り落としてくれる。
再会してからの桂はいつもそうだった。拘束しようが道具を使おうが折檻に近い行為に及ぼうが嫌がる素振りなど見せない。そのくせ最中に頭を軽く撫ぜただけでも不快だとばかりに顔を顰める。行為の後はすぐさま湯を浴びて去って行ったし、銀時にもそれを強要した。共に朝を迎えたくて、多少手酷く抱いたとしてもそれは変わらなかった。
ならば。今更拒まれようが詰られようがかまうものか。思い知ればいいとさえ思った。女のように扱われて愛されて、銀時の腕の中で自分がどうなるか。平然と離れていこうとする自分の身体が、どれほど銀時に番うようにできているか。
「テロでも暗殺でもターミナル爆破でも、勝手に計画すりゃあいい」
させてやるとは限らないけど。と胸中で呟いて続ける。
「俺は俺で好きにする。オメーに指図される謂れはねェ」
陵辱者の如き口調とは裏腹に、桂に触れる全てが優しい。慄く唇を食む唇も、頭の下に回された左手も、肢体を撫でながら服を剥いでいく右手も、緩く絡んで抵抗を阻む足も。
「い……やだッ! よせ!!」
銀時から逃れようとする桂が我武者羅に暴れだす。振り上げた拳にまで宥めるように舌を這わされ、ひぅ、と情けない声が漏れた。
「やめろ銀時! はなっ……んぅ……!」
睦言以外は赦さないとばかりに。この上なく優しい仕草で、銀時は桂の唇を塞いだ。
***
気づけば桂を腕に抱いたまま眠っていたらしい。寒さに催して目覚めた銀時は、何となしに雨戸を開けて盛大に溜息をついた。
「ったく、道理で頭が重い訳だよ」
いつも以上に盛大に跳ね散らかした銀髪を掻き回しながら雨に濡れる庭を意味もなく眺める。明け方の空の下なお鮮やかな寒椿に目をやったところで、後ろの桂が身動いだ。
「ああ、さみぃの、か……」
肩越しに振り返って桂を見て、全てを思い出して震えたのは銀時の方だった。
意識を飛ばした桂の、白濁に濡れた痩身。
畳に広がる黒髪。力なく伸ばされた腕。
赤く腫れた目尻と涙の跡が痛々しい、けれど眠る表情はどこまでも稚いかんばせ。
それは戦の終わりと共に。銀時が、地獄に置いて来た桂だった。
あの晩も銀時は桂を抱いた。愛おしむような、壊れものを扱うかのような、それでいて縋りつくような愛撫や抱きように、桂は泣きながらひっそりと笑った。
再び関係を持つようになったのは高杉と決別した直後だった。酷い傷を負わされたまま天人を斬り伏せ、危険極まりない方法で敵地から生還する。複雑に入り組んだ衝動をぶつけ合うのに最も適しているのが互いだったというだけで、血まみれのまま獣のように交わった。償いのため身を委ねるなんて、そんな殊勝な思いは桂にもなかったろう。その後改めて体を求めて、あんな思いもかけない言葉を告げられたのだった。
何故桂は女のように扱うなと唇を歪めた。どうして散々に啼かせ抱き潰しても行為の後眠ろうとはしなかった。
「馬ッ鹿じゃねーの……」
桂が。何より己自身が。
雨戸はそのままに窓と障子だけ閉め、今だ目を覚まさない桂に歩み寄る。全身を拭いて襦袢を着せ、毛布をかけて投げ出された手も中に入れてやる。
「もう……どこにも行かねェっての」
艶やかな黒髪を撫でぼそぼそと呟く。起きたら蕎麦の一杯でも食わせてやって、今日はずっと隣にいよう。澱をずっしりと溜め込んだ桂がせめて、今彼を苛む憎しみからは離れていければいいと思う。記憶が戻るに越したことはないけれど、戻らなくたって桂は桂だ。江戸を愛し神楽を可愛がりエリザベスを友とする生き方をきっとこれから見つけていける。
「とりあえずションベン行ってきとくか……」
ついでに母屋で湯を借りてこなければ。
重い腰を上げ銀時が部屋を出た、およそ十分後。
「うぅ、ん……」
俄かに激しくなった雨音に揺さぶり起こされて、桂は重い瞼を持ち上げた。全身を包むどこか幸福な気怠さはあの男と寝たときにしか感じ得ないものだ。なんだ、いなくなってなどいないではないか。知らぬ間に唇がその名を呼んでいた。
「銀時?」
答えたのは街を濡らす雨の音だけで、そちらに目をやった桂は全身を引きつらせた。雨戸は完全に開け放たれて、窓と障子越しに薄明るくなり始めた外の様子が感じられた。こじんまりした日本家屋の、更に小さなこの離れに、最早銀時がいないのが直感でわかる。
「銀時……!!」
身体の怠さも忘れて飛び起きて。混乱のままに桂が部屋を飛び出したのは、銀時が戻ってくる僅か数分前のことだった。
→ 後篇へ
初出:2014/12/02