わたしがいちばんきれいだったころ 後篇

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 かぶき町の一日の終わりは夜ではなく早朝だ。空が白み始める頃、夜の蝶たちは次々と寝ぐらへと飛び去って行き、昼の勤め人が動き出すまで束の間の静寂が訪れる。


 そんな明け方の町で今日も今日とて仕込みを行っていた幾松は、ゴミ捨てに店を出た途端前方不注意の人に真横から衝突された。凄まじい勢いで吹っ飛ばされて視界に星が散る。水溜まりに倒れこんだせいで下着まで濡れて気持ちが悪い。一言文句を言ってやるべく顔をあげようとしたところで、狼藉者から先に声がかけられた。


「すまぬ、道を急いでいたもので……失礼をした」


 幾松を助け起こそうと手を伸ばしたのは間違いなく一風――どころじゃなく――変わった常連客で、久方ぶりの再会に安心する間もなく素っ頓狂な声を上げさせられる。衝突事故に対する怒りは最早跡形もなく消え去っていた。


「ちょっとアンタ、なんて格好してんの!?」


 下帯も身に着けず――これは幸い幾松には気付かれなかった――襦袢一枚の痩せた身体。手配書のそれとは別の罪状でしょっ引かれそうな桂を、幾松は無理やり店に引き入れた。今更過ぎるが当たり前と言えば当たり前の指摘には桂とて頷くしかない。雪混じりの雨に打たれたせいで、頭も身体も冷え切っていた。


「ああもう、今月ピンチだってのに!」


 腕を引かれ二階に上げられて、強引に風呂に放り込まれた。手際よく給湯器を操作した幾松が遠慮なく立ち入ってシャワーコックを捻る。ぶつくさと小言を言う割には惜しげもなく桂に湯を浴びせるのが気前がよくて好ましい。泥で薄っすら濁った湯に赤がところどころ混じっているのを見て、幾松はこっそり溜息を吐いた。何かでざっくりと切れた足は見るだけで痛々しい。シャワーヘッドを桂に押し付け、石鹸やらシャンプーやらを顎で指して浴室を後にする。


「あったまるまで出てくるんじゃないよ」

「か、かたじけない……」


 されるがままだった桂もどうにかこうにか礼の言葉を呟いた。まだまだ硬いそれを背中で聞いて、幾松は一人首を傾げる。いつもおかしな常連客だが今日はいつも以上に何かがおかしい。箪笥や行李をひっくり返し襦袢やら雪駄やら一揃い出しながら、ああでもないこうでもないと首を捻る。


 もやもやとした違和感の正体に思い至るより前に、店のガラス戸が叩かれた。下から聞こえてくる声はよく知ったもの。集めた諸々を脱衣所に置き、幾松は一階に駆け下りた。朝っぱらから本当に慌しい日だ。


「幾松ちゃーん、いるかい?」

「はいはい、今開けるよ!」


 大嫌いな義弟と同じ呼び方で幾松を呼ぶ男は一人しかいない。本音を言うと最初は嫌だったのだが、何故だかすぐに慣れてしまった。色々とめぐり合わせが悪いが憎めない、彼の人柄ゆえかもしれない。


「長谷川さん悪いね、今ちょっと……ってお父さん!?」


 駆けて行って引き戸を開ければ案の定そこには長谷川がいた。ずぶ濡れのその背で眠っているのは、リハビリの最中に医者から勧められ大江戸病院に検査入院中だった父。髪の先から雫を滴らせたまま、眉尻を下げて長谷川は笑った。


「親父さん、公園に来ちゃったみたいで……」

「そう……だったの。すまないね長谷川さん、本当にありがとう」


 病院を抜け出した父は住み慣れた公園に向かってしまったのだろう。傘も差さず外をふらついていたに違いない。冷え込んだ空気は頬や耳にぴりぴりと痛いほどだ、そのままでいたら大変なことになっていた。慌てて濡れ鼠二人を中に入れる。


「ちょっとそこ座って、はいこれタオル。風呂にも入ってって……あ!」

「すまん、色々と借りてしまった」

「えっ、ヅラっちィ!?」


 一瞬頭から消え去っていたもう一人を思い出し、幾松は慌てて二階へ上がろうとしたがもう遅かった。奇妙に裏返った長谷川の声が店に響く。先程まで紙のように白かった面を僅かに染め、手ぬぐいを肩にかけた桂が階下に顔を覗かせていた。いまいちサイズの合っていない――大吾と桂は上背こそ大して変わらないが、如何せん桂は痩せすぎていた――着流しをきっちり着込んだ様はともかく、濡れ髪を乱雑に拭う仕草は確かに男を感じさせる。


 えっえ、なに、どういうアレなの、と好奇心に輝いた長谷川の呼びかけを、無感情な一言が叩き切った。


「ヅラっちィじゃない桂だ。……っていうか誰だ貴様」

「ちょっとォそりゃないんじゃねえの!?」


 とぼけるならもっとマシな言い訳用意しとけよなぁ、と絡みに行った長谷川は、桂の真剣な眼差しに沈黙させられることとなった。本人にとってしか面白くない冗談を飛ばすときとは明らかに違う、いつも通りの生真面目な顔がまじまじとこちらを見返してくる。にこりともしない細面には、確かに見知らぬ者への警戒が滲んで見えた。


「アンタちょっとどうしたのよ? 長谷川さんとはうちで一緒に食事してたこともあったじゃない」

「いや……助けておいてもらって何だが貴女のこともわからんのだ……あ、そういえば記憶喪失なんだった。忘れていたが」

「忘れたことを忘れてたって……」


 呆れた声に首を傾げる桂の癖は、よくよく見慣れたものだった。ようやく違和感の正体が掴めた幾松は思わず天井を仰いでいた。この男の唇は、今日一度も幾松の名を紡いでいない。無駄によく通るその声に、まだ名前を呼ばれていない。じりじり燻るのは寂しさだ。それを振り払うように幾松は続けて、そうして直ぐに後悔した。


「まったく、そんなんで外フラついてたらあっという間につかまっ、」

「ヅラっち、今日はこれからどうすんだ?」

「あ……!」


 少し張り上げた声に遮られて失言を悟る。こちらを窺う二人の狼狽など気にも留めずに、桂はぽそりと呟いた。


「これから、か……やらねばならぬことが多いからな。忙しくなる」


 常の桂もよく言いそうな言葉だが、そのあまりの力のなさに幾松も長谷川も顔を見合わせてしまった。喩えるならば、日没を前にして帰る家を失した子どものよう。淡々とした声も冴えた面差しも、二人には途方に暮れているように見える。


「ねえ、アンタとりあえず銀さんのとこに顔出して来たら……銀さんは覚えてる?」

「ああそうだよ! 銀さんならヅラっちのダチ公で付き合いも長いし……っていうか案外昼時になったら子どもたち連れてラーメン食いに来たりして」

「うーんどうかなあ……向かいの飲み屋のツケが溜まってるらしくて、最近顔見せないのよね」

「そんなんばっかだな銀さんも」

「そう、か……」


 不思議な光景だった。仮初であるとは言え確かに平和を享受している街で、見知らぬ人が知己について話をする。銀時の名を出したとき二人は緩く笑った。頼れる人を思いついたと、これで安心できると胸を撫で下ろした彼らの表情に、この地に根付き愛されて生きる“坂田銀時”が垣間見えた。


「そう、だったな……」

「えっ?」

「ヅラっち?」

「ここには銀時の……坂田、銀時の居場所があるんだったな」


 遡った時の中に磔にされた自分と違い、銀時は今を生きているのだ。錯乱して彼を追おうとした自分が滑稽で笑えてくる。


「……世話になった」


 ガラス戸を細く開け、冷たい長雨の止んだ街に桂はするりと出ていった。銀時の友人と共にいては、いずれ見つかってしまう。胸の奥繰り返し唱えながらも、本当は何よりも二人の傍にいたくなかった。


 己の知らない、“坂田銀時”を慕う者の傍に。


「ちょっと待ち、」

「幾松ちゃん、俺が行くよ。引き止めないほうがいい」


 咄嗟にその背を追おうとした幾松を長谷川が押し留める。反駁は許さなかった。


「親父さん、風呂にいれてやりな」


 そう言ってへらりと笑って、長谷川も店を後にする。こいつだけもらってもいいかな、とテーブルの上に広げていた読み止しの新聞だけを手にしたこの男だってまだ、父と同じく濡れ鼠だと言うのに。


「ほんと、馬鹿だね……」


 桂も長谷川も。男ってやつはなんだってこんなに意地っ張りでええかっこしいなんだろう。去り際に薄く微笑みを浮かべていた二人を思うと、幾松はどうにも胸が痛んでやりきれない。特に桂の、あんな微笑を見たのは初めてだった。


 幾松にとって桂は、往時の英雄でも志に燃える革命家でも、多くの者に仰がれる攘夷の“暁”とやらでもない。もちろん幕府に蛇蝎のごとく忌まれ公安から追い回されるテロリストなどでも。


 世間知らずの弟のようにも、頼りがいのある兄のようにも思えるただの――変わり者で真っ直ぐで何を考えているのかわからない――常連客だ。この街に根を下ろし、大切なものをたくさん抱えて生きている一人の男だ。


「アンタの居場所だって、この街にあるじゃないの……!」




***




 最後の記憶は成金趣味の豪邸の閨にある。見知らぬ街をどうやって歩いたものかわからなくて、桂はとりあえず路地裏に身を滑り込ませた。往来を行き交う人が増え、街が目覚めはじめていく。


 視線を走らせた壁にある手配書に、桂は不思議と安堵さえしていた。幾松の言葉を思い出す。どうやらまだ、自分は人目を忍ばねばならぬ身でいてくれているらしい。


 そんな自分を追いかけ、親しげに声をかけてくる彼は一体誰なのだろうか。


「おーいヅラっち……あ、それは……」


 桂の見つめる先のものに気付き、長谷川は決まり悪く口を噤んだ。見ず知らずの男だが、この人のよさが桂は嫌いになれなかった。開き直ったように一気に話す言葉にも、人柄が滲んでいる。いきなり店を辞して歩きはじめたというのに、上手く突き放すことができない。


「それ、そういうことだから……さ。とりあえず俺んち、っつっても公園だけど、とにかくそこまで行かねえか」


 事情はわからねぇけど、誰にも連絡したりしねぇよ。っつうか連絡手段ないし。付け加えられた言葉が傷だらけの心に沁みる。沈黙を同意と捕らえた長谷川が隘路を縫うように歩き出した。桂はその後ろを黙りこくってついていく。


 無音を破ったのは、びしょ濡れの長谷川の盛大なくしゃみだった。幾松に借りたままになっていたタオルを差し出せば、困り眉の男が軽く笑う。ワリィね、と言う小さな声は寒さのせいで震えていた。流石に桂も気遣わしげに眉を潜める。暖を取れそうなものはなく、おまけに無一文。何もできない自分がもどかしい。そんな思いをよそに、あっけらかんと長谷川は笑った。


「だいじょーぶだいじょーぶ、公園まで帰れば綿の潰れた半纏も体拭くぼろ切れもあるし、確かワンカップ一本分くらいの小銭は残ってっから」

「……あまり大丈夫そうではないな」

「半月くらい前に、日雇いで入ってたところ潰れちゃってさあ……」


 自転車操業なんてものではない、崩壊しかけたその日暮らしに思いを馳せる。公園で寝起きをし、定職についてもいないらしい目の前の男は一体自分とどのような関わりがあったのだろうか。どう考えても攘夷活動に関わっているようには思えないし、いまいち自分と彼の関係が想像できない。知己になったきっかけも、普段の付き合いも含めて。


 路地を一列に歩きながら、己の背中を見ている桂が何を考えているか長谷川は知らない。幾松との会話で彼の苗字を知ってなお、“入国管理局の長谷川泰三”と目の前の草臥れた中年は桂の中で等号で結ばれはしなかった。おちぶれた姿は天人に迎合し富と権力を勝ち得た成功者のイメージからは程遠く、ちらと脳裏を過ることすらない。


 そういった点で長谷川は、ある意味とても運がよかった。


「ホラ、着いたぞー。いいところだろ、緑も多いし街の中心からも近いし」


 狭い道をようやく抜ければ、公園の目の前に立っていた。ボケているのか本気なのかわからない言葉を聞き流してトタン屋根のバラックに目をやる。あれが彼の住まいのようだ。戸の代わりに使われているかびた畳をどけ、茣蓙を持ち上げて長谷川が客人を招きいれる。ぺらぺらで穴だらけの座布団を勧められた桂は、一礼して静かに腰を下ろした。


 そこから五分ほどは言葉一つなかった。自販機までひとっ走りしてコーヒーを――ワンカップは売り切れだったらしい――買ってきた長谷川が、濡れた服を脱ぎ捨て擦り切れた手拭いで体を拭くのを桂はただ見つめている。歯の根も合わず青い顔をしていたのが乾いた服に着替え毛布を被ったことで少しはましになった。それを見て一安心したところで、知らず男の事を気にかけていたと気付かされる。


「長谷川、さん……とやら、」


 やはり出て行こう。こんなところでいらぬ柵を作るものではない。そうでなくともこの男は銀時の知人なのだから。


「ん、なんだい?」

「悪いが俺は……」


 一応の礼儀として辞去の言葉を述べようとしたところで、再び振り出した雨がやかましくトタン板を叩き始めていた。新聞紙を体に巻きつけ半纏を羽織った長谷川が、ついてるな、と軽く笑う。


「すげぇいいタイミングで帰ってこられたじゃん」


 ほら、ヅラっちもコーヒー。温かいコーヒーを押し付けられて、反射的に受け取ってしまってから後悔。ここを去るタイミングを逸してしまった。


「雨宿りだろ、ただの」

「あま、やどり……」

「そ、永遠に降るわけじゃなし。雨が降ってる間くらい座って休んで考えたって罰は当たんねェさ」


 まぁ俺は照る日曇る日休み続けてんだけどな。そう自虐して締めくくられた長谷川の言葉にほんの少しだけ気持ちが軽くなる。もう一度薄暗いバラックの中で腰を下ろす。狭い空間に漂うコーヒーの香りに釣られ、桂もプルタブに手をかけた。半日以上何も口にしていない体に、カフェオレの甘さが優しい。うまい、と小さく声に出してしまったのを長谷川が聞きつけ、うめぇよなあ、なんてのんびり答えた。


 雨音は激しくなる一方だ。隙間から淡い光を取り込む茣蓙と畳の、その向こうが桂は不意に気になった。


「街が……」

「え?」

「街が、見たい……」


 街が。雨に煙る江戸の街が。薄情なくらい強かに生きる人々の姿が。


 僅かに肩の力が抜けたもののまだまだ硬く強張った桂の声に、やだなぁ、と長谷川は緩く口を尖らせた。擦り切れた毛布を体に巻きつけ、コーヒーを飲んでも寒気は消えきらないのだ。


「だってよ、寒ぃんだもん。さっきまで全身ずぶ濡れだったんだぜ」

「ふむ……それもそうだな……」

「だろ? って、ちょっと、オイ!」


 神妙に頷く仕草に諦めたのかと思ったけれどそんなことはなかった。流れるような動作で戸口の畳を除け茣蓙を捲り上げた桂に毛布を剥ぎ取られたかと思えば、数瞬後には二人で一枚に包まれていた。長谷川が止める間もなく、痩身がしれっと隣で膝を抱えている。


「ちょ、一体何してんだよヅラっち!?」

「ヅラっちじゃない桂だ。寒いのだろう? こうすると温いぞ」

「いや、確かにあったけぇけどよ……!」

「ならば問題あるまい」


 確かに桂は温かかった。“昔から風邪一つ引かない”というのも何となく頷ける。長谷川の足先に触れる素足の指までもがしっかりと温みを持っているし、ぴたりと触れ合う腕や腿など、小さな子どもかと思うほどだった。


 でもよ、でもよ……なんて口先ばかりもごもごと動いて、けれど明白に拒否することも隣に座る身体を突き放すこともできなかった。外から流れ込んでくる冷気すら気にならないくらい、こうして二人座っていると温かい。長谷川の狼狽など露知らず、桂は真剣に街並みを見据えていた。


 ――銀さんに怒られそう、ってか殴られそうで怖い……。


 情けない反駁は、意地で胸の奥にしまい込んだ。


 結局そのまま長谷川は寝入っていたらしい。大通りを駆け抜ける車が鳴らしたクラクションに叩き起こされたときには、人間湯たんぽのお陰で随分と体が温まっていた。体育座りの姿勢を完璧に保ったまま外を見つめている桂に少し呆れる。軽く伸びをする隣には目もくれない。あまりにも一点を凝視し続けているので、長谷川も桂の視線の先に目をやった。


 濃紺の番傘を差した男が一人、時計の下に立っている。長谷川は見覚えがない人物だ。


「何、知り合い?」

「いや……」


 言葉を濁した桂は尚も男から目を離さない。ただ知らぬ者を眺める眼差しとは明らかに違うそれに、長谷川は質問を投げかけようとして、けれど先に口を開いたのは桂のほうだった。


「反幕府、天人排斥の立場を明確にすることが、今のこの国でどういう意味を持つかわからない訳ではあるまい」


 唐突な語り。その意図が掴めずにサングラスの下で長谷川は瞬いた。さらに桂は話し続ける。


「多くの者が身を潜め活動する中、高らかに“攘夷”を唱えるのはどのような者だ」

「そ、そりゃあ自分の志と腕に自信があるヤツだろ」


 目の前にいるアンタみたいに、とまでは言わない。こちらを見つめる長谷川を見返して、桂は何とも言えぬ笑みを浮かべた。再び男に目を向ける。


「さあ……アレはどうだろうな」

「どーいうことだ?」


 そもそもなんであの男が攘夷志士だなんてわかるんだ。色々合点がいかず首を傾げる長谷川のために、ついと桂が腕を伸ばした。細い指先は男の腰周りを指している。


「刀の鍔を見ろ」

「いや、流石に見えねェよ!!」

「んもー、じゃあほら、羽織の紋は?」

「なんでちょっとオカン口調になってるんだよ……紋も小さくてよく見えねェなぁ……」


 サングラスを持ち上げ、半分腰を浮かして外を見る。折よく完全にこちらに背を向けた男の羽織の、鮮やかに染め抜かれた場所に目を凝らした。どうにかピントが合った目に飛び込んできたのは、反幕運動で散った武士たちのそれ。


「あれ……天、誅組……?」

「そういうことだ」


 それきり絶句した長谷川の横で立ち上がる。いまだ雨が降りしきる冬の街へ出て行こうとして、戸口で桂は振り返った。気付けば外の男も公園の出口に向かって歩を進めていた。


「長谷川さん、世話になったな。俺は奴を追う」

「追うって、なんでまた」

「わからん。ただ、この目で見たいのだ……奴の向かう先が」


 あの男は何をなさんとしているのだろう。そして自分は。


「ちょっと、ヅラっち……」


 歩き出した男を追うべく、バラックを後にした桂を眺めること約十秒。


 結局長谷川もまた、細い背中に続くのだった。




***




「全ての門を閉じてあった筈なのですが……」

「そんなのアイツ相手に関係ねェよ……目を離した俺の責任だ」

「……とにかく、もう一度探しに行ってきます!」


 消えた桂の行方は依然不明だった。吹き込む風雨に冷え切った部屋と、庭土に僅かに残る足跡。蒼ざめた銀時が慌ててそれを追おうとしても、表に出ればアスファルト上には僅かな痕跡も残っていなかった。党員をたたき起こして総出で捜索しているものの、有力な情報は何一つ入ってこない。焦燥に身を焼かれ、知らず唇を噛み締める。


 銀時が消えた朝、或いは今朝も。こんな気持ちで桂はいたのだろうか。あの空っぽの部屋と同じように、心も頭もがらんどうになって、わけもわからず銀時を追うために飛び出したのだろうか。


「ちくしょう……」


 桂は腕が立つ。そんじょそこらの人間では髪の一筋に傷をつけることも叶わないだろう。それは銀時自身が一番知っている。だが今の桂は常の彼ではないのだ。廃刀令後も頑なに差し続けた刀は腰になく、冷たい雨の中に裸足に襦袢一枚で飛び出していった。何より、桂を今の桂足らしめる、この街で過ごした記憶を全て失っている。


 すぐにでも外に出て、駆けずり回って桂を探したい。それを引き止めているのは彼の溺愛するペット兼相棒なのだった。銀時とエリザベス以外の者は皆、飛び出していってしまった。


「で、何よ話って」

『今我々が関わっている案件だ』

「……いーの、それを俺に話しちゃって」


 しつこく攘夷活動に勧誘してくるくせに、内情については匂わせもしない。そうした飼い主の性格を熟知しているであろうエリザベスは、けれど大きく体――頭だけのつもりらしい――を振って続けた。


『天パ。党員がなぜ皆出払ったかわかるか』

「そりゃ、非常事態だからだろ……それとも人払いのためとでも、」

『そうだ、“非常事態”だ』


 一瞬で放られる運命のものとは思えないほどに墨痕鮮やかな字の連なり。続くもう一枚に銀時は目を丸くした。


『我々は三人の人間を探している』

「はぁ?」


 ヅラはいつ分裂したんだ、とわけのわからないことを考えた銀時の頭をプラカードで殴って、更にもう一枚。


『だから今回の案件について話すんだ。我々攘夷党は現在、二人の人物を保護している……していた』

「待て待て待て待てイヤーな予感しかしねェぞそれ」


 頭を抱えてみたものの視界の端に、察しがいいな、なんて書かれたプラカードが見えて殴りたくなる。本気で文句を言いそうになるがどうにか堪えた。自分も桂から目を離した、いわば前科者だった。


「……で、誰なんだよもう二人ってのは」

『一人はお前も知っている。央国星の皇子だ』

「…………は?」

『公に付き合いがあるわけではない、桂さんの個人的な友人だ。最初の印象はともかく、潜入捜査に行った先でなんだかんだ親しくなったらしくてな』

「…………………ハ、」

『動物好き同士気が合うところがあるのだろう』

「ハタ皇子ィィィィィ!?」

『声が大きい』


 プラカードの角で額を殴られた痛みと、思いがけない人物の名にしばらく悶絶させられる。攘夷党の首魁が、あの、ハタ皇子を保護だなんて。あまりに笑えない。


「全ッ然わかんねェんだけど。アイツ自分の立場とかイメージとか1ミクロンでも考えたことあんの!?」

『やむに止まれぬ事情があったんだ!』

「ちょ、待て待て速ェよ!」


 次々に繰り出されては放り捨てられるプラカードをどうにかこうにか目で追って。白い木板が畳の上に折り重なって散らばるころ、ようやく銀時も“事情”を把握することができた。相も変わらずめんどうなことを抱え込みまくっているらしい。今溜息を吐いたら魂まで抜けていってしまいそうで、努めて息を大きく吸った。


「じゃあ、ヅラの怪我も爆殺計画からハタ皇子とそのツレの女を護ったときのものなんだな」

『そうだ。地球人の女と天人の超VIPの恋。憎々しく思う者も掃いて捨てるほどいるからな』


 そりゃそうだろうよ、と銀時は独り言ちる。地球人蔑視が激しい一部の天人からも、天人排斥を掲げる攘夷志士からも疎まれる恋であることは間違いない。まるで異国の歌劇か、或いは歌舞伎や浄瑠璃のよう……と考え銀時は激しく頭を振った。ハタ皇子のビジュアルとかこれまでの振る舞いとかが強烈過ぎて、先ほどとは違う意味で笑えない。


『女の趣味については言うな』

「まだ何も言ってねェよ」

『とにかく、桂さんだけでなく二人も早急に発見・保護しなければなるまい』

「ったく、このままじゃ一億総長谷川さんだよ……それよりもっと悪ぃか」


 二人――特にハタ皇子――が無事に帰らなかったらどうなることだろう。外交問題になることは必至。その影響が市井にまで及ぶことは十分に考えられた。


 重い沈黙を裂いたのは、聞き慣れた喧しい足音だった。見事先回りした新八のお陰で襖が蹴倒されることもなく、和室に飛び込んできたのは神楽だ。


「銀ちゃん、エリー! こんなところで何アブラ売ってるアルか!!」

「知らないわけじゃないですよね、桂さんがいなくなったの!」

「……どっちかって言うと何でおめーらが知ってるのか知りてェよ」

「銀ちゃんのズボラのお陰アル!」


 ますます訳がわからなくなった銀時の頭に、いまいち要領を得ない説明は入ってこない。エリザベスが差し出した菓子に神楽の口が塞がれた瞬間を見計らい、新八が改めて口を開いた。


「今朝、僕ら幾松さんのお店にラーメンを食べにいったんです。僕が行ったとき炊飯器は空っぽのかぴかぴで、ご飯炊くのなんてとても待てないって神楽ちゃんが言うもんだから」


 それで手っ取り早く腹を満たすために、北斗心軒へ繰り出したのだという。幾松の元には銀時が何度か電話をかけていたが、繰り返しかけても通話中で彼女と話すことは叶わなかった。


「お店に入った途端、幾松さんが慌てて駆け寄ってきて。万事屋に何度も電話したのよって」

「ヅラは幾松のとこに行ってたのか」

「行ってたっていうか、たまたま会ったって言うほうが正しいかもしれませんけど。でもとにかく幾松さんのところからも出て行っちゃったみたいで……」

「マダオが追いかけてったって言ってたアル」

「長谷川さんがァ?」


 なんでこう次々関係者が増えるものか。思わず銀時は頭を抱えて叫びたくなる。腐っても、っていうか腐り落ちて地面に叩き付けられて踏み躙られててもあの人一応元幕府関係者だし、まずいことにならなきゃいいけど。


「エリザベスさん!」


 ぐるぐる考え込んでいると、またも騒々しい足音。あ、既視感。などと思う間もなく駆け込んで来たのは桂の信頼する部下の一人だった。頭のてっぺんから足の先まで、乾いているところがないくらいに濡れていて泥まみれだ。青い畳にぐっしょり染みがつくのも厭わずに、彼はエリザベスの前に膝を着いた。息せき切って駆けに駆けたであろう荒い呼吸で懸命に言葉を紡ぐ。


『進展は』

「二人の目撃情報が」

『構わん、話せ』


 ちらりと新八や神楽に目をやったのをエリザベスが制し、話を続けさせた。


「鈍色のワンボックスカーに押し込められるところを、西郷殿が見ておられたようです。また何かやらかしたかとは思ったが、ままあることと気にも留めなかったと」

『そうか……』

「まだあります。車は湾岸の工場群に向かっていったと西郷殿は」


 慌てて立ちあがったエリザベスが、ラップトップパソコンを抱えて帰ってくる。薄気味悪いほどの器用さでキーボードを叩くのは党員たちに連絡を回すためだろうか。攘夷党は意外にデジタル化が進んでいる。


 次々飛び込んでくる新情報に銀時が混乱している間に、カステラを丸々二本平らげた神楽が立ち上がっていた。その隣の新八の手には、いつの間に屋敷を物色したのか、桂の羽織が握られている。


「取り込み中みたいだから、ヅラはこっちで探しといてやるネ」

「おい、新八、神楽……」

「今月のお給料、弾んでくださいよね!」


 行きがけの駄賃とばかり、銀時の前に手付かずであったいちご牛乳を飲み干して、来たとき同様に騒がしく二人は行ってしまった。一瞬追いかけようとして、思い直して銀時はエリザベスと男に向き直った。人探しならば二人と一匹のほうが長じている。腕っ節が必要なのは明らかにこちらの案件だ。


 それに――直感が告げていた。今は二つに分かたれているこの事件は、一つにまとまり収束する。


 パソコンを閉じたエリザベスがふー、と小さく溜息をついた。プラカードに先んじて銀時が口を開く。


「んじゃ、俺たちは工場でいいんだな」

『正確にはお前たち二人は、だな』


 エリザベスはさっさと部屋を出て行ってしまった。残された男を見やれば、いつの間に服を着替えたのか、こざっぱりした格好で銀時を待っている。


 喰えないヤツ、と呟いた銀時も、男と共に屋敷を後にした。




***




 吹き付ける雨、濡れた道。まだ小柄な新八とは違う、後ろに座る大の男の存在。普段と違う条件で単車を転がしながら、何が悲しくて碌に知りもしないヤローとニケツしなきゃいけねぇんだよ、と銀時は心の中で毒づいた。とはいえ背に腹は変えられない。こんなとき小回りが利くのはスクーターやバイクのほうだ。源外の改造のお陰でやたらと馬力もある。


「坂田さん」

「あァ!?」


 フルスロットルでかっ飛ばされる二輪車の上では、ぼそぼそとした低音は聞き取り辛い。声を張り上げた銀時には釣られず、あくまで男は抑えた声で話し出した。追い風の助けを借りて、その声は辛うじて銀時の耳に届いてくる。


「もしかしたら、あなたももう知っている話かもしれない」


 いや、そうでなかったとしても……。彼はそこで口を噤んだ。躊躇い、今更ながらに迷っているのが伝わってくる。まどろっこしい!と怒鳴りつける直前に男は再び話し始めた。


「自分がこういうことを言うのは、お門違いかもしれません。でも、自分しかあのときを知る人間がいないのも事実です。坂本さんが宇宙へ行き、高杉さんも坂田さんも姿を消し、けれどエリザベスさんもまだ我々の元にはいなかったあの頃のことを」

「……もったいぶらずにさっさと言っちまえよ」

「坂田さん。自分は桂さんの過去を暴きたてたいのでも、己が所業を懺悔したいのでもありません。誰を責めることも詰ることもしまいと決めたのです。我らは共犯者なのだから……と」


 共犯者。昨日に引き続き聞かされることになった言葉が重い。もう気軽に促すこともできなくて、銀時は黙りこくって続きを待った。びしびしと全身を打つ雨粒が痛い。


 今のあの人の、桂さんの、目は。


 体内に溜め込んだ澱ごと吐き出されるような低音。


「同じなんです。自分たちが男娼まがいの真似をしてまで支援を乞うていたときと、まるっきり」

「は……?」


 男娼まがいの真似。支援を乞う。言っていることがよくわからない。懺悔ではないと予め釘を刺しつつも、男の口ぶりは重く苦渋に満ちていた。詰られ罵られてしまいたいという思いがどこかにあったのかもしれない。


「敗戦後は、どうしても金が必要だった。雨風をしのぎ追っ手から身を隠すのにも、傷病兵に満足な治療をしてやるのにも、その日口にするものを得るためにも、とにかく先立つものがなければ話にならなかったんです」


 商家の跡目であるとは言えど、長きに渡る戦いに疲弊した国で愚直に商いを続けていた実家が頼れる故もなく。困窮の極みで桂と青年は一つの選択を強いられた。仲間たちには知られぬよう努めたものの、数人の気付いた者の中には泣いて止めてきた者もあれば、何も言えず唇を噛み締める者もあった。折檻じみた行為まで受けて桂が倒れるまで、二人は男たちに身を委ね続けた。


「自分は不安なんです。あの目をした桂さんが、何か取り返しのつかぬことをしてしまうのではないかと、そう思うといてもたってもいられず……!」

「……アイツはそこまで考えなしじゃねーよ」

「そう、でしょうか……」

「そーだよ」


 それ以上はもう掛ける言葉が見つからず、銀時もしばし口を閉ざした。沈んだ空気を変えるために、信号待ちの停車のとき、銀時は軽く男に尋ねた。


「でもよぉ、アンタもなんでわざわざ屋敷まで戻ってきたんだ。連絡くらいご自慢のスマホですぐできただろ」

「……雨に濡れて使い物にならなくなって」

「だったら、公衆電話から電話の一本でも入れれば」

「電話が繋がらなかったんですよ! エリザベスさんは基本的に電話に触らないんだから、十中八九アンタの責任でしょうが!!」

「……やべ、そうかも」


 何度か北斗心軒にかけたもののそのたび通話中で繋がらなくて、仕舞いには苛立ち紛れに叩きつけるように受話器を戻したような気がする。もしかしてちゃんと切れていなかったのだろうか。


 男の電子機器は壊れてしまったという。この雨の中町を駆けた党員たちのうち、一体何人が無事エリザベスからの連絡を受け取れたのだろう。


「お仲間はあんま期待できねーってこったな……」


 碌に減速もせずきついカーブを強引に曲がる。警察車両が見られないのをいいことに更にアクセルを吹かし、二人は一路湾岸地帯へと向かっていった。


 

 

 

 

 

「アンタ、俺の妹まで殺す気だったのか! 桂が庇わなければアイツは天人もろとも粉微塵だったんだぞ!?」

「なァに、あの偽善者が庇わんわけがないさ。フン、そのまま死んでくれれば好都合だったが、なかなかどうして悪運が強い……」

「ふざけるな! 仕掛けたものを作動させるのは俺が妹を連れてあそこを出てからと、何度も確認しただろうが!!」


 まだ年若い青年の激昂が鉄筋コンクリートの建物に響く。後をつけてきた男がいきなり詰られた挙句とんでもないことを吐き捨てるのを、桂は顔色一つ変えずに見ていた。むしろ隣の長谷川のほうが蒼ざめて桂と男を交互に見やっている。


 高く積まれた資材や物資の隙間から向こうの様子を伺う横顔はまさしく攘夷志士を纏め上げるカリスマのそれ。記憶も獲物もないというのに怖気づいた様子はない。


「男が1、2、3……6人。それに天人と……諸々の影にいるのは女か?」

「ど、どれどれ……うげっ!?」

「大声を出すな……!」


 ハタ皇子ィィィィィ!?と叫びそうになった唇を桂の薄い掌に押さえ込まれて、長谷川は目を白黒させて呻いた。忘れもしない。エリート官僚のマダオ転落への道、そのスタート地点を毒々しく飾る紫。でっぷりと太った身体にうねうね蠢く触覚。


「なんでアイツがこんなとこにいるんだよ……!?」

「あまり愉快な理由ではなさそうだな」


 人気のない工場。きつく拘束された巨体。天人を忌み嫌う攘夷派の侍たち。罵声の残響。


 彼らの諍いはまだ終わらない。桂は小さく息を吐いた。状況についていけず困惑しきりの隣の男に、声を潜めて話しかける。


「長谷川さん、一つ頼みがあるのだが……」

「頼み?」


 鸚鵡返しに呟いた長谷川の耳元に唇を寄せ、桂は手短に依頼を吹き込んだ。何それ何のために、と不審げに瞬いた相手よりも、今は木箱の向こうの男たちの動向に意識が向いている。失った記憶はいまだ何一つ取り戻せていない。だが本能が――魂が告げていた。行かねばならない、と。


「後は任せた。ではな」

「ちょちょ、ちょっと待ってくれよ……!」


 危ねェよ一人で行くなんて、とかむしろ俺を一人にしないで、とかそんな懇願は聞き流されて、あっさりと桂はコンテナの向こうに姿を消した。追うか、残るか、または逃げるか。色々な考えがぐるぐる頭の中を渦巻いて、結局長谷川は一心不乱に駆け出した。息せき切って向かうその先で、桂の依頼を果たすために。


「頼んだぞ、長谷川さん……」


 背後の気配が消えたことを確認して、そっと呟く。おもむろに影から姿を現せば、誰もが大きく息を呑んだ。前回の爆殺未遂の顛末、負傷したはずの桂の容態まで男たちは知らない。傍目には怪我一つなく自分たちの前に立ちはだかるその姿に、彼らはにわかにどよめいた。


 どう見ても丸腰だというのに、研ぎ澄まされた切っ先を幾つも向けられてなお、たじろぐことなく桂はそこにいる。


「桂……! 何故ここに貴様が!?」

「何故……だと? それはこちらの台詞だ。よもや兄が妹を手にかけようとは……世も末だな」

「違うッ! 誰が己の肉親を殺すものか……天人と幕軍に両親を殺された俺に遺された、たった一人の家族を、誰が!!」


 喉を裂いて迸った慟哭が高く吹き抜けた天井にまで届いて響く。奪われた者の絶望が、憎悪が狂おしいほど桂にはわかる。彼だけではない。男たちは皆例外なく、昏い焔をその瞳に宿している。


 鏡を見ているような気さえした。


 沈黙を破ったのは、兄の手を逃れた娘の声だった。荒くれの間を駆け抜けて、恋人のもとに駆けた彼女が、ただ一人の肉親に懸命に訴えかける。


「もうやめて、兄さん!」

「お前、まだ害虫なんぞに肩入れするのか……!」


 娘の小さな掌が後ろ手に巨体を縛める拘束に伸び、それを解けぬか触れて確かめる。荒縄の硬い結び目をどうにかすることは諦めた彼女の手が、それでも素早く目隠しと猿轡から恋人を解放した。ようやく両の目でも状況を確認できるようになったハタ皇子が救いを乞う目で桂を見上げた。動かすことの叶わぬ手は、背中で娘のそれとしっかりと繋がれている。


「カツーラ……」


 その風貌にも声にもやはり見覚えはなくて、桂は密かに懊悩する。こんな風に、救世主か何かのように天人から縋られるなんて。


「違う。私はただこの人を愛しているだけ。天人だとか地球人だとか、そんなことは関係ない!」

「お前は若い……幼すぎるんだ……誰がそんな戯言で憎しみを雪ぐことができるものか!!」


 娘のひたむきな愛の告白よりも、男の憤怒の叫びのほうが桂の胸を打つ。星を蹂躙し、かけがえのないものを根こそぎ奪い、矜持を粉々に砕き、一方的に民草を支配下に置いた天人と幕府。憎悪と男たちや桂はいまや癒着して離れがたく、それを引き剥がすということは精神的な死さえも意味しているように思えた。だが彼女は怯まない。


「それでも、人は誰もが幸せになる権利を持って……!」

「幸せだと? 天人に対する怨嗟の念はいまだ消えず、地球人蔑視も蔓延る今の世で誰がお前たちを祝福する、どこにお前たちの行き場がある? それとも俺たちを猿とあざ笑う天人どもの故郷で暮らすことがお前の幸福なのか?」

「そうじゃない、兄さん、あなたのことよ! 理想に向かって歩んでいるというけれど、今の兄さんはちっとも幸せそうじゃない。憎い憎いと、そればかりで突き進んでいった先で、兄さんは本当に幸せになれるの……?」


 あまりに青く、砂糖菓子のようにふわふわと甘いその言葉に、男たちはみな唇を歪めて嗤う。個人の幸福など志の前には無いも同然。命すら路傍に打ち捨てられようと顧みられることのない世界で自分たちは戦っているのだ。同じように嘲笑してしまいたくて、けれど脳裏にリフレインするのは、昨日銀時に投げかけた言葉だ。


――お前はお前の……そうだな、幸福を見つけ始めたんだろう。


 横暴な天人や幕僚に天誅をと思う気持ちは変わらない。多くの者を手に掛けて、仲間の屍を踏み越えてまで歩んできた自分が幸せになろうなんて、虫が良すぎると思う気持ちも。


 それでも、銀時には――できれば古馴染みの片割れにも――幸福であってほしかった。権利だ資格だなどと大それたものを声高に求めるつもりはない。ただどこかで、穏やかに笑ったりぐうたらと日がな一日無為に過ごしたり、時には何か余計なことに首を突っ込んではぎゃあぎゃあ大騒ぎしたりしていてほしいと願ってしまっていた。


 敵を、世界を、己自身を憎み魂をすり減らしながら生きてなどほしくはなかった。それこそ鼻で笑うしかない、矛盾だらけの想いだけれど。


「しあわせ……? じゃあお前は憎しみを消し赦すことで俺が幸福になれるとでも思っているのか。侵略者を赦し、奴らに平伏した裏切り者を赦し、そいつらに食い荒らされた今の世の中で奴らに媚びへつらって生きろと言うんだな?」

「そんな……ちがっ、」

「何が違う!!」


 激情に眦を裂いた男の横顔。桂にはそれが涙を流しているように見えた。


「もういい……黙っていろ……これ以上お前の話を聞いていては俺は自分が何をするかわからん……!」

「ひィッ……!」


 それきり男は口を噤み、静かに腰のものを抜いた。晒された鈍色の刃に、ハタ皇子が息を呑んで身を固くする。その身体に回された娘の腕が、恋人を強く抱き寄せた。


 兄妹の睨み合いを中断させたのは、闖入者の立てた騒音だった。


「ヅラァ! ここにいるアルか!?」

「桂さん!!」


 先日の少年少女と、見覚えのない巨大犬。工場入り口の資材をなぎ倒して中に入り込んで来た顔ぶれに男たちが混乱しているうちに、桂は足を踏み出した。


「桂ッ、貴様……」

「油断したな」


 立ち尽くしていた一人に拳を叩き込み、あっさりと刀を奪い取る。抜き身のそれを手にした桂は、表情一つ変えず娘の傍らに立っていた。安い脅し文句などないし、そもそもまさか桂が娘に刃を向けるとは思えない。だがそれでも、あの狂乱の貴公子に得物を持たせたとあっては男たちの敗北は決まったようなものだった。


 状況が読めないまでも抜き差しならぬ事態であることを察した新八たちが黙り込む。淡々と紡がれる桂の問いかけが響いた。


「お前の理想とはなんだ。天人どもを星から駆逐することか。倒幕を果たすことか」

「何をいきなりッ、」

「それとも……復讐か。己が怨みを果たさんがための行動に“理想”という錦の御旗を与えているのか」


 それは自分に対する問いかけだったのかもしれない。冴えた声に心を抉られて男は容易く激昂した。


「黙れ! 我らが目指すは侍の国を取り戻すこと、そのためには手段など選ばぬ! 穏健派……腰抜けに成り下がった貴様に何がわかる!!」

「手段、か……」


 小さく呟いただけのその声に、虚をつかれて男が瞬く。その一瞬でハタ皇子の拘束を斬り捨てた桂が、でっぷりと太った腕を掴み持ち上げた。


「そうだな。殺せばいい」

「ヅラ!?」

「何言ってるんですか!」


 即座に突っ込んだのは闖入者の二人だったけれど、他の者の驚きようも大差はない。慄いて身を硬くするハタ皇子に、恋人を強く抱き寄せながら桂を睨み上げる娘。男たちも驚愕に声を荒げた。


「貴様、自分が何を言っているかわかっているのか!?」

「殺せばいいと言った」

「な、何を、」

「侍の国を取り戻す、手段なのだろう」


 恋人二人も、子どもたちも、その理想を掲げた男たちですら、桂の意図が読めず戸惑っていた。


「こいつを殺して、真に侍の国が……我らの矜持が取り戻せるというのなら殺せ」

「う、ぐ……!」


 ハタ皇子を手にかけることが地球に何を齎すかわからない男たちではなかった。だからこそ桂たちの知りえないところで仕込み――殺害現場となるであろうここは天人同士の利権争いで揉めているところだし、凶器となるのは刀ではなく、とある押収品を盗み出したものだ――を行っているのだ。


 このままここでハタ皇子の殺害に成功すれば、工場を管理する天人たちは敵方を失脚させるべく一国の皇子殺しの罪を擦り付け合うだろうし、押収品の管理を怠った警察組織にも累が及ぶだろう。圧倒的な支配力や武力を持つ敵も一枚岩でなければ形無しだ。


 それなのに何故か今、彼らは戸惑いに唇を噛み締めている。憎むべき天人一人を手にかけることを今更のように躊躇っている。


 罪のなき、少なくとも幕府の上層に巣食っているのでも戦時に地球人を屠ったのでもない者を殺し、その罪を他の誰かに着せる。そんな選択をせざるを得ないほどの憎しみを抱え込んでいるはずなのに、男たちをそうさせたのは天人や幕府のはずなのに、どうしてか彼らの心は不穏にざわめいては勝手に軋む。


 無辜なる娘の直向きな目が。はっきりと怯えを孕みながらも男たちを見返すハタ皇子の瞳が。固唾を呑んで全てを見守る、未来へ生きる少年少女のまなこが。そして同じ憎悪に苦しめられながらも男たちと対峙した桂の眼差しが、じりじりと痛くて男たちを迷わせた。


 不意に、高く上げさせた腕に桂が目をやった。


「この手を見ろ」

「は……?」


 脂肪がついて丸みを帯びた手。だが良く見れば掌は荒れ、幾つもの小さな傷があった。動物か何かのものと思しき噛み傷や引っかき傷、ちょっとした切り傷や皸に罅割れ……数え上げれば枚挙に暇がない。


「労働を知った者の手だ。戦いを知らぬ者の手だ。この地に根付き冬を越えんとする、生きている者の手だ」


 肌の色や細かなつくりは違えど、娘のそれと変わらぬ手だった。唾棄に値する害虫と固く信じていたものの中に、男たちはこのときになってようやく“ひと”を垣間見たのかもしれない。娘の兄の手から力が抜けて、刀がコンクリートの床に落ちた。もう彼にハタ皇子は斬れまい。


「こいつ一人の命で本願が果たせるというのならば、俺とてとうにそうしておるわ」


 腕を解放されへなへなとへたり込んだハタ皇子には一瞥もくれず、桂がそう吐き捨てる。記憶をなくしたが故の本心と言うには、少しばかり温かみのある声だった。素直じゃないアル。そう呟いた神楽の声が耳に入って、新八も少し頬を緩めた。


 そのときだった。


「ほざけ! こんな天人は捨石にすぎん。殺せ!!」


 叫んだのは桂と長谷川が後を追ってきた男だった。その命令に仲間たちが狼狽こそすれ、動く気配がないのを見て憎憎しげに舌打ちする。次の瞬間、ハタ皇子を切り捨てんと飛び掛ってきたのを桂が防いだ。血迷ったか、と仲間からも非難が飛ぶのを遮って男は声を張り上げた。


「綺麗ごとを抜かすな! 今になって何を躊躇う、こんな害虫などに何を絆される!?」

「し、しかし……!」

「腑抜けたか、貴様ら……」


 だらりと腕を落とした姿からは数瞬前まで激しい怒りは感じられない。ただぼそりと吐き捨てた言葉には何か底知れぬ、鬼気迫るものがあった。


「もうよい……せいぜい甘い理想に縋っていればいい、死ぬまでな」


 そう吐き捨て、踵を返した男の足がぴたりと止まる。愕然と立ち止まってしまった男の視線は工場の窓から見える時計台に縫いとめられて動かない。


 ここに来た当初は頻繁に見ていたそれだが、桂が現れてからほとんど目をくれずにいた――気のせいではない、あの大時計はいつからか止められている。最後に見たときから僅かにも動いていないではないか。


 一気に蒼ざめた男が懐から懐中時計を引っ張り出すのを仲間たちは不審げに見つめる。釣られて己の時計に目をやった一人もまた、海浜公園の時計が一時間近く遅れていることに気がついた。


「おい、おかしいぞあの時計。もうすぐ正午になろうってのに、」

「桂、テメェの差し金か!!」


 先ほどの比ではないほどに狂乱した男が桂の胸倉を掴み上げるのを見て、青年たちは何か思うところがあったらしい。転がるように駆けた一人が資材の山に右手を突っ込んだ。すぐさま引き抜かれた手には何かが握られている。


「あっ、あれは……」

「ジャスタウェイ!」

「じゃすたうぇい?」


 記憶がない桂は趣味の悪い人形のようなそれを見て首を傾げただけだったが、新八と神楽は違う。だがその驚きの声を掻き消すような怒号が響いた。


「な、んで……なんで爆破時刻が十二時になってるんだよ!」


 男たちしか知らぬことだが、予定時刻よりも二時間も早められたことになる。蜂の巣をつついたような騒ぎになるかと思われたが、工場はむしろ静まり返った。先だっての誰かの言葉を思い返し、各々が手持ちの時計や電子機器に目をやる。


 時計は確かに、十二時七分前を指していた。


「そんな、どうするネ!?」

「と、とっ、とにかく急いで逃げなきゃ、」

「無駄だ」


 桂に振り払われ床に伏した男の、破れかぶれの歪んだ嗤い。唇を舐めるその舌がいやに紅く目に付く。


「どうして俺がこの工場を選んだかわかるか……この下にはな、都市ガスの高圧導管が通ってるんだよ」


 熱に浮かされたように男は滔々と語り続けた。


「今更天人が死のうが幕僚が死のうが町人が死のうが構うものか。天人資本が入り込んだこの工場群がみな吹き飛んだら、さぞかし面白いことになるだろうよ……! 戦になるならばなればいい、我らを平然と切り捨て強きに迎合した市井の人間どもも皆死ねばよいのだ!」

「ふ……ふざ、」

「ざけんじゃねぇ!!」


 激情に手を振り上げたのはかつての仲間でも子どもたちでも、恋人二人でも桂でもない。コンテナの陰から現れた男だった。


「長谷川さん……!」


 渾身の一撃を見舞われて昏倒した男を睨み、長谷川は言い放つ。


「攘夷っつうのはな、手前の恨み言に他人付き合わせることじゃねぇんだよ!」

「マダオ、なんでここに来たアルか?」

「っていうか長谷川さん攘夷志士でもなんでもないじゃないですか」


 その凄みは、子どもたちに声をかけられて瞬く間に霧消してしまったけれど。


「いや、出てくるタイミング見つかんなくて……スタンバってました」

「再登場早々悪いがここは修羅場だぞ」

「だからだよ! 逃げるとき置いてけぼりくらったら最悪じゃん!」


 逃げる。そうだ、最早一刻の猶予もない。


 だが、自分たちはどこまで逃げればいい。


「おしまいだ……もう何もかもおしまいだ……」

「兄さん、しっかりして! 少しでも遠くまで逃げるのよ!」

「もう遅い! 全て遅すぎたんだ……!」


 もっと早く先ほど感じた気持ちを持っていれば、或いは違っていたのだろうか。こんな風に誰も彼も粉みじんになって死ぬことなく、新しい未来を目指していけたのだろうか。


「まだ、遅くねェだろ……!」


 彼が愕然と膝をついたそのとき、そう語りかける声が聞こえた。薄曇りの空、雲の隙間から光が差してうな垂れた頭に降り注ぐ。


「銀さん!」

「こんなに走らせやがって……」


 工場地帯という曖昧な情報だけしかなかったから、随分と駆けずり回る羽目になってしまった。屋敷から共にやってきた一人と、途中で合流できた二名を連れて、銀時が工場の入り口に立っていた。肩で息をしながらも、ゆっくりと内部へと歩を進める。


「何にも遅くなんかねえよ。誰も死んじゃいねぇんだ……いくらだってやりなお、」

「いや銀時、そーいうイイ話っぽいアレは求めておらんのだ」

「あァ?」


 今朝までの諸々を全てうっちゃったかのような言いように銀時は眉を吊り上げる。そんな幼馴染の反応には一切気を払うことなく、桂はあっさりと事実を浚った。


「爆発まであと五分のようだ」

「どうするんだ、全部で十五個も仕掛けてあるんだぞ!」

「……らしいぞ。地下にガス管が通っておるし石油精製工場も近いからな、下手をすれば一帯が火の海だ」

「オィィィィ意味わかんねぇよ!!」


 肺が限界を訴えるのに鞭を打って駆ければこれか。誰も死んじゃいねぇなんて格好つけたものの、このままでは五分後皆等しく死ぬとわかって銀時は思わず全力で突っ込んでいた。その怒声を皮切りに誰かが嘆きの声を上げ、誰かが近くの者を口汚く罵り始める。


「いい加減にせんか貴様ら! なぜ最後まで生き延びようとしない!!」


 悲観の声、責任を擦り付け合う罵声、混乱の声、それらを宥めようとする幾つかの声。全てを叩き切って沈黙させたのは桂の一声だった。己が策を弄した所為で、あらゆるものが危険に晒されている。臍を噛む思いを隠して、一つ息を吸い桂は再び話し始めた。


「いいか、つまらぬ遺恨は捨てろ。これより爆弾の処理に入る。設置場所がわかる者と分解方法がわかる者とでチームを組んでことにあたれ。銀時、貴様は女子どもを連れて、」

「逃げろなんて言わないですよね、桂さん?」

「定春、あのおっさんが持ってるのと同じヤツ見つけてくるネ!」


 指示を遮った新八と神楽が、各々できることを探して駆け出していくのを桂は数瞬呆然と見ていた。急いで呼び止めようとするのを今度は銀時に遮られる。


「ば、馬鹿を言うな!」

「死ぬかもしれねーって? 爆発すりゃあみんなおじゃんだって言ったのはオメーだろーが」

「それでも爆心を離れれば少しはっ、」


 なおも食い下がろうとする桂の方を見向きもせず、作業に取り掛かった神楽と新八が声を荒げた。


「ヅラァ、何勘違いしてるアルか!」

「僕たちは……あなたの部下でもペットでもないんだ、だから」


 誰がアンタの指図なんか受けるか!!


 生意気極まりない発言に吹き出したのは銀時だけではなかった。長谷川も攘夷党の面々も、娘やハタ皇子ですら、あまりに忌憚のない子どもの言葉とそれを受けぽかんとする桂に思わず笑っていた。


 苛立たしげに吐き捨てられた声は、けれどどこか優しかった。


「……勝手にしろ」


 それきり桂も口を噤んで、男たちと共に爆弾の解除に取り組みはじめた。うずたかく積まれたコンテナの隙間からジャスタウェイを一つ引っ張り出して慎重に分解していく。傍らでは娘やハタ皇子が見守る中、桂の同志が他の爆弾に手をつけている。


「大丈夫そうだな……」


 その様子を目の端で見届けて、銀時も反対側に駆けた。工場の出入り口に仕掛けられていたものを発見し攘夷党の男に引き渡した。一つ、また一つと爆弾はその数を減らしていく。


「あと三十秒!」

「十四個目、解除完了しました」

「じゃあこいつが最後だ。信管を外して……よし!」

「終わりアルか!?」


 爆発までに十五個のジャスタウェイが無力化されて、誰からとも無く歓声が上がった。やったネ、と定春に飛びついた神楽が、いまだ警戒態勢にある愛犬に首を傾げる。


 絹を裂くような女の悲鳴が響き渡ったのはそのときだった。


「何アル?」

「どうした!?」


 皆がそちらに顔を向ければ、へたり込んだ娘の視線の先にひときわ大きいジャスタウェイが一つ、不穏な顔をして転がっていた。


「な、んで……なんでまだ爆弾があるんだよ!!」


 慄き震えた誰かの叫びを掻き消すように、伸びていた筈の男が哄笑する。


「切り札は最後まで取っておくもんだ、見つかっちまったようだがね……皆道連れにしてやる、貴様ら全員死ねェ!!」

「野郎……! 急いで解除を、」

「ダメだ、もう間に合わねぇ……」


 爆破時刻まであと十秒。そこにあった感情は、絶望というよりもむしろ虚無。間もなく死が訪れるとは到底理解できず、誰もが一瞬、ぽかんと呆けて立ちつくした。


 一番先に正常な思考を取り戻したのは、思いがけない人物だった。


 長谷川は見た。桂さえも銀時さえも愕然と足を止めていたそのときに、誰よりも早く正常な思考を取り戻し恋人のもとに駆けた男の姿を。名を呼んだつもりなのか、何事か指示を出したつもりなのか、訳のわからない大声と共にハタ皇子が娘を抱き寄せて庇う。次いでその巨体を渾身の力で蹴り飛ばした桂が、続けざま爆弾を天井に向けて蹴り上げた。


 小さな殺戮兵器が見る間に高度を上げていって、吹き抜けの天井にぶち当たる。


 次の瞬間、まさしく空そのものが崩れ落ちてきそうなほどの轟音が鳴り響いた。天井がそのまま落ちてきたり、建物が崩壊したりしなかったことは僥倖だった。砕けた蛍光灯やガラスが雨のように降り注ぎ、コンクリート片が床や壁を穿つ。資材が吹き飛んであちらこちらに飛び、背の高い機材やフォークリフトが倒れる。それほどの激震に見舞われ爆風に襲われた面々は、立っていることさえ困難だった。


 長谷川はコンクリートの壁に叩きつけられ、神楽と新八は梱包材の山に頭から突っ込む。男たちも吹っ飛ばされたりひっくり返ったりで目を白黒している中を、白い着流しが走り抜けた。


「ヅラ、何やってんだ目ェ覚ませ! ヅラ!!」


 ぽっかりと空いた空間に転がっている娘たちと違い、桂は小型コンテナの目の前に倒れ伏している。整然と積まれていた鋼鉄製の箱は爆風と震動でバランスを崩し、今にも崩れそうに揺れていた。


 粉塵に声を枯らし、咳き込みながら懸命に桂の名を呼ぶ銀時とピクリともしない桂の間を、何対もの目がおろおろと往復しては瞬いた。痛みを堪え立ち上がった数名が、銀時の後を追って走る。


 痩身の上に影が落ちた。何かが軋み、砕ける音が耳に入る。


 銀時の声は届かなかった。


「銀さん……銀さん!!」

「銀ちゃんっ!!」


 真後ろから聞こえた半狂乱の叫びに反射的に足を止めれば、目と鼻の先にいくつものコンテナが落ちてくる。


 更にその瞬間、壁に開いた大穴からはテレビクルーを引き連れたアナウンサーが飛び込んできて工場内がにわかに騒がしくなった。


「ご覧ください! このように工場内は酷い有様です……あっ、あれはバカ……ハタ皇子ではありませんか!? 女性と一緒です!!」

「は、花野アナ……?」


 そう呟いたのは誰だったろう。突如現れたのは確かにブラウン管や液晶テレビの向こうに見慣れたその人で、予測できないことの連続にいよいよ長谷川は卒倒しそうになった。神楽も新八もあんぐりと口を開けて突っ立っている。


 その視界の先から、取材チームの人々を掻き分けながらエリザベスが駆け寄ってきた。


「バ……ハタ皇子、こちらの女性は? ハタ皇子? バカ皇子? ……もう、伸びちゃってて話も聞けないじゃない……どうしろって言うのよ……」

『じゃ、後は若い人同士で……』

「ちょっと待ちなさいよ! アンタそういうとこホントあの男にそっくりね! ……あ、女性が意識を取り戻したようです!!」


 怒声に娘のほうが身じろいで、それからゆっくりと身を起こしたようだ。矢継ぎ早に質問を投げかけられるも、一つ頷いてはっきりとそれらに答えている。不意に長谷川が思い出したのは、ある日の桂の言葉だった。


――長谷川さん、人が隠れるのに最も適した場所はどこかわかるか。

――“木を隠すなら森の中”って言うからなあ。人もごみごみした雑踏の中が一番……そうじゃねぇのか?

――そうだ……人の中、だ。だがただの人ではいかんぞ。自身を慕ってくれる者が大勢いる中でこそ、人は上手いこと姿を消せるものだ。


 いつだったか、借金取りに追われに追われ、ばったり会った桂に匿ってもらったときに話したように思う。現に桂は支援者や活動を支持する人に助けられ住まいを提供されて暮らしているし、長谷川はそんな桂に庇われた。


「ヅラっちたちは初めからそのつもりで……?」


 二人を護るのは自分たち――すなわち武力ではなく、江戸に住まう人だということ。彼らの関係を白日の下に晒し大衆の力でもって護り抜く、と。


「すっげぇ博打を打ちやがる……!」


 いまだ天人と地球人の間に確かに溝が残るこの江戸で。桂は確かに人々の善意と未来へと進む力を信じている。そして攘夷党の面々はもちろん、花野アナやテレビクルーも、恋人たちも桂が信じるその可能性に賭けたのだ。


「長谷川さん、邪魔です!」


 どうやら様々な考えが頭の中を巡っている間、長谷川は呆然と立ち尽くしていたらしく、新八に思い切り押し退けられてよろめいた。更にそこにいた神楽に突き飛ばされて壁まで一気に吹っ飛んだ。


 銀時とエリザベスを中心に、子ども二人や桂の同志、果ては敵対していたはずの男たちの大部分まで参加して重いコンテナをどかそうと苦心している。とはいえ夜兎の神楽はともかく、普通の地球人に持ち上げられる重量ではない。数人がかりで持ち上げようにも、下手に揺らせば全てが崩れそうでなかなか手が出せずにいた。


「俺に任せろ!」


 そういうことなら、と壁際で転倒を免れていた一台のフォークリフトに長谷川は飛び乗る。これならば全工程を人力でやるよりも遥かに速く物が動かせる。


「長谷川さん……!」

「ハイスペック日雇いナメんじゃねーよっ!」


 男たちのアシストもあって見る間に崩れたコンテナが退けられていく。何ソレ全然かっこよくねーよ、などと軽口を叩きそうな面々も今日ばかりは何も言わなかった。誰もが無言のまま頷きあって、黙々と動いている。神楽の次に小柄な新八が、危険を承知で崩れた荷の下に身を滑り込ませた。


「っぎん、さん……!」


 震えた呼び声の方へ神楽が飛んでいって上のコンテナを投げ飛ばした。テレビクルーの真横すれすれを通って壁に突っ込んだそれを見ても、彼らはこちらにはカメラを向けない。エリザベスが話をつけてあるのだろうと思われた。


 真っ青になった新八が指で示す先、打ちっぱなしのコンクリートの上に鮮血が広がっている。誰かが息を呑む音がいやに響いた。膨れ上がった不安が破裂する前に、銀時が静かに声をかける。


「大丈夫だ……この分なら下に空間があるはずだ。こっちから俺が入り込む」

「わ、わかった……!」

「何人か揺れねぇように抑えてろ」


 指示の通りに皆が協力し合って右側面のコンテナを次々に撤去する。ようやく大人一人潜り込めそうな隙間ができた途端、銀時はすぐさま飛び込んだ。


「誰か匕首か脇差貸せ」

「坂田さん……!」

「銀ちゃん、」


 どういう意味だ。そう問うこともできず銀時の名を呼ぶ声が震える。鋼鉄の箱を支える手が僅かにも緩んでしまわぬように、神楽は唇を噛み締めた。男の一人が滑らせた小刀を受け取ったらしい銀時が小さく礼を言うのが聞こえた。


「ほんっと、呆れるほどしぶといヤツ……」

「桂さん! よかった……」


 ややあって桂を引き摺った銀時が姿を見せたときは、誰もが深く息を吐いた。派手に切れた額からは出血しているものの、想像した最悪の事態よりはずっといい。不揃いになった黒髪を軽く引いて銀時はぼそぼそと呟いた。


「殺しても死なねぇのがオメーだもんなぁ……っつーかどんな強運だよ」


 あの狭い空間の中で、奇跡的に殆どどこも押しつぶされずに済むなんて。羽織だけはどうにもならず脱がせて置いてきてしまったし、髪もいくらか切らねばならなかったけれど。


 安堵に胸を撫で下ろしていられたのはここまでだった。聞き慣れたサイレンの接近に、このときになって一同はようやく気がついた。救出作業に夢中でいる間は耳にも入らなかったけれど気付けばパトカーは工場にかなり近づいている。通報を受けて駆けつけたであろう真選組が、半壊した扉やどてっ腹に空いた穴から飛び込んできた。


「悪ィ……長谷川さん、新八、神楽、後は頼む!」


 せっかく桂を救出したというのに彼らに見咎められれば一貫の終わりだ。エリザベスや攘夷党の男たちに先導されて、桂を負ぶった銀時は勢いよく駆け出した。


「お安い御用ネ、今日こそ叩きのめしてやるヨ!」

「神楽ちゃん待って、喧嘩はしないで!」

「チャイナテメェ、こんなところで何してやがる!!」


 オラァ!とおよそ女子らしからぬ叫びを上げて沖田に突っ込んでいった神楽に皆の意識が向かう。その僅かな時間に男たちは見事なまでに姿を消していた。攘夷党に敵対していた志士たちはこれからどうするのだろう。去り際、恋人たちを食い入るように見つめていた兄の行く末が長谷川はどうにも気になった。桂一派の男が何か声をかけていたようだし、どうにか上手いことやっていければとひっそり思う。


「あのー、悪いんだけど……」

「あ、あれ……アンタ……」


 生き生きと乱闘を繰り広げる沖田と神楽に、それを止めようと奮闘する土方と新八、ついでにちゃっかりカメラを回しているテレビスタッフ。とても事情を聞くことなどできそうもないと見切りをつけたのだろう、長谷川に声をかけてきたのは近藤だ。知らぬ顔ではないし、いつぞやのホテル篭城の折にはむしろ親近感さえ感じた相手だ。上手く乗り切る自信はあった。


 話を聞かせてくれと頼む近藤に、長谷川は人のいい下がり眉で頷いた。


 

 

 

 

 

 その穏やかな昼下がり、昏々と眠る桂の傍にいたのは神楽だけだった。ざっくり切った額と折れていた利き腕の治療時には麻酔が使われたものの、それ以降投薬は一切行われていない。それでも桂は目覚めなかった。


 あの事件から一週間が経過していた。


 神楽が生まれ育った街は、雨ばかり降る底冷えするところだった。曇天と薄汚れたビル群が広がる世界はどこまでも灰色で、見る人の胸を重く押し潰すものだった。


 地球に来てかぶき町で暮らすようになって、鮮やかなネオン街には驚いた。けばけばしくてどぎつくて、それでもそんな強かで賢しくて喧しい町と人々が神楽は好きだ。いまや第二の故郷となった場所が、白いものに覆われて今更のように慎ましく淑やかになるのも面白い。


「とっとと起きろヨ、ヅラのばか」


 今日ばかりは、そんな雪すら厭わしかった。久々の積雪に都会のドライバーは怖気づいて、道を行く車は皆無。降っても降ってもまだ降り止まぬ雪は、住人たちを家々に閉じ込めてしまった。公園などが近くにあれば違ったのかもしれないけれど、生憎神楽たちがいる屋敷は墓地の裏手にあった。


 針が落ちる音さえ聞こえそうな無音。神楽は時折不安に駆られて、桂の口元に手を翳しては掌を擽る温もりを確認する。


 幾度目かわからない、そっと伸ばされた手を止めたのは庭から聞こえてきた物音だった。人の気配は感じない。障子を開け放った神楽の目に、暴力的なまでの“白”が飛び込んでくる。屋根から滑り落ちてきた雪に引き寄せられるように、縁側から外へ一歩踏み出した。寒さにひゃっと首を竦め、それでも雪に手を伸ばす。


 自分のための茶や菓子が載せてあった盆を持ってきて、神楽は次々と作品を飾った。南天の実をつけた雪ウサギに、ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲。そして桂が愛してやまない、エリザベス。


 茶盆をすっかり飾り立ててしまったというのに、小さな唇からは溜息が零れ落ちる。桂はちゃんと目を覚ますのだろうか。目覚めた桂は、小さなエリザベスと神楽を見て笑ってくれるのだろうか。


 ガラス戸を開け放ったまま埒もなくつらつらと考える。ひときわ冷たい風が吹き抜け、我に返った神楽は慌てて立ち上がった。これでは怪我人の身体に障る。


「う、うぅん……」

「ヅラ?」


 だが盆を携えて振り返れば、冷気に強かに打ち据えられた桂がむずかるように顔を歪めていて。駆け寄って手の一つでも取ってやれればいいのに、どうにも足が動かない。縋るように強く持った盆の中で、冷たいウサギが僅かに身じろいだ。


 立ち尽くす神楽の視線の先で、桂の睫毛がふるふる揺れる。もどかしい。じれったさに身を捩り頭を掻き毟りたくなるほどに、少しずつ、閉ざされていた瞼が持ち上がっていく。数瞬天井を眺めていた目が幾度か瞬いて、それからゆっくりと身を起こそうとする。どこか傷が痛むのか顔を顰めた桂のあだ名を、神楽は小さく呟いた。


「ヅラ……?」

「ん……? おお、リーダーではないか」

「っヅラァァァァァ!!」

「ぶふぉっ!?」


 ヅラじゃない桂だ、とか、リーダーどうしてここに?とか。何か言っていたような気もするが殆ど耳に入らなかった。痛みを堪えたしかめっ面から転じて表情を和らげる。こちらを認めて確かに微笑んだ桂の顔面に、安堵からか照れからか心配が転じた怒りからか、神楽は力の限り茶盆を投げつけていた。




***




「それでまた気絶しちゃったって訳ですか」

「うむ。リーダー、見事な投擲であったぞ」

「おめーは少し黙ってろ」


 顔面を腫らした桂がしみじみと頷くのを銀時が軽く小突く。流石に常よりか随分手加減しているようだけれど、それでも手を上げずにはいられない銀時の性分に新八はだいぶ呆れて茶を啜った。


 あれからさらに一時間。ようやくちゃんと意識を取り戻した桂を囲んで銀時と新八、神楽はこうして座っている。医者を呼んだり方々に連絡を取ったりなんだりと慌しく動き回っていたのは攘夷党の男たちばかりで、けれど彼らは今ここを辞している。


 ヅラに早速言いつけられた仕事があんだろ、なんてどうでもよい口ぶりで銀時は言うし、おっさん達の粋な気遣いってやつアル、とかなんとか神楽は言う。けれど、それだけじゃないことは新八だけが知っていた。


 新八は見てしまった。茶を淹れなおしに台所へ立ったとき、薄く開いた襖の向こうで声を殺してエリザベスが泣いていたのを。


 神楽のように刃こそ向けられなかったものの、蛇蝎を見るがごとき嫌悪の視線で睨み据えられた桂のペットにして腹心。今回の事件を収めるためにどれほどエリザベスが心を砕き、党員を率い陰日向なく戦い続けてきたか新八にはわからない。医者が来るまでの短い時間、エリザベスと桂が何を話していたのかだって知らない。


 ただ、一人ぼっちでぽろぽろと、でもどこか嬉しげに涙を流すエリザベスに時間が必要なのだけは見て取れたから。中身は加齢臭漂うオッサンだか大砲やらビームやら内臓の化け物だかと知りつつも尚、そのいじらしさにキュンとしてしまった新八なのである。


「それでヅラァ、お前ホントにマジで覚えてないアルか」

「ホントにマジで思いだせんのだ。すまぬ、俺としたことがよもやリーダーに刀を向けるなど……」

「まったくネ。仕方ネーから酢昆布千個とアレ勃ちぬのブルーレイ初回限定版で許してやるヨ」

「ルージャ」


 改めて目の前に意識を向ければ、一頻り菓子の類を平らげた神楽が桂に詰め寄っている。いつかのような我侭を聞いて生真面目に頷いた桂を見て、ようやく神楽はいつものようにふてぶてしく笑うのだった。




***




「どうした銀時」


 子どもたちのところに行ってやらんか、と穏やかに問われ銀時は口ごもる。安心して寝入ってしまった神楽とともに、新八は宛がわれた客間に行ってしまった。エリザベスは党員を率いて残務処理に駆けずり回っている。


 帰るならばそれでもよいのだ。スクーターを置いて神楽を負ぶって帰ったって、定春に乗せて帰ったっていい。子どもたちをダシにしてまで――というか彼らが自分たちを言い訳に使わせてまで――銀時をここに残したのには理由があった。


――銀さん、今日は桂さんと一緒にいてください。話したいことがあるんでしょう。

――とぼけんなヨ、残尿感ありありのジジイみたいな顔しといて。


 桂の目を盗んで耳打ちしてきた言葉が頭の中でぐるぐる回る。そうして意識してしまうと、勝手に身体がぎくしゃくして、結局銀時は質問に質問で答えた。


「お前、寝てなくていいのかよ」

「別に病でもないし構わんさ。それに伏していてはお前とて話しづらかろうて」

「は?」

「なんだ、何か用があって残ったのではないのか。言っておくが金なら貸せんぞ」

「ちげーよ!」


 冗談だ、と。反射的にずかずかと歩み寄ってきた銀時に、桂は朗らかに声を上げて笑った。傷が痛んだのか、一瞬少しだけ眉根を寄せて、そうして再び口元に笑みを浮かべる。


「銀時、ついでだ障子を開けてくれ」

「……おめーの方が近ぇだろうが」

「何だと貴様、座っている怪我人を動かそうというのか」

「わーったよホラ!」


 ああ言えばこう言う。かわいげのない腐れ縁に愚痴を垂れつつ、すぱんと勢いよく障子を開け放つ。母親のように小うるさい注意を聞きながせば、自然と二人の距離は常のものに戻っていた。


 雪はやみ、空には満月。雪明かりに照らされた白皙は、どうしてか松陽を髣髴とさせる。


 何を伝えたいのか、何を問いかけたいのかも纏まっていなかった銀時の頭の中に、するりと一つの疑問が降りてきた。


「お前さぁ、いつから松陽のパクリみてぇな格好してんの? なんで?」

「パクリとはなんだオマージュと言え! 両者の間には明確な違いが存在するのだぞ、使用には気をつけろ。いいか、オマージュとはある人や事物、作品などに対する尊敬の念を……」

「ウゼェェェェェ! そこの言葉の定義なんかこれっぽっちも興味ねェよ!」

「あだっ!」


 頭を一発はたかれた桂が、銀時と反対側にぐらりとよろめいた。咄嗟につこうとしている右腕の状態を思い出して大慌てで抱き寄せる。こんな思いをするくらいなら初めから手など出さなければいいのに、桂相手だといつもこうなってしまう。


 薄い肩は、過日の事件の折に半ば無理やり抱いたときと変わらない。あの時の桂は髪を結って袴を穿いていた。高く結い上げるか下で括って前に流すかの違いはあったものの、銀時の記憶の中の幼馴染は大抵いつもそうしていた。きちりと火熨斗を当てた袴を身につけて、悪たれ二人に説教を垂れる。江戸で再会してからの出で立ちのほうが銀時にとってはイレギュラーだ。それにももうすっかり慣れたけれど。


「それを話すには、アレがなければな……。銀時、そこの行李を持って来い」


 こうも当たり前のように命令されては、けちをつけるのも馬鹿らしくなる。諾々とそれに従った銀時に桂は更に告げた。


「開ければわかるだろうて」

「なんだよソレ。何が入ってるんだよ……」


 意味深な言葉に、藤で編まれただけの蓋がずしりと重くなった気さえする。


 意を決してそれを取り去ってみれば、果たしてそこにはいつもの単に羽織。そして松陽の遺した本と桂の愛刀が収めてあるだけだった。ぽかんとしている銀時のリアクションを取り違えて、桂がしみじみと頷いている。


「墓場まで持っていってもよかったのだがな……そういうことだ」

「全然わかんねェ」

「なんだと貴様! 頭パーになったのか!?」

「うるせェよわかるように説明しろバカヅラ!!」

「バカじゃないヅラじゃない桂だ」

「うぜぇよ、マジでうぜぇコイツ……!」


 一生分の忍耐をかき集めて、何とか手が出ないよう堪え切ったことを、内心銀時は自画自賛していた。組めないから持ち上げた左腕を手持ち無沙汰に下ろし、桂が大仰に溜息を吐く。びしびし皹が入る自制心を庇うように、銀時は桂を促した。


「そんで? 自己完結してねぇで詳しく説明しろよ。この本とヅラの刀が何だってんだ」

「ヅラのじゃない」

「は?」

「抜いてみろ」


 左手がおもむろに刀を取って、銀時の膝元にそれを置いた。紛うことなき桂の愛刀。訝る気持ちもあったものの、とりあえず言われたとおりにする。


 抜き身のそれを取り落とさずにすんだのは僥倖だった。


「こ、れ……」

「そういうことだ」


 もう一度そう繰り返した桂が、一人頷いて茶を啜る。刃をまじまじと見ればわかる。確かにこれは、桂のじゃない。血と泥に塗れ赤黒く汚れていた鞘や鍔、柄こそ変えられているものの。


「俺の刀を、どうしてヅラが持ってんだよ……」

「お前が置いていったからだな」


 桂に詰るつもりはこれっぽっちもない。だが零れた疑問にあっけらかんと答えられて銀時は言葉に詰まった。戦装束も鉢金も刀も、大切な何かを護るなんて気概も、かけがえのない仲間も、何もかも銀時はあの戦場に残してきた。まさかこんなところで、置いてきたものの一つを再び見ることになろうとは。


 他でもない桂の傍で、松陽から貰い受けた刀は今も戦い続けているのだ。


「とは言え俺も、あの後すぐこいつを手にしたわけではない」

「は? どういうことだよ」

「同志の一人が隠しておった」


 銀時が鞘に戻した刀を引き受け、桂はそっとそれを撫でた。柔和な表情を庭に積もる雪が下から照らし上げる。


「俺にな、白夜叉に捕らわれて欲しくなかったんだと泣いていたよ。だから咄嗟に隠したのだと。むしろお前が行方を晦ました日に見せられていたほうがさっさと諦めがついた気もするんだが」

「ヅラ、お前……」


 傷口が痛まぬようひっそりと。くつくつと喉を鳴らし笑う桂には、あの日感じたもう一人の面影は微かにも見られない。


「俺の手元にこいつがやって来たのは……商人どもに散々抱かれて、身を鬻いでまで稼いだ金子を握り締めて、朦朧とする意識で潜伏先に帰った後のことだった」


 正確には、その後倒れて寝込んで、散々魘されてようやく目覚めた朝のこと。手酷く扱われた傷ゆえか使われた奇妙な薬物ゆえか高熱に浮かされた桂は、うわ言で幾度も銀時を呼んだという。三日三晩寝込んでやっと意識を取り戻したとき、罪悪感に大粒の涙を零しながら男の一人が話してくれた。


「こいつを差し出され、畳に頭を擦り付けて詫びられてな。ぼろぼろのい草に大の男の涙が染みていくのを見て、馬鹿なことをしたと思ったよ……お前にも松陽先生にも、叱り飛ばされているような気がした」

「桂……」

「笑うか、銀時。敗戦後からその瞬間まで俺は、とにかく“生きる”こと以外ほとんど何もしてはおらなんだ。力をつけろ、傷を癒せ、今は忍ぶときだと嘯いて。あれほどに矜持を高らかに謳っておきながら、ただ生き長らえるためだけにそれを自ら捨てさったのさ。そのくせ男たちに手荒く抱かれるたびに、やり場のない憎しみばかりを滾らせていた」

「そんなんじゃねぇだろ、お前は……!」


 かつては敵の手にかかるくらいならば腹を切るとまで言った侍。そんな桂が自分ひとり生き延びるために男たちに身を委ねるとは思えなかった。それにこの幼馴染は腐っても元神童、凄まじい電波でも才気豊かな人間であることは銀時が誰よりよく知っている。桂一人が生きていく為ならば、屈辱的な身売りなどする必要はなかったのだ。銀時だってそうだ。全てを捨てて身一つで放浪し、その果てに己の居場所を見つけた。


「お前は……てめぇの仲間生かして志を果たすために、必死で“生きて”戦ってたんだろうが……!!」

「さぁ、どうだろう。もしかしたらあんなにも自暴自棄でいられたのは俺が……俺も、自分自身を憎んでいたからかもわからん。……そんな顔をするな銀時。昔の話だよ」


 冷めた茶を飲み干した桂が、再び愛刀に指を這わす。行李から教本を取り出して膝の上に置いた。


「こうして床で、お前の刀と先生の本を手にとって膝に乗せた……悪しきを正し人々を護る“力”と、俺を俺たらしめ前へ進ませる“思想”と“智慧”を。そしてそれらが俺に思い出させてくれたのだ。俺は一人ではない。志を共にし、同じ道を歩む“同志”がいると」


 反駁も、同意も、それ以外の何も。言葉一つ挟むことができず銀時は桂の凪いだ声に耳を傾ける。


「そのとき俺は、松陽先生を継ごうと誓った。あの人が常日頃おっしゃっていた、誰もが侍になれる国を作ろうと決めた」


 それで、今の先生オマージュの俺ができたというわけだ。そう言って一旦話を締めくくった桂は、枕もとの魔法瓶から急須に湯を注いだ。銀時の分も茶を淹れなおして、自分の湯飲みを左手で包む。厚焼きのそれから伝わる熱が身体に広がって、桂はゆるりと息を吐いた。


「となれば俺は、先生のスタイルに恥じぬ生き方をせねばならんからな。捨て鉢な身売りなどやめて、早急に攘夷思想を解すちゃんとした支援者を見つける必要があった」


 まだ熱い茶を少しばかり飲んで、湯飲みから離れた唇がはっきりと笑みの形を作る。


「そうだ、坂本と連絡を取ったのはその頃のことだ。快援隊を設立したばかりの時期で忙しかったろうに、わざわざ地球に下りてきてくれてな。奴が信頼のおける支援者探しを手伝ってくれなんだら、攘夷党が今の形になるのにはもっとずっと時間がかかったはずだ」

「辰馬が、ね……」

「気分転換にしたバスケもなかなか面白かったぞ」

「えっ何お前らマジでバスケしてたのかよ何でもありだなオイ!」


 どんなに真面目な話をしていても最後までしんみりとさせてはくれないのが桂で、飲みかけの茶を吹き出して咳き込みながら銀時は思わず突っ込んでいた。


「それから後は大体お前も知っていよう。坂本が再び発ってから俺たちの攘夷活動は始まった。そして池田屋でお前と再会したというわけだ」

「……ひっでぇ再会もあったもんだぜ」

「そう言ってくれるな。どんな顔をして会ったものかわからなかったんだ」

「わかんなったらオメーはテロの片棒担がせるのかよ!!」


 反射的に詰ってみても桂は涼しい顔で頷いている。


「だってお前がいなくなった後大変だったんだもん」

「だもん。じゃねぇよ!」

「坂田隊を引き受けて解散させるだろう、残ったものを連れて粛清の及ばぬところへ逃げるだろう、食い扶持も稼がねばならんし……」


 つらつら並べ立てられればぐうの音も出ない。うな垂れてしまった銀時を見て桂はくすりと笑った。


「だからあれはちょっとした俺の意趣返しだな」

「ちょっとした……」


 こいつのちょっとの定義が知りたい、と銀時は内心頭を抱える。


「だが……なんだ、」

「あんだよ」

「よかったよ……お前の大切なものをあの時壊してしまわなくて、よかった」

「さいですか……」


 いい加減お前もその中に入ってるってわかれ。そう言ったところで聞く耳持たずなのはよくよくわかっている。


 銀時の心中も知らず微笑む桂は今も変わらず美しい。けれど確かにその白皙にははっきりと疲れが滲み、少しずつ若さを覆い隠しつつあった。


 あのころ。銀時たちは皆若く、青かった。桂に負けず美しく聡明だった高杉。文字通り一騎当千の兵であり、夜叉よ鬼神よと崇め恐れられた銀時。誰よりも人を魅了し、その苦しみに添うことに長けた坂本。


 望むと望まざるとに関わらず、生き残った誰の上にも時は流れたのだ。


「ホラ、寝るぞ怪我人」

「怪我人じゃない桂だ。というか銀時、これでは寝れんぞ」


 たまらず抱きしめた身体は細く、普段の桂を知ってなお儚さを感じさせる。


「いいから黙って抱かれてろ……違う、そうじゃねェって!」


 首を傾げたまま、桂は夜着を脱ぐのに左手を持ち上げた。一体俺はなんだと思われてるんだ、なんて憤懣遣るかたなく銀時は傾いだ頭を叩こうとして――やめる。代わりに尊いものに触れるように、慈しみを込めてその黒髪を幾度も撫でた。ますます拘束を強めて腕の中に閉じ込めれば、なんとも言えない居心地の悪さに桂がみじろぐ。こんな扱いをされて拒まないのは心配をかけた自覚があったからだろうか。


 五分もそうしていると、次第に桂の身体から力が抜けていった。銀時の肩に頬を乗せて、まどろむ桂の髪が肌を擽る。


「言っただろ、寝ちまえ」

「うぅ、ん……」


 むずかる桂が眉根を寄せた。鼻に皺を寄せたしかめっ面も、頭を振る仕草も、そういったところは昔から変わらない。


 銀時たちが若く、いっとうきれいだったころ。

 瑞々しく張った肌を飾るのは血と垢と泥で、真っ直ぐに伸びた手足には数え切れない刀傷が纏わりついていた。

 四季豊かなこの国のどこもかしこも焼け野原になって、川には死体が折り重なって浮いていた。

 家々は焼き払われ壊れ朽ちて、行く宛てのない娘は春を鬻ぎ幼子は道端でやせ細って死んでいった。

 世界は醜く、戦いは残酷で、人の心は弱く、人々は愚かだった。


 うつくしかった桂は髪を振り乱し人を斬り殺した。

 やさしかった高杉は目を血走らせ敵を嬲り殺した。

 つよかった銀時は全身血みどろになりながら人を突き殺した。

 かしこかった坂本はそれでも地を這いずって敵を刺し殺した。


 誰よりもうつくしく、やさしく、つよく、そしてかしこかった先生は。

 二度と帰ってはこなかった。


「ぎん、と……き……?」


 腕に痩身を抱き込んだまま、二人で布団に横になる。当たり前のように同衾してきた銀時に訝る目を向けたものの、そろそろ起きているのも限界らしい。はっきりと意識があれば絶対に拒絶しただろうから、だまし討ちのような真似をしてしまった。


 寝惚け眼の桂は拒まなかった。拒まないどころかゆるく微笑みを浮かべて銀時に擦り寄ってくる。傷を庇うように抱きなおすと、長さの揃わない髪が目に飛び込んできた。この黒髪は、初めて会った頃とあまり変わらないように思える。


 なぜだかはわからない。だが、長く生きねば、ふとそんな思いが胸を過った。


 桂のように革命を志すのも、高杉のように怨嗟の声に従うのも、坂本のように人の先頭に立ち世に貢献するのも、己の生き方とは違う気がする。銀時には銀時の歩むべき道がある。


 復讐なんて流行らない、そう言った気持ちは今も変わらない。酷い養い子で弟子だけれど、恩に報いるなんて気概もない。


 だから銀時はこれからもただ、好き勝手に生きていく。


 甘味をかっ喰らい酒を飲み、遊興に家賃までつぎ込み散財して。いい年して厄介ごとに首を突っ込んで、あちこちで戦っては怪我を作って。或いは袂を分かった古馴染みと、派手な喧嘩の一つや二つするかもしれない。


 その間も常に、変わらず一人を目一杯愛して生きていく。腰が曲がり白髪になって、歯も碌に残ってないくらいの爺になるまで。


 それが銀時の“復讐”であり“報恩”だから。



 でもとりあえず今は、二人で、朝を迎えよう。



初出:2014/01/16